第九章 独りきりのクリスマス・イヴ
第二マシン室での結合テストが開始された。
久しぶりに会った吾妻さんは上機嫌で、派手なピンクのワイシャツの袖を捲り上げると、「よっしゃ、実機はどれだ?」と声を張り上げたため、その場にいた他の部署の人々がいっせいに振り返り、オレと山之内さんは小さくなっていた。穴があったら入りたい気分だ。
初日とあって、ハードの担当者たちも立会い、いよいよテスト開始。パソコンをファイリングシステムの本体に見立てて、そこからプリンタへのデータを流し、どのように出力されるかを試す。見本と同じように印刷されたものが出てくれば成功だが、一発で上手くいく例はまずないし、案の定、障害が出てエラーコードが表示されてしまった。
「ま、こんなもんだろう」
事も無げに言った吾妻さんはエラーコードを解析し、どこで障害が発生しているのかを検討し始めた。
「おい山之内、イメージへの起動コードは何で送っているんだ?」
「03です。01が文字、02が図形、で固定されていますから。万が一、01を送ったりすれば、現在処理不可のメッセージが出力されるようになっています」
「00の場合はどうなる?」
「エラーになるはず、ですけど」
「妙だな」
ジッと考え込む吾妻さんの頭脳は最新の大型コンピュータ並みに処理を行っているのだろう。さすが、切れ者だけのことはある。
彼がいれば結合テストでの問題解決も早いのではないかと期待していたのだが、そう簡単にはいかないのがこの仕事の辛いところ。数日間かけての調査の結果、イメージ処理の起動とデータの到着までは確認できたものの、問題は予想通り、アメリカ製の新ハードウェアだった。
「やっぱり犯人はこいつか。どうにもやっかいだな」
やれやれと息をついた吾妻さんは「休憩だ、メシに行くぞ」と先に立ってマシン室を出た。食事は仲良くなったハードの連中と行く、と山之内さんが言ったため、オレは急いで吾妻さんのあとを追い、工場を挟んで反対側にある社員食堂へと向かった。
「さすがに本社だ、人が多い」
賑わう食堂内を見た吾妻さんは同意を求め、向かい合わせに座ったオレの日替わりA定食を「学食のメニューだ」と批評した。
「伊織は元気ですか? オレ、メールを送るぐらいで、ゆっくり話す暇もなくて」
「ああ、元気にやってるよ」
彼の話になると顔がほころぶあたり、吾妻さんは本当に伊織を愛しているのだと思い、とても羨ましくなった。
「もうあの店には行ってない、って……」
「当然だ。いつまでもあんな真似はさせられないからな」
収入が減った分、生活費を援助してやると吾妻さんは申し出たのだが、囲われ者みたいになるのはイヤだと伊織が拒否したため、就職したら返す、奨学金の形にして両者共に納得したらしい。
「プライドが高いっていうか、強い信念というか……あいつのそんなところに惚れたんだ。まさか、男相手にここまで入れ込むなんて、ちょっと前までは考えられなかった」
「幸せなんですね、良かった。クリスマスもちゃんとつき合ってやってくださいね」
「もちろん、全部手配したよ。なあ、椎名。俺がこんなことを言うのもおこがましいが、人の世話ばかり焼いてないで、おまえもいい相手を見つけろよ」
その言葉を聞いて、いっそ胸の内を吐露してしまおうかと思ったオレだが「……はい」と返事をするだけで終わった。
吾妻さんに話すわけにはいかない、気のおけない親友だもの、絶対しゃべっちゃうに決まってる。
忘れようとしていた傷が痛むのを堪えて、オレは結合テストに打ち込んだ。
問題点は新ハードに絞られたため、イメージ担当者が中心となってテストを行う羽目になり、多忙な吾妻さんが顔を出す機会は少なくなった。
ハード担当の小林さんと共に連日連夜、障害の解析とテストを繰り返し、その日も二人で実機の前に座り込んでいた時のこと。
「あ、椎名くん。もしかしたら、ここでの処理の順番を変えてみたらどうだろう?」
「そうですね。じゃあ、すぐに直して……」
立ち上がろうとしたオレは目の前にマシン室の天井が広がっているのを不思議に思った。
「椎名くん、おい、しっかりして! 椎名くんってば、返事をしてくれよ!」
小林さんの声がくぐもって聞こえる。
オレの耳はいったいどうなってしまったんだろう。
いつの間にか天井も見えなくなった。
暗い、暗いよ、ここはどこ?
遠くに響くサイレンは何?
誰かが呼んでいる……榎並さん……
◇ ◇ ◇
「極度の過労だそうだ。まあ、薬も入れたし、しばらく休めば元気になるみたいだが、相当キツかったらしいな。こいつは労災モノだぞ」
「可哀想に。俺がもう少し気をつけてやればよかった」
聞き覚えのある声がして、オレはようやく目を覚ました。
真っ白な壁にアルコールの臭いがする、そこが病室だとわかるまで、さほど時間はかからなかった。
枕元に立って会話しているのはコートを羽織ったままの田辺さんと吾妻さんで、そちらを見ようとして身体を動かすと、水色の寝巻きの袖から出た手の甲にチクリと痛みが走った。そこから出たチューブの先は透明のボトルに繋がっている。
「あの……」
蚊の鳴くような声しか出ないのが情けない。
オレが意識を取り戻したのを見た吾妻さんは「済まなかったな」と優しく声を掛けてくれ、小林さんが救急車を呼んで、会社にも連絡をくれたのだと田辺さんが説明した。
「御迷惑をおかけしました」
「いや、謝るのは我々の方だ。新人に任せきりにしてしまって……こっちも新システムの説明がてら東京支社に出張で、ここにはさっき着いたばかりなんだよ」
それから吾妻さんが「榎並に会ったか?」と訊いたため、思いもよらない名前を出されたオレは目を見開いて首を横に振った。
「そうか。俺たちは東京で、すぐには行けないから、代わりにおまえの様子を見に行ってくれって頼んでおいたんだがな」
溜め息混じりの吾妻さんの言葉を聞いた田辺さんは難しい顔で腕組みをした。
「第二グループも大変なんだ。来週から関西工場行きが決まったっていうじゃないか」
「関西って、ああ、スキャナの実機テストですか。いよいよ始まるんだな、プリンタは本社でできる分、近くて助かるけど」
「榎並さんたち、関西工場に行くんですか?」
恐る恐る尋ねるオレに、吾妻さんはしかめっ面をしてみせた。
「そうだな。これからテストに入って来年一月いっぱい、いや、ヘタをすると二月まで行ったきりになるんじゃないか。さすがに正月は帰れるだろうが、忘年会はお預けだな」
「あっちでしか環境が整わないというのも、難儀な話だよ。何でもウィークリーマンションを三ヶ月借り切りらしい。なんとまあ、御苦労なこった」
「ともかく、今夜はここで泊まってもいいように手続きをしてあるから、ゆっくり休め」
田辺さんと吾妻さんが帰ったあと、看護師さんが様子を見に訪れた。
「椎名さん、具合はいかがですか?」
「はい、お蔭で何とか……」
「あら、お見舞いの方は帰られました?」
「ええ、今二人とも帰りましたけど」
「えっ? 二人?」
すると、あとから入ってきた若い看護師が「会社の上司の方たちなら、そこで擦れ違いましたよ。ミユキさんったら最初にいらしていた、メガネかけたカッコいい人のことを言ってるんでしょ?」と中堅看護師をからかい、ミユキと呼ばれた方は顔を赤くした。
「いやだわ、アカネちゃん。先輩をおちょくるなんて」
「メガネかけた人がここにいたんですか!」
急き込んで尋ねるオレに、二人の看護師は不思議そうに顔を見合わせた。
「椎名さんが運ばれてきてすぐにみえて、それから随分長い時間いらっしゃいましたよ。全然気がつかなかったんですか?」
「たしか、一時間ほど前に帰ったんじゃないかしら。ナースステーションに『あとをよろしくお願いします』なんて挨拶にいらしたから、みんな大騒ぎしちゃって」
「それって、ワタシが事務所の方にカルテを届けに行ってる間ね。だから知らなかったのよ、残念だわ~」
榎並さんだ、榎並さんが居たのだ。吾妻さんから連絡を受けて、すぐに駆けつけてくれたに違いない。田辺さんたちが来る直前に帰ったから、吾妻さんは知らなかったのだ。
目の奥に熱いものが溢れるのを感じていると、ミユキ看護師は「御家族の方なんですか? お兄さんか何か……」と訊いたが、オレが答える前に、アカネ看護師が好奇心をむき出しにして「えーっ、絶対に違いますよ、ねっ?」と言い放った。
「そこの椅子に座って、とっても優しい目で椎名さんの寝顔をじーっと見つめてるんですよぉ。まるで恋人みたいって、大評判。お二人みたいな美形同士ならオッケーですよ」
「まあ、はしたない。患者さんのプライベートに口を挟むんじゃありません」
「ミユキさんだって『お兄さんですか』なんて訊いてたじゃないですかぁ、もう」
互いに牽制しながら賑やかな二人が立ち去ると、ホッと息をついたオレは点滴の針のあとをもう片方の手でそっと撫でた。
榎並さんが見守っていた。それだけで胸が一杯になった。
彼はいつもそうだった。どんな時もすぐ傍で、あの優しい笑顔で……
オレは噛みしめるように呟いた。
「ありがとう……好き……大好きです」
◇ ◇ ◇
その後、プリンタのプロトタイプは無事に完成。十二月中旬という納期にも充分間に合って、晴れて第三開発課は完成祝賀会兼忘年会を行うことができたが、それは第一グループのみの小規模なものだった。
関西工場へと旅立ってしまった第二グループ、誰もいない机はがらんとしていて、オレは寂しさと虚しさを感じたが、どうにもならないことと承知しているつもりだった。
それから考え抜いた挙句『御見舞いありがとうございました』という御礼のメールを榎並さんに送った。関西行きの関係でバタバタしているかもしれない時に、電話をかけるのも迷惑かと思い、そういう手段を取ったのだが、榎並さんからの返信は届かずじまいで、大変なのだろうとわかっていても悲しかった。
いつも通りに出社して、先日までのテストに関するレポートを書いたり、次の完全版に向けての仕様をまとめたり、といった仕事をこなしたオレは金曜の夜にも関わらず、誰からの誘いを受けることもなく定時に退社し、これまたいつも通りに帰路へ着いた。
クリスマス・イヴの夕暮れの街並みには華やかなイルミネーションの光がきらめき、行き交う人々は普段にも増して楽しげに見える。その手にあるのは赤や金の包装紙に包まれたプレゼントの箱。家族が、恋人が待っているのだろうか、足早に何処かへと向かう。
この季節は独りの侘しさが身に沁みる。小百合ママは今頃どんちゃんパーティーの準備をしているんだろうなと思いつつ、コンビニに立ち寄ると夕食の弁当を選び、デザートの並ぶケースの中のショートケーキも手に取ったが、けっきょく弁当だけを買った。
マンションの一階の出入り口に到着した時、三月末に引越しの挨拶をして顔をおぼえた、隣の部屋に住む主婦がもう一人と立ち話をしているのに出くわした。
「今晩は」
主婦二人は愛想よくオレを出迎えてくれた。
「あら、椎名さん、お帰りなさい。今夜はまた、随分と冷え込むわね、雪でも降るんじゃないかしら」
彼女たちがそこにある掲示板の張り紙を話題にしているのに気づいて「何かあったんですか?」と尋ねたところ、
「ええ。この前、宅配便強盗が出たから注意してください、ですって。荷物が届いているふりをして、ドアを開けさせる手口よ」
「この先の新しく建ったマンションで、それも連続して二回。未遂に終わって、怪我人も出なかったから良かったけれど、ほんと、恐いわよねぇ」
「戸締りには充分気をつけた方がいいわよ」
新しいマンションの場所は目と鼻の先だ。強盗に対抗できる腕力など持ち合わせていないオレは不安になり、駆け足で階段を上って鍵を開けるとすぐにドアを閉め、チェーンロックを掛けた。
これで一安心だ。レンジで弁当を温めている間にビールを用意。クリスマスもへったくれもない、普段通りの夕食が始まった。
「伊織のヤツ、今頃は吾妻さんと高級フレンチディナーだろうな、くっそ~。あの人のことだから、『キミの瞳に乾杯』とか何とか言ってくれちゃってるんだぜ、きっと。うわー、キザ。さっすがイタリア人」
一人で突っ込むのも虚しい。
賑やかしにテレビのスイッチを入れたが、軽薄そうな芸能人がペラペラとしゃべるばかりで面白くも何ともなく、ニュース番組に変えたところで、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
「はーい、今……って、待てよ?」
さっき主婦たちから聞いた、宅配便強盗の話が脳裏をよぎった。
こんな時間に荷物なんぞが届くはずがない。ヤバイ、ヤバすぎるっ!
ピンポーン、さらにもう一度、これは絶対に強盗だと思い込んだオレは焦り、警察に連絡せねばとバッグの中のケータイを捜しているうちに、ドアの向こうは静まり返った。
「助かった。留守だと思って諦めたかな」
やれやれと安堵し、ケータイに目をやったところで、それがマナーモードになっていることに気づいた。電車に乗る前に設定したまま、戻すのを忘れていたのだ。
「げっ、オレも健忘症だ」
着信ありのメッセージに気づき、慌ててチェックしたところで、オレは電話機を取り落としそうになった。榎並春人の文字が、それも何度も表示されている。
部屋を走り抜け、震える手でドアロックを回し、チェーンをはずす。だが、開いた扉の先には誰の姿もなく、冷たい外気が室内に意地悪く入り込んできただけだった。
気が抜けてその場にガックリと座り込むと、向こうに広がる景色の中に、ふわふわと舞う白いものが見えた。
「雪……やっぱり降ってきたんだ、寒いはずだよな」
何やってんだ、オレ……膝の上で握りしめた拳に熱い滴がぽつりと落ちる。
「会いたい……会いたいよ……」
……⑩に続く