第十章 一件落着?
ゆっくりおやすみ、なんて悠長なことを言ってる場合ではなかった。翌日は木曜日で、もちろん登校する日。
すっかり寝坊した僕たちは朝の挨拶もそこそこに朝食をかっ込み、ドタバタと駅へ向かった。
小次郎のズボンは母が洗って乾かしておいてくれたけど、破れたワイシャツを着るわけにはいかないので僕のものを貸したら、袖が短くて『つんつるてん』に。
それでも小次郎は上機嫌で、母たちに向かって「お世話になりました」を連呼、電車の中でも僕に、悪かったなとか、遠慮がちなセリフを述べた。
「御礼を言うのは僕の方だよ。それより傷の具合はどう?」
「平気、平気。もう、へっちゃらってやつだからよ」
いつもと変わらない、強気な言葉を口にしながら、小次郎はニヤリと笑った。
感謝の気持ちと共に、自身の想いを告げるはずが、タイミングがつかめない。そうこうしているうちに学校に到着し、教室が別々の僕たちは廊下で擦れ違う機会もないまま、時が過ぎて放課後になった。
いつものように武道館へ集合し、部活の準備を進めているところへ足早にやって来たのは加賀美先輩と顧問の先生で、揃って深刻な面持ちをした二人は小次郎に視線を止めると、ギクリとした様子で立ちすくんだ。
「佐久間、その怪我は?」
痣だの絆創膏だのが花咲いた顔を隠しとおせるはずもなく、小次郎は「いやぁ、ちょっとチャリで転んじゃって」と、打ち合わせどおりの言い訳をかました。
自転車で転んだ怪我に見えなくもないが、少し怪しい。そう思ったのかどうか、先輩たちは不審げに顔を見合わせると、
「本当にそうなのか?」
などと念を押してきた。
「本当にって、マジっスよ。嘘ついてどうするんですか?」
「それならいいんだが……」
二人の表情は一向に冴えない。それから先輩は部員全員を徴集し、臨時の部会を始めると言った。
「集まってもらったのはほかでもない。みんなに訊きたいことがあってね」
いつも穏やかな先生が難しい顔をしたまま話を切り出した。
「先ほど、学校宛に匿名の電話がかかってきた。昨夜、本校の生徒二人が二十代の若者たちと路上で乱闘騒ぎを起こしたというものだ。その人物は遠くから見ていただけで、恐いから止めには入れなかった、警察に通報する前に全員が逃げたと証言した。そこで、喧嘩をしていたのがこの学校の生徒であると、どうしてわかったのかと訊くと、制服を着ていたからと答え、さらに二人のうちの一人は長髪だったという特徴を挙げたんだ」
ギクッ!
心臓をわしづかみにされたような気がした。長髪という言葉に、みんなの視線が一斉に小次郎に向けられたのがわかった。
電話をかけてきた相手は声の感じからして若い男だとわかったらしいが、人気のないあの現場に目撃者がいたとは考えにくい。
おそらくヤツらの差し金、不良五人のうちの誰かが学校に電話をしたんだ。闇討ちまがいのあとはこそこそと告げ口なんて、卑怯なやり方に怒りを覚える。
一身に注目を浴びる小次郎に向かって、先生は「本当に自転車で転んだのか」などと糺した。まず信じていないというか、明らかに疑っている。
「だからチャリ……」
再び言い訳を繰り返そうとして、小次郎は僕をチラッと見た。それから突然「すいませんでした」と頭を下げた。
「ど、どうした?」
「転んだというのは嘘です。その騒ぎに関与したのは俺です」
いきなりの展開に戸惑ったらしい先生に対して、小次郎は正々堂々と謝罪をした──なんて、感心している場合じゃない。
小次郎は僕を庇い、制裁を甘んじて受けようとしている。彼の考えていることなんて、すぐにわかる。
「先生っ!」
僕は思わず叫んでいた。
「一緒にいたのは僕です。小次郎は変な連中に絡まれた僕を守ってくれたんです」
「おまえには関係ない、黙っていろ!」
小次郎が声を荒げたが、
「黙ってなんかいられないよ。先生、小次郎は僕に、Bチームの大将に怪我をさせるわけにはいかないって、それで」
「いや、違う。武蔵は関係ないんです」
「今さら何言ってんだよ! この学校の生徒は二人いたってわかってるんだから、隠したって無駄じゃないか」
「だからって……」
僕たちの顔を交互に見比べたあと「その話は本当かい?」と先生は訊いた。
「はい。昨日の部活の帰りでした。二人で駅に向かっていたら、いかにもチンピラって感じの連中に因縁をつけられたんです」
今度は加賀美先輩が質問してきた。
「それで佐久間は怪我を?」
「そうです。人通りなんてまったくない場所に追い込まれて、誰かに助けを求めようにもどうにもならなかった。こっちから手出しするわけにはいかないから、何とか防衛しようとしているうちに、小次郎はあんな目に遭ってしまって……」
「手出ししなかったって、本当ぅ?」
ねちねちとした、いやらしいしゃべりで僕のセリフを遮ったのは真辺だった。
「五人も相手にして、その程度の怪我で済んだなんて信じられないけどぉ」
小次郎を侮辱するように、知ったかぶった様子で得意気に話す真辺を睨みつけたあと、僕はハッとした。
「相手は五人だったって、どうしてわかったんですか?」
僕の切り返しに、真辺の顔色が変わった。
「えっ? そ、それは……さっき先生が」
先生がきょとんとした顔をする。武道館に到着してこの方、先生は乱闘の相手の人数など一向に話さなかった。もちろん僕たちもだ。誓ってもいい。
「相手が五人いたというのは初めて知ったよ。宮里、それで正解なのか?」
「はい、そうですけど」
「電話の告発では人数とか、そういったことまでは言わなかったようだけど、真辺、キミはどうして知って……」
「やだなぁ、先生。勘ですよぉ、勘。そのぐらいいたんじゃないかって」
そんな取ってつけたような言い訳が通用するはずはない。
口のうまい真辺だが、さすがに形勢不利、ここにきてようやく事情が吞み込めたらしい小次郎は血相を変えてヤツの元にスッ飛び、胸ぐらをむんずとつかんだ。
「あれはてめえの差し金だったのかっ!」
「差し金って、ヤだなぁ。何のこと?」
「とぼけるなっ! あの連中を金で雇ったんだろうが。絡まれたのは偶然じゃなかった。あいつらが武蔵をターゲットにして待ち伏せていたのはわかってんだよ!」
「おかしなことを言うねぇ。だいたいさぁ、一年のくせに、二年のボクに対してそういう口のきき方はないでしょ?」
「うるせぇ! 何の恨みがあって武蔵を狙いやがった?」
真相は──聞かなくてもわかる。加賀美先輩の心変わりだ。あの時の不気味な笑いこそがヤツの企みを予告していたんだ。
「佐久間、落ち着け」
二人の中に割って入った先生は小次郎を制すると、
「真辺、とりあえずキミには職員室まで来てもらおう。佐久間と宮里にもあとで詳しい話を聞かせてもらうけど、それまでは練習に参加してくれるかな。加賀美、みんなへの指導を頼むよ」
てきぱきと指示を出した先生は真辺を伴って武道館をあとにした。
残された部員たちがざわつき、落ち着かない雰囲気の中で、何とか事態を収拾した加賀美先輩はそれから僕に視線を向けた。悲しげに、何かを訴えているような目だった。
真辺がしでかしたことに対して、僕に詫びているのか、それとも僕と小次郎の固い結びつきに絶望を感じているのか、どちらとも何ともいえなかった。
僕は会釈をするように軽く頭を下げ、防具を置いてある方へと向かったが、そんな僕たちのパフォーマンスを比べるように眺めていた小次郎もまた、防具を身につけると準備運動を開始していた。
──数日後、急転直下で事件は一件落着した。
言い逃れに揉み消しと、あらゆる手段を使って抵抗した真辺だが、不良軍団のひとりが万引きで捕まったのをきっかけに隠蔽工作は破綻、彼らをけしかけた罪をしぶしぶ認めたあとはすぐさま都内の私立高校へ転校していった。
僕への嫌がらせの理由は「一年のくせに目立って生意気だったから」ということで片づけられ、加賀美先輩を巡る三角関係は表沙汰にはならなかった。当然だけど。
そんなわけで剣道部は何事もなく存続し、僕と小次郎もお咎めなしで済んだけれど、内心ホッとした僕とは対照的に、なぜか小次郎の反応はいまひとつ。笑顔を見せる機会も少なくなった。
暗く浮かない顔をしているせいか、みんなも近寄り難くなったと思ったのだろう、小次郎は一人でぽつんとしていることが多くなり、そんな彼がまとう、厳しく孤高な雰囲気に気圧され、圧倒された僕は話しかける勇気すら失くしていた。
真辺の卑怯な行いに怒りの炎が消えないのか、こんな騒ぎに巻き込まれて怪我を負わされた憤りを感じているのか。
そもそも事件の発端は僕と加賀美先輩の「別れても好きな人」関係に真辺が嫉妬したからで、そうなるように仕向けたのは僕自身だ。つまり、原因を作ったのは他でもない宮里武蔵本人だ。
そんなわけで、後ろめたさをひしひしと感じていた僕は小次郎に対して、誤解をとくでも言い訳をするでもなく、腫れ物に触るかのように過ごしてしまっていた。
……⑪に続く