Ⅲ
ランプの点滅が次々に移り変わり、目的の階への到着を示すと、鉄の扉は左右へと静かに開いた。
廊下に立ち込める独特の香り、一眞の先に立って進んだ愁は部屋の前までくると、慣れた手つきでロックを解除した。
「さあ、どうぞ。灯りはつけないでいてくださいね」
言われるがまま奥へと進んだ一眞の前には大きな窓ガラス、そして、その向こうに広がるのは陳腐な表現をすれば、宝石をちりばめたような港の街の夜景だった。
雨に煙っているせいか、その輝きは少しばかりぼやけていて、だが、それはいつにもまして幻想的な美しさを醸し出している。
大喜びの一眞は子供のようにはしゃいだ。
「わあ、キレイだなあ。ずっと横浜に住んでいたけど、こんなに高い場所から見るのは初めてだ。あ、船が通ってる」
彼がガラスに張りつくようにしてその景色を眺めていると、愁はその後ろに立って夜空を指し示した。
「あの空、どう思います?」
「どうって?」
「夜の空は暗く、黒いもの……でも、ここでは青いんですよ。街の灯りが明るすぎて、空まで照らしているから。それでボクは蒼い夜と呼んでいるんです」
「蒼い夜か。言われてみれば、すごい数の光だよな」
感心した一眞がそう言うと、愁はうなずいて、しんみりと語った。
「この光の数だけ人々がここで生きている。みんな泣いたり笑ったりして……さっき喧嘩をした人に、仲直りした人、別れてしまった人……」
(別れてしまった人……オレと健児もそのうちの二人ってわけか)
ズキリ、とさっきの傷口が疼く。心の底から湧いてくる虚しさに負けてなるものかと、一眞は唇を強く結んだ。
「自分の生き方に満足している人もいれば、後悔している人もいるでしょうね。死ぬことを考えている人だって……」
「……愁?!」
いきなり聞かされた、死ぬという単語に一眞がギョッとすると、彼の過敏なまでの反応を見た愁は苦笑いをしながら、首を横に振ってみせた。
「そんな、ボクは考えたりしていませんよ。今死んだりしたら、もっと後悔しますから」
「はあ、脅かしっこなしだぜ」
再び一眞が窓の外に目をやった時、その身体を二本の腕がスッと包み込んだ。
「……ずっとあなたが好きでした」
固まってしまった一眞の耳元で、愁は低く静かに告白を続けた。
「初めて出会ったあのとき、電車の中であなたを見かけたときから、ボクはあなたに恋していました。席を譲った優しさだけじゃない、あなたの姿も声も、すべてがボクを魅了した。一目惚れって本当にあるんだな、そう思ったほどです」
まさか愁がそんな気持ちでいたなんて……一眞はまるで夢心地のまま、彼の言葉に耳を傾けた。
「だから、委員会で再会した嬉しさといったらなかった。あなたに近づきたくて、何かにつけて声をかけて、さぞ馴れ馴れしい一年だと思われたでしょうね」
抱きしめる腕に力がこもり、愁の熱い想いが伝わってきて、一眞の身体は小さく震えた。
「もちろん、あなたの心にあの人がいるのは承知していました。あなたに接すればするほど惹かれていく、好きになっていくのがわかりましたが、ボクはこのまま、ただの後輩でいようと決心しました。それがどんなに辛いことでも、あなたとあの人の間にずうずうしく割り込んで、嫌われてしまうよりはマシ、そう思ったから」
「気づいていたんだ」
一眞は喘ぐように言った。恋する者は敏感に、相手の秘密に勘付いていたのだ。
「あなたの姿を追っていたら、自然にわかりました。とても太刀打ちできる相手じゃないということも」
容姿も、すべての点においても、愁は健児に引け目を感じる必要はないと思われるが、容姿端麗・頭脳明晰、パーフェクトな男として皆の羨望を集めていた健児に告白された一眞が有頂天になっていたとしたら、もう一人の控え目な視線に気づくはずはない。
「この想いは自分の中に永遠に封じ込めておこう、と誓ったのに……でも今夜、傷ついたあなたを見ていたら、どうにも抑えられなくなって……」
そして今、心の内をさらけ出してきた愁を思うと一眞の胸は痛み、彼は身動ぎもせずに言った。
「じゃあ、あれからずっとオレのこと、考えていてくれたんだ」
「ええ。忘れるなんてできなかった……」
それまで淡々と語っていた愁の声が心なしか上擦ってきた。
「ただの後輩であり続けることに疲れて、父のアメリカ行きに同行しました。日本に残ろうと思えばできたのに。でも、どこへ行っても、あなたを忘れるなんて無理だとわかったんです。どんなに離れても、好きで、好きでたまらなくて……こうしていられるのがまるで夢のようです」
一眞は胸元にある愁の手をその上からそっと握り、「ありがとう」とつぶやいた。
「辛い気持ちにつけ込む、そんなつもりはありませんから」
「わかってるよ」
「ボクがあなたの心を救うだなんて、おこがましいことは言わないけれど、少しでもあなたを癒せるのなら……」
ゆっくりと振り返った一眞は愁と見つめ合う格好になり、互いに惹かれるようにその唇が触れた。
と、弾かれたように身体を離した一眞、愁は驚いて「ごめんなさい」と謝った。
「い、いや、おまえが悪いんじゃなくて」
切ない思い出が胸をよぎった、そのせいだ。
まわりは男ばかりの男子高校で男同士が恋に落ちる、有り得ない話ではないが、健児ほどの男なら寄ってくる女は選り取り見取り、いくらでもいると思われるのに、彼は一眞を選んだ。
初めは驚き、戸惑った一眞ではあるが、クラスメイトとして憧れを抱いていた健児からの告白に、思わずイエスと答えていた。
そして初めてのキス、ぎこちなく抱き合ったあの日……
なぜ、別れなければならないのか。あんなに好きだったのに……健児、教えてくれよ、オレの言葉に答えてくれ……
揺れ動く一眞の心を悲しげな目で、その視線で見透かして、愁は訴えた。
「今は忘れてください。今夜……今夜だけでいい、ボクのものになって……」
ガラス越しに差し込む灯りが愁を青白く浮かび上がらせる。
ずっと胸に抱いていた情熱、強い決意をこめた瞳に捉えられて、もう後戻りは出来ない。
一眞が無言でうなずくと、指を絡めた二人の身体はベッドの波間に沈んだ。
……④に続く