第十一章 小料理屋『青柳』にて
終業のチャイムが響き渡ると、ドッと開放感が溢れる。今週のお仕事、これにて終了だ。
「ねえねえ、今から新しくできたあのお店に寄って行かない?」
「行く行く! ロッカー寄ってくからちょっと待ってて」
「おーい、飲みに行くぞー。遅れたヤツの奢りな」
「マジかよ、まだ片付け終わってねえよ」
「えーっ、デートなの? いいなぁ」
「あー、ちっくしょー、残業決定じゃねえか」
社内のあちらこちらから、社員たちの悲喜こもごもが聞こえてくるようだ。
早々に退社する人々の波に混ざって通用門を抜け、待ち合わせの場所に出向いた創は辺りを恐る恐る見回した。
医務室での出来事──衝動的にキスしてしまったせいで、飲みに行く約束を反古にされたのだとしたらどうしよう。
だが、その心配は杞憂に終わった。すぐに現れた総一朗は「お待たせ」と言い、何事もなかったかのような笑顔を向けた。
それから二人が向かった先はS駅近くにある小料理屋だった。
「『青柳』って……あ、もしかして邦楽演奏会のときの人がやってる店? ここにあったんだ。全然気がつかなかった」
創の反応を見た総一朗はなぜか苦笑いを浮かべ、紺地に店の名前を白く染め抜いた暖簾をくぐった。「いらっしゃい」の掛け声がこじんまりした店内に響く。
「あら、テンちゃんじゃない。この前はわざわざお見えくださって、本当にありがとうございました」
見覚えのある女将の言葉に、カウンターを陣取っている常連客とおぼしき中年オヤジ三人組がこちらを振り向いた。
「ホントだ。本物のテンちゃんだ」
「ここんとこ、ずーっと顔見てなかったと思ってたらなぁ」
「何やってたんだい。もしかして、こっちがお盛んだったとか?」
そのテの下ネタを好みそうなオヤジの一人が親指を立てて「げへへ」と下品な声で笑うと、総一朗は妖艶に微笑んで「やーねー、ゲンさんったら。いっつもお下劣なんだから」と、ゲンさんなるオヤジの背中を軽くこづいた。この店でもオカマキャラで売っていたらしい彼はオヤジたちの『オカマアイドル』という存在のようだ。
創がぽかんとしていると、彼の顔を見た女将が「あら? もしかして、あのときのお兄さん?」と問いかけ、それを聞いた人々の視線が一斉に、こちらに集まった。
「おおーっ、あのニイちゃんじゃねえか。あんときゃひでえ酔っ払いだったよなぁ」
「そんでも、しらふで見るとなかなかの色男だなぁ。さてはテンちゃん、うまくやったな」
みんなの冷やかしを浴びせられて、戸惑う創の腕を取ると「そうよ、アタシの新しい彼氏に昇格したの。みんな、ヨロシクね」と言いながら、総一朗は向こうのテーブル席へと彼を引っ張って行った。
「女将さん、ビールと焼き鳥お願いね」
「はいはい。冷や奴サービスするわよ」
何が何だか、さっぱりわからない。
椅子に座ったあとも、創は周りをキョトキョトと見回すばかりである。
そんな彼をからかうような視線で眺めたあと、総一朗は「何もおぼえてなさそうね」と言った。
「おぼえて、って?」
「三週間ほど前だったかしら。ベロベロに酔っ払って、この店に入ってきたじゃない」
「あっ……!」
ここはS駅前だ。大卒新人十名で打ち上げを行なったあの晩、仲間たちの元を飛び出したあと、創は何かに導かれるように『青柳』へ入ったのだった。
それから総一朗を美女と間違えて口説いた──のではなく、彼の隣に座ったとたん、創はいきなりカウンターに突っ伏して眠り込んでしまったらしい。
もうすぐ店の看板の時刻だというのに起きる気配もなく、ゆすっても叩いても、テコでも動かない男に困り果てた総一朗、上着の社章から自分の会社の新入社員と知った以上、放置するわけにもいかず、非常事態だから勘弁してもらおうと、男が持っていた携帯電話をチェック。幸い、ロックはかかっておらず電話帳を見たが、家族のものらしき電話番号は市外局番、しかも県外だ。これで引き取ってくれる同居の家族がいるというセンは消えた。
大卒の社員が社員寮に入ることはないので、アパートかマンションで一人暮らししていると察することはできたが、その住所まではわからない。最終的に総一朗が取った手段、それはこの近くにある唯一の宿泊施設──ラブホテルにての宿泊だった。
「じゃ、じゃあ、キレイな瞳がどうこうって口説いたっていうのは?」
「本気にしてたの? 冗談に決まってるでしょう。今時あんなベタなセリフ、ふつう言わないわよ。自分で言ったおぼえあり? ないでしょうが」
たしかに変だとは感じていた。いくら酔っていたとはいえ、あんな、背筋がこそばゆくなるような口説き文句を口ベタな自分が言うとは思えなかったからだ。
「どうして裸だったんだよ」
「だって、かなり酔ってたもの。服に吐いたら困るし、シワになるからって言ったはずだけど」
「パンツまで脱がすことないだろ!」
「そりゃあ、名前も知らない酔っ払いをあそこまで連れて行って、一晩面倒みたんだから、こっちにも少しはメリットがないと。お蔭で目は楽しませてもらったわ、なかなか立派なものを持ってるわね」
涼しげな顔で言い放つ総一朗をねめつけて、創は「騙したな」と恨めしげに言った。
「騙した?」
「オレをひん剥いて、写真撮って、それをネタに脅迫して……」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、写真なんか撮ってないわ。だって、ああでも言わなきゃ、あなた、アタシの方なんか振り向きもしなかったでしょう」
だとすれば──あの晩、二人の間には「何もなかった」ことになる。
そうとわかってハッとする創に、総一朗はいつになく真剣な、そしていくらか悲しげな眼差しを向けた。
「そういうこと。キミとボクの間には何もなかった。今ならまだ引き返せるよ」
「引き返すって……」
「女性を愛する、普通の男に戻れる」
ズキッと締めつけるような痛みが胸を襲う。目を泳がせる創を見やったあと、総一朗は寂しげに視線を落とした。
「仮の姿はやめて欲しいと言われたときから、うすうす感じてはいたんだ」
決定打は医務室でのキス──こちらの誘いにイヤイヤ応じていたはずの年下男が自分に対して、本気になってしまったとわかった。
そのあとの不可解な反応は総一朗の戸惑いと迷いの表れだったのだ。
「そう仕向けたのはボク自身だ。キミに恨まれても仕方ないと思っている」
まるで後悔しているかのような口ぶりに血の気がスッと引いたが、波が打ち返すごとく、反動的に怒りが湧き起こる。
「恨まれても、って何だよ。だったらオレはどうすりゃいいんだよ?」
「わからない……わからないんだ」
「好みのタイプに教育するとか何とか、オレのこと、さんざん振り回しておいて、今さら反省してるのかよ」
「そんな……でも、何て言ったらいいのか」
「ンなの、自部勝手すぎんだろーが。ふざけんなよ」
「だから申し訳ないって」
「謝って済むかっての」
「ゴメン……」
こんな堂々巡りの状態じゃ埒が明かない。創は総一朗を見据えると、
「で、あんた自身はどうして欲しいんだよ。オレが引き返せばいいと思ってるのか、そうじゃないのか、ハッキリしろよ!」
「ボクは……」
「ま、あんたの答えが何と出ようと、オレは引き返さないからな」
キッパリと言い切る創に、総一朗の表情が吹っ切れたように明るくなった。
──勘定を済ませたあと、創を目の端で捉えたまま、彼は呟くかのように訊いた。
「……ボクの部屋に来るかい?」
……⑫に続く