第三章 他人の空似
会場である厚生年金会館内の会議室に集まったのは男女合わせて十五名。まさに老若男女──老まではいかないが──様々な職種に様々な年齢の人がいて、僕は期せずして名刺交換のシミュレーションの成果を試すことになった。
そこに講師として登場したのは年齢五十前後と見られる上品な女性で、短く刈った髪にきっちりとしたスーツ姿が印象的な早坂寿々江(はやさか すずえ)先生はさっそくカリキュラムを説明し、集まった生徒たちに自己紹介をさせながら、人前での話し方のノウハウを伝授し始めた。
その建物内に宿泊しての、一泊二日の時間は大変有意義で、二日目の午後三時に講師の最後の挨拶が終わると、皆が彼女に握手を求め、また、共に学んだ者同士が再会を誓い合うという、感動的な幕切れを迎えた。
そんな時、早坂先生に個人的に呼ばれた僕が傍に行くと、知的な顔立ちに穏やかな笑みをたたえた女史はこんなことを言った。
「人は見かけではないというのは誰でも承知していますが、実際は見た目で判断されることが多いのもまた事実です。貴方はとても優秀で魅力的なのに、その格好で損をしている。まずは見た目を変えることから始めてはいかがでしょう?」
彼女は一枚のチラシを差し出したが、それは都内にある、男性向けエステと美容室が一緒になったトータルビューティーサロン、といった内容の店の案内だった。
「ここでのケアが必要と思われる生徒さんにはいつも紹介しているんですよ。私の名前を出せば、今からでもすぐに予約が取れますけど、いかがかしら? 人生観まで変わりますよ」
キノコのままでは、いくら素晴らしいセミナーを受けても以前と同じ状態が続くのだ。見た目を変える、そうしなければいつまでも前に進めないのだ。
成海基の顔が、美しくも高慢な表情が思い浮かんだ。あいつにこれ以上なめたマネをさせるわけにはいかない。
気弱で引っ込み思案だった僕の胸中に、前に突き進もうとする強い力が湧き上がってきた。人は自分に自信を持つと積極的になれる、あらゆる面で変わることができる、強くなれるものだ。講師の言葉によって与えられた自信が僕を強気へと導いていた。
「お願いします」
手痛い出費になるのは覚悟の上だが、
「ボーナス払い、できますよね?」
「心配しなくても、そんなにお高くありませんよ」
──そして翌金曜日の朝。
二日ぶりに出社してきた僕を見た富山さんと森下さんはあんぐりと口を開けた。
「……おはようございます。あれ、二人ともどうかしましたか」
前面をガードしていたうっとおしい前髪をスッキリと処理、髪全体にゆるめのパーマをかけてアッシュカラーに染めたところ、マッシュルームは流行りの、エアリー感のあるミディアムショートへと見事な変化を遂げた。
眉はきれいに整えられ、ぶ厚いレンズのメガネは取り払われて、鏡の向こうに現れたのは長い睫毛と二重瞼の目元。
メガネとはおさらば、この際だからとコンタクトにしたからで、セミナーが終了したあと、紹介されたサロンに行って施術後に鏡を見せられた時にはこれが本当に僕なのかとびっくりしたほどだ。
「何だおまえ、すっかり垢抜けたなぁ」
「来宮くんがそんなに美形だったなんて、三年も一緒なのに気がつかなかった」
「美形じゃないよ、誉めすぎだよ」
森下さんたちの讃辞を聞いて、僕は照れ臭くなったが、僕自身、この変貌にはとても満足していた。
髪型でその人の印象が変わるというのはよくわかったし、成海のような飛び抜けた美男子でなくとも、自信が持てないほどの容姿でもない。前髪で隠す必要はなかったのではと、これまでの自分の姿を後悔した。
「マジで驚いたぜ、大変身じゃないか。それってセミナーの成果?」
富山さんの問いかけに、早坂女史にサロン行きを勧められた経緯を聞かせると、彼は大いに納得したようだった。
「その格好で損をしている。まずは見た目を変えることから始めてはいかがでしょう、か。なるほど、一理あるな」
それから富山さんは僕の全身をなめるように見回した。
「それにしてもそそられるなぁ」
スーツの着こなし方などにもチェックが入り、それは僕の華奢な身体つきを強調する形になっている。
「は?」
向けられる視線に戸惑っていると、
「来宮にそういう資質があると思ってはいたけど。きっとモテるぞ、男限定でな」
「はあぁぁ?」
つい、大声を出して目をむく僕に富山さんは苦笑いしながら「ゴメンゴメン」と謝った。
「いや、オレ自身はゲイのつもりはまったくないけど、来宮を見てるとさ、何だかかまいたくなる感じがするんだ。こいつをオレの手で守ってやりたいって、男ならそう思うんじゃないかな」
「守ってやりたい、ですか?」
「男心をそそる可愛いタイプってわけだ」
見栄えが良くなってなおさら、そういうヤツが増えると彼は付け加えた。
「そ、そんな……」
カッコよく尚且つ、先輩社員の威厳をもって講義に臨むはずだったのに、男心をそそる可愛いタイプだと?
早くも計画が破綻しそうな予感がして、僕は焦った。
『来宮クンって、男の人ってカンジがしなくて……』
五年前に失恋が決定した時の、相手のセリフがとたんに甦ってきて、それは僕を苦い思い出へと引きずり込んだ。
守ってやりたくなるのは男として頼りないからだ。
頼り甲斐のない男が守られる側として定義された女──現代においてはその定義も的外れではあるけれど──に相手にされるはずはなかった。
人生観は大いに変わった、ただし、期待していたのとは別の方向に、だがこの際、人生観の向きを気にしてはいられない。威厳のある先輩社員計画は大幅な修正となったが、気を取り直して六階会議室へと向かう。
三日ぶりの朝礼で前に並ぶ僕の姿を見た新人たちは皆、ぽかんとしていた。四十の瞳が驚きと羨望、好奇心に満ちた視線でこちらを見つめている。
成海が呆然とした表情をしているのを見逃さず、僕は密かに溜飲を下げた。
広がる動揺とざわめきの中、富山さんが今日の予定を告げ、それが一段落すると、彼らは僕を一斉に取り囲んだ。
「えーっ、いったいどうしたんですか?」
「講師用の研修って、何教わってきたんですか、まさかイメチェンの仕方?」
「でも、すっごく似合う、びっくり」
新人たちの反応はおおむね好意的だった。見栄えが良くなったとたんに、とはゲンキンなものだが、試みは成功したと思いつつ、席に着いたままの成海にチラリと目をやる。
彼は相変わらず不貞腐れたような、冷たい表情で資料に目を通している。が、どこか落ち着きがなく、そわそわしているようにも見えた。
見てくれからその中身まで、バカにしていた相手が少なくとも見てくれの部分を改善したことへの驚きと焦り、恐らくそんなところだろうか。
勢いに乗った僕はこの日の講師を務めたが、以前のようにおどおどすることもなく、二日間の特訓を生かして説明を始めた。
「それではこの時間から、アルゴリズムについての考察と解析を行います」
「アルゴリズムとはプログラムの大まかな流れを決める、あらすじのようなものだと考えてくださって結構です」
「資料の十三ページを開いてください」
……と、一人一人順番に視線を移しながら、確認するように顔を見て話す、だったよな。早坂先生、そうですよね?
他己紹介の時よりは確実に進歩している、むしろ大躍進といっていい。
セミナーでの教えを忠実に守り、講義を行なう僕に対して、キノコ云々と揶揄する者は一人もおらず、皆真剣に耳を傾けている。これまで質問魔だった男が沈黙を守っているのは不気味だが。
とにかく、それもこれもあのセミナーのお蔭だ。僕は恩師・早坂寿々江先生に心の中で手を合わせて感謝した。
一日のカリキュラム終了後、ホワイトボードの周りを片づけていると、蹴つまずいたはずみでボードが傾き、僕の背中の上に倒れ込んできた。
慌ててそれを支えてくれたのは不破隆で「ありがとう」と礼を述べると、彼は照れたような表情を浮かべた。
「来宮さんのためなら……あの、今夜は何か予定ありますか?」
「い、いえ、別に」
「良かったら一緒に飲みに行きませんか。オレと興和が言い出しっぺで、新人全員に声を掛けたんですけど、金曜の夜でしょう。みんな先約があるとかで、集まりが悪くて」
参加メンバーの名前を読み上げると、二十人中、たったの四人ですよと、不破は四本の指を突き出してみせた。
その中に成海は含まれておらず、女性たちの名前もない。男ばかりのわびしい企画になってしまったようだ。
「来宮さん、機会があったら誘ってください、って、他己紹介で言ってたし」
あれはあくまでも社交辞令なのだが、キノコだ何だとからかわれていたことを思えば、彼らとの関係は一気に改善されたわけで、大変ありがたい話である。
用事があると言って森下さんは不参加だが、富山さんも来ることになっていると聞いて、せっかくの誘いを断るのも申し訳ないと、僕は参加を承諾した。
「やった!」と喜びの声を上げた不破はそれから、向こうの席にいる飲み仲間の興和義光に「来宮さんもオッケーだって」と伝えた。
うなずいた興和が紙に何かを書き込むのが見える。会費を集めるのに使うつもりなのか、参加者の名前を記録しているようだ。
この、不破から興和への呼びかけはその場にいた新人たち全員の耳に届き、それはのちに事件の引き金を引くきっかけになると、今の僕にはわかるはずもなかった。
◆ ◆ ◆
今夜の飲み会の場所は──一週間の研修の打ち上げという名目らしい──横浜駅から程近い、黒と赤を基調にしたインテリアがシャレた和風モダンな居酒屋である。
最近開店したとあって、新しくて清潔な店内のそこかしこに、つくばいやら獅子嚇し、茶釜など、和をモチーフとしたオブジェが飾られているのが、特に女性の人気を集めているとのこと。料理は旨いし、雰囲気のわりには飲み放題プランなどを使うと安く上がるというわけで、学生や懐の寂しい若手サラリーマンにも好評の店であった。
当日の後始末を終えてそちらへ向かうと、連中は奥座敷の二つのテーブルを囲んで到着を待っていたが、教育担当二名を拍手で出迎えた人々の中に成海の姿を見つけると、僕は血圧が急激に上がったような気がして、思わず心臓の辺りを押さえた。
手前のテーブルに不破たちが、成海は五十センチほど離れた奥のテーブルにいる。露土さんと、あと二人の女子社員も一緒だが、とてもそちらの席に加われる雰囲気ではない。僕たちは迷わず手前の方に座った。人数は六対四で、こっちは野郎ばかり。手狭だ。
今年度の新人は総務部での女子採用がゼロだった代わりに開発部採用が多く、二十名中三名というのは大人数で、つまり、この飲み会は新人女子に限れば百パーセントの参加率、全員参加ということになる。
それにしてもまさか、成海がこの席に加わっているなんて思いもよらなかった。さっき不破が告げたメンバーに彼の名前は含まれていなかったではないか。
いったいどうなっているのか、訳が知りたいと思っていると、我らが幹事はこちらが尋ねる前に小声で説明してくれた。
「成海くんが『人数少なくて淋しそうだし、やっぱり参加する』って言って。そうしたら女の子たちも行くって言い出して。それまで渋っていたくせに、ですよ」
要するに女三人は成海がお目当て。不破の面白くないといった表情は当然の反応だ。
見た目は冷たくて近寄り難い雰囲気の成海だが、無口どころか話題は豊富で、知的な上に容姿端麗ときている。女心をつかんで当たり前の男であり、そんな彼が参加すると聞いて、女たちも慌ててついてきたのだろうが、彼自身の心変わりの理由は単に人数の問題だけなのか。
僕が来ることを知って参加する気になった、そんなふうにも受け止められるが、それは自惚れだろうか。
だいたい、彼は来宮高貴をどう思っているのだろう。
相手を先輩として扱っていない、見下げたような態度といい、その技量を試すつもりなのか、恥をかかせたいだけなのか、答えに窮する内容の質問をぶつける行為といい、敵意を抱いているとしか考えられないのだが、真意は別にあるのか……
不破が「一週間お疲れ様でした。今夜はパーッとやりましょう」などと口上を述べて音頭を取り、宴が始まった。
あちらのテーブルでは成海の周りを女の子たちが取り囲み、華やいだ声ではしゃぎながら、互いにビールを注いでいる。対するこちら側は男だけのわびしい乾杯が行われた。
「……ボクの母は福井県の若狭湾に面した小浜の出身なんだけど、あそこは京都や奈良とのつながりが深い土地で、国宝とか重要文化財級の寺院なんかがごろごろしていてさ」
「行ったことあるの?」
「ああ、子供の頃はね。で、八百比丘尼伝説って聞いたことあるかい?」
「知らなぁい」
「人魚の肉には不老不死の効果があるって言われていて、その肉を食べてしまった美しい姫が十六歳の若さのままで生き続けるんだ。自分の家族、子孫までも先に死んでいく。それを嘆いた姫は尼となって、八百歳のときに断食して、みずからこの世を去る。七世紀頃の話なんだけど、これがさっきの小浜辺りで語り継がれている伝説ってわけ」
「ふーん。さっすが博学」
「今度行く機会があったら、人魚の肉をお土産にするよ」
「えー、やっだぁ~。うふふ」
「アタシは欲しいわ、ぜひ買ってきて」
「ワタシもお願い」
「それじゃあ、キミたちの美と永遠の若さに乾杯だ」
盛り上げ上手で話し上手な成海が次々に話題を提供し、それを聞いた女たちが感心したり、楽しげに笑ったりするのが聞こえてくると、ムカつく人々のテーブルの上に、空き瓶が次々に転がった。
アルコールに強い方ではない僕はそのピッチについて行けず、ちびちびとグラスの中身を舐めていたが、脇からふいにビール瓶を差し出し、お酌をしようとする者がいた。
「お疲れ様です、来宮さん」
それはいつの間にかこちらのテーブル側に寄っていた成海だった。得意の講釈が一段落したらしい。
そうとわかって咄嗟に身を引いた僕は注がれたビールでグラスが満杯になると「あ、ありがとう」と取り繕うように答えたのだが、まさか彼の方から話しかけてくるとは予期しておらず、心拍数はまたしても一気に上昇してしまった。
この男を前にすると、どうしてこんなにも緊張してしまうのか。それを自覚して、いたたまれなくなる。
成海が僕と話し始めたと見た女たちは気にする様子もなく、三人でおしゃべりしている。彼はいたってまともな話題を振ってきた。
「研修を担当する講師のためのセミナーに参加したって聞きましたけど、どんな内容だったんですか?」
そこで僕は二日間のスケジュールをかいつまんで説明し、そうこうするうちに緊張もいくらかほぐれてきた。
何だ、こいつとだって普通に会話できるじゃないか。必要以上に警戒することもないと思い、あれこれ話しているうちについ、口を滑らせた。
「キミは僕が昔会ったことのある人によく似ているよ。最初は本人じゃないかってびっくりした。名前が違うから他人の空似だって、すぐにわかったけど」
なぜかピン、と空気が張り詰める。
成海は表情を変えずに「そいつが本当の名前なら、ですけどね」と言い放ち、その言葉を聞いたとたん、僕は雷にでも打たれたような衝撃を受けた。それは耳の奥で何度もこだまし、まるで耳鳴りのようになって僕を襲い、思考能力を奪った。
「ねえ、成海くん。さっきの問題の答えは? あとで教えてくれるって言ったじゃない、早くしてよ」
いつまでもキノコなんぞと話し込んでいるのが気に入らないのか、露土美咲が成海を呼び戻し、それに応えた彼が「それじゃあ」と背中を向けるのを僕は呆然と見送った。
本当の名前……
そうだ、僕は『蓮』の言ったことをすべて鵜呑みにしていて……だったとしたら?
まさか……
……④へ続く