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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

Mushroom boyに囚われて ②

    第二章  キノコ先輩の屈辱

 僕が入社した頃は八十名程度だったこの会社も、今年度は従業員数百二十名を超えることがわかり、建物が手狭になるとして、今まで使っていた四階建てビルを売却。その場所から百メートルほど南にある六階建てのビルを手に入れ、昨年末に引越しを終えた。

 新しいビルの内装はクリーム色の壁、床にコバルトブルーの絨毯が敷かれ、大きな窓には自動で開閉できるブラインドを設置。フロアの各所に置かれた緑鮮やかな観葉植物が快適な職場を演出している。

 六階フロアの内訳は大と中の会議室がそれぞれひとつ、小会議室が三つ。このうち、昨日入社式が行われた大会議室はそのまま、五月いっぱいまで新入社員研修に使用される予定になっていた。

 他の階は社内機密の漏洩を防ぐために、ICカードキーによるセキュリティーシステムをオフィスの出入り口に採用しているが、六階にあるのは会議室のみなので、階段やエレベーターから通じる廊下を伝って、出入りは自由にできる。

 ただし、一階にある通用口のセンサーで入退社の時刻をチェックされるのは新入社員も他の社員も同じで、彼らは出勤時、センサーを通って出社時刻を記録させてから六階に移動し、帰りも同様に、退社時刻を記録するよう言い渡されていた。

 最初の一週間のメニューは就業規則の説明に始まり、福利厚生関連の話からビジネスマナーの理解と実践。森下さんが主な担当で、富山さんと僕はお手伝いの立場である。

 出社してきた新入社員たちは大会議室に入り、長机に二名ずつ着席して教育担当の登場を待つが、ビジネススーツ姿という服装こそ違え、中の様子は学校の教室そのもの。当初は緊張していた彼らも研修の場に慣れるにつれて、学生気分に逆戻りしてしまっていた。

 開始前のざわついた雰囲気に、内心「おまえらは小学生レベルか」と毒づきながら名刺交換を行なっている人物のイラスト入りの、マナー読本のコピーと、名刺に見立てた白い小さな厚紙を配ると、本日のメニューについて森下さんが解説を始めたので、僕たちは後方で控えることにした。

「今日の午前は名刺交換の仕方と、他己紹介を行います。午後は電話応対についての実践です。まずは名刺交換ですが……」

 設置されたホワイトボードに大きな文字で『名刺交換』『他己紹介』と記入すると、森下さんは手元のコピー資料を提示して、指定したページを見るように命じた。

 複数名に名刺を渡す順番、差し出された相手の名刺は両手で受け取る、名前の読み方を確認する等の説明を行なったあと、隣同士で向かい合わせになって練習開始。

 そのあと四人一組をこちらで指名し、社長に部長、平社員、相手会社の社員の役割を振ると、実際の場面を想定しての、交換の寸劇が始まった。そして一度もやらずに終わることのないよう、誰もが最低一回は前に出る回数分、これを繰り返した。

「私たちの仕事で、他社の方と名刺を交換する機会はそれほど多くはありませんが、知らないと恥をかきますから、しっかりとおぼえてください」

 確かにこの三年の間、他社の人と名刺交換をした記憶はないが、いつそういう機会が訪れるかわからない。これはいい復習になると、僕は頭の中でシミュレーションを試みた。

「次に、他己紹介に移ります。この言葉を初めて聞いたという人も多いかと思います。自己紹介は入社してから何度も、それこそうんざりするほどやってきたでしょうが、それから発展したものが他己紹介です」

 隣同士で、今度はお互いに自己紹介するよう、森下さんの指示が下ると、再び向かい合った新人たちのガヤガヤとした声が室内に響き始めた。

 成海基の相手は開発部採用としては数少ない女子社員の露土美咲(ろと みさき)さんである。専門学校卒の若さと、この業界には珍しい、派手で華やかな美女ぶりは注目度ナンバーワンの新人と断言してもいい。

 一応スーツを着ているが、黒やグレイの地味な色彩の中で、鮮やかなピンクはことのほか目立つし、柔らかくウェーヴした栗色の長い髪やら、念入りにマスカラを塗った睫毛、流行りのルージュの色と、人気モデルに勝るとも劣らない装いで、仕事を間違えているのではと言いたいほどだ。

 同期にはほとんど採用のなかった女性エンジニアの登場に、時代の流れを痛感しながら二人の様子を眺めると、成海がえらく熱心に語っている様が見えたが、会話の内容までは聞こえない。傲岸不遜な男ですらも夢中にさせるとは、美人は得だとつくづく思う。

 一見無愛想に見えるせいか、言葉数も少ないのではと思われがちな成海だが、実際はけっこう口達者でそつがなくジョークも飛ばす、なかなかに賑やかなヤツだ。

 彼の言葉にその都度反応する露土さんの顔から楽しそうな笑みがこぼれ、自己紹介というよりは仲睦まじく語り合う彼らに嫉妬めいた感情をおぼえたが、あんな美人と仲良くしやがって、といった思いなのか何なのか、自分でもよくわからなかった。

「……はい、そこまで。それでは順番に他己紹介をやってもらいますが、その前にお手本を示したいと思います」

 お互いの自己紹介によって得た相手の情報に基づき、それを第三者に披露する──その人物について、皆の前で自分の口から紹介するのが他己紹介である。これは先の名刺交換などで「こちらが弊社の〇〇です」といった場面に使われるわけで、その人がどういう立場で、どのような仕事をしているのかを要領よく伝えるための訓練でもあった。

「来宮くん、前に来て」

 森下さんに呼ばれて、僕は慌ててそちらに向かった。他己紹介の手本をやると予め聞いていたのに、成海たちに気を取られてすっかり忘れていた。掌にじんわりと汗が滲む。

「今から私たち二人で例を示しますから、あとで同じように、順に行なってください」

 そう前置きしてから、森下さんは僕の紹介を始めた。

「こちらは来宮高貴さんです。出身は山梨県で、現在は横浜市港北区にお住まいです」

 出身大学と専攻、入社年度等、これまでの経歴などに続いて、尊敬する人物に座右の銘、好きな食べ物と、紹介は固い内容からくだけたネタへと移る。趣味は寺社巡りと聞いて、一部の者が笑った。

 しまった、読書にしておくんだった。その瞬間、思わず成海に目をやったが、彼は興味なさそうな顔をして聞いている。

 当然の反応だ、あれは『蓮』と出会った場所なのだから。でも……

「……お酒は嗜む程度。あまり強くはありませんが、賑やかな席は嫌いではないので、機会があったら誘ってくださいとのことです。以上、紹介を終わります」

 先の打ち合わせで話した内容を確実に、落ち着いて伝える森下さんとは対照的に、僕の記憶はボロボロと抜け落ち、交替して彼女のプロフィールを伝えようにも言葉に詰まってしまった。

「も、もり、森下さんはえっと……」

 しどろもどろの僕を聡明なる相方が必死でフォローするが、これでは『他己』ではなくほとんど『自己』紹介、とてもお手本にはならない。冷や汗が額を伝い、目に滲みて痛む。何たる失態、最悪だ。新人たちの呆れ返った顔を見て、今すぐここから逃げ出したくなった。

「ちょっと打ち合わせミスがあって、申し訳ありませんでした」

 講師ペアの失敗を取り繕うと、森下さんは生徒たちの実践を促した。

 これもまた順番に、前に出た二人一組で交互に紹介を開始。打ち合わせ不十分のために失言するペアもあり、失敗仲間が増えて僕は何とか息を吹き返したが、気分はどんよりとしたままで重苦しかった。

 やがて成海・露土ペアの番になった。ナンバーワン美女と並ぶ、これまたナンバーワンの美男に、みんなの妬ましげな視線がまとわりつく。

「それでは始めます。こちらは露土美咲さんです。横須賀市にお住まいで……」

 メモを見ることもなく、すらすらと紹介する成海の言葉を照れたような表情で露土さんが聞いている。時折、ウェーヴした長い髪が揺れ、睫毛が瞬くのが見えた。

「こちらは成海基さんです」

 選手交代、モデル嬢もどきの、いくらか舌足らずな声が響き始める。成海に限らず、新人たちの自己紹介は前にも聞いているので、彼らのプロフィールについてはだいたい把握していたし、それは僕にとって成海の正体を確信するのに充分すぎる情報だった。

 成海は東京都の自宅からここまで通っている。都内の私立大学の工学部情報処理学科を卒業、兄弟は弟が一人、両親も健在。

 やはり彼は成海基以外の何者でもないと最終通告を突きつけられ、心のどこかにしぶとく残っていた風祭蓮との同一人物説は今や、完全に息の根を止められてしまった。

 あの日、『蓮』は川崎の自宅へ帰ると話していたし、彼の身の上話で語られたような、貧困に喘ぐ両親が息子を私立の、しかも理系の大学へ進学させられるはずがない。それに決定打は精神障害の妹の件だ。兄弟は弟のみというではないか。

 だいたい、仮名を名乗って何になる。どうしても彼を『蓮』にしたかったのか。なぜ、そこまでこだわるのかと舌打ちをして、僕は席に戻る二人の姿を目で追った。

 上手くできたかしらと言いたげに、露土さんが相手の顔をニコニコと覗き込んでいるのが見えた。

 似合いの美男美女──いいじゃないか、大いに結構。勝手に青春を謳歌してくれ。またしても妬ましくなるのを堪えたまま、僕は次の組へと視線を移した。

 そうこうするうちに午前の講義は終了したが、そのあと、僕が森下さんに土下座して謝ったのは言うまでもなかった。

    ◆    ◆    ◆

 新入社員研修は大した遅れもなく、着実にカリキュラムを消化していた。

 火曜の午前中、普段は富山さんが行なうコンピュータ概論のうち、第三章の講義を僕が臨時で担当したところ、教壇に上がったとたんに『キノココール』が沸き起こって、さんざんおちょくられた。

 他己紹介もまともに行えないヤツの講義など、聞く気にもならない。そういう理由かと思うとさすがに屈辱だが、それにもまして成海基の態度は非常に残酷なものだった。

 ルックスで群を抜いていた彼は中身もそのようで、規則だのマナーだのをやっているうちはともかく、実際の業務に関係する話になってくると、俄然、その優秀な頭脳を発揮し始めた。

 講義の合間に鋭い質問を次々に繰り出すようになり、先にその洗礼を浴びた富山さんに続いて僕へのジャブも容赦がなく、新人相手だからと簡単な内容のみを想定し、通り一遍の予習しかしてこなかった僕は何度も答えに詰まった。

「ディスク等の書式を新しく設定し直す作業をイニシャライズする、と先程の説明の中にありましたが、この場合はフォーマットする、を使用した方が正しいのではないですか」

 それは失言だった。虚を突かれ、焦りまくる出来の悪い講師を美しく冷ややかな目が見据える。

「紛らわしいので、はっきりさせておくべきだと思いますけど」

「そ、そうですね。その方が……」

 ここ数日間、その切れ者ぶりを見せつけられ、圧倒されたために、成海に一目置いている格好の十九名は僕らのやりとりを黙って見守るばかり。あたふたしている僕に対しては「やれやれ、またツッ込まれてるよ」と言いたげで、白けた雰囲気が漂っていた。

 これから先はアルゴリズム解析だの、プログラミング基礎といった講義が続く。本格的な出番を控えて、僕の憂鬱な気分はいよいよ悪化、出社拒否になりそうだ。

 さて、この日の午後からは開発部紹介が始まる。これは各開発課の課長と、グループリーダーが順次登場し、それぞれのプロジェクトにおいて、どのような製品を開発しているのかを新人たちに説明、業務への理解を深めてもらうのが狙いという企画で、本日は第一開発課、明日は第二開発課……という予定になっている。

 その時間、業務課からは大塚課長が立ち会うため、教育担当三名は業務課デスクに戻って資料の整理を始めた。

 ちなみに五階が第四開発課のオフィスで、四、三、と階を下り、僕が以前に所属していた第一開発課のオフィスは二階に、業務課を含む総務部は一階にあるが、しばらくしてそこに武田課長がやって来た。この人はそれまで第三開発課の課長を務めていたが、昨年の配置換えで第一開発課課長に任命されている。

 つい数ヶ月前まで僕の上司だった人物は開口一番「おい、来宮」と呼びかけた。

「あ、課長。業務紹介って、もう終わったんですか」

 始まってまだ三十分も経っていない。訝しがる僕の傍らに立つと、武田課長は気難しい表情を向けた。

「ウチのリーダーたちにバトンタッチした。あの新人の連中、ありゃいったい何だ?」

「何、って……」

 こちらの三人が思わず顔を見合わせると、課長は苦々しげに続けた。

「『キノコ先輩はそこでちゃんとお仕事していたんですか』なんて言い出すヤツがいて、みんな大笑いしやがった」

 カッと頬が熱くなるのがわかった。それを言い出した者の見当もついた。管理職に向かってキノコ先輩がどうこうなどと言えるヤツは成海ぐらいしかいない。あいつめ、どこまで引っ掻き回せば気が済むんだ! 

「齢も近いし、仲良くなるのは結構だが、あれは親しまれている、なんてもんじゃない。おまえ、ひょっとして、あいつらにナメられまくってるんじゃないのか」

 悄然とする僕を森下さんたちが心配そうに見るが、何と声をかけていいのかわからない様子だった。

 武田課長は大きく溜め息をついて、思いもらなかった話題を提供した。

「おまえを教育担当にまわして良かったのかどうか、今さら言っても遅いがな。まあ、本社に引き抜かれるよりはいいと思って承知したんだが……」

 本社とは親会社、FBLのこと。この子会社を立ち上げた際にFBLから出向、あるいは転勤してきた社員たちが親会社を本社と呼んだため、その呼称が一般化しているのだ。

「引き抜かれるって、それはどういう意味ですか?」

「昨年の、配置換えが行なわれる直前だ。第三開発課から二人、本社へ移ったのがいただろう」

「それ、吾妻と榎並ですね」

 そう答えたのは富山さんで、名前の挙がった二人は彼と同期入社の仲間。僕自身は吾妻さんと話したことはないが、榎並さんの方は当時の新人研修の講師として世話になった。どちらも仕事ができてイケメンという、社内でも有名人物だった。

「私、榎並さんに憧れていたのよ。異動を聞いたときはショックだったわ」

 森下さんが小声で打ち明けた。今の彼氏ができたのはそのあとかも。

 ともかく、将来を嘱望された吾妻さんたちは是非にと請われて、FBLへ異動になったのだが、課長の説明によれば、優秀な人材確保に味をしめたFBL側がそのあと「来宮高貴という有望株がいるそうじゃないか、次はそいつをよこせ」とせっついてきたそうだ。

 だが、これ以上引き抜かれてはこちらの会社が手薄になってしまう。しかも武田課長にとっては自分の部下ばかり狙い撃ちで、僕を手放すわけにはいかない理由とするために、教育担当に指名したらしい。

 そんな話はもちろん初耳。教育担当者としての能力はイマイチだが、僕の仕事ぶりは高く買われていたみたいで、立派な先輩たちと並ぶ評価を受けていたのは光栄だし、とても嬉しかった。

 それにつけても対新人の教育でこれほどまでに辛く、嫌な思いをするくらいなら、本社へ行った方がまだマシだったのでは。せっかくのチャンスを握り潰されたようで、ちょっとばかり不愉快にもなった。

 そこへ大塚課長が戻ってきたが、その表情は何かを決意したかのように引き締まって見えた。

「緊急決定だ。来宮、明日からのセミナーに行ってこい。こっちは富山と森下さんがいるから心配いらんぞ」

「へ……?」

 何のことなのか、さっぱりわからない。

 僕の気の抜けた返事を聞いて、大塚課長は苦笑いを浮かべた。

「企業の教育研修担当者を対象にした教育実践セミナーを開催しているコンサルタント会社があってな」

 教育実践セミナーというのは全国各地で、それぞれ年に数回行なわれているようだ。

 開催時期は新入社員の研修が始まる前の二、三月に集中するのだが、参加者の多い東京では今月、つまり四月にも行なわれており、明日・明後日の一泊二日で、厚生年金会館を会場として実施される回がある。

 そのコンサルタント会社へ問い合わせたところ、予約にキャンセルがでて、一人分欠員になっているとのこと。既に四月に入っているので、本来は来年度の研修に向けてのものなのだが、この際構わないだろうと、そこに僕をぶち込む算段になったようだ。

 僕の肩をポンと叩いて、課長は「大丈夫だ」と、根拠のない言葉を口にした。

「しゃべりのプロが上手い説明の仕方とか、聞き手の関心を引きつける方法、なんてのを教えてくれるらしいぞ。これなら話の苦手なおまえでも少しは上達するだろう」

 キノコ呼ばわりされている不甲斐ない担当者をどうにかしたいという苦肉の策であり、当人が四の五の言える状態ではない。

 こうして僕は翌朝、荷物を抱えて東京へと向かうことになった。

                                 ……③に続く