第四章 デニッシュ・メアリー ――あなたの心が見えない
銀行の業務が忙しくなるのは五で割り切れる日と月末、その前後で、数字の切りがいいせいか十日や二十日に振込みの期限を設定、また、給料日は毎月二十五日と決めている会社が多いから、そのようになるのだ。
裏を返せば、それ以外の時は比較的余裕があるわけで、しかも営業店に比べると業務センターは繁忙の度合いの落差が著しい。
その日も余裕の定時退社──残業に追われていた日々が嘘のようだ──をした建樹は最寄りのH駅へと到着した。
先のD駅からさらに東へ二駅進んだ、このH駅を利用するのは城銀に勤務する者ばかりではなく、近くには私立の中高一貫教育の学校や大学などもあって、少し先には美術館まで建設され、ちょっとした文化都市となっている。
「建樹さん」
ふいに名前を呼ばれ、驚いて振り向くと、駅で待ち受けていたのは久しぶりに会う一耶だった。あのスポーツクラブ以来、社員食堂でも見かけることはなかったのだ。
親しげに会話する二人のイケメン──行き交う女子大生たちの注目を浴びて居心地の悪さをおぼえながら、建樹は「食堂だけじゃ物足りなくて、今度は駅で待ち伏せかい」と、意地悪く訊いた。
「いやー、ここのところ機械のトラブルが多くて、決まった時間に昼休みが取れなかったんですよ。だからお昼の待ち伏せができなかったんですけど、今日は早く上がれたから、この前の埋め合わせに一緒に食事でもと思って。いいでしょう?」
気まずい別れ方をしたと、ずっと気にしていたらしい。
相手のペースにすっかり巻き込まれているとわかっていても悪い気はしない。建樹は肩をすくめるポーズをとり、自動改札機へと向かった。
通勤通学の帰宅ラッシュとあって列車の車内はひどく混み合い、乗り合わせた者同士の距離はかなり近い。吊り革につかまった建樹は右隣の一耶と肩を寄せ合う形になった。
「システム部は夜間メンテナンスの関係で三交替制って聞いたけど、そんなに夜勤が多いの?」
「ええ。オレは新人みたいなもんだから、どうしても夜勤のシフトに多く回されちゃって。こんなに早く帰れるのは久しぶりなんですよ。せっかくのチャンスだし、今日こそ建樹さんを誘おうかなって」
「それは嬉しいね」
車中のアナウンスがD駅への到着を告げた。ホームに吐き出された人波に混じって列車を降りた二人は改札を抜けると、駅から北の方角へ伸びる大通りを歩き始めた。
華やかな衣裳に彩られたブティック、コーヒーが気軽に飲める、流行りのカフェからドラッグストアまで、この大通りはあらゆる店が立ち並んだ商店街になっている。
通りを散策する若者のグループ、駅への帰路を急ぐサラリーマン、大勢の人々が行き交う中、一耶はビルの二階にあるイタリアンレストランを指差した。
「あそこ、昼休みに電話したら予約が取れたんですよ。ツイてるなと思ったけど、単に不景気なせいですかね」
「ずいぶんと手回しがいいね」
「手際がいいって褒めてくださいよ」
白と黒を基調にしたインテリアに開放感あふれるガラス張りの窓、柔らかな光を放つダウンライト、シックで高級感の漂う雰囲気の店内は大人の客にこそ相応しい。
黒いテーブル席に着いた建樹が「えらくシャレた店を知ってるね」と訊くと、以前に送別会で使ったとのこと。幹事を務めていたようだ。
「お薦めコースでいいですか? ワインはどれを?」
「リストを見せてもらおうかな」
アボカドと小海老のサラダ、シチリアトマトのポタージュ、若鶏のポワレジュノバ風といった料理が運ばれてくる。
グラスを傾ける仕草を眩しそうに見つめていた一耶は「会社の食堂でもディナーでも、建樹さんと一緒に食べるなら何でも美味い」などと言った。
「おいおい、それじゃあ、この店のシェフに失礼だろう」
「でも本音ですよ。ここのところ、昼はずっと個食だったから」
ふと見せた寂しげな表情に胸を突かれる。どんなに明るく振る舞っていても、天涯孤独の翳がつきまとう、そんな感じだった。
家族四人で住んでいた頃の家はとっくに処分され、母親が亡くなったあともそのまま同じマンションに住み続けているという一耶は「夜勤はキツイけど、部屋に独りきりじゃない分マシ」と力なく笑った。
「そう……お姉さんの自殺の真相が知りたくて、転職したって言ってたよね。辛いことを訊くようだけど、知ってどうするつもりだったのかな」
「姉が亡くなったとき、オレだけ何も知らされなかったんですよ。自殺したらしい、鬱病気味だったって聞いたのも人づてで。父はともかく、母がどうして教えてくれなかったのかわからなくて、意地になって調査開始ってわけです」
「御両親は理由を秘密にしたかったのかもしれないね。それで、真相にはたどり着いたの?」
「まあ、だいたいは。相手がどこの誰かというところも把握してますけど、会って恨み言を言うとか、そんな目的があるわけじゃないんです。ただ……」
こんな話、暗くなるからよしましょうと言う一耶を見つめながら、建樹は虚無感に囚われていた。
何て寂しい、寂し過ぎる笑顔だ。
自分といるだけで彼の心が救われるというのなら、もっと一緒に──
エスプレッソを飲み終えた一耶は「これからどうします?」と訊いた。
「どうするって……」
「この近くのバーで飲み直しましょうか」
バーと聞いてドキリとしたが、あの紫苑ではなく、そこは『カプリコーン』という店だった。
「ここもまさか、オリジナルをリクエストできるところ?」
「いえ、そういう融通は利かないんですけど、お薦めのカクテルならありますよ」
出会った時のように、カウンターに並んで座る二人、一耶は『Heart Burn』という名の、鮮やかなピンク色のカクテルを注文すると、建樹の手をゴブレットごと握りしめた。
「傍にいてくれて嬉しい」
激しさの宿る瞳からわざと視線をはずすと、今度は顔を近づけてくる。いくらか酔ったらしく妖艶な目つきをした、挑むような表情が建樹の目に映った。
「かなり酔っているね」
「酒の力を借りるなんて卑怯ですか?」
「そんなことはないよ」
すると一耶は囁くように訊いた。
「じゃあ、ここがホテルの最上階のメインバーで、下に部屋を取ってあると言ったら?」
「どうせなら、そういう場所に行けばよかったかもしれないね」
今度はこちらから熱っぽい視線を送る。
一瞬、戸惑ったような顔をしたあと、彼は「本気にしてもいいですか?」と返した。
「どう受け取るかは君の自由だよ。僕がもう一杯飲む間に決めてくれ」
◆ ◆ ◆
近くにシティホテルの類はなく、フロントを通すのは気恥ずかしいと言う一耶に、建樹は「あそこでいいよ」と、レジャーホテルを指した。白い外壁を淡いブルーのライトが照らしている三階建ての建物で、見た目はシティホテルと大差ない。
パネルを押して部屋を選ぶと、建樹が先に立って室内に入る。
敷き詰められたカーペットは鮮やかな赤だが、白いシーツのダブルベッドも、調度品も普通のホテルのもので、淫靡な雰囲気は微塵もなかった。
「何かちょっと……気が抜けたかも」
一耶の呟きに苦笑しながら、建樹は「最近はどこもこんなもんだろう」と答えた。
「詳しいですね」
「いや、何かの雑誌で読んだだけだよ。近年はあんまり露骨な装飾をすると、客が嫌がるらしいって書いてあった」
スモークピンクのカーテンを少し開けると、磨りガラスの小さな窓の向こうには別のビルの壁らしきものが見えた。
「マンハッタンの夜景には程遠いか」
ひとりごちたあと、スーツのジャケットをハンガーに掛けてから、建樹は一耶の方に向き直った。
「シャワーを先にどうぞ」
頷く一耶の全身から緊張が伝わってくると建樹自身は余裕が出てきた。
入れ違いにシャワーを浴び、バスタオル一枚だけで相手の前に立つ。すぐさま抱きしめてきた一耶は熱い唇を押し当て、絡めた舌から甘いリキュールの味と香りが広がると、建樹は一耶の首に腕をまわしていた。
「ん……」
どれほど経ったのかわからない。ようやく唇を離した一耶は建樹の身体ごと、ベッドに倒れ込んだ。
その指がぎこちない動きを始め、突起に触れると建樹は身を震わせたが、それもつかの間で、すぐに右手が下へと伸びる。焦りで落ち着きを失い、性急になっているのだ。
これが若さというものだろう。同時に何箇所も、それも丹念に愛撫するなど、彼に求めるのは酷だと思う。
だが、行為に長けている、ベッドでのテクニックは抜群の男と比べずにはいられない。やってはいけないと頭ではわかっていても、身体がそうと感じてしまうのだ。
そんな恒星とのセックスを体験してしまった建樹にとって、この程度の愛撫では満足できなくなっていたはずが、それでも下の部分が反応を始め、勃ち上がっているのは男の悲しい性である。
「肌、白くてキレイだ」
一耶は割れ目に指を差し入れてきたが、その声は上擦っていて、かなり興奮していながらも逸る心を懸命に抑えようとしているのがわかる。
初めて会った時からずっと想いを寄せていた相手との情事に、気持ちが高ぶるのも無理はない。
秘密の箇所に触れた指は滑らかに円を描き、やがて内部へと入り込んで、建樹は小さな叫びを上げた。
「は……あ……」
首筋にかかる吐息がますます激しくなる。
「この辺り、感じる?」
一耶の問いかけに建樹は首を傾け、返事の代わりに甘い喘ぎを漏らした。
「ここが……いいんだ」
建樹の反応がよほど嬉しかったのか、一耶はしばらくそこを攻めていたが、彼自身、堪えきれなくなっているのが伝わってきた。
「おいで」
建樹は年下の相手を促し、交わりやすいように体勢を変えた。
薄暗いその場所に甘く切ない声が響き、淡い光が二つの影を落とす。誰にも知られはしない、彼らだけの秘め事は続いた。
建樹に包み込まれた一耶は恍惚としながら掻き回すように腰を動かした。
「建樹の中……すごくいい」
恒星にも絶賛されたそこが一耶を締めつけにかかる。
「こんなに、なんて……」
一耶の方が先に音を上げた。
「ダメだ、オレ、終わっちゃう」
一度果ててしまったものの、すぐさま復活した一耶と再び交わりながら、建樹は自分の身体に染みついた存在を打ち消そうとした。
「……もっと、もっと強く……もっと」
熱に浮かされたように、建樹は大胆な言葉を次々と口にし、一耶を驚かせた。
──昇りつめたあとの、興奮冷めやらぬ身体から次第に汗が引いてゆく。
建樹を抱いたまま、一耶は「今のオレ、最低だけど最高」と口にした。
「それって……」
「貴方を満足させられない自分が情けない。けれど、こうやって抱き合えたこと、とっても嬉しいんだ」
一耶のセリフを遠くで聞きながら、建樹は別の面影を思い浮かべていた。
ムスクの香り、黒い服、黒い髪。あれは一夜限りの出来事、もう二度と会わないと自分に誓った、なのに………忘れられない……
◆ ◆ ◆
一耶と関係を持ってしまった夜から、建樹は自分の想いを持て余していた。
ほぼ同時に現れた恒星と一耶、年齢も容姿も性格もまるで違う二人の男。
そのどちらにも心を動かされてしまったことに対し、苛立ちにも似た思いを感じていたのだ。
もう一度、恒星に会ってみたい。会えば何かが変わるはず……いや、ダメだ。あんな危険な男に関わってはいけないと己に言い聞かせたではないか。
恒星を縛ることはできない。そんなことは最初からわかりきっている。
心を満たしてはくれない男の身代わりとして、あてつけに一耶を誘い、彼の好意を都合よく利用するのは卑怯な逃げで──いや違う、決してそんなつもりはない。
強引で生意気なようでいて、シャイで純粋なところがあって人一倍優しい。以前、あんなにも建樹の身体を心配してくれたのは病死した母親のことがあったからだろう。痛みを知るからこその優しさだった。
そんな一耶にも惹かれるものはあるけれど、もう一人への想いが邪魔をするのだ。一耶だけを好きになれたら、どんなにか心が軽くなるかと思う。
運命の悪戯などという陳腐な表現はしたくないし、二股といった下劣な考えもないけれど、こんなにも気持ちを乱されてしまうのならばいっそ、どちらにも出会わなかった方が良かったのではないだろうか。
会社への不満はあるけれど、それなりに平穏な毎日を送っていられたのに、これではまるで拷問だ。
悩み抜いた挙句、彼はあの店──紫苑へ行ってみようと決めた。
一耶は今夜も夜勤だと話していたから、彼とバッティングする可能性はない。しかし、店のオーナーとはいえ、恒星に会えるかどうかはわからない。それでもいい。
店内に他の客の姿はなく、この前と同じストゥールに腰を下ろすと、すっかり顔見知りになってしまったバーテンダーがいつものように淡々とした様子で会釈をした。
最初はモスコミュールと決めていた。グラスを傾けながらクールジャズのサウンドに耳を傾ける。
これは『ライト・アローン』だ。片想いの相手をライバルに取られるといった内容の歌詞で有名な、男性ジャズヴォーカリストが歌う失恋のナンバーのタイトルである。
次に流れるのはサンバのリズムにジャズのフレーズをミックスしたボサノバ。明るく、時に重く響く。
しばらくして扉の開く音がした。
「よう。邪魔するよ」
もしや──入ってきた人物を見た刹那、建樹は目眩をおぼえた。それはもちろん、この店のオーナーと呼ばれる男、待ち望んでいたその人だった。
まさか本当に現れるなんて。誓いを破った後悔と、会えて嬉しい、二つの気持ちが混在しているが、そうと認めたくない建樹はひたすら気づかないふりを努めた。
先日の黒一色のやさぐれた雰囲気とは打って変わって、焦茶色のイタリア製高級スーツに身を包んだ恒星はどこから見ても立派な敏腕ビジネスマン、あるいはやり手の青年実業家といった出で立ちだ。
カウンターの前に、一夜の関係を結んだ男が居たのに気づいたはずの恒星だが、まったく動揺する気配はない。
そんな彼に続いて姿を現したのは絶世の美女で、店に足を踏み入れたとたん、まるでその場にカトレアの花が咲いたかのような華やかさの持ち主であった。
その、モデルと見紛うばかりのスタイルの良さ。すらりと伸びた足に銀のパンプスを履き、肉感的なボディにはミントグリーンのミニのワンピース、さらに白いスプリングコートをまとっている。手にしているのはフランス製の高級ブランドバッグだ。
長い髪に大きめのウェーヴをかけた、流行りの髪型をしているが、美しくも気の強そうな顔立ちは男に媚びるどころか、女王然とした雰囲気で、水商売の女でないことは確かである。
恒星はバーテンダーに「約束の時間まで、ここで待たせてもらおうと思ってな」と弁明したあと、コーヒーを二つくれと続けた。
「ふうん、これが例のお店ね。カプリコーンとは趣が違うって話には聞いていたけど、来たのは初めて。たしかに地味だわ」
カトレア美女は挨拶もせずに、店内を遠慮なく眺め回した。
「いくらノスタルジックにって言っても、インテリアとか、やっぱりちょっと古臭くない? もう少し華やかにして、それにターゲットを男性に絞るなら、若い女の子を置くべきじゃないかしら」
紫苑の内装を批判し、我がもの顔で振る舞うこの女は何者なのか。
苦笑いを浮かべた恒星は女の肩を抱くようにして奥のテーブルに着くよう促し、それから何やら親しげに語り始めた。
彼が口にする冗談に、楽しげに笑う様子はクラブの女たちと同じような反応で、どんな種類の女でも楽しませる話術を心得ているあたりがさすがである。
「とにかく、このお店も含めて、そっちが所有する建物の管理は任せてもらうわよ。パパのバックアップがあればすぐに、売り上げ倍増になるわ」
「すべては仰せのままに」
大袈裟なまでに卑屈な恒星の態度に気を良くしたらしく、女は満足気に笑った。
それからしばらくして、彼女はバッグを手に化粧室へ向かい、その隙にこちらへ近づいてきた恒星は建樹の脇に立つと、ニヤけた顔をした。
「また会いに来てくれるとはね。忘れられない夜のリクエストかな」
「……まさか」
そんなつもりはないと、冷たい態度で答えると、
「そう、そいつは残念だ」
口で言うほど残念そうには見えない恒星はテーブルへと戻り、女が出てくるのを待って席を立った。
「あら、もう行くの? さっき来たばかりで落ち着かないこと」
「あそこのソムリエが六十年物の飛び切りのフルボディを御用意しておきます、と話していたからな、待ちきれないのさ」
「もう、せっかちね」
女は妖艶に微笑みながら、また挨拶もなしに扉を押した。
すると、彼女が先に出たのを見計らった恒星は建樹の手に何かを素早く握らせたあと「邪魔をしたな。あとを頼むよ」と、わざとらしく言い残して立ち去った。
掌の中にあったのは紙製のコースターだった。店の名に因んでか、紫色の地に紫苑の黒い文字が印刷されており、その裏側に十一桁の数字が書いてある。恒星は自分の携帯電話の番号を伝えてきたのだ。
そうとわかったとたんに胸が熱くなるのをおぼえたが、平静を装いながらバーテンダーに「さっきの女の人は誰なの?」と尋ねると、
「恒星さんの婚約者です」
「婚約者?」
その瞬間、目の前が真っ暗になった建樹だが、気丈にも「そ、そう。キレイな人だね」などと応じ、取り乱すまいとした。
婚約者……三十を過ぎた一人前の男にそういう相手がいない方がおかしいし、そうと承知しているつもりなのに、こんな反応をするなんて、冷静沈着をモットーとする自分らしくもない。
女の目を盗んでまで、あの男がケータイの番号なんぞを伝えてきたせいだ。絶対にかけたりするものか。
むしろ……そうだ、これであきらめがついたじゃないか。店に足を運んだ甲斐があったというものだ。
結婚が決まっているくせに、思わせぶりな真似をする男に期待をかけたり、二人同時に好きになるなんて二股ではと悩んだりする必要がどこにある。
これからおまえは一耶のことだけ考えればいい。鷹岡恒星なんて男は忘れろ、すべて忘れてしまえ。
そう思いながらも、動揺は収まりそうにない。ジンライムを注文すると、火照った身体に冷たさが凍みた。
……⑤に続く