第三章 身代わり夜伽
ここは……なんだ、オレの部屋か。
ベッドサイドに灯る小さなライトだけを頼りに、オレはゆっくりと、右から左へ重い頭を動かしてみた。
あれからどうやってマンションまで無事にたどり着いたのかおぼえていないが、こうして自分のベッドで寝ていたことからして、帰巣本能とはたいしたものだ……
などと、感心したのもつかの間、ガバッと上半身を起こして思わず大声を出した。
「……って、違う! ここ、どこだよ?」
「うるせえな、何騒いでるんだ」
暗闇からふいに聞こえた声の主は向こう側のソファで仮眠をとっていたらしいのだが、それは紛れもない吾妻さんだった。
しばし絶句するオレにニヤリと笑いかけた彼はソファから立ち上がると、脇にあるスタンドの灯りをつけてから別室に消え、コーヒーカップを二客手にして戻ってきた。
「ほら、これ飲んで落ち着け」
挽きたての豆の香ばしい匂いが部屋中に漂う。無言のまま、軽く頭を下げたオレはカップを受け取った。その熱さが疲れきった身体に沁みる。ボタンのはずれた袖口からのぞく左手首の腕時計は午前二時を示していた。
よく見てみれば、中古の賃貸マンションとは比べものにならないほど、モダンで豪華な造りの部屋だった。ベッドはダブルあるいはキングサイズか、淡いグレーのカバーがかかり、揃いのピローケースに包まれた枕が二つ並んでいる。収納はすべてクローゼットの中らしく、家具の類は見当たらない。
カーテンもソファもモノトーンで統一した都会的な雰囲気の一室の壁際にはテーブルとストゥールが一脚、小さなバーコーナーまであって、モデルハウスというよりは、インテリアの新製品などを紹介するオシャレな雑誌の一ページを切り取ったかのようだった。
「ここ、吾妻さんの部屋……」
「そう。送って行こうにも家を知らないからな。ぐでんぐでんのおまえをここまで連れて帰るのには苦労した。お蔭で、疲れて着替えもせずに、そっちで寝ちまった」
ネクタイをはずしただけの、さっきの青いワイシャツ姿の彼は背もたれにタオルケットの掛かったソファを顎で指した。
「す、すいません。オレ……」
元はといえば幹事としてこき使ったり、イッキ飲みをさせたり、ゲイ騒動まで起こしたこの人のせいなのだが、酔って迷惑をかけたという思いでいっぱいのオレは反論しようともせず、すっかり恐縮しきっていた。
「気にするな。大切な花嫁を放って帰れるわけはないだろうが」
「まあ、それ……えっ、花嫁って何ですか?」
「おまえが自分から言ったじゃないか、俺と結婚するって。御丁寧にあの場で将来を誓わされたぜ」
カラ~ン、コロ~ン、教会の鐘の音が頭上で高らかに響き渡る。
オレは呆然として吾妻さんの顔を見つめた。
「で、結婚するからには婚前交渉もありだ。二人きりになりたい、部屋に連れて行ってくれってお願いもされたしな。だから今夜の俺はそのつもりでいたんだが」
「そ、そんな、こっ、婚前なんて嘘だ!」
「新婚旅行はイタリアだ、とか何とか、ノリノリだったくせに無責任なヤツだな。おぼえていないとは言わせないぞ」
たしかにイタリアネタはあったけど、内容違うし、第一そいつはあのとき見た幻覚じゃなかったのか?
だいたい結婚なんて言ったおぼえ……えっ、まさかあれは幻覚じゃなくて、本当に口に出しちまったのか?
思い出せるはずもなくおろおろしていると、吾妻さんはニヤニヤ笑いながらコーヒーで喉を潤し、さらに続けた。
「いいか、おまえから言い出したことだ。据え膳食わぬは男の恥、というからには、相手が男であっても応じるべきだろ?」
「そっ、それはどういう意味ですか?」
「こういう意味だよ」
言うが早いか、ベッドに上がった吾妻さんはオレの背中に腕をまわすと唇を塞いできたが、起きて間もないのと、酒が抜けきらないせいで、自由がきかないこの身体は彼の思いのままになってしまった。
二度目のキス、今度は手加減なしのディープキスで、唇を舐められ、舌を絡められて目を白黒させる。
「んっ……ふぁっ」
何人もの女を篭絡した男の、そのテクニックをもってすれば、経験の浅いオレごときを虜にするなど、たやすいこと。キスだけでここまで感じさせられたのは初めてだ。タバコとコーヒーの味が舌に残る。
朦朧としたままのオレを抱き寄せて、吾妻さんは耳元に熱い吐息を吹きかけた。
「さすがに男相手は初めてだからな、多少の不手際は目をつぶってくれ」
「そんな、だったらもうやめ……」
「感じる場所に大差はない、と」
抵抗も虚しく、耳を軽く噛まれて声を上げてしまい、自信を得て満足そうにうなずいた彼はオレのワイシャツのボタンをはずし、シャツをまくりあげた。
「きれいな肌をしているな」
その手が触れて、オレは「ひっ」と小さく叫んだ。
胸の上で円を描くように動く指先、肌を撫で回され、とうとう突起まで摘まれて、恥ずかしさのあまり身をよじった。
「膨らみがない、ってのも新鮮だ」
「やっ、やだ、やめてください」
女を抱く機会に恵まれないどころか、自分が抱かれる羽目になってしまうとは。これ以上恥ずかしい姿を晒すのは勘弁して欲しい。
オレは彼の両腕から逃れようとベッドの上でもがいたが、この程度の腕力による反撃が通用する相手ではない。
吾妻さんは愛撫する手を休めようともせずに言ってのけた。
「おまえは男に抱かれる方が性に合っているんじゃないのか。ほら、ここがすっかり感じているぞ」
その指摘通り、恥ずかしながらも下半身が反応している。
上から摑まれてギュッと目を閉じると、ジッパーを下ろしにかかった彼は隙間から右手を入れてきた。
そこを刺激しながら突起を口に含み、舌で転がす大胆な行為に、オレは悲鳴に近い声を絞り出した。
「やっ、そんなとこ……あっ」
「乳首が感じるのは女の特権じゃないのか、それともおまえが特別なのか。ここがイイとわかったからには重点的にヤッてやるよ」
まさか、自分が特別だとは思わないし、こんなに感じる部分だとも知らなかったけど。
ざらざらした舌で舐められ、軽く歯を立てられて、オレは首を振りながら身悶えした。
「あっ、あっ、ああー!」
「これほど反応して貰えるのも久しぶりだ。なかなか楽しませてくれるじゃないか」
遊び慣れているだけあって、吾妻さんは男を相手にするのが初めてとは思えないほど落ち着き、余裕をみせているが、そんな様子が憎らしい。
戸惑いやためらいはとうとう頭の隅へ追いやられ、与えられる快感がオレの全身を支配し始めていた。
「はあっ、んふっ」
「そんな顔をされると、ますます燃えてくるな。じつに色っぽい」
色っぽい? 童顔のこのオレが?
色っぽいと言われた今の自分はどんな表情をしているのだろう。恥ずかしくて直視できるはずもないけれど……
次にするするとスラックスが脱がされて、トランクスがまさにテントの状態になっているのを見たオレは目を背けた。
それまで服を着たままだった吾妻さんもシャツを脱いだが、その身体はまるでギリシャ彫刻のように均整のとれた美しさだった。女たちが夢中になるのも当然といった感じだ。顔はイタリア、身体はギリシャかよって、こんな時に何くだらないこと考えてるんだか。
吾妻さんは肉体美を見せびらかすようにしながら、オレの上にのしかかってきた。
「さてと、お次はどうしようかな。前か後ろか、やっぱり前からが礼儀だな」
どうせこの人にオレの力は通用しない、前でも後ろでも、もうどうにでもしてくれ。
開き直ったオレは一切の抵抗をやめ、相手のなすがままになっていた。
「どうした? 良すぎてそっちに目覚めたのか、それともあきらめたのか?」
ベッドの上に両手をつかせて、オレに四つん這いの格好をさせた彼は背後にまわり、自分は膝で立つ形になった。
それから背中に覆いかぶさるようにして身体を合わせ、左の手で突起を、右手であそこを扱き、さらに耳から首筋へとキスの雨を降らせた。
「この体勢は犯してるって感じで、けっこうそそられるな。もっと、もっと、気持ち良くしてやるよ……」
端正な顔が間近にある。
その唇から漏れる妖しくも危険な言葉と甘い香りに酔い、熱くいきり立ったソレが触れて、オレは再び興奮し、沸き起こる情熱を堪えられなくなった。
「はあっ、あっ、あんっ」
「どうだ、いいだろ。ここも、こっちも」
「やっ、もう、ダメ」
オレのモノの先端から透明な液が滲んで滴ると、吾妻さんはベッドの脇に置いてあるケースからローションのボトルを取り出し、液を右手の指にとって、固く閉じた部分に塗りつけた。
ぬるりとした感触に思わず身を縮めたが、緊張をほぐすように、二本の指は周囲を撫で続け、いくらか緩んできたとわかると、スルッと人差し指が中に入り込んだ。
「あっ……」
オレは小さく叫んだ。
そこに指を入れるなんて、いや、他人に触れられること自体、これまで一度も考えられない行為だった。
「さて、どこをどうすれば良くなるんだったかな、ここらはどうだ?」
話に聞く、男が後ろで感じる場所というのを探ろうとしてか、吾妻さんは中に入った指を動かし、壁を引っ掻くようにした。
「ひっ、やっ」
鋭く叫ぶオレの反応を見ながらスポットを捜し続ける彼、その指に翻弄されるオレはひたすら悶え続けたが、恥ずかしさを捨てきれずに懇願した。
「も、もうやめて……くださ……」
「そうはいかないな。このままじゃ俺も生殺しだ、ちょっとだけ我慢してもらおう」
オレに抵抗する間も与えずに、吾妻さんは臀部をしっかと捕らえると、さっきまで指で弄っていた孔に己を差し入れてきた。
「うっ……!」
引き裂かれるような痛みが走って悶絶、と予想していたのだが、そこまで酷くはなく、痛みをおぼえながらも思ったよりすんなりと受け入れている自分に驚きを感じる。
指でいじられていたせいで柔らかくなったためか、その入り口はオレ自身より一回り太いものを咥え込み、初めのうちは異物に対する抵抗もあって不快感を拭えなかったが、吾妻さんがゆっくりと腰を動かし始めると、さらなる快感の虜になってしまった。
「こっ、こんなの、って……あり?」
うわ言のように悦びを漏らすと、吾妻さんは好色そうな笑みを浮かべ、相変わらずの横柄な口をたたいた。
「どうだ、いいのか、いいんだろ? もっと突いて、良くしてやるからな」
軋むベッド、喘ぎ声、その淫らな雰囲気に駆り立てられたオレはすべてをかなぐり捨てて、この快楽に溺れた。
「も、もう、イキそう」
「我慢しろ」
「でも、限界」
「もうちょい、俺を楽しませてくれよ」
「は……あ……」
のぼりつめてしまったあと、吾妻さんはふいに「悪かったな」と呟いた。
「……えっ?」
結婚話を持ち出し、先に誘いをかけたのはオレということになっていたのではないか。なのに、どうして?
不可解な感情が胸中に渦巻き、どうにも落ち着かなくなってきた。
「据え膳食わぬは、じゃなかったんですか?」
そう問い返すと、吾妻さんはきまり悪そうな顔をし、ぶっきらぼうに答えた。
「いや、その、ここまでつき合ってくれるとは思わなかったから」
身体を起こし、ガウンを羽織った彼はソファに戻ってタバコに火を点けたが、そんな様子を横目で見ながら、オレは脱力感に囚われていた。
総務の女たちを煙に巻くために、吾妻さんはオレの結婚宣言を利用して、ついでに「試しに男とヤッてみよう」とばかりに、そのままノリで抱いたのか。
もしかしたら、彼女たちの誰かを『お持ち帰り』する予定が狂ったので、今宵の夜伽の相手として、こちらにお鉢がまわってきたのかもしれない。
これは一夜限りの過ち……
男同士で一時の快楽に身を委ねて、溜まっていたものを出したらおしまい。手の込んだ自慰に過ぎないじゃないか。
たった一度寝ただけで、愛や恋を語るほどガキではないし、彼とのこんな関係は最初で最後、これっきりになるだろう。
それなのに安堵するでもなく、開放感を味わうでもない、きりきりと胸を刺す痛みは何なのだ?
紫煙を吐いた吾妻さんは少し寂しげな口調で「じつは気になる人がいてな。口説いたんだが見事にフラれた。おまえを抱いたのはその身代わりだ」と告げた。
み、身代わりって……そうだよな、マジなわけない、当たり前じゃないか。
全身の汗が、心地好い興奮がスーッと冷めていくのがわかり、肌寒さすら感じてオレは身震いした。
フラれた相手というのは宴会の席で近江さんたちが話していた、吾妻さんが今夢中になっているという社外の女か。
このモテ男を袖にする女が存在してたなんてと半ば呆れ、感心してみたけど、それにしてもその女の身代わりにオレを選んだというのはなぜだろう。
「フラれた相手か? それが男なんだよ」
「えっ、おっ、男?」
「俺の好みにぴったりで、声をかけたら男だった。それでもいいからと迫ってみたんだが、ピシャリとはねのけられた」
なんだ、そういうことか。
それでオレとつき合うとか、ゲイな発言をしたってわけか。
どんなにキレイな人でも相手が男じゃあ、しょうがない。相手にそっちの趣味がなければフラれて当然だ。
さすがに疲れたのか、吾妻さんはソファで転寝を始めたが、オレはシーツをまとっただけの姿のまま、まんじりともせずにいた。
もうすぐ夜が明ける。
初めての体験に身体はくたくたのはずなのに、目が冴えて眠れそうになくて、窓の向こうに広がる夜明けの風景を眺めてみる。
胸に隙間風が吹いていた。
……④に続く