第五章 思わぬ再会
「ここに六時半でいいんだよな……」
横浜駅改札付近の円柱の前に立ったオレはさっきから何度も時計を気にしては、辺りを見回した。
あれから二週間近く経ち、ようやく実現した今夜のイベントに、はやる気持ちが抑えきれない。
オレは次にケータイを取り出し、液晶画面に表示される時刻を見たり、着信やメールが届いてないかを確認したりと、そわそわしながら二人を待っていた。
平日に予定を入れるのは無理だという結論が出て、今日は土曜日。夕方まで部屋で過ごしたオレはまるでデートにでも出掛けるようにいそいそと支度をしてここまで出向いたが、初夏とはいえ、この時刻になると肌寒い。
ジーンズに長袖の赤いTシャツ、その上から羽織ったGジャンの襟をかき合わせていると、背の高い男二人連れの姿が見えた。思わず手を振ると、白いジャケットが眩しい、鳶色の髪がそれに応えて合図を送る。
その隣にいる黒のワイシャツ、ブルゾンを肩に掛けたその男はこれまたファッション誌から抜け出てきたモデルのようで、道行く人々は──それは女性に限らず──老若男女の誰もが彼らを振り返って見た。
「なんだ、おまえ。そういう格好をしていると恐ろしくガキに見えるな。俺はまた、高校生が待っているのかと思ったぜ」
相変わらず口の悪い吾妻さんはオレの全身を眺めると、鼻でふふんと笑った。
いつものイタリア製スーツとはまた違う、シルバーのアクセサリを身につけた彼はいくらか着崩したラフなスタイルもキマッていて、憎らしいほどにカッコいい。まるで休日を楽しむ映画スターを目の前にしたかのようで、オレはすっかり気後れしてしまった。
「それだけ若いってことだよ。老けて見られるよりいいじゃないか」
的外れなフォローをする白ジャケットは正統派の貴公子然とした雰囲気で、こちらも負けず劣らずの色男ぶり。この二人と一緒にいたならば、貧相な高校生にしか見られなくて当然だ。
「それじゃ、ぼちぼち行くか。おい、高校生。いじけてる場合じゃないぞ」
駅から程近いビルの一階に、吾妻さんが知っているというその店はあった。
新婚旅行はぜひイタリアへ、とまで発言したイタリア好きのオレのために、イタリア料理の店を選んでやったと彼は恩着せがましく言った。
イタリア好きって、あんたがイタリア人だからじゃないか!
それって本末転倒だと思ったけれど、せっかくの好意だからと有難く受け取り、ワインを軽く傾けながらの会食は話題も弾み、楽しく過ごしているはず、だった。
和やかな雰囲気が崩れ始めたのは合コンの日の出来事を吾妻さんが何かの拍子に蒸し返したからで、彼はオレが榎並さんを追い返すような発言をしたとほのめかしたのだ。
「えっ、それはどういうことですか?」
榎並さんは慌てて吾妻さんの口をふさごうとしたが、もう遅い。
あの晩、榎並さんは吾妻さんのマンションまで一緒に送ってきてくれたが、部屋の前まできたところ、オレが「新婚なんだし、二人きりになりたい」などとブッ飛び発言をして強引に追い返し、そのせいで彼は仕方なく帰宅したというのだ。
「そんな……」
榎並さんが無責任だったのではなく、原因は酔っ払ったオレにあった。
まったく記憶になかった発言だが、そうとわかってショックを受け、申し訳なさではち切れんばかりになったオレはテーブルに額をこすりつけ、ペコペコと謝り倒した。
「すいません、榎並さん。本当にすいませんでした、このとおり」
「いや、そんなに謝らなくてもいいって。頼むから顔を上げてよ。吾妻、笑ってる場合じゃないだろう。今さらそんな話を……」
「とか何とか言いながら、おまえはあれを相当気にしていたぜ」
飲み会の最中も彼はオレを心配し、何かと気遣ってくれた。
それなのに、酔って見境のなくなったオレはそんな榎並さんの親切心を酷く傷つけたのだ。立つ瀬がどこにもない。
すっかり落ち込んでしまったオレを何とか慰めようとしてか、榎並さんは料理を勧め、明るく楽しい話題を提供しようと奮闘し、その様子にますます申し訳なくなったオレは無理やり笑顔を作った。
いくらかぎくしゃくした雰囲気を残しながらも、この日の会食は終了した。
「どうも御馳走様でした」
「僕まで奢ってもらって、何だか悪いなあ」
「そう思うなら、少しは払えよ」
会計を済ませた吾妻さんは「まだ八時か。二次会へ行くぞ」と息巻いた。
「えっ、これから飲むんですか?」
酒で失敗したばかりなので、ここでのワインも控えめにしておいたオレはさすがに躊躇した。何だか嫌な予感がする。
「当たり前だ。ワインの一本や二本、飲んだうちに入らないだろうが」
吾妻さんの主張を聞き咎めた榎並さんが説得にかかる。
「そうは言っても、飲み過ぎるといつも、ろくなことにならないだろ?」
「まったく、つき合いの悪い連中だな」
吾妻さんは榎並さんの顔を睨みつけると、通りをずんずんと歩き始めた。
「懲りないヤツ……困ったもんだ」
小声で呟いたあと、それでも仕方なさそうに続く榎並さん、オレも慌てて追いかけ、繁華街を歩いていると、ふいに名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「椎名……椎名英くんでしょ?」
オレの名を呼ぶのはいったい誰だと振り向くと、そこに立っていたのは淡い紫のシャツと同系色の細身のパンツを華奢な身体にまとった、超のつくほどの美人だった。年齢はオレと同じか、少し下ぐらいか。それにしてもオレにこんな美人の知り合い、いたっけかな?
首を傾げる様子を見ていた美人は「あれ、忘れちゃったの?」と訊いたが、その次の言葉はオレを震撼とさせた。
「ボクだよ、天野伊織(あまの いおり)。ほら、大学で一緒だった……」
「天野って……げげっ、マジで?」
とても男とは思えない、不思議な色気を漂わせているが、その面影はたしかに大学時代のクラスメイト、天野伊織だった。
そうだ、こいつは在学中から中性的な美少年で評判だった。男子学生の多い理系の大学だったから、男から交際を申し込まれているのを何度も目撃したおぼえがある。
事情があって二年の時に中退した彼とは四年ぶりの再会になる。オレは「えっ、すっげー懐かしいじゃねえか。元気だったか?」と声を上げた。
「うん、何とか生きてるよ。シューカツでUターンしたのかと思ってたけど、神奈川に残ったんだね。会社の職種はやっぱりコンピュータ関係?」
「ああ。横浜、中区にあるんだ。おまえの方こそどうしてたんだよ。仕事は……」
「退学してしばらく働いてたんだけど、この四月から専門学校に通うことにしたんだ。それで学費稼がなきゃならないから、今から夜のバイト」
「そうか……」
彼の人生には様々な事情があったのだろうと推察したオレはそれ以上詮索するのをやめた。
「椎名くんの方は飲み会か何かなの?」
「会社の先輩たちとちょっと」
「コンパか、楽しそうでいいな。しばらくそういうの行ってないや。せっかく会えたんだから、学生のときみたいに仲良くしてよ」
「そうだな。こっちにクラスの連中、けっこういるからさ、あいつらにも声かけて集まってパーッとやるか」
「ほんと? 嬉しいな」
そんな会話をしていると、オレが遅れているのに気づいた榎並さんが引き返してきた。
「椎名くん、どうかしたの?」
「あっ、すいません。ちょっと……」
同じ会社の人だよ、と言いかけたオレは伊織が目を見張ってハッと息を飲んだ、その様子を不審に思った。
「もしかして知り合い?」
「い、いや、別に」
それじゃあまたねと、逃げるように立ち去る伊織を呆気に取られて見送る。
「なんだ、なんだ。何やってる、さっさと来いよ」
オレたちが後方で足止めを食らったため、戻ってきた吾妻さんは遠く豆粒のようになった伊織の後姿を見て「今のは誰だ」と訊いた。
「誰って、オレの大学のときのダチですけど」
「ダチだって……?」
考え込む吾妻さんの様子が変だ。オレと榎並さんは顔を見合わせた。
あれだけ張り切っていたのに、吾妻さんは帰ると言い出し、会食は尻すぼみに終わってしまった。
そんな翌日、オレのケータイに大学時代の別のダチからメールが届いた。こいつは伊織の中退後も連絡を取り合っていたらしく、彼が椎名のメアドを教えてくれと訊いてきたけどいいかとあったので、オッケーの返事を送った。
その日のうちに伊織からの連絡があるのかと思っていたが、けっきょくメールは送られてこなかった。
◇ ◇ ◇
ファイリングシステム・プリンタ部の作成が本格的に始動、今日の会議室でのミーティングではホワイトボードに全工程表が示され、それには色分けされた矢印で、各担当の作業の流れが描いてあった。
長方形のテーブルを囲んで座る六人の部下を前に、田辺さんが説明を始めた。
「プロトタイプの提出期限は十二月の半ばに予定されている。そこから逆算する形でそれに至るまでの工程を組んでみたから、よく頭に叩き込んで欲しい」
プログラマの仕事はまず、自分が担当する処理のプログラムの流れを決める基本設計、それを細かく説明した詳細設計と続く。その内容を文章あるいは図にまとめたものを仕様書といい、正しい流れになっているか、グループのメンバーのチェックを受ける。
それから言語を使って実際に書き、機械に入力する作業、これはメイクと呼ばれ、完成すると単体テスト、つまり個別のテストで、担当した処理の動きが正しいかを確認する。
最後に、分割されていたチーム全員のプログラムを合わせて、全体を通した結合テストを行い、仕様通りに動けば完成だ。
ただし、今回はイメージデータのみを印刷するプロトタイプなので、データ解析・タスク処理・イメージ処理の部分がとりあえず動けばオッケー。
そのためスケジュールが詰まっているのは山之内さん、吾妻さんとオレで、あとの三人については詳細設計後、ハード解析やら何やらで矢印がのんびりと伸びている。
それでも納期まで半年近くある、慌てることはないんじゃあと高をくくっていたが、その考えは即、否定された。
「メイクまでは何とか順調に進んでも、問題は単体テスト以降だ。データ解析とタスクは従来のものを流用すれば何とかなるが、今回のイメージのハードは使用した実績があまりにも少ないから、どういう動きをしてくれるのか予測がつかない」
これこれこう設定すれば、こういう動きをしますよとマニュアルに書かれてあっても、その通りにいかない事態はままある。そこをどうすればいいか自分で解決して、時にはマニュアルに書いていない動作をさせなくてはならない場面もあるのだ。
「椎名、おまえのところが一番きつくなるのは目に見えている。時間に余裕がある、なんて考えないでかかった方がいい。新人にはちと、辛いだろうが、この先の業務でもよく起きることだし、これも試練だと思って乗り越えてくれ」
「は、はい……」
暗澹たる思いが広がり、唇を噛みしめるオレを吾妻さんが不安そうに見守っている。その姿に気づくと、そちらに向かって微かに微笑んでみせた。分担決めをまだ気にしているのだろう、余計な心配をさせたくはなかった。
「それではみんな、基本設計の仕様書作成に入ってくれ。出来上がったら人数分コピーをとって、順次レビューを行うからよろしく」
ミーティング終了後、椅子を並べ替えたりホワイトボードの文字を消したりと、片付けをするオレに吾妻さんが話しかけてきた。
「この前の、おまえのダチ、何て名前だ」
「天野伊織ですけど」
探るように窺うと、吾妻さんはいつもの、髪を掻きむしる仕草をした。
「卒業してからずっとつき合いがあるのか」
「いいえ。彼は大学を中退しましたから」
「連絡先はわかるのか?」
「さあ、そこまでは……」
こっちのケータイのアドレスは知っているはずだけど、と言いかけて、オレは口をつぐんだ。
どうして吾妻さんが伊織の存在を気にかけるのか、その真意がわかるまではこちらの手の内は見せたくないという心理が働いたからで、オレが不審がっていると感じ取ったのか、彼は「そうか」とだけ答えた。
その横顔が寂しく、僅かに歪んで見えて胸騒ぎを感じるオレ、吾妻さんが出て行ったのと入れ違いに森下さんが会議室へ入ってきて「あら、椎名くん」と声をかけた。
「あっ、次は総務が使うの? ごめん、すぐに終わらせるから」
「急がなくていいのよ、始まるまで時間あるし。今、仕事が暇だから『準備してきます』って、どんどん上がって来ちゃったの」
屈託なく笑いながら、森下さんは手にしたプリントをテーブルの上に並べ始めた。
「その後どう? みんなの態度も変わって、変なコトも言われなくなったんじゃない?」
森下さんの言わんとすることの意味がわからず、首を傾げていると、彼女は急に小声になった。
「吾妻さんね、新しい恋人ができたみたいで、今その話題でもちきりなの」
「新しい……恋人?」
「毎日その人と待ち合わせしているらしくて、会社を出るとすぐに、どこかへ消えてしまうんですって。近江さんたらもう、ヒステリックになっちゃって総務部は大騒ぎよ。でも、お蔭で椎名くんとの噂は誰も口にしなくなったのよ、良かったわね」
この前フラれて、オレをその身代わりにしたばかりなのに、もう新しい相手ができただと?
咄嗟に返す言葉を失ってしまったが、そんなことは彼という男にとっては日常茶飯事。いちいち驚いたり、傷ついたりしていたら身体がもたない。
「恋人って呼べる人が次々に現れるなんて羨ましい、そう思わない?」
真面目な彼女にしては、いくらかくだけた内容の会話に、オレはわずかな期待を込めて訊き返した。
「森下さんは彼氏いないの?」
すると森下さんは顔を赤くして「残念ながらいないわ」と答えたが、その言葉の奥に潜むものを感じて、さらにたたみかけてみた。
「好きな人はいるんでしょ」
「え、ええ……」
ちらちらと上目遣いをして視線をこちらに送る森下さん、もしや、これはまたとないチャンスかと、オレの期待はますます高まった。
ええい、ゲイなんてやめだ、やっぱりオレはノンケ、女の子とノーマルにつき合うべきなんだ。森下さんとハッピーエンドだっ!
ところが「よっしゃ」と内心ガッツポーズをとるオレの耳に入ってきたのは……
「私、エ××さんが好きなの」
彼女の口から「椎名くんが好き」という言葉が出るはずもなく、それ以外の誰かの名前を聞かされて、またもや撃沈。あ~あ、ゲイも中途半端、ノンケにも戻れないオレって、なんて悲惨なヤツ。
とはいえ、森下さんには失礼だけど、彼女に好意を持たれていないとわかっても、それほど残念がってはいない自分にいくらか救われてもいた。
それでも話を振った以上、会話を続けようとして「そ、そう、江口さんっていう人なんだ」と確認すると、森下さんは不審そうな表情をした。
「エグチじゃなくて、エナミさんよ」
「えっ……榎並さんっ?」
森下さんの片想いの相手がよりにもよって榎並さん、とは有り得なくはない。むしろ自然な成り行きだが……
そんなの……イヤだ!
彼が森下さんと並んで幸せそうに会話している場面を想像して、なぜか引っ掛かるものを感じたオレはつい、それを表情に出してしまった。
動揺するオレを目にした森下さんはうろたえ、さらに真っ赤になった。
「や、やだ、私ったら。椎名くんって話しやすいから、ついポロッと言っちゃった。お願い、内緒にしていてね」
「う……うん」
その心とは裏腹に、オレは「もしかして、この前の合コンから?」などと、わざと明るい口調で尋ねた。
「そうね。研修のときに少しお話ししたけれど、一緒にお酒を飲むなんて機会もなかったし。でも、あんなに素敵な人に彼女がいないはずないから、諦めてるの」
「アタックする前から諦めちゃダメだよ。榎並さんはフリーだって、吾妻さんが話してたじゃないか」
心にもないセリフ、口先だけの励まし。
そんな真似をする自分に嫌悪をおぼえたが、そうとは知らない森下さんは「諦めないで頑張るべきかしら……」と自信なさそうに呟いた。
「そうだよ。オレ、同じ課だし、話すことも多いから、それとなく訊き出してみるよ」
上っ面な言葉がまたしても口をつく。オレってば、なんて汚いヤツなんだ。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑む森下さんに「じゃあね」と言って別れたオレは会議室を出たとたん、がっくりと肩を落とした。
彼女と榎並さんとの間を取り持つなど、望んでもいないことを約束して気持ちは落ち込む一方だが、どうしてそれが『望んでもいないこと』なんだろう。
その答えは──森下さんがオレを好きでなくても構わないけど、彼女が榎並さんを好きになるのはイヤだ。榎並さんがその想いに応えるのはもっとイヤだ。なぜなら、榎並さんを誰にも渡したくないから──
えっ、ええーっ!
今何を考えてたんだ?
オレにとっての榎並さんは親切で優しい、兄貴のように頼れる先輩のはずだ。
その厚意にいわば恩を仇で返すような真似をしたのが先日の合コン事件で、メチャメチャ凹んだけれど、気にすることはないからと、彼は持ち前の優しさで応えてくれた。
彼の信頼を失わずに済んだ、それだけで十分なはずなのに、誰にも渡したくない、独占したいとはいったい何事か。彼女ができようが何だろうが口を挟む筋合いじゃない。
それともまさか、親愛ではなくゲイ的観点で好きだとでも?
榎並さん本人の姿が思い浮かび、オレは慌ててその残像を打ち消した。彼のような、真面目な人を歪んだ世界に巻き込んでしまうなんてどうかしている。
すっかり滅入ってしまったオレは定時でとっとと帰ることにした。
マンションの部屋の鍵を開け、着替えを済ませてケータイのマナーモードを解除したとたんにメール着信を知らせる音が響いた。伊織からだった。
……⑥に続く