第十章 離れ小島の決闘
さて退社時刻まで、あと二時間あまり。
総一朗との約束にすっかり浮かれ、早くアフターファイブにならないかとそわそわしていた創の元に、製造部からの連絡が入った。至急運んでもらいたいものがあるという。
「げー。あそこに行くのはちょっと気乗りしないんだけどなぁ」
浮かれ気分に水を差す展開にゲンナリするが、仕方なく台車を引き連れ、製造部への遠征を開始。気分が一気に重くなった。
総一朗に会えるから、開発部に行くのはもちろん嬉しい。営業部へは滅多に行かないし、システム部も好意的な対応をしてくれるが、製造部だけはどうも……
工場の中の通路を横切って、その先の事務室まで行くのも難儀だが、製造部内の雰囲気というか、居心地の悪さはまた格別だった。
士農工商でいえば、商にあたるのがこの製造部であると、当の本人たちが勝手に思い込んでいる。商人が悪いというわけではないけれど、自分のところの部署は一番格下だという気持ちが強いのだ。
便宜上、事務室は工場に付随した形になっているのに『あちらの本社ビル』から『のけ者』にされた『離れ小島』だとか、管理職も作業着を着用しているのはここだけ、などと、ひがみを助長する要素も多い。
総一朗が先の会議で話題にしたのも、その辺りの事情を踏まえたもので、また、さらに格下とされる業務課への八つ当たりがもっともひどい部署であり、行く度に難癖をつけられてしまうのだ。
さあ、今日は何と言ってくるのやら、さっさと終わらせて戻ろう。
事務室の前まで到着すると案の定、その場で手ぐすね引いて待ち受けていたのは製造部の先輩社員たちだった。二、三年前に入社した大卒組である。
「おっ、来たぞ、業務課が」
「おーい、チンタラしてないで、さっさとこれ持って行けよ」
嘲るようにそう言い、顎で指図する彼らを無視して、創は黙々と作業に取り組んだ。いい齢をして、この程度の嫌がらせしかできないヤツらを相手にしても始まらないと承知している。
そこへ騒ぎを聞きつけたのか、グッドタイミングで日野がやって来た。
「どうしたんですか、って、あれ、加瀬?」
同期の仲間の姿を目にして、孤立無援状態のところに味方を得た思いになった創は思わず「おい、日野。この人たちに仕事の邪魔をしないよう、おまえからも言ってくれよ」と文句を口にした。
「そ、そんな」
まさか先輩社員に意見するわけにもいかず、仲間との板挟みになった日野がおろおろしていると、彼らの一人が創の背中をこづいた。
「なんだこいつ、新人のくせに生意気な口ききやがって」
「ちょっとばかりモテるからって、イイ気になってんじゃないのか」
製造部内では、山葉ミチル軍団を含めて女子社員が多いゆえに「イケメン新人ナンバーワン」の話題で盛り上がっていた。つまり、創のことをカッコイイと騒ぐ女子たちの評判を、男子社員がもっとも頻繁に耳にする部署なのである。業務課に対する嫌がらせの要因のひとつに、女に人気のある創への妬み、やっかみが含まれているというわけなのだ。
「近頃じゃ、女の子ばかりじゃなくて、男にも取り入ってるって聞いたけど」
「おう、聞いた聞いた。開発部の例のアレ、だろ」
「そっちもオッケーか。バイだなんて、なかなか隅に置けないな」
そう言って彼らは互いに目配せをすると、いやらしく含み笑いをした。
開発部名物のオカマ課長がお偉方の集まる全体会議の席において、業務課に関する意見を強調したという話はたちまちのうちに社内に広まっていた。
それはゲイの課長が業務課に配属されたイケメンの新人に入れ込んだ結果だ、いや、その新人自らが課長に取り入ったのではないか。そんな噂が広まり、社内の一部の者から、特に製造部の人々からやっかみ混じりの批判を受けることになってしまったのである。
「もしかして開発部業務課にしてくれって頼んだんじゃねえのか」
「あーら、色男のお願いならアタシ、何でも聞いちゃうわ」
「その代わり、今夜のお相手をヨロシクね」
ついにはモノマネも飛び出し、ゲタゲタと笑う連中を創はギロリと睨みつけた。
「だいたいさ、なんであんなのが課長やってんだよ。それをほっとく会社側もおかしいって、みんな言ってるぜ」
「社長あたりをタラシ込んでたりしてな」
「げぇ、気色悪」
自分は何と言われようとかまわないが、総一朗が、好きな人がバカにされるのは我慢がならなかった。
カアッと頭の中が、身体中が熱くなる。腕がぶるぶると震えた。
「なんだ、その反抗的な態度は?」
「……うるせえよ」
「ンだと? てめえ、やる気か」
それから先の展開をよくおぼえてはいないのだけれど、気がつくと創は殴られて、床に転がっていた。さらに襟首をつかまれ、パンチを数発受ける。多勢に無勢、かなうはずはなかった。
突然ではなく、起こるべくして起きた製造部での乱闘騒ぎに、集まってきた野次馬がやいのやいのとはやし立てる。
「ちょっと、あなたたち、何やってんの?」
声をかけたのは、たまたま通りかかった総一朗だった。
殴られた衝撃で意識が朦朧とした状態の中、創はおぼろげに彼の姿を認めた。
(助けにきてくれた……)
創が製造部の社員四名にボコボコにされていたとわかると、総一朗は急いで止めに入った。
「やめなさい、こら、もう、やめなさいったら!」
それから、なおも創を殴ろうとする大柄な男の腕をとらえると「えいやっ」とばかりに、その巨体を投げ飛ばした。
「うわーっ!」
床に叩きつけられる巨体、ズシンッ、と大きな音が辺りに響き渡る。自分の二倍近くも体重のありそうな巨漢を投げ飛ばす力が、このヤサ男のどこにあるというのだろう。
「まったくもう。こんなところで何の騒ぎ?」
返事はない。目の前で見せられた『大技』に誰もが驚き、黙りこくったままだった。
「これ以上続けるなら、アタシが相手になるわ。言っとくけど、これでも武道エトセトラの有段者ですからね。黒帯も持ってるわよ」
「ははーっ、恐れ入りました」
印籠を見せつける水戸の御隠居のようだ。四人組は白旗を振って降参し、日野が経緯を説明しているうちに、製造部の課長が慌ててやって来た。
そこで、先に手を出したのは創だが、一対四でかかったこと、きっかけは製造部社員たちの嫌がらせだったことを踏まえ、喧嘩両成敗で決着がついた。これ以上オオゴトにするわけにもいかなかったからだ。
「ちくしょう! オレはな……」
「ちょっと、もういいから、こっちに来なさいよ。ほら、医務室行くわよ」
気持ちが収まらない創を捕まえると、総一朗は彼の身体を引きずるように、事務室隣の医務室へと連行した。
いつもは専属の看護師が待機しているのだが、この時はたまたま留守のようで、勝手に救急箱を開けた総一朗は創を椅子に座らせると、顔に受けた傷の手当を始めた。手際よく消毒を済ませ、傷薬を塗り込む。
「いっ、痛えよ」
「うるさいわね、これぐらい我慢しなさいよ。あーあ、男前台無しね」
「ちぇっ」
「はい、おしまい」
箱を片づけたあと、総一朗は「会社内で乱闘騒ぎなんて、前代未聞だわ。何とか話がついたからいいけど、ヘタすれば懲戒免職ものよ」と、呆れた様子で言い放った。
「別に、クビになったらなったでいいさ。辞める覚悟はとっくにできてるし」
「また、そうやってひねくれる。三ヶ月は頑張るって決めたんでしょ、男に二言はなくってよ」
本当に話がついたのかという不安はある。乱闘の一件は上に報告しなければならないだろうし、経営陣がはたしてどういう判断を下すのか、あとになってみなければわからないが、まあ、その時はその時だと、創は開き直ってみせるしかなかった。
「クソッ、大学行ってた頃はあのぐらいの人数、どうってことなかったのに」
過去の戦歴、ゲーセンや酒場で起こしたチンピラ相手の喧嘩を思い出して悔しがる創に、総一朗はやれやれと溜め息をついた。
「そんなに喧嘩の腕が衰えたって言うなら、今度稽古をつけてあげましょうか?」
「へっ?」
「柔道、空手、剣道に合気道、少林寺もマスターしているのよ。どれがいいかしら?」
さすが何でも完璧男、武道にまで通じているとは……創は身を縮めて答えた。
「え、遠慮しとく」
「あ、そう」
創の様子が落ち着いたところで、総一朗はなだめるように問いかけた。
「だいたいね、ただの殴り合いなんてジェントルマンのすることじゃないわ。製造部に不穏分子がいるのはわかっていたけど、もっと穏便に解決できなかったの?」
「あいつら、オレだけじゃなくて、あんたの悪口も言ったんだ」
「そう。どんなこと?」
「それはその……オカマを課長にしておくのはおかしいとか何とか……」
「まあ、普通に考えればそうでしょうね」
平然と応える総一朗に、創はさらにたたみかけた。
「悔しくないのかよ?」
返事はなく、不満と怒りのボルテージだけがハイスピードで上がっていく。
「格好はどうであれ、仕事はきっちりやってるんだろ。それなのに……そんなふうに、みんなに陰口叩かれてさ、あんたは悔しくないのかって訊いてるんだ!」
涙が溢れそうになるのを堪えて、創は血を吐くかのような思いで声を振り絞った。
「オレは……悔しい」
憂いの表情で床に視線を落としていた総一朗はゆっくりと創の方へと向き直った。
「ありがとう」
「え……」
「そこまでボクのことを考えてくれていたなんて嬉しいよ」
「い、いや、オレ、その」
まっすぐに見つめられて、胸が痛いほどドキドキする。
それから、総一朗は目のさめるようなブルーのジャケットの袖を振ってみせた。
「ボクもこの格好をしているせいでクビだと言われれば、それに従うしかないと覚悟しているけど。長年の習性で、本当の自分を誰にも見せられなくなってしまったからね」
誰も知らない──オカマの仮面をはずした素顔の総一朗を知っている者は数少ない。
自分はその中の一人なのだと改めて思うと、秘密を共有したような、密かな喜びがこみ上げてきそうになったが、それでも唯一ではないのだという戒めに、たちまち心が萎えた。
総一朗の過去を知り尽くした男、扶桑茂明。今のオレの存在価値はあの男の足元にも及ばない。
そんなのまっぴらゴメンだ。
オレのことだけを見て、オレのことだけを考えて欲しい。
総一朗を独占したい。
唯一の存在になりたいと──
「会社のヤツらなんて、どうでもいいよ。オレだけに……」
そこまで言いかけて、気持ちが昂ぶってきた創は総一朗の両肩をガッチリとつかむと、何かを訊こうとした唇を塞いだ。
その瞬間、時が止まって──
──ハッと我に返り、おろおろする創の腕の中で、青ざめた顔をした総一朗は小さく震えていた。
茶化すでもなく、サラリとかわすでもない。彼らしくない反応に却って、何と言い訳していいのかわからなくなる。
「え、えっと、だから」
すると総一朗は「……いいの、かな」と呟いた。
「何?」
「ゴメン。余計なことを考えすぎて……ちょっと……」
総一朗の表情にやるせなさと、憂いが浮かんでいる。こんな彼を見るのは三度目だ。母の死に目に合えなかった時のこと、転職をした時のこと――
胸の内を不安がよぎった。自分にとって決していい展開にはならないであろう、嫌な予感がする。
「余計なことって何だよ。何を考えたってんだよ」
「いいんだ、気にしないで」
「気にするなって言われたら、もっと気になるじゃねえか」
「ゴメン、本当に……また、あとで」
総一朗は逃げるようにして、医務室から出て行った。
独り取り残され、その場にペタリと座り込む。何をどうしたらいいのか、今の創にはまったくわからなくなっていた。
……⑪に続く