第八章 エーゲ海に惑う
翌朝九時。ちょうど耳元に転がっていた携帯電話がやかましく鳴る音に、創は驚いて飛び起きた。
「なっ、何だぁ?」
まだ寝ぼけているせいか、位置がわからず手探りで電話機を探す。慌てて着信ボタンを押すと、聞こえてきたのは待ちわびていた人の声だった。
「おっはよー。起きてた?」
「……起こされた」
あっけらかんとした言葉が神経を逆撫でてくる、創はブスッとした口調で答えた。
「ごめんね~、ずっと残業続きで予定が立たなくって。今日は何とか休めるって、はっきりわかったのが昨夜も十二時過ぎてからだし、さすがに連絡できなかったのよ」
「あ、そう」
残業だったとしても、メールぐらい送れるだろうに。
昨夜の自分がどれほど苦しい思いをしていたか、まるでわかっていない総一朗の態度に、ムカッ腹が立つ。
不機嫌な応対をする創に、たたき起こしたのが悪かったのかしらと、総一朗はわびを入れてきた。
「あー、もう、いいから」
「変ねえ、何怒ってるのよ?」
「怒ってなんかいねえよ」
「絶対怒ってるって」
「うるせえな」
これは夫婦漫才というよりも、痴話喧嘩である。
なかなか連絡をくれなかった相手への不満もさることながら、昨夜、彼を自慰の対象にしてしまった後ろめたさと恥ずかしさも手伝って、創は手のつけられないひねくれ者になっていたのだ。
それでも電話での通話だからまだいいようなもので、今、総一朗の顔を見るなんて、直接、面と向かって会話するなんて、この精神状態では絶対に不可能だと断言できる。
やれやれと溜め息をつきながらも、総一朗は「今日はね、美術館巡りをしようと思ってたの。お昼は海辺のレストランに行きたいから、ちょっと早めに連絡したんだけど」と、とりなしてきた。
「ふーん。美術館ね」
創の、気のない返事を耳にして、行きたくないのかと総一朗は訊いた。
「別に、どっちでも、どうでもいい」
「あなたって扱いにくい男ね。そんなんじゃあ……」
「イイ男失格だ、って言うんだろ。そんなのもう、どうだっていいよ。あんたにイイ男って認められなくても、オレの生活に一切、支障はないしさ」
気持ちとは裏腹の言葉がついつい、口をついて出る。本当はずっと連絡を待っていたのに、総一朗の声が聞けて、誘いを受けて嬉しいはずなのに、どうしてこんな、ひねた返事しかできないのだろう。
「それじゃあ、レストランの予約をキャンセルしなきゃならないわね。せっかく朝イチに電話したんだけど……」
悲しげな声がズキリと胸に刺さる。しまった、このままでは今日の計画が取り止めになってしまう、何とかせねば。
「……ま、朝メシまだだけど、そんなにハラは減ってないから、昼まではもつかな」
ひねくれ男の言葉の真意を即座に了解した総一朗は嬉しそうに、待ち合わせの約束を取りつけ、一方の創も計画がキャンセルにならず、ホッと胸を撫で下ろした。
それから四十分後、S駅の一般用送迎駐車場の脇に立つ創は何度となく時計を眺めては、道路の向こう側に目をやっていた。総一朗が車でここへ向かっているはずなのだ。
今日の服装は紺と白のボーダーカットソーに紺のパンツ、白のスニーカーというマリンルックは海辺のレストランを意識して。
そこに、この前買ってもらったジャケットを合わせることで、美術館巡りという知的なデートにも対応。
これまではどこへ行くにもTシャツとジーンズの『着たきりスズメ』だった創が「イイ男は常にT・P・Oを意識しなくてはいけない」という総一朗の教えを健気にも実践した結果だった。
これならもう、いきなりダメ出しされないはず。たぶん……
「遅いなあ……道、混んでるのかな」
そろそろ到着してもいいはずなのにと、もう一度腕時計を見ようとした時「もしかしてハジメじゃない?」という若い女の声が聞こえてきたので、そちらに顔を向けた。
「……可奈」
元カノの可奈がそこに立っていた。ちょうどS駅の改札から出てきたところのようだ。
つき合っていたあの頃よりも派手な化粧を施した可奈はそこそこ美人ではあったが、いつブリーチしたのかわからない髪の色はまだらになっており、厚化粧のせいか、顔色がくすんで見える。抜群のスタイルを強調してか、背中と胸元が大きく開いた派手な柄のブラウス、そこにデニムのショートパンツを合わせて太腿まで露出しまくっているのはいいが、その品のない服装のために、冴えない女に成り下がっていた。
「久しぶりね、全然わからなかった。なんかこう……雰囲気変わった。すっごく上品で、オシャレで、イイ感じ」
「そ、そう?」
思いがけない再会、しかも彼女の口から自分に対する誉め言葉が飛び出したため、創は照れ臭そうに頭を掻いた。
「でも、ぶっきらぼうなのは相変わらずね」
何度となく聞かされたセリフである。
「久しぶりに会ったのに、元気だった? とか、どこへ行くの? とか、何も反応しないじゃない」
「まあな」
たしかに創は口達者ではない。むしろ口ベタな方だが、芸ならぬ、ルックスは身を助けるで、これまで大した苦労もなくナンパに成功していたのだ。
「ねえ、その服とか靴って新しいカノジョの趣味なの? めっちゃカッコよくなったよね。なんだか惜しいことしたって思っちゃった」
別れたことを後悔するほど、イイ男に変貌したというわけだ。これまでの教育の成果が表われている証拠かも、などと創は一人で悦に入った。
そこへ「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。見ると、金髪にヒゲ面、えりぐりが伸びきったタンクトップとサーフパンツ、穴あきサンダルという、だらしのない服装の見本という格好をしたサーファーまがいの若い男が道の向こうで手を振っている。
「あっ、カレだ」
創たちと同様に、可奈とその彼氏も、ここで待ち合わせをしていたらしい。
「じゃあね」
「ああ」
男の元へ走り寄る可奈の後姿を見送りながら、創は溜飲を下げた。
(おまえとそのサーファー男、それこそめっちゃお似合いじゃん)
そう、頭からっぽのおまえなんかと違って、オレの新しいカノジョは最高さ。
美人で教養があって、優しくて気が利いて。頭が良くて仕事もできる、オシャレでセンスのいい──その正体は十九も年上の『オトコ』なんだけど……
創はそれから、今人気絶頂の二十代の男性アイドルが四十代後半の大物女優と噂になった、ちょっと前の芸能ニュースを思い出した。
そのニュースを知った時、そういう男ならいくらでもモテるだろうに、モデルだのグラビアアイドルだの、芸能界に数多といる、若い美人を相手にする気はなかったのか、いくら女優とはいえ、五十が近い女なんてモノ好きなと思ったのだが、今にしてみれば彼の、その心境がわかる気がした。
若さだけがその人の値打ちを決めるのではない。尻の青い小娘なんぞが太刀打ちできない、大人の魅力があるからこそ『熟女』に惹かれたのだと。
モテ男ならなおさらのこと、相手の人間性や生きる姿勢、いわば中身への魅力を求めたのではないだろうか。
それにしても遅い。遅すぎる。いつもならもっと早く到着しているはずだが……
まさか事故に遭ったんじゃないよな?
不安が増してくる。そわそわと落ち着かない気分でいるところに、あのシルバーボディがようやく到着した。
「お待たせ~。ちょっと渋滞にハマッちゃってごめんなさいね」
事故ではないとわかってホッとしていると、
「あら、今日のスタイルはなかなかイケてるじゃない。少しは研究したのかしら」
「ま、少しは、な」
無愛想に答えながらも、誉められて内心は嬉しくてたまらない。
「さっきも誉められたんだぜ。元……昔の友達にここで偶然会ったら『前よりずっとカッコよくなった』って言われてさ」
すると、自慢げな創を冷めた目で見透かした総一朗は「それって元カノでしょ」と、あっさり看破した。さすがに鋭い。
(こりゃ絶対に嘘はつけないな)
「言っとくけど、脳みそが……」
「こうじ味噌の?」
「そう。そんな女にちょっとばかり持ち上げられたぐらいでイイ気になってんじゃないの」
そのセリフに、創はボソッとつぶやいた。
「オカマのヤキモチか」
「何か言った?」
「い、いや、べ、別に」
「とにかく、もっと謙遜するとか、恐縮するとか、そういう一歩引いた心構えが大切よ」
「はいはい」
片や総一朗はといえば、軽い素材のコバルトブルーのジャケットと白のパンツにサングラス。バカンスを楽しむセレブのように、肩の凝らない、それでいてオシャレな着こなしである。さすがにセンス抜群だ。
向かった先は公立の美術館で、車を駐車場に置いたあとは幾つかのオブジェが置かれたプロムナードを進み、深緑の水を湛えた池の脇を抜けてエントランスへと入る。
常設展示されていたのは十七世紀頃の風景画で、別の展示室の近代彫刻の数々は世界の巨匠による作品だったり、現在活躍中の作家だったりと様々。世界に名だたる作家の作品が地方の美術館に保存されていたとは驚きだったが、総一朗はそれらについてありとあらゆる知識を披露し、懇切丁寧に解説をしてくれた。
「……さて、どうかしら。少しは絵筆でも取ってみようって気になった?」
「さあ。オレ、絵ヘタだもん。小学校の通信簿の図画工作はいつも最低点だったし、彫刻刀で指切ってから、ますますイヤになった」
ダメだこりゃ、と、総一朗は頭を抱える仕草をした。
「でもさ、このアートフルな雰囲気はけっこう気に入ったぜ」
「アートフル、ねえ」
美術館をあとにすると、続いては海岸線に沿った国道に出る。
「この道、ウエスト・コーストみたいな雰囲気でしょ」
はしゃぐ総一朗に、またしても「はいはい」と気のない返事をすると怒られた。
「ウエスト・コーストって言ったんじゃ正確ではないわね。サンタモニカかしら」
今の流行歌は歌詞がダメだ、小学生の作文レベルだと文句をつけて、総一朗はラジオをCDに切り替え、カーステレオのスピーカーからは八十年代に流行った洋楽のポップスが流れ始めた。サンタモニカを演出するにはまずまずの音楽である。
しばらく走ったあと、車は海辺──といっても浜ではなく、断崖の上に立つスパニッシュレストランの駐車場に停まった。
「ここから見える海がステキなのよ」
促されて入った白い建物は全面ガラス張りで、天気は快晴とあって、見下ろした海原はどこまでも青く澄み渡っている。
白い波頭が砕け、カモメが軽やかに舞う姿を眺めていると、サーモンのオードブル、サラダにパエリアといった料理がテーブルに次々と並べられた。
それらに舌鼓を打ちながら、総一朗は「気分はエーゲ海ね」と、すっかり浮かれた様子だった。
(さっきまでサンタモニカって言ってなかったっけ?)
呆れた創はさっそくツッコミを入れた。
「エーゲ海はギリシャ、スペインなら地中海だろ。それに、思いっきり日本の海だぜ。見えるのは松の木ばっかりだし」
すると総一朗は面白くない様子で「ホント、ムードのない男ねぇ。アタシがエーゲ海って言ってるんだから、上手く合わせてよ。せっかくの教育もなかなか効果が表われないわ」とぼやいた。
「ちぇっ」と舌打ちしたあと、創はトマトにフォークを突き刺した。ずっと楽しみにしていた、彼と過ごす時間なのに、ついつい突っかかってしまう自分の天邪鬼なところがイヤになる。
デザートのシャーベットをスプーンですくいながら、総一朗は思いもよらない言葉を口にした。
「ねえ、ちょっとだけ無粋な話してもいい? 仕事のことなんだけど、本当はどこへ配属されるのを希望していたの?」
食後の紅茶に入れたレモンをぐりぐりと掻き回しつつ、創はボソッと答えた。
「開発……やってみたかったけど」
開発に携わってみたいと思っていたのは事実である。が、それとは別の意味で、今は開発部に──総一朗の傍にいたかった。
「でもオレ、専門は情報処理だから、やっぱりシステム部かなって」
「そうねえ、せっかく大学で勉強してきたのにもったいないわよね」
「そっちは中途で入ったって聞いたけど、元々どこにいたの?」
節煙宣言したにもかかわらず、またもタバコをくわえた総一朗は「某自動車メーカーよ」と答えたが、その時、彼の表情が曇ったのを創は見逃さなかった。
「自動車って、ウチの取引先じゃねえか」
「まあね。そこでいろいろあって……転職を考えているときに、ちょうど江崎から声がかかって。お給料も同じぐらいだし、待遇は悪くないし、渡りに舟と乗ったわけ」
もう十年ぐらい前のことだから、と吐き捨てた総一朗は某自動車メーカー時代のことを思い出したくない様子だった。
ガラス越しの風景に目をやる横顔に憂いが宿る。彼のこんな表情を見るのは母親の死に目に会えなかった話を聞いた時以来だ。
十年前……総一朗が社会人として歩んできた時間はさらに、二十年近くにもなる。その軌跡が、キャリアの差が、人生経験の違いが、スタート地点に立ったばかりの、弱冠二十二歳の身に重く圧しかかってくる気がした。
(オレってば、この人について何もわかっちゃいないじゃねえかよ)
会社という組織の中で最上階にいる者と、底辺を這っている者の差も、創に大きなプレッシャーを与えていた。
身分違いの恋……江戸時代ならそう呼ばれたであろう、今の彼らの地位関係、年齢にキャリア。
いくら恋に上下の隔てなしとは言っても、二人の間にある様々な格差と、同じ性という事実がこの先、自分自身をどんなにか苦しめ、それによって傷つく羽目になるのではという不安と恐れ。
それらは総一朗を好きになってよかったのかという後悔にも結びつき、彼の心の中で増幅した。
(まったく、何ビビッてんだよ、オレは)
こんな思いをあの元カレも、扶桑繁明も抱いたのだろうか。そうだ、だからこそ彼は女性との結婚という、平穏無事な道を選んだ。総一朗の前から、二人の行く手に立ちはだかる困難から、あいつは尻尾を巻いて逃げ出したんだ。卑怯者め。
(あっ、そういえば……)
総一朗は扶桑のことを元同僚だと紹介した。ならば、彼が勤務しているのは総一朗が江崎に転職する前に勤めていた会社、某自動車メーカーなのではないか。転職の要因のひとつは彼の存在だったのではと推察されて、別れてもなお、総一朗を惑わせ続ける男に、創は無性に苛立った。
「さてと……」
明るい表情を取り戻した総一朗は次に行く博物館の場所を告げた。
「遺跡のそばにあってね、この地域の成り立ちや歴史がわかる貴重な出土品を展示してあるの。いにしえの人々の暮らしに思いをはせるってところかしらね」
「いにしえの人々か……」
いにしえ、それは過去。あんなヤツとの過去じゃない、オレとの未来を見て欲しい。これから先もずっと、一緒に……
「ここからちょっと距離があるけど、もうひとっ走りよ。そうそう、満腹だからって、助手席で寝ちゃわないでね。こっちまで眠くなるから」
「よーし。そんじゃあ座席倒して、たっぷり仮眠取ってやろう。何たって今朝、たたき起こされたもんな」
「まったく、言うことがいちいち憎たらしいわねぇ」
車の助手席に乗り込んでシートベルトを装着したあと、創は運転席ではなく真っ直ぐにフロントガラスを見つめながら、いくらか固い口調で切り出した。
「あのさ、オネエ言葉じゃなくて、普通にしゃべってくれない?」
「えっ?」
「だから、仮の姿はやめてくれってこと」
「何よ、いきなり」
そちらへと向き直ると、総一朗は首をかしげる仕草をしていた。
「ディナーの晩にあなたが怖気づいたから、オカマのままでいよう、ってことにしたんじゃなかったかしら?」
「いいから、普通にしてくれよ。もうビビッたりしないからさ」
「それはかまわないけど……変な人ね」
創のこだわりに、総一朗の方はまるで気づいていないようで、しかしながら仮の姿が素に戻ることはなかった。
……⑨に続く