第六章 ブラッディ・イヤリング
それから三十分後、オレの部屋にやって来た伊織に缶ビールを勧めて、オレたちは再会の祝い酒を酌み交わした。
卒業後のよもやま話というやつをひとしきり続けたあと、アルコールのお蔭で舌の滑りが良くなってきたオレは彼の恋愛関係を突っ込んでみた。
「なあ、彼女いるのか? オレの方は全然ダメ、毎度フラれっぱなしで……おまえさ、大学で男にモテてたけど……」
「今でも男相手だよ」
あっさりと言ってのける伊織に、一気に酔いが醒めた。
「あの頃からずっとマジゲイだけど、今はそれで商売してる」
「しょっ、商売って」
「ボク、身体売ってるんだ」
これぞまさにショーゲキの告白、オレは腰が砕けて立ち上がれなくなってしまった。
「そんな、心配そうな顔しなくてもいいよ。学費を稼ぐためにはこうするしかないって割り切ってるから。この前、英くんに会った夜のバイトね、あれがそう。あそこから少し行ったところにお店があって……」
伊織の説明を聞く限り、それほどヤバイ店ではなさそうだ。ショックから立ち直ってきたとたん、そこへ行ってみたいという感情がオレの中に湧いてきた。
「なあ、おまえが通ってるその出会い系バーっていう店、一度でいいから連れて行ってよ」
「えっ、あそこに行くの?」
ギョッとする伊織に、オレはたたみかけた。
「面白半分とか興味本位じゃない、マジだから信用してくれよ。じつはオレ、気になる人がいるんだけど、その人が男なんだ」
同性愛の道を歩んできた伊織なら、吾妻さんとの一件に始まり、次に榎並さんを意識してしまったオレの気持ちがわかってもらえるのでは。
彼との再会はオレにとっての、何らかの道標ではないか、そんな気がした。
「男の人を意識しているって気持ちと、どう向き合ったらいいのかわからなくてさ……同性愛志願者が集まるんだろ。そこへ行けばオレの本質はゲイなのか、ノンケなのか見極められるんじゃないかって」
「もしも自分がゲイだってはっきりわかったとして、それからどうするつもり?」
「どうするって……」
そうだ、自分の資質がゲイだとはっきりしても、普通の男である榎並さんとはどうなるものでもないし、辛さが増すだけではないか。
だが、ものは考えよう。榎並さんとは無理でも、新たな出会いがあれば、それを心の支えに……という展開だってある。
「……そこでいい人探してみるよ」
「あんまり期待しない方がいいと思うけど。お見合いパーティーみたいなのとはワケが違うからね」
それでも伊織は承知し、今からさっそく行ってみようと持ちかけてきた。
この間の夜に偶然会った場所を通り過ぎてしばらく行くと、伊織はこっちだよと、繁華街からはずれた裏通りを指した。
「この辺だったのか。今まで来たことなかったな、通るのは初めてだ」
華やかなネオンどころか、街灯すらまばらになり、人の往来もぐっと少なくなった淋しい道沿いには、雑居ビルの一階などに怪しげな店がぽつんぽつんと存在し、めいめいに小さな看板を掲げている。
注意していなければ見過ごしてしまいそうな、そんな看板の前に伊織が立ち止まった。看板の後ろには錆色の扉があるだけの、窓のない建物がそびえている。
「『ブラッディ・イヤリング』か、見た目はヤバそうな感じだけど、大丈夫かな」
不安げな発言をするオレに「この店ではママが決めたルールを守れない人はどんなにイイ男でも出入り禁止になるから、注意してね」と伊織は言い渡した。
「ルールって?」
「例えば、ここでの出来事や、出会った人のことは外部に漏らさない、街で会っても知らないふりをする、とか」
「そりゃあそうだよな。私は同性愛者です、なんて、世間に知られちゃマズイ人がほとんどだもんな」
「それから、世の中にはいろんな呼び方があるけど、ここでは男役がタチ、女役はサヤで統一されているからね。どっちなのかは重要だから、必ず訊かれるんだ。両方オッケーのリバって人もいるよ」
「ふうん、太刀と鞘って、上手く比喩しているようで、結構露骨だなあ」
「あとはおいおい説明するからね」
伊織に続いて、恐る恐る足を踏み入れたオレは店の内部が思ったより広いのに驚いた。
広い、というよりは奥行きがあると言った方が正しく、間接照明のみの薄暗い室内は場末のバーのような退廃的なムードが漂っており、間違ってもテレビで観たことのあるオカマバーのギラギラしたノリではない。
入って右手にカウンターがあり、その手前にはストゥールが六脚ほど並んでいる。奥にはテーブルと椅子が三セット、カウンターの中にいるのは髪をアップにした萌黄色の和服姿の女性──かと思ったらそれは男、通称・小百合ママだった。
手広く水商売をやっているオーナーと関係があり、その人に店を任されていると伊織から聞かされたが、あまりに厚化粧のため、元の顔も年齢も不詳だ。
早めの時刻とあって他に客の姿はなく、連れ立って入ってきた二人組を見た小百合ママは「あら、イオちゃん。今夜はスナックのバイトじゃなかったの?」と声をかけた。
「あそこは辞めたんだ。友達連れてきたよ」
「お友達? 初めてよね」
まじまじと眺める小百合ママの、見かけによらない低音とおネエ言葉にギョッとしていると、伊織はオレの腕を引いてママの前まで連れて行った。
「まあ、可愛いわね。お名前は?」
「ス、スグルです」
「齢は幾つ? 悪いけど、十八歳未満はお断りよ。こっちがお縄になっちゃうからね」
「二十三ですけど。免許証見せた方がいいですか?」
ママは大きく目をむいて「ウッソー、絶対に高校生だと踏んでたのに」と叫んだ。
チェックのシャツにジーンズという軽装のオレはやはり高校生、せいぜい大学生にしか見えない。
やはりそういう反応かと思いながらカウンターの周りを眺めていると、大きな花瓶に色とりどりのバラが何十本となく活けてあった。
オレがそれに目を留めたのに気づいた伊織は「ママにチャージを払ったら、その中のバラを一本選んで。薔薇族って言葉もあるけど花言葉は敢えてふまえてなくて、便宜上、色分けして使うんだ」と、この店のシステムについて説明を始めた。
「恋人志願の太刀は赤いバラを持って、目的が同じ白バラの鞘と交渉する。まずはお友達程度からっていう人は太刀が黄色で、鞘はオレンジ。お金で割り切る場合は紫とピンクだから、ボクはいつもピンク」
伊織はママに千円札を渡すと、ピンクのバラを手にした。
「あとは普通のスナックなんかと同じで、飲み物や食べ物を注文して、適当に過ごしていればいいよ。英くんは何色にする?」
「と、とりあえずオレンジが妥当かな」
伊織と並んでストゥールに腰掛け、オレンジ色のバラをカウンターの上に置いたオレは店内をきょろきょろと見回した。
ママの背後の棚にはボトルが並び、手前には高く積まれた食器に調理器具。壁に掲げられた油絵やら、テーブル毎に置かれたキャンドルと見渡した限りは普通の店で、ここがそういう場所であると何かを暗示するような、怪しげな掲示物や装飾品は何もなかった。
オレはビールを、伊織は水割りを注文すると、小百合ママは「イオちゃん、お誕生日はどうなったの? たしか一昨日だったわよね」と訊いてきた。
「いつもどおり、学校とバイトで終わったよ」
「あらまあ、残念。来年こそは一緒にお祝いしてくれる人を探しなさいよ。そうだわ、その前にクリスマス・イヴが問題ね」
「クリスマス・イヴ?」
オレが不思議そうに問い返すと、ママは意味ありげに頷いて説明した。
「誕生日もそうだけど、聖夜は恋人たちの祭典ですもの、好きな人と朝まで居たいじゃない? そんなクリスマス・イヴを一緒に過ごしてくれる人は本物だ、っていうのがこのお店の常識よ」
うっとりと夢見るような表情をしたあと、小百合ママは言葉を続けた。
「ここに来るお客は独身で生粋のゲイばかりじゃなくて、バイもいれば、自分の性癖を隠して結婚した既婚者だっているのよ。そういう人がクリスマスを妻や子供と過ごすのは当たり前だし、フレンチのディナーに男の二人連れじゃあ、格好がつかないでしょ」
妻子や女の相手がいない場合は仲間と大騒ぎ。この日に男同士で、なんて、モテないヤツが慰め合ってるとしか見られないから、敢えて男カップルで過ごそうとする者はなかなかいないという話だった。
「アタシも彼と過ごしたなんてこと、滅多にないわ。あぶれちゃった子たちといつも、破れかぶれのどんちゃんパーティーよ」
「その仲間入りだけはゴメンだね」
背後からふいに声がして、驚いて振り返ったオレの目に映ったのは真っ赤なジャケットを着た二十歳前後のヤサ男だった。唇の端に皮肉な笑いを浮かべた彼はオレの右隣にドカッと座ると「キミ、見慣れない顔だね」と馴れ馴れしく話しかけてきた。
「マイケルったら、いつの間に来てたの」
マイケル?
髪は金色だが、どう見ても日本人の顔じゃないかと思っていると「仮の名前だよ。本名を名乗る必要はないんだ、ボクらもそうすれば良かったんだけど」と左側の伊織が囁いた。
確かにそうだ。バカ正直に「スグルです」なんて名乗らなくても構わなかったのだと後悔したが、今さら遅い。
マイケルと呼ばれた、ハデバデしいその男はピンクのバラを花瓶から無造作に抜いたあと、タバコに火をつけ、ロックを注文した。
「そのぶんじゃ、この前の彼とは上手くいかなかったようね」
大きなダイヤつきのゴージャスな指輪をはめた、節くれだった指でグラスを差し出しながらママが尋ねた。
「フン、あんな貧乏人、こっちから願い下げだよ。今度こそ、がっぽり貢いでくれるヤツを探さなきゃ。キミらも鞘らしいけど、オレの邪魔はしてくれるなよ」
おしまいの言葉はオレたちへの牽制だ。
マイケルは伊織と同じ男娼であり、それも一夜限りではなく、その関係を長く続けては金品をせしめているようだった。
何だか感じの悪い男だと、不愉快に思ったオレが傍らの伊織を見ると、彼もムッとした顔で、黙って水割りを飲んでいる。
二人の反応などお構いなく、マイケルはママと話を弾ませては笑い声を上げた。
「伊織くん……今夜会えるとは思っていなかったよ」
いつの間にか数人の客が集まっていたが、どの顔も普通の男性で、いかにも怪しいという感じはしない。
伊織にそっと話しかけてきたのは髪をきっちりと分けた、いかにも堅物そうなスーツ姿の男だった。ウチのグループリーダーの田辺さんと雰囲気が似ている。
恐らく家庭のある身に違いないが、手に紫のバラを持っているあたり、これまでも伊織目当てに通ってきているようだった。
「あ、お久しぶり。じゃあ行きましょうか」
ストゥールから降りた伊織はまるでビジネスの打ち合わせでもするかのように平然と答え、それからオレの方を向いた。
「あとは自己責任だからね、自分で承知した上で行動してよ」
「わっ、わかってるよ」
伊織が田辺さん風の男と店から出て行くと、取り残され、心細くなったオレはぬるくなったビールをちびちびと飲みながら、聞くとはなしにママとマイケルの会話を聞いていた。
「クリスマス・イヴっていえば、ホテルを毎年予約して、一緒に過ごしてくれる相手を探してる真面目くさったヤツ、いなかったっけ?」
「あ、そういえばいたわね。ここしばらく見かけないけど……」
「いつもそっちの隅の方で、赤のバラを持って誰かが現れるのを待っててさ、けっきょく一人で帰って行くのを何度か見たぜ」
マイケルはカウンターの右端を顎でしゃくって示した。
クリスマス・イヴを一緒に過ごす恋人を求めて通う真面目な男か。
ロマンチックというよりは物悲しいとオレは感じたが、その人物に会ってみたいとも思った。もしも彼に遭遇したら、意気投合したかもしれない。ここに来なくなったというのは残念だ。
「この席でちょっと話をしただけなんだけど、オレとは趣味が合わない、面白みのない男だったな。近頃見ないってことはやっと相手ができたってわけか」
「そうかもしれないわね。あらぁん、彼が何て呼ばれていたか、忘れちゃった。背が高くて、すっごーくイケメンで、タイプだったのに。アタシも物忘れがひどくなったわ、健忘症かしら」
「おいおい、勘弁してくれよ。たしか、メガネの王子様だっただろ」
オレは弾かれたようにマイケルを見た。そういう雰囲気の人物に思い当たる節があるが、まさか……
いや、そんな人は世の中にいくらでもいる、似ているのは偶然だ、と思いつつも気になって仕方がない。
個人情報になるから教えてはもらえないかもしれないが「その人の名前、思い出せませんか?」と尋ねようとした矢先「はぁーい」と無駄に明るい声が聞こえてきた。
派手な色のワイシャツに大柄のネクタイを合わせているあたりがいかにも遊び慣れた感じのする、イケメンの若者二人組が店内に入って来るや否や、カウンターの前まで歩み寄って大騒ぎを始めた。
「ママ、久しぶり。元気だった?」
「あーら、ほんとに久しぶりね。もっとマメに顔を見せてもらいたいものだわ」
「ゴメンゴメン、仕事が忙しくなっちゃって」
賑やかな二人の登場にマイケルは顔をしかめて「相変わらずうるせえヤツらだ」と文句を言った。
三人とも常連で顔見知りらしいが、マイケルは彼らを良く思ってないようだ。
「なんだマイケル、いたのかよ」
「パトロンに捨てられたのかい?」
「黙れ、バカ共」
マイケルの罵詈雑言を聞き流した二人はめいめいにチャージの金を渡したあと、
「おっ、可愛いコいるじゃん」
えっ、可愛いコって、オレのこと?
呆れ顔のマイケルが席を立ったあとに一人が、もう一人はさっき伊織が座っていたところに腰掛け、戸惑うオレを両脇から挟む格好になった二人組はこちらを品定めするかのような視線を向けて自己紹介を始めた。
「オレはタケシ、こっちはハヤト」
どこかで聞いたような組み合わせだな。
「キミ、名前は?」
色が黒くて濃いめの顔立ちのタケシが覗き込むようにしながら訊いてくる。
ここでは仮名を名乗らなければと、オレは咄嗟に「ケ、ケンシロウ」と答えた。
「ケンシロウだって。こりゃあいいや」
タケシが愉快そうに笑うと、今度は色白であっさり系の顔つきをしたハヤトが「齢はいくつ?」と尋ねた。
「二十三歳」
「マジで? ボクたちとタメなの?」
やはりこの反応か。もう慣れっこだと思い黙っていると、カウンターに置かれたオレンジ色のバラを見たタケシが言った。
「お友達から、なんて、小学生レベルの純情さだね。それじゃあケンシロウくんに合わせてオレも黄色にするから、仲良くしよう」
負けじと、ハヤトも黄色のバラを取る。
「出し抜こうとしたって、そうは問屋が卸さないぜ」
「へへ~ん」
「ねえねえ、あっちのテーブルでワインでもどう? キミとゆっくりお話がしたいな」
やっぱりオレってゲイ体質?
男にならモテるのかな。
「ほんと、可愛いよな。マイケルなんてメじゃないぜ、なあ?」
聞こえよがしなタケシの発言に、大受けしたハヤトが手を叩いて笑う。
思いがけず二人の色男に見初められ、ちやほやされるオレはまるでホストクラブの客状態。モテた試しがないからすっかり舞い上がってしまった。
そのあとビールに始まり、あらゆるアルコールをちゃんぽんで飲んだからたまらない。気が大きくなり、お友達どころか、タケシと一夜を約束する羽目になっていたのだ。
はずされたハヤトは悔しそうに言った。
「ちぇっ、ずるいなあ。ケンシロウくん、こいつよりも絶対ボクの方がいいよ。いつでも乗り換えてね、待ってるから」
「おい、余計なこと言うなよ。今夜はオレのものなんだからさ」
どうしてこんな展開になってしまったのかと考える余裕もなく、タケシに腕組みをされながら、オレは夜の街並みへと向かった。
……⑦に続く