Ⅱ
横浜ロイヤルパークホテルのエグゼクティブラウンジ。ぬくもりのある調度品と高い天井から降り注ぐ、柔らかで落ち着いた照明のせいか、ソファに腰掛けた者の気分をゆっくりと和ませてくれる。
静かに流れるクラッシック、愁と向かい合わせに座った一眞はテーブルの上のココアをもう一口飲むと、ホッと息をついた。
「食事はいいんですか?」
「ああ、今は何も食べる気がしないし」
「それじゃあ、あとでサンドイッチでも用意しますね」
ティースプーンで紅茶をかき混ぜる愁が傍を通ったウェイターに何やら合図をすると、彼はうなずいて向こうに行き、その様子を不思議そうに見守っていた一眞は愁の顔を窺いながら問いかけた。
「おまえ、このホテルの常連客ってやつなのか? さっきから顔パスだし、ここのラウンジだって、高い部屋に泊まる人専用だろ?」
「ええ、まあ。父がよく利用する関係で、ボクも覚えられているんですよ」
それを聞いた一眞は愁が自分など足元にも及ばない、裕福な家庭の息子だということを思い出した。
父はテレビにも時々出演する著名な大学教授で、母は社長令嬢とか何とか、そんな雲の上の存在である彼と親しい間柄になるとは、あの頃の一眞にはとうてい信じられない出来事だったのだ。
「それよりさ、どうして日本にいるんだよ。アメリカに行ったんじゃなかった? あれはたしか夏休み前だったよな。留学するって聞かされて、そのあとはけっきょく会わないままオレたちが卒業したから、どうしたのか全然知らなかったんだけど」
「ええ。進学は日本の大学に、と思ったものですから、すぐに帰国しました」
「そうか、今年は三年生だっけ。あっ、あと二ヶ月で受験シーズン突入じゃないか。こんなにのんびりしていていいのかよ。勉強しなくて大丈夫なのか?」
「家で机と睨めっこばかりじゃあ息が詰まるから、たまには場所を変えて、ここに泊まって気分転換したらどうだ、って父が勧めてくれたんです」
さすが、金持ちは気分転換の方法からして違う。一眞は舌を巻いた。
「どこの大学狙ってるの、なんて訊くまでもないか」
こいつの実力なら、どんな一流大学だって楽勝だ。愚問を引っ込めた一眞は別の話を始めた。
「それにしてもオレが卒業して、もう二年も経つんだ。早いよな」
「そうですね」
愁は目を細め、懐かしさと切なさの入り交じった視線で一眞を見つめた。
横浜の私立男子高校で一眞と愁は先輩後輩の関係であり、二人は委員会活動を通じて顔見知りになった。
気品があって優しく美しい顔立ちに成績も抜群という、優れた容姿に優れた頭脳の持ち主、加えて上流階級の子息、誰もが羨む存在である愁が自分ごときに親しく話しかけてくるのはなぜか。
不思議に思った一眞だが、それこそ面白い動物でも観察しているつもりなのだろうと、その時は勝手に解釈していた。
「一眞さんは静岡の大学に進学されたと聞きましたが、今日はこっちに遊びにいらしたんですか」
遊びにきた者が傘もささずに、雨に濡れながら道端にしゃがみ込んでいたりするものだろうか。
しかし、その行動の不自然さを指摘するのは失礼だと思ったので、愁はそのような言い回しをしたのだろうけれど、もっとも痛いところを突かれて一眞は焦った。
健児に会いに来て、別れを持ち出されたなんて、とてもじゃないが口に出せるはずはないのだ。
そもそも、男同士で付き合っていたなどと愁の耳に入れるわけにはいかない。適当に誤魔化すと、それ以上追求する気はないらしく愁は話題を変えた。
「ボクは入学した次の日に一眞さんと会ってるんですよ」
「えっ、そうだっけ? オレの記憶じゃ、美化委員会の会合だった気がするけど」
優しく微笑んだ愁はソーサーの縁を指で辿りながら、懐かしそうに思い出を語った。
「通学の電車の座席に同じ制服を着ている人がいるなと思って見ていたら、次の駅でおばあさんが乗ってきて、そうしたらその人はすぐに席を譲ったんです。そのときのおばあさんの嬉しそうな顔が印象的で」
席を譲った学生は一眞らしいが、そんな行為はしょっちゅうだったし、愁に目撃されていたのも気づいていなかった。
「自然にああいう行動がとれるなんて、とても素敵な人だなと思ったんですよ」
「いやあ、オレってさ、お年寄りや具合の悪い人を見て見ぬふりって出来ないんだよ。結構ですから、って断られると落ち込むくせにさ、不器用なんだろうな」
善意を賞賛する言葉に照れた一眞は頭を掻いてそう弁明した。
「美化委員会で初めて一眞さんに会ったときに、席を譲った人だってすぐにわかりましたけど、まさか三年生だとは思わなくて……」
「どうせオレは童顔だよ。身長だって、おまえに抜かれちゃったみたいだし」
一眞は愁を見上げる仕草をした。肩を並べてここまで歩いてくる間、あの頃は自分より小柄だった愁の、その肩の位置がわずかばかり高いところにあるのを見た一眞は少なからずショックを受けていたのだ。
「そんなに違わないですよ」
愁はそう謙遜したあと、さらに話を続けた。
「そういや一眞さんは美化委員長に選ばれて、校内クリーン大作戦の指揮をとらされて、あのときは大変でしたよね」
「そうそう、委員長なんてガラじゃないのに。誰だったっけ、担当の先生。ほら、トイレ掃除のやり方がどうとか何とか言って、無理難題を吹っかけてさあ……」
しばしの思い出話に花を咲かせたあと、愁はややためらったように、それでも何かを決意したかのような顔をして切り出した。
「あの……」
「ん、どうかした?」
「そ、そうだ、あなたに見せたいものがあるんですけど、一緒にきてもらえますか」
「オレに見せたいもの?」
きょとんとする一眞を促した愁はラウンジを出ると真直ぐにエレベーターへと向かった。
慌ててあとを追う一眞はジャケットの背中を見失わないように、あたふたしながらそちらへ進み、その箱へ転がるように乗り込むと、愁の白い指が数字のボタンを押した。
……③に続く