第五章 スティンガー ――危険な香り
労働組合からの再三のお達しで、有給休暇の消化を命じられた建樹だが、他に行く宛もなく、結局はスポーツクラブに居た。
ここを訪れるのは今日で三度目だが、一耶抜きで来たのは初めてである。いつものように自動ドアをくぐり、グリーンのカーペットの上を進んでフロントの前に行き着く。
水色のポロシャツ姿の、スタッフと呼ばれる従業員が「いらっしゃいませ」と挨拶すると、彼女が頭を上げるのを見計らって会員証を提示した。
それから施設使用料金や館内での飲食物その他の販売を管理するバーコードつきの、腕時計型のロッカーキーを受け取った。
さて、ロッカールームへ行こうとしたその時、後ろの方から聞き覚えのある声がして建樹はそちらを振り向いたが、見知った顔など誰もいない。
空耳だったのかと、再び歩き始めて『GENTLEMEN』と書かれたドアを開けると、中はがらんとしていた。
二、三人の男が着替えをしているだけで、それもトレーニング終了後らしく、濡れた髪を拭いている者もいる。
これからプールに向かうのは自分だけのようだ。大勢の人の中に混ざるのが苦手な建樹はいくらかホッとした。
ロッカーの青い扉を開けて中にリュックを入れた彼はここに通うためにわざわざ買ったスイムウェアとキャップ、タオルを持って鍵を回した。
各自のロッカーは六列、並行して並んでおり、室内の周囲には三方向が壁で、出入り口をカーテンで仕切った個室型の更衣室が十ほどあって、半畳もない広さの床にそれぞれ脱衣籠が置かれている。
そのうちのひとつのカーテンに手をかけた建樹は背後に気配を感じて振り返り、その瞬間、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「……妙なところでお会いしましたね、姫」
白いTシャツに紺のサーフパンツ、セーリングなどを楽しむ、爽やか好青年スタイルの恒星がそこに居た。
その格好をするならば、日焼けした肌に真っ白な歯、青い海と入道雲が似合わなくてはならないが、夜の街にどっぷりと浸かった、不健全な彼にはどうにも似つかわしくない。
どうやら恒星もここの会員らしい。この偶然に空恐ろしさすら感じる。
他の会員たちの目もあって、建樹は「どうも」と軽く会釈をしただけで、更衣室に入ろうとした。
が、その腕を素早くつかんだ恒星も中に入り込んできて、すかさずカーテンを引くと外部から遮断された密室を作り上げた。
大人の男二人で入るには狭すぎるスペースだ。腕を捕えられたままで、建樹は「何をするんですか?」と怒気を含ませ、それでも外に漏れないように小声で訊いた。
「あんたがあんまりつれないからだよ。この前、ケータイの番号を渡しただろ」
なぜ、かけてきてくれなかったと言いたいらしい。呆れた建樹は反論した。
「あの日はたまたま店に立ち寄っただけです。貴方に会うつもりはなかった、もう二度と、永遠に会わないはずでした」
「それが会っちまった。運命のいたずらか、神の思し召しか。どちらにしても、あんたは俺に縁があるんだよ」
ニヤリとしてみせる恒星を睨みつけた建樹は腕を振り払おうともがいた。
「離してください! こうなったら大声を出して、誰かを呼びますよ!」
「さあ、果たしてできるかな?」
自信たっぷりに言い放った恒星は建樹の身体の前面を更衣室の壁に押し付けるようにしたあと、背後から手をまわしてきた。
その左手はTシャツの中へ、右手はジーンズのジッパーへと伸びる。建樹は思わず「うっ」と呻いた。
「ほら、ここは正直だ。されたがっているぜ」
突起をいじり、ペニスを扱きながら卑猥な言葉を耳元で囁く恒星、ロッカー内の一室でこんなことが行われていようとは……誰かに気づかれたらと思うと、気が気ではない。
建樹の心配などお構いなしに、恒星は手の動きを休めることなく続け、やがて左手は秘孔へと移動し、そこを刺激し始めた。
いつ、誰に見つかるかもわからないこんな場所で、というスリルが却って興奮を呼び起こすのか、建樹は喘ぎ声を押し殺しながら身悶え、恒星も息を弾ませつつ、固くなったものを押し当ててきた。
壁に手をつき、腰を突き出すような格好をさせると、後ろから挿入。
この体勢でも恒星の動きの激しさは変わらず、立ったままでするという初めての行為に、建樹はこれまで味わったことのない快感をおぼえ、喉まで出かかった声を飲み込み、唇を噛んだ。貫かれる衝動で目眩がする。
「くっ……うっ」
欲しい……もっと、もっと、して欲しい。
身体が別の人格を持って訴えている。浅ましい欲望を振り払おうとしても無駄だ、建樹は恒星に合わせて腰を振り、貪欲に求めた。
「はぁっ……」
頭の中が真っ白になって果てるのと同時に自分の中の恒星も果て、粘った液が太股を伝う、生温かい感触がした。
「やっぱり、姫はこうでなくっちゃな」
恒星が果てたものを抜こうともせずに、満足気にそう言うと、横目で恨めしげに睨みながら、建樹は「……くせに」と呻いた。
「何だって?」
「婚約者がいるくせに、と言ったんだ」
この前出会った、美しくも高慢ちきな女の顔が思い浮かぶ。
建樹の言葉を聞いて、恒星は嬉しそうに「そうか、妬いているんだな」と言った。
「何をバカな! 僕はただ……」
「女と結婚する気があるなら、女だけ抱いていればいいのに、か? それとも、いい加減に遊ぶのをやめて身辺を整理しろ、そんでもってとっとと結婚しやがれ、かな?」
右手に付着した液をぺろりと舐め、恒星は不敵な笑みを浮かべた。
「そのどちらも願い下げだね。キレイな男の味もやめられない」
ティッシュで手際よく始末をすると、何事もなかったかのようにサーフパンツを上げた彼はカーテンの向こうへ出て行った。
今さらプールへ入る気力も体力もなくなり、建樹は服装を元通りに整えると、更衣室を出て再びロッカーを開けた。
幸い、他の会員は誰もおらず、小さな個室内の出来事は知られずに済んだと安心したが、どうしてこんなことにと、やり切れない思いが残った。
このままフロントへ戻るつもりでいると、ロッカールームを出てすぐのフロアにある、観葉植物に囲まれた休憩用のベンチで恒星が待っていた。
「せっかくだからVIPルームに案内してやろうか?」
「僕は一般の会員で、VIPじゃありませんから結構です」
「そう言わずに来いよ」
またしても強引に腕をつかまれ、エレベーターに乗って仕方なく連行された先は三階にある、特別会員専用の休憩室だった。
白いドアの前に立った恒星は会員証を取り出し、裏側の磁気部分を読み取らせてロックを解除した。
選ばれた者のみが入室できるシステム、というわけだが、今は無人。この時間に訪れたVIPは恒星だけのようだ。
窓にはクリーム色のブラインドが下がり、柔らかな色合いの照明が室内を明るく照らしている。アロマテラピーでリラックスということだろうか、ラベンターの香りが漂う。
ヒーリング効果のある音楽が流れているのは全館同じだが、ここで聴くとさらに素晴らしいものに感じるから不思議である。
一般用とは比べものにならないほど立派な、輸入家具らしい調度品が置かれており、会員同士で歓談できるようにと、刺繍が施されたソファのセットが三組、それとは別に、一人でゆっくり休みたい人のためのリクライニングチェアが五脚置かれており、コーヒーやジュースのサービスまであった。
奥のソファを勧め、コーヒーを二つ淹れてテーブルの上に置いた恒星は「この部屋ならゆっくり話ができる」と言った。
「話などではなく、スポーツをしに来たんですけど」
「運動なら、さっきあそこで済ませたじゃないか。お蔭でいい汗がかけたぜ」
建樹の厭味を猥談でかわした恒星はコーヒーを飲んだあと、タバコに火をつけた。
「ここには滅多に来ないんだが、久しぶりに筋トレでもしようと思って、寄ってみたら知り合いに捕まっちまってな。仕方なく立ち話をしていたら、あんたの後姿が見えた」
慌ててロッカールームまで追ってきたらしい。建樹が耳にしたのは彼の声だったのだ。
「まさか通っているとは知らなかった。ラッキーってやつだ」
自分に会いたかったと言うのか。どこまで本気なのか、気持ちを量りかねている建樹は無表情のまま、カップを口に運んだ。
「鳶島建設を知っているだろう? あの女は鳶島ルミといってな、そこの社長令嬢だ」
県下でも大手のゼネコンを城銀の行員が知らないはずはなく、黙って頷くと、
「俺の家は元々、鷹岡不動産という小さな不動産屋だったが、先代のジジイがやり手でな。店舗経営なんかにも乗り出した」
現社長である父の代になり、鷹岡不動産をホークカンパニーなどという仰々しい名前に社名変更。株式会社にして発展してきたのはいいが、不況の昨今、経営が手詰りになってしまった。
そこで鳶島建設と手を結んで体制を立て直す計画を実行中。というのも、鳶島建設の先代社長が恒星の祖父に恩があったらしく──どちらも既に故人だが──ホークカンパニーがピンチの時は手助けしましょう、という取り決めになっていたようだ。
「ところがジイさんたちの同盟はそれだけじゃなかったのさ。これは遺言状を読んで初めてわかったことなんだが、お互いの孫同士を結婚させようと決めていたらしい」
「つまり許婚だと」
「ああ。ずいぶんとレトロじゃないかと思ったけれど、向こうの家族はすっかり乗り気だし、カモがネギを背負ってくるようなもんで俺自身も異存はなかったからな」
ホークカンパニー次期社長を約束された恒星の、現在の肩書きは営業推進課課長というらしく、紫苑を始めとした、幾つかの店舗の運営を任されている。
一方、鳶島建設ではルミの兄である将和が一流大学を卒業して十年前に入社。彼は現在父親の優秀な片腕として働いており、つい最近、副社長に就任したと聞いているが、ルミ自身は社員でも何でもなく無関係、家事手伝いのお嬢様という気楽な身分である。
婚約者の会社の所有物件に口出しして、社長である父に進言するお節介を楽しんでいる、その程度の関わりだろう。
「この前話したよな。俺は惑星じゃない、自分で輝く星になってみせると」
こちらに向けられた恒星の目が妖しくも強い光を放った。
「太陽では水素というエネルギーが核反応を起こして燃えている。あのカモネギ女は俺にとって、鳶島建設という膨大なエネルギーを得る手段に過ぎない」
「愛情のない結婚をするつもりですか」
「愛情? ちゃんちゃらおかしいな」
蔑むように彼は答えた。
鳶島ルミは恒星が輝くための道具、加えてその身を飾る華麗な装飾品、といったところだろうか。
だが、本人はそんなふうに扱われているとは夢にも思っていない。婚約者はモテて当然の色男であり、彼がクラブの女たちと夜な夜な遊んでいるのは承知しているが、本命は自分なのだと疑いもせず、不誠実この上ないフィアンセをそこまで信じ込んでいるのが憐れでもあった。
「甘い言葉をかけて機嫌を取って、たまに抱いてやれば満足する単純な生き物だが……」
さんざんルミをコケにしていた恒星は突然、奇妙な話を始めた。
「駅の南口側の再開発計画を聞いたことはあるかい?」
「ええ、まあ」
「道路を挟んで、このビルの向こう側の」
場所を説明しながら、恒星は顎でしゃくる仕草をしてみせた。
「あそこらのごちゃごちゃした建物を区画整理して、どデカいビルをおっ建てる計画だがな。あんたが以前、一緒に飲んでいた相手の鷲津土建工業が入札で落としたってんで、オヤジもアニキもカリカリしているから、あの女も御機嫌が悪い。今は『君子危うきに近寄らず』というわけだ」
愉快そうに笑う恒星、あの女とはルミを指し、彼女のオヤジといえば鳶島建設の社長だ。いわば、鷲津土建と鳶島建設はライバル関係にある。
「そういうわけで、あの女を愛するだの何だのって気持ちは微塵もないから、安心してくれよ」
恒星はルミを愛してなどいないとわかってホッとする自分に建樹は嫌悪をおぼえたが、彼へと傾いてしまった心に歯止めは効かなくなっていた。
「俺が愛しているのは俺自身。その次ぐらいが姫、あんただ」
ニヤけた表情をしながらの、傲慢な男の言い草に建樹はしかめ面をした。相手の言葉に喜びを感じている、などとは気取られたくなかった。
「僕が二の次とは、お気遣いありがとうございます」
「そのキレイな顔で、そういう冷たい反応をされるとたまらないな。首筋がゾクゾクする」
「エアコンが効き過ぎているだけでしょう」
「あんたはさすがに頭がいい。見てくれだけのアホな女たちとは違う」
そんな讃辞を贈りつつ、恒星は眩しそうに建樹を見た。
「次はいつ会える? 今度はもう少しマシな場所を用意しておくから、期待してくれていいぜ」
ロッカールーム内の個室、狭い空間でのスリルはこの上ない興奮を与えてくれた。さんざん心配しながら、あれはそれなりに良かったなどと、今になって思う自分は彼の言うようにやはり淫乱なのだろう。
再び身体が疼くのを感じながら、建樹は「それならマンハッタンを所望」とだけ答えた。
◆ ◆ ◆
シングルプレイで終わるはずだった。
それなのにこれはロング・ヴァージョン、長きに封印され、三年ぶりに解き放たれた欲望はとどまるところを知らず、彼の肉体に、誘惑に溺れ、逢瀬を重ねている……
いつまでもこんなことが続くはずはない、続けてはいけないと思いつつも恒星の誘いに応じる自分の愚かさを建樹は呪ったが、こういう関係をセックスフレンドと呼ぶのなら、身体だけの繋がりだと割り切れるのなら、その方がまだ救われる。淫らなひと時が終われば、あとは他人だ。
二番目に愛しているなんて、口説き文句にしてもふざけ過ぎだ。危険な香りのする男の存在に、身体だけでなく心も虜にされてしまうなんて自分自身が許せない。
彼の気持ちがどこへ向いていようとも、想いを残さぬように、そうしなければ自分が苦しむだけだとわかっていながら思い通りにはならない、コントロールできない感情に建樹は悶々としていた。
「今夜は先約があるんだ。すまないな」
自分の知らない場所で、彼が誰と、どう過ごしているのか──ルミや、他の誰か(女?それとも男?)と一緒かもしれない──嫉妬で胸が張り裂けそうになるなんて愚の骨頂だが、会えない理由は絶対に訊かない。
訊いてしまったらこちらの負けだ。それが自分に残された、今にも消し飛んでしまいそうな、ちっぽけなプライドを守るせめてもの手段だった。
しかし、実際のところ気持ちは落ち着かず苛々が募るばかりで、食欲はめっきり落ちてしまった。
今日の昼休みも社員食堂へ行くのは乗り気でなかったが、廊下で一耶に声を掛けられ、引きずられるように向かった次第で、とりあえずはカレーライスを注文した。
例によって一耶と向かい合わせに座ると、同じ長テーブルの隣の位置に、別の部署の見知らぬ男性行員二人組が腰掛けてきた。
「……だから、経営状態は思ったより苦しいんじゃないかって」
話を続けながら、一人がラーメンに胡椒を振りかけると、もう一人も天ぷらうどんをすすっては頷く。
「派手に見えるけど、そうかもしれないな。やっぱりアレだろ、場所はどこだっけ? ショッピングモールの失敗で大損失、そいつが打撃になったってわけか」
「やり手の副社長にしちゃ、見通しも目利きも悪かったみたいだぜ」
「で、駅前もアウト」
「あそこを落とせなかったのは痛かったって、もっぱらの評判だよ」
銀行の業務では顧客情報の漏洩をもっとも恐れるため、社内で得た情報は会社を一歩出たら行員同士はもとより、家族にも一切話してはならないと言い渡されている。
そのせいか、昼食時には鬱憤を晴らすかのようにやたらと噂話をする輩がいて、建樹は呆れながらも、二人の会話に聞き耳を立てていた。
「ヤバイよな、トビシマ」
トビシマ……鳶島……鳶島建設のことだろうか。あそこのメインバンクは西銀だが、経営に問題があるとすれば、城銀としても無関心ではいられないはずだ。
鳶島建設に監査が入る、経営を立て直すといったような状態になったら、利益の上がらない、足を引っ張るだけのホークカンパニーを傘下に収めるどころか、一切の提携は取り止め、切り捨てられるかもしれない。
いくら先代の時代に貸し借りがあったとはいえ、現在の社長同士はドライな関係である。自分の会社が危ないのに、よそをかまってはいられないだろう。
そうなった時、恒星の立場は?
ルミの婿として受け入れてもらえるのかも怪しくなってくる。鳶島建設にとって、もっと有益な存在に取って代わられる可能性もあるのだ。
婚約解消……身勝手な妄想を振り払う。
たとえどんな事態になろうとも、恒星との関係は今のまま、いや、できる限り早く終わらせてしまわなければならない。
鬱々とする建樹を探るように見ていた一耶は「上の空だね」と皮肉っぽく言った。
「えっ?」
「建樹が何考えているか、当ててみようか」
「何って」
「好きな人のこと。もちろんオレじゃない、他の誰か」
ギクリとしてスプーンを持つ手が止まる。
「一度そうなっただけで、オレのものだなんて思ってないよ。そこまでバカじゃないし」
建樹は一耶の顔をまともに見られずにいた。見透かされていたのだと、目が泳いでしまうのがわかる。
「あのときからずっと感じていたんだ。オレってやっぱり身代わりなわけ?」
「そんな」
「誤魔化さなくてもいいよ、全部わかってるから。建樹はその人のことを忘れようとしているのもね」
苛立ちを感じた建樹は「知ったような口を利くんだな」と、相手に非があるかのようになじった。
「本当のことだろ」
冷めた口調でそう言ったあと、空になった皿を乗せたトレイを持って、一耶は立ち上がった。
「こんなオレでも、それなりにプライドあるからさ」
「ああ……そう」
上手く返す言葉が見つからないまま一耶を見送ると、無性に腹が立ってきた。
何に苛立っているのか。一耶が悪いわけではない、悪いのは僕だ。
年下の男なんて頼りないと思っていたけれど、本当にそうなのだろうか。どっちつかずの不安定な気持ちを抱えた僕は彼の好意に寄りかかり、その優しさに甘えてワガママを通していただけではないか。
決着をつける前に、呆れた一耶の方から見限ってきたのだとしたら……見捨てられた、惨めな気分に浸る。
落ち込む建樹の携帯電話に恒星からのメールが届いた。
『今夜七時、カプリコーンで待つ』
……⑥に続く