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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

PRECIOUS HEART S-Ver. ①

    第一章  学園一の問題児

 陸が死んだ日。

 気力の欠片もない、ふらふらとした足取りで、それでもアコースティックギターの音に誘われるかのように、オレは音楽準備室に向かった。

 開け放たれた扉の向こう、ドラム用の椅子に腰かけ、物悲しい音色を奏でている彼の姿が瞳に映る。

 窓から差し込む、残り僅かな初春の日差しを受けてオレンジ色に染まる横顔、バラリと下りた、くせのない前髪、弦に触れる白くて長い指……

 悲しみだけが心を覆っていたはずなのに、浮き立つ気持ちが押さえられないのはなぜだろう。不謹慎な自分を責める。

 それでもこの瞳に、鮮やかに焼きついた彼の仕草のひとつひとつをオレは今でも間違えることなく思い出せる。

「PRECIOUS HEART」

 彼は確かにそう歌った、一筋の涙を流しながら──

    ◆   ◆    ◆

「大会出場の申請って、今月いっぱいやろ。颯、マジでどないするんや?」

 そう言ってオレの顔を覗き込むのはドラム担当の水町聖(ミズマチ ヒジリ)、大阪出身の変わり種だ。

 ちょいワル男子などと自分で宣言、臙脂色のネクタイを緩め、白いワイシャツはモスグリーンのズボンからはみ出しているといった、制服を着崩している状態なのはいいが、思い切って腰パンするまでには至らないのが御愛嬌といったところだ。

「どないも何も、ギタリスト抜きでバンドは成り立ちませんよ」

「そんなん、わかっとるがな」

 丁寧且つ冷静な口調で聖を諭すのはキーボード担当、オレの中学時代からの親友・土屋叶(ツチヤ カナウ)で、こちらは制服着用時の正しい見本のような着こなしをしている。

 きっちり分けた前髪にメガネ、チャコールグレイのジャケット姿は高校生というよりエリートサラリーマンの風情なのが何ともいえない。

 そんな叶の隣で黙ったまま腕組みをしているのが正統派イケメンと評判の、ベース担当・金津奨(カナツ ショウ)。彼ら三人はヴォーカル担当のオレ、立木颯(タチキ ハヤテ)と共にこの一年余り、バンド活動をしてきた仲間たちだ。

 新学期が始まったこの日、放課後の二年B組の教室において、メンバー四人が雁首を揃え、目の前に立ちはだかる難問に頭を悩ませているところなのだ。

 オレたちが通う李逗夢(リズム)学園高等学校は他校ではまず見られない、私立高校ならではの様々な活動に力を入れている。

 スポーツも文化面でもそうだが、特に気合いが入っているのは音楽関連で、吹奏楽部や合唱部は毎年のように県のコンクールで優勝、全国にも名前が知れ渡っているほどだ。

 そんな学園で例年七月上旬に行なわれる文化祭の呼び物・花形イベントといえば、何といっても『バンド・バトル・フェスティバル』通称BBFと呼ばれる催しで、実施されるようになって、今年で七年目を迎える。

 これは有志で組んだ校内の音楽バンドが十数組エントリーして、その実力を競い合うという画期的な企画だ。

 この大会で優勝して、某レコード会社にスカウトされたバンドが過去にあったお蔭で、本気でプロのミュージシャンを目指す生徒もおり、高校生が学業の片手間に行なう趣味にしては、かなりハイレベルな戦いが繰り広げられるのも見ものなのだ。

 中学の頃からバンド活動というものに憧れていたオレは高校入学後、BBFという催しがあると知ると、さっそく仲間を募ってロックバンド『ラヴ・アスリート』を結成した。

 そして大会に参加を決めたはいいが、昨年の成績は惜しくも──総合評価は十三組中九位というのは「惜しくも」には当てはまらないが──一位から三位までとされる入賞の栄誉を逃していた。

 こうなったら、来年はリベンジだ! 

 そうと誓い、屈辱をバネに、練習を積み重ねてきたオレたちを襲った突然の不幸……

「だいたい、今から練習始めてもさ、三ヶ月かそこらでバリバリ弾けるヤツなんていないし、やっぱ経験者を探すしかないか」

 オレの言葉に、奨が溜め息混じりに首を振った。

「ギターやってる二年はたいていどこかのバンドに入っている。協力してくれるヤツが一年にでもいればいいけど、そう都合よく見つかるとは思えないな」

「だからといって、ここであきらめるわけにはいかないだろ。BBFで優勝するのは陸の夢だったし」

 その名前を口にしておきながら、オレは思わず仲間たちの顔色を窺ってしまった。誰もが陰鬱な表情を浮かべている。

 一年生の三学期もあと少しで終わりという、三月の初めに、陸は十六年の短い生涯を終えた。

 帰宅途中の自転車事故──

 委員会活動で学校に残っていたオレにはその一報がとても信じられるはずもなく、陸の名前を叫びながら、狂ったように校舎の中を走り回った。

 死んだなんて嘘だ。きっと、教室のどこからか、ひょっこり顔を出すはずだと思い込みたかった。

 夕闇が迫り、何もかもがオレンジ色に染まる校内で、号泣するオレの耳に届いた切ないメロディ……そうだ、あの時、あそこで見かけたあいつ……

「陸……天国でもギター弾いとるんやろか」

「聖、しんみりするのは大会が終わってからだ。オレにあてがある」

「えっ」と驚く仲間たちを前に、オレは大見得を切った。

「本当ですか、颯くん」

「ああ、説得してみる。当たって砕けろだ」

「いえ、砕けてしまっては困るのですが」

 これまた冷静にツッコミを入れてくれる親友に、オレはVサインを突き出した。

「やるだけやってみるさ」

 二年生のギター経験者はすべて把握している奨が不可解だといった様子で訊いた。

「いったい誰に?」

「あいつだよ、火高湊(ヒダカ ミナト)」

    ◆    ◆    ◆

 仲間たちの反対を押し切ると、オレは音楽準備室へと歩を進めた。もしも火高が学校に来ているなら、恐らくはあそこにいると踏んだからだ。

 どうしてそんな、曖昧なことしか言えないのか、その理由──

 火高湊といえば学園の超問題児で、飲む・打つ・買うじゃないけれど、飲酒喫煙に不純異性交遊(死語かな)等、ありとあらゆる騒ぎを起こし、停学をくらったのは一度や二度じゃないというツワモノだ。

 そんなヤツがまともに登校するはずもなく、来たとしても授業は当然ボイコット。屋上や体育館の裏といった定番スポットで、不良仲間やら女と一緒にとぐろを巻いている。音楽準備室も彼のお気に入りの場所のひとつだ。

 それでも火高が退学にならないのは理事長の孫だから。いや、彼のような問題のある生徒にとっては、自分の祖父の経営する学校しか、行き場がなかったともいえる。

 しかしながら、彼の父親は有名なギタリストで、血筋なのか、父の手ほどきを受けたからなのか、僅かな合間に聴いただけでも、ギターの腕前はかなりのものだとわかった。充分に入賞を狙えるレベルだ。

 もっとも、学園一の問題児をバンドに誘おうと考える者はまずいないだろう。いくらギターが上手くても、チームワークを乱されるのが関の山のハイリスク野郎だからだ。

 しかしこの際、背に腹は代えられない。リスクがどうのこうのと、のんきなことは言っていられないのだ。

 陸の遺志を継ぎ、彼の抜けた穴を埋めてBBFに出場、且つ優勝するためには火高の協力を仰ぐしかないと、オレは一方的に思いつめていた。

 それに、陸が亡くなった日に、火高の演奏する姿を見たというのは何か因縁があるとも思えるし、あの時の涙の理由はわからないけれど、みんなが言うほど悪いヤツじゃないかもしれない。

 そんなふうにこじつけたオレは「無茶だ」「無謀だ」と心配する仲間たちの言葉をはね退けて火高説得に赴いたのだが、内心は不安でいっぱいだった。

 何しろ相手は超問題児、こちらが話を切り出す前に、お断りされる可能性は百パーセントに近い。それなのになぜ、あいつの存在にこだわるのか、自分でもわからないままに階段を上る。

 音楽準備室は六畳ほどの広さで、授業に使われる楽器などを保管する部屋。以前に火高が使っていたアコースティックギターももちろん、ここにある備品だ。

 女たちのクスクス笑う声が中から聞こえて、オレは扉にかけた手をいったん止めた。

 やはり火高はここにいる。間違いない。

 スラリとした長身の上に、二年生だけでなく学園全体でもトップクラスの美形である彼は問題児であることを差し引いても、女子の絶大な支持を受けている。モテて当然、今も女たちに取り囲まれているのだろう。

 思い切って扉を開けると予想どおりで、床にペッタリ座り込んだ女どもの視線が一斉に、こちらに向けられた。

「なあんだ、風紀委員の立木じゃん」

「早く帰れって言いに来たの?」

 たちまちブーイングの嵐。オレの出現にブーたれているのは二年でも問題あり(要するにヤンキー)の女子五人だった。

 その中でもヤンキー度ナンバーワンの長沢ミユキに腕を絡められた火高は両手に花どころか周囲は花園状態で、女子高生コスプレのキャバクラみたいだ。

 すっかりヤニ下がっている火高、わかっちゃいるけど何かムカつく。

「誰かと思ったら、ミスコン男子じゃない」

 けったいな名称で長沢がオレを呼んだ。そんなふうに呼ばれたのは初めてだが、頼むから蒸し返さないで欲しい。

 文化祭の催し物はBBFのような音楽関係に限った内容だけではなく、お祭りにつきもののイベントもありで、その中のひとつである、ミス李逗夢学園を決めるミスコンも同時開催される。

 ところが、立候補したわけでもエントリーされたわけでもないのに、全校生徒の投票の結果、オレの名前は男でただ一人、栄光のベストテン入りしてしまった。

 それもこれも、色白でいわゆる女顔という顔立ちのせい。女の子だったらよかったのにというコメントはこの十七年近く、聞き飽きるほど聞いたが、まさかの全校第七位になるなんて。

 それにしてもBBFでの成績より上とはと、複雑な心境だったおぼえがあるが、ともかくその文化祭以来、ミスコンネタでからかわれる機会が増加。

 で、このままではいけない、もっと男らしくを追求しようとしたオレだが、校則すれすれに髪をイジる程度で、大した変化もないまま、今に至っている。

「ミスコンって、ああ、男で入賞したってヤツか。たしかに、男にしておくにはもったいない美人だな」

 火高はそうコメントすると、こちらを見てニヤニヤ笑った。

 切れ長の目に形のいい唇、間近で目にする整った顔立ちはやっぱり色男、イケメンだ。女顔とはひと味違う、オレが持ち合わせていない魅力に溢れていて羨ましくなる。

「えー。湊ったらー、何言ってんのー。ホモだって噂されちゃうよ」

「でもさ、立木ファンの男子、多いんだよね」

「女子には人気ないけどさー」

 ほっとけ。

 ひどい言われようをしているオレに「そうなのか」などと訊くあたり、彼の立木颯に対する認知度はあまり高くないようだが、ろくに出席していないから、同級生のことなんてほとんど知らないのだろう。

 風紀委員の仕事じゃないと断り、火高の方に向き直ると、彼もようやくオレの訪問理由に気づいたらしい。

「で、俺に何の用だ?」

「オレ、バンドやってるんだ。バンド名は『ラヴ・アスリート』っていうんだけど、メンバー五人ともタメで、一年のときから組んでいて、けど、ギター担当の滝口陸(タキグチ リク)がいなくなって。それであんたに参加してもらいたいんだ。頼む」

 当人を目の前にしてテンパッてるせいか、イマイチ要領を得ない説明になってしまい、そんな自分を歯がゆく思う。

「バンド? まさかBBFに出ろってんじゃねーよな」

「もちろ……」

「お断り」

 にべもなく答えた火高はふいっと横を向いた。

 その反応は想定内だ。

 いきなりいい返事がもらえるとは思っていない。オレはしぶとく食らいついた。

「陸はさ、この三月に……」

「お断りって言ってるじゃん」

「そうそう。湊はバンドなんかやりたくないって言ってんだから、とっととうせな」

 またしても女どものブーイング攻撃だが、負けてはいられない。

「三月に交通事故で」

「しつこいよ、ミスコン」

「女々しいからミスなんじゃねーの」

「……事故って何だ?」

 思いがけない火高の鋭い声音に、女たちは一瞬押し黙ったが、すぐさま「こんなヤツの言うことなんか聞かなくても」と取りなし始めた。

「うるせえっ! てめえらは黙ってろ」

 いったいどうしたのかと、顔を見合わす女たちに、火高は「ここから出ろ」と命令した。

「湊……」

「さっさと出て行け!」

 ぶつぶつ文句を言いながら、四人の女子が腰を上げる。最後まで頑張っていた長沢も腕を乱暴につかまれ、廊下に追い出された。

 ピシャリと扉が閉められ、やがて辺りが静まり返る。五人共あきらめて帰ったようだ。

「……さてと、邪魔者はいなくなった」

 突然の火高の変貌に、あっけにとられていたオレだが、もう一度、初めから話せと促されて我に返った。

「滝口陸ってヤツがギターの担当だったんだけど」

「滝口……知らねえな」

「じゃあ、事故のことも?」

 全校集会で黙祷を捧げたんだけど、ほとんど登校していない火高は陸の存在も、事故についても知らなかったらしい。

 黙ってうなずく彼の表情が暗く、悲痛に感じられた。ここで涙を流していた時の顔と同じに見えた。

「陸はチャリで家に帰る途中、事故に遭ったんだ。交差点で左折してきたダンプに巻き込まれて……即死だった」

「…………」

 火高は黙ったまま、うつむき加減になった。さすがのツワモノも見知らぬ同級生の悲惨な最期にショックを受けているのだろう。この時のオレはそう解釈していた。

「オレたち、去年のBBFは九位だったんだけど、五人の中で一番悔しがっていたのが陸で、今年こそは優勝しようって、よく言ってた。それがあいつの遺志なら、残されたオレらで実現するしかないって」

「……わかった」

「えっ?」

「やってやるよ、ギター」

「ホッ、ホントに?」

 もしや陸の無念さが伝わったのだろうか。あっけなく承知した火高の返事を聞いて、オレは思わず彼の手を握りしめ「ありがとう!」と叫んでいた。

「何のつもりだ」

「あっ、ゴ、ゴメン」

 火高らしくない、戸惑ったような反応を目にして、慌てて手を放す。彼は皮肉めいた笑いを浮かべた。

「ふん。まさか、この俺が誰かに感謝されるとはな」

 自嘲気味なセリフだが、どこか嬉しそうな響きだ。オレたちに頼りにされたというのが自尊心をくすぐったのだろうか。

 何となく気恥ずかしくなったオレは照れ隠しに、早口でしゃべりだした。

「あ、あの、オレんち楽器屋で、あんまし広くないけどスタジオもあるんだ」

 オレの親父は普通のサラリーマンやってるけど、その実家、つまり『立木楽器』は親父の両親すなわち祖父母が経営、母さんも手伝っている店で、当然そこが『ラヴ・アスリート』の練習場になっている。

 お客の予約が入らない限り、いつでも自由に、しかもタダで使えるから、バンドをやるにはもってこいの環境だ。

「そこで月に二、三回セッションやってるから。場所は……」

 オレがしゃべっている間、火高は一言も口を挟まずに、こちらをじっと見ていた。

 打って変わって、何だか薄気味悪い反応だなと思っていたら案の定、話が一段落するとニヤリと笑いかけた。

「言っておくが、俺が参加するからには交換条件がある」

「交換条件?」

 いきなりのセリフに、オレはドキリとした。まさか、ここにきてそんな申し出をされるとは……

 その条件とは何ぞや? 

 金ならないぞ、って火高の家は金持ちだ。金を要求するはずもなし、だとしたら……

 おどおどするオレをおもしろそうに見やると、彼はおもむろに言い放った。

「立木颯といったな。おまえは俺のものになれ」

「……は?」

 きょとんとするオレの手首をつかんだ火高はそれからこちらに顔を近づけると、耳元で囁いてきた。

「だから、ヤラせろって言ってんだよ」

 ヤラせろって、それってまさか、セックスさせろって意味なんじゃ……

「え……ええっ!」

 思わず後ずさり、手を振り払おうとするが、ガッチリつかまれてはずれない。

「何抵抗してんだ、こいよ」

「だっ、だから、何でいきなりそーゆー展開になるんだよ? 欲求不満なわけ? あんたなら相手はいくらでもいるだろ」

 モテまくり、ヤリまくりのはずだ。何を好んで男となんか、と言ってやったら、ヤツはスケベオヤジのような表情を浮かべた。

「別腹だ」

「デザートかよ」

 それにしたって、火高ファンの尻軽女どもはともかく、いきなり男にヤラせろと言われて素直に応じる男なんて、そうそういるわけない。いや、まずいない。

 いったい何考えてんだか……あ、そうか、わかった。頼られて嬉しくて、なんてオレの思い込みだ。最初からバンドに参加する気なんてなかったんだ。

 思わせぶりな態度や言葉でオレをからかって、イヤだと言えば「じゃあ、さっきの話はなかったことにする」で終わり。そういう筋書きになっているんだ。

 とたんに腹が立ってきて、火高をねめつけたオレは「いい加減にしろ、ふざけんな!」と怒鳴ってみたが、ヤツは平然としたまま、手を放そうともしない。

「ふざけてなんかいねえよ。こっちはいたってマジだぜ」

「オレが承知すると思って言ってんのか?」

「当然だ。俺が加入しなけりゃ、BBFに出場できないんだろ? おまえとしては、応じるしかないじゃないか」

 一応、参加するつもりでいるらしいセリフに、オレは言葉に詰まってしまった。

 交換条件を呑まなければ解決しないのだ。つまり、ラヴ・アスリートのBBF参加はオレ次第、オレが「うん」と言わなければ、そこでゲームオーバー……

 強迫観念に目眩がしてきた。

「さあ、どうするんだ?」

 火高が舌なめずりをしながら迫ってくる。オレの反応をおもしろがっているとしか思えない態度が腹立たしいけれど、何も言い返せない。ヤツの機嫌を損ねたら元も子もないからだ。

『ちくしょう、九位かよ』

『歯が立ちませんでした。悔しいですね』

『ほな、来年こそは入賞や』

『やっぱ、やるなら優勝狙うっしょ』

 仲間たちの声が耳の奥でこだまする。

 オレが承知すれば、オレさえ我慢すれば、こいつを迎えてバンドは再起動できる。もう一度、あの舞台に立てるのだ。

 なに、これはちょっとした事故とか、痴漢に遭ったと思えばたいしたことじゃない。

 女はともかく──イマドキの女子にとっても、人によってはたいしたことじゃないかもしれないけど──男がそんな、一回ぐらいヤラれたからといって、大騒ぎするもんじゃないだろう。

 芸能界じゃ、プロデューサーとかそういう人、テレビ番組などに関して影響力のある人物と寝る、身体を提供することによって、自分を売り込もうとする二流アイドルみたいなのがごろごろいると、週刊誌などでおもしろ半分に噂されている。

 アイドルに限らず、世の中において身体を武器にするのは珍しいことじゃない。オレは覚悟を決めた。

「……わかったよ」

「ふーん。思ったより物わかりがいいな」

 火高は右手でオレの手首をつかんだまま、左手で髪を撫でてきた。背筋にスッと悪寒が走る。

「なんだ、ビクッてんじゃねーか」

「違うって」

「なら、できるよな?」

 意地の悪い口調でそう言うと、彼の左腕はオレの腰にまわされ、グイッと抱き寄せられた。右手が頬に移動する。

「目、閉じろって」

 掠れたようなセクシーボイスで囁かれ、オレはギュッと目をつぶった。余計な力が入っているせいか、歯まで食いしばっている。

「……キス、するから」

 柔らかいものが押し当てられる。これが唇かと思う間もなく、ざらざらした感触。

「力抜けよ。入んねーだろ」

 早速に舌を入れようとしているのだ。オレにとってはファーストキスなのに、いきなりディープすぎる。

「ん……んん」

 ねっとりと絡みつく舌技に、オレは呻き声を上げた。

 これって本当に気持ちいいのか? 息苦しいだけのような気がするけど。

 キスを続けながら、火高の手はオレのワイシャツをまさぐり始めた。冷たい指先が肌に触れ、悪寒とも快感ともわからない、不可解な感覚が伝う。

「けっこう感じるんだな」

「ふ……ぅ……」

「もっと良くしてやるよ」

 乳首に触れられ、ビクンと背中が反応する。このまま奈落の底にでも堕ちていきそうな意識を必死に引っ張り上げた。

──違う、こんなのは違う。

「……やっぱりダメだ!」

 オレは火高の胸を突くようにして、彼の身体を離した。

「なんだと?」

 これからというところで拒絶され、火高はムッとした顔でオレを睨みつけた。その様子は美形らしく迫力満点だが、ここで負けてはいられない。

 オレは諭すように「女の子が相手じゃないとダメとか、男同士はアウトとか、同性愛を否定するつもりはないけど、同性にしろ異性にしろ、こういう行為ってさ、お互いの愛情の確認だろ?」と問いかけた。

 そうだ、キスやセックスとは脅迫されて従うのではなく、好きな人と行なうものだ。

 もっとも、性欲の捌け口としての、愛のないセックスなんてのも存在するけど、それにしたって面白半分とか、からかうといった感情とは別物だろう。

「あんたはオレが好きなわけじゃなくて、反応がおもしろくてやってるんだろ? それってやっぱ変だよ。間違ってる。あんたの家来になれっていうなら、そうする。何でもやるよ。購買のパン買ってこいとか、靴を磨いて懐で温めろとか」

 まさに秀吉、家来の鏡。

「とにかく、ほかのことなら何でもする。けれど、キスやセッ……」

 すると彼はオレの言葉を最後まで聞くことなく、フイッと顔を背けると無言のまま、部屋から出て行った。

「あ……」

 結果的には交換条件を拒否したのだから、これでゲームオーバーだ。オレはがっくりと膝を着いた。

 仲間たちには何と言い訳すればいいのか。顔向けできない結果になってしまった。まあ、どうせ期待してはいないだろうけど。

 火高にキスされた唇が疼く。

 不思議なことに、ほぼ初対面の男にここまでされたというのに、オレの中に嫌悪感はなかった。触れられた部分が未だ熱を持ったように熱く、ふわふわとした気持ちに包まれているのを感じる。

 まるで明け方に見る夢の中のような、不可思議なひとときだった。

                                 ……②に続く