第八章 カスミ草の想い
本社のハード担当者との打ち合わせの日になった。
その前日に出社してきた吾妻さんはいくらか吹っ切れたようで、以前と変わらない様子で仕事を進め、打ち合わせの準備を済ませた。
田辺さんと吾妻さん、山之内さん、オレの四人は午後一番に会社を出発、電車を乗り継ぐと最寄りの武蔵中原駅で下車し、徒歩で五分とかからないFBLの正門前へ到着したが、オレのマンションから直線距離にすると案外近い。こっちで勤務した方が楽だと思った。
ここはFBLのオフィスビルの他に製造工場が隣接しており、その工場の隅に設けられた建物がハードウェアを研究、開発する部門の場所だ。
「わあ、結構広い所ですね」
きょろきょろと見回すオレに、田辺さんが「古い建物だからな。複雑すぎて迷子になるぞ、気をつけろよ」と真顔で答えた。
「本社で扱う製品のハードは全部ここで開発するんですか?」
今度は山之内さんが質問すると、田辺さんはいや、と首を横に振った。
「これだけ広くても全部、というわけにはいかないらしい。スキャナなんかは関西工場で扱っているしな」
応接室に案内された四人のうち、先方とは初対面の山之内さんとオレが名刺交換をして会議が始まった。
「……というわけで、皆さんのプログラムのテスト環境はこちらで整えますから、この応接室を出て、少し先の左側にある、第二マシン室で行うようにしてください」
「実機もそちらにあるんですね?」
「そうです。単体はパソコンで、結合は実機で行えるようになっていますし、場合によっては担当者が立ち会うようにします」
「それはありがたい。何とぞよろしくお願いします」
田辺さんと相手方の課長が握手を交わし、そのあとオレはイメージ処理担当の小林さんと、吾妻さんたちも各自個別の打ち合わせを行った。
それから皆で第二マシン室を見学して、この日の予定は終了した。
帰りの電車の車内は夕刻に近いせいもあってかなり混み合っており、田辺さんたちとは離れた席に座ったオレの前に、吾妻さんが立って話しかけてきた。
「こんなことを言える資格はないが、折り入って頼みがある」
それが伊織に関する頼みだと感じたオレはうつむき、黙ったままでいた。
「もう一度だけチャンスをくれないか、そう伝えて欲しい。あそこにも顔を見せなくなってしまって、頼みの綱はおまえだけなんだ」
「本気なんですね?」
「一週間考え抜いた。山ごもりの修行僧のような心地だった。自分の罪の深さを思い知らされたよ、おまえにも済まないと思ってる」
返事もできずにオレは唇を噛みしめた。
「たぶん、受け入れてはもらえないだろうな。そいつはわかっているが、納得いくまで誠意を尽くしてみたい。俺もつくづく諦めの悪い男だよ」
吾妻さんがこんなふうに弱々しく笑うのは初めてで、その姿にオレは憐憫の情をおぼえた。
あれから小百合ママの店に一切現れなくなったという伊織のことも気懸かりだ。収入源のひとつを失くした今、あいつの生活はどうなっているのだろうか。
「わかりました。できる限りのことはしますから、とりあえずオレに任せてください」
とは言ったものの、伊織を説得する自信はなかった。
もう一度、吾妻さんに会って欲しいという内容のメールを打ち込みながら、オレは憂鬱な気分に浸っていた。
『誕生日を一緒に祝ってくれる人が欲しかったんだろ? 今ならクリスマスには間に合うぜ。あと一度だけでいいんだ、頼む』
ようやく届いた伊織からの返事は──
『わかった』
◇ ◇ ◇
季節は巡り、いつの間にか盛夏を迎えていた。
涼しくて雰囲気のある場所として、オレが選んだのは、広い庭園に遊技施設も併設された、総合娯楽場の中にある水族館だった。日曜日の午後とあって、家族連れやカップルで賑わうこの場所に一番乗りで到着したオレは入場券の販売機の前で辺りを見渡した。
「えっ、それどうしたんですか?」
次に現れた人物に度肝を抜かれたオレ、真夏に黒のシャツで登場した吾妻さんが手にしていたのは真っ赤なバラとカスミ草の花束だった。それも花の数が並みではない、二十、いや三十本はあるかと思われる大きさで、これまた赤いリボンがかかっている。
水族館の前で花束を持つという、かなりの美男子でありながら奇妙な姿の男に、行き交う観光客たちの視線が突き刺さった。
「あの花はあいつなりの、精一杯の気持ちなんだって」
吾妻さんの後ろから現れたのはなんと榎並さんで、その出現に驚いていると、彼は眩しそうな顔をした。
「一人じゃ恐くて行かれそうにない、車にも乗れないからついて来てくれって頼まれたんだ。いい齢してまるで子供だけど、それだけ本気なんだよ」
オレが四人分の入場券を購入しているところへ、最後の一人がやって来た。恐る恐る一歩を踏みしめながら歩く伊織は怯えたような不安げな表情で、自分を待つ三人の男を見比べている。
「はい、伊織クン、五分遅刻。それじゃあ中へ入りましょうか」
ぎこちないムードを払拭しようと、オレは明るく振る舞い、先に立って館内へと足を踏み入れた。
エメラルドグリーンにコバルトブルー、そしてネイビーと、光と水が織り成す鮮やかな色彩が白い壁を駆け巡る。金色に輝く小魚の群れ、ピンクの珊瑚にクリーム色のイソギンチャク、マントを翻すエイ、大型の水槽に広がるファンタジックワールドにしばし見とれていると、思いつめた顔をしていた吾妻さんがとうとう動きだした。
「来てくれて……ありがとう」
「いえ……」
うつむいた伊織が助けを求めるかのようにこちらを見るが、敢えて知らん顔をしたオレは榎並さんの袖を引っ張った。
「榎並さん、あの魚の名前わかります?」
「さあ、珍しい種類だね」
オレの意図を感じ取ってくれた榎並さんは「この向こう側に深海魚の生態コーナーだって。行ってみようか」と提案してきた。
これって、まるでダブルデートだよな。一組目が伊織と吾妻さんなら、もう一組は自分と……心の奥に潜んでいた願望が顔を覗かせて、オレは思わず赤くなった。
「英くん、こっちだよ」
「あ、はい」
慌てて行こうとしたオレは足元に落ちている何かを踏みそうになり、急いで拾い上げたのだが、それは吾妻さんの花束から落ちたカスミ草だった。枝のひとつが折れたらしい。
そのまま榎並さんの待つ方へ出向くと、華やかな表の水槽とは打って変わって、不気味な暗黒の世界がそこにあった。水族館そのものには大勢の客が入っているはずなのに、この場所にいる人はまばらで、やがて誰もいなくなってしまった。
暗闇に浮かぶ奇妙な形の魚を眺めつつ、榎並さんは「こんなに暗い場所でも、一生懸命生きているんだね」と呟いた。
「ホントだ。何だか不器用そうで、親近感が持てるなあ」
「それは? 吾妻の花束の、かな」
「ええ、たぶん折れちゃったんだと思います。この花にも親近感が持てるな。イケメンの吾妻さんや榎並さん、伊織がバラなら、オレはしょぼいカスミ草ってとこですかね」
すると榎並さんは水槽の前を離れ、傍まで来ると立ち止まった。ふわりと柔らかな感触に包まれ、オレは榎並さんの腕の中にいた。
「英くん、僕は……」
榎並さんは何かを言おうとしたが、こちらに近づいてくる誰かの足音に気づいて、慌てて手を離した。
今のはいったい何だったんだ?
戸惑うオレと、いつもの落ち着きを失くして焦る榎並さん、おろおろする二人を不思議そうに見ながらカップルが通り過ぎたが、その女の方がどこか森下さんに似ていて、彼女の姿を目にしたとたん、オレは心の叫びとは裏腹な言葉を口にしてしまった。
「小百合ママが榎並さんのこと、ここしばらくは顔を見ていないって言ってました。だからオレ、榎並さんはノンケになったんじゃないかって、それで店に通う必要がなくなったんだって思って」
何を言い出すのかと首を傾げる榎並さんに向かって、オレは森下さんの想いを告げた。
「オレの思い違いだったらいいんです。でも、もしも女性も許容範囲に入ったなら、彼女のこと、考えてくれないかなって。大きなお世話でしょうけど」
大きすぎるお世話だった。
そこまでして二人の橋渡しをしなくてもいいのに、義務を感じる必要なんてないのに、何て愚かなことをしたんだろう。
「……そうだったんだ、森下さんが。光栄に思わなきゃね」
微笑む榎並さんはなぜだか寂しそうに見えた。後悔の念にとらわれたオレだが、言い訳は何ひとつ残されていない。
次の話題が見つからずに、黙ってしまった二人の前に吾妻さんたちが現れ、伊織はその腕にさっきの花束を抱えていた。
「受け取ったんだ、それ」
「うん、まあね」
いくらか照れたような顔で吾妻さんをチラリと見た伊織は「でも、色が違ってる、って指摘しておいたから」と強調した。
「赤じゃなくて黄色。まずはお友達から始めましょう、だからね」
「はいはい、わかりました」
肩をすくめる吾妻さんの様子を見て、つき合う前から尻に敷かれていると思ったオレはおかしくなり、笑いを堪えるのに必死だった。
「英……ありがとう」
「おまえたちのお蔭だよ」
ふいにしおらしくなった二人に、オレは精一杯の笑顔を向けた。
「次はフレンチを奢ってくださいね」
「ああ。ロシアでもドイツでも、高級会席だってどんとこい、だ」
「そのセリフ、忘れませんよ」
◇ ◇ ◇
夏が去り、初秋の風が吹き始めると共に、ファイリングシステムの工程もじわじわと厳しさを増してきた。
イメージ処理のメイクを終えたオレは単体テストを行うため、先に打ち合わせで訪れた本社のハード部門がある建物に毎日通う、長期出張という格好になったのだが、マンションからはよっぽど近いし、直接そちらに出社すればよいということで、システムソリューションズの建物に行くのは週に一回、進捗状況を報告する時のみとなった。
本社で顔を合わす山之内さん以外、同じグループのメンバーはもとより、藤沢さんや森下さん、そして榎並さんにも会わない日々が続いたが、寂しいと思う反面、いくらかホッとしているのも事実だった。
これまで彼が示してくれた好意に、水族館での抱擁。もしかしたらという期待を抱きつつも、じつはそんな理由ではなかったと知るのが恐い。だから榎並さんにすべてを打ち明けるつもりはなかった。
一生、というのは無理かもしれないが、当分の間は仕事に生きよう。テストに入って忙しくなるし、ちょうどいい。
出社するとまず、ハードグループの人たちに挨拶をして、彼らが使っている事務所に荷物を置き、第二マシン室に直行する。そこはあらゆる機械が無秩序に並び、足の踏み場もないような雑然とした場所で、隅の方には埃すら積もっていた。
テストに使うパソコンは様々な種類のプリンタに囲まれたところにあり、そのうちのひとつが今回のシステムのために開発された実機と呼ばれるプリンタ、すなわち実際に使う機械のテスト用試作品だ。
単体テストは一進一退、あちらが動けばこちらが動かず、といった具合で、オレはこの仕事の真の難しさを知った。
何度も入力を行い、バグ、つまりプログラミングのミスを取り除いてはテストの環境にダウンロードする。そこでワンステップ、ひとつずつの処理を動かしてはデータの内容がどう変わったのかなどの動作を調べるのだ。
これはかなりの根気がいる。昼休みも返上してテストを続け、残業を繰り返しているうちにすっかり痩せてしまったのだが、本人はそうと気づかないままで、進捗報告に戻った時に「痩せたんじゃない?」と指摘されて、初めてわかったぐらいだ。
しばらくぶりに戻ってみると、見慣れていたはずのオフィス内は様変わりしていた。
第三開発課第二グループのメンバーの姿が見当たらない。もちろん榎並さんもだ。
こちらもスケジュールが押し迫っており、他所でテストをしているという。キツイのは自分たちばかりではなく、どこのグループでも同じような状況なのだと思った。
「おっ、椎名か。毎日大変なようだな、ご苦労様。何とか動いたっていうし、まずはめでたしめでたしだ」
オレをねぎらう田辺さんだったが、だからといって、与えられた業務量を減らしてくれるわけではない。戻れば戻ったなりの仕事が待っており、けっきょく残業する羽目になって、帰路に着いたのは午後八時。
近頃は寄り道もせずに真っ直ぐ帰宅するようになったオレが駅までの道程を急ぎ足で歩いていると、向こうからやって来たのは見覚えのある女たちの一団だった。
「あー、椎名さん、めっけ」
華やかな笑い声と共に指をさしていたのは藤沢さんで、他は近江さんたち総務の女性、総勢五名。この近くの店へ女同士、仲のいい連中だけで飲みに行き、一次会を終えてこれから、というタイミングだったみたいだ。
「いいところで会ったわ、一緒に二次会へ行きましょうよ、ねえ?」
藤沢さんが馴れ馴れしく腕を組んできて、いつぞやとはまったく違う態度に、オレは戸惑うというより困惑してしまった。
「あの、オレ、明日も早いし……」
「あら、こんなに美しい女子社員たちの誘いを断る気?」
「やっぱり女はおイヤ?」
誰かがそう言うと、クスクスと笑う声がして、以前の噂は消えてはいなかったのかと愕然としているうちに、道端にて女たちのおしゃべりが始まってしまった。
「まったく、つまんないったらありゃしない。吾妻さんは新しい彼女に夢中だっていうし、椎名さんもカッコよくなったなって思ったら、本社へ行ったきりなんだもの」
カッコいいって、オレが? そんなことを言われたのは初めてだ。痩せたお蔭で丸顔が引き締まり、男振りが上がったのか。くすぐったいけれど誉められて悪い気はしない。
「そういえばこの前、吾妻さんが彼女といるところを見たわよ」
「たしかにすごい美人よね、あれじゃ絶対に勝てっこないってカンジ」
「でも、ガリガリに痩せていて、スタイルは全然良くないわよ」
そりゃそうだ、あれは男だもの。だが、彼女だと思われている方が吾妻さんにとって都合がいいだろうと、オレは黙って聞いていた。
「吾妻くんの話はやめてよ」
近江さんが不愉快そうに言うと、そうよそうよと相槌を打ちながら、藤沢さんはオレの腕を離そうとはせず、それどころか自分の豊かな胸を押し付けるようにして、コケティッシュな魅力を振り撒きながら問いかけた。
「アタシってばこんなにナイスバディなのに、吾妻さんはどうしてそんな女がいいのかしら? 椎名さんはどう思う?」
「えっ、それはその……」
藤沢さんにしがみつかれるような格好になり、柔らかい感触が二の腕から伝わってくるが、一向に勃つ気配はない。少し前までなら絶対にビンビン、鼻血も噴きかねない状況なのに、だ。
彼女を振り払うわけにもいかず、答えに詰まっていると、後方から男女二人連れがやって来て「あら、皆さんお揃いですね」と声を掛けた。
女は森下さんであり、男の方は久しぶりに見る榎並さんだとわかった瞬間、オレの心臓は強烈な痛みに襲われてしまい、今にも倒れるのではないかと思ったほどだった。
まさか榎並さんは本当にノンケになって、彼女との交際を始めたというのか。愚かなヤツの言葉を真に受けて……
「森下さん、抜け駆けは許されないわよ」
自分たちは定時で帰った上に酒まで飲んでいたくせに、女たちは森下さんが榎並さんと一緒だったことを咎めた。
「そんな、偶然ですよ」とやり過ごした森下さんは「椎名くん、久しぶり。モテモテ状態ね」とオレをからかった。
ピクピクと顔が引きつってくるのがわかる。これでは男一人、女性たちに誘われて一緒に飲みに行ったと思われて当然だ、こんな場面を二人に見られたくはない。
すると、変わり身の早い藤沢さんがさっさと榎並さんの方へ擦り寄り「榎並さんも行きましょうよ」と誘いをかけていたのには少なからず驚いたが、彼はいつものように穏やかな態度でやんわりと断った。
「今日はずっと他所に行ってて、明日も朝から直行なんだ。また今度、こっちで勤務する日に誘ってください」
藤沢さんたちにはにこやかに笑いかけながらも、榎並さんはこちらを見ようとはせず、「それじゃあお先に」とその場を立ち去る彼の後姿を取り残された森下さんが、女たちが、オレも呆然として見送った。
どうして何も言ってはくれなかったのか。いや、言葉をかけるどころか、彼はオレの存在を無視していた。椎名英がそこにいると、まるで気づかない素振りで……
期待など抱くべきではないと承知しているのに、心に受けた傷がズキズキと疼く。
明日からは結合テストに入る、もう二度と彼のことは考えない、オレは唇を強く噛みしめた。ひどく惨めだった。
……⑨に続く