第三章 ブラッド&サンド ――切なさが止まらない
建樹が配置転換された業務センターはこれまでの駅前支店とは打って変わっていくらか辺鄙な場所、悪く言えば田舎にあり、地価が安いためか、広い敷地を得た城東銀行の施設の大半がこの地に集まっている。
一大ビル群と化した施設の内訳は県内外の全営業店を結ぶコンピュータシステムを扱うシステム本部や、証券等、銀行業務以外の事業に進出した関連会社の事務所などで、業務センターは敷地の一番北側、北館と呼ばれる四階建てビルの二階に入っていた。
三月最初の月曜日、この日付で転任した建樹が出社すると、脇に警備室のある入り口のところでセンターの総務関係を取り仕切る部署の女性が出迎えてくれた。
「そちらに男性用の更衣室があります。ロッカーには名前が入っていますから、荷物を置いてきてください」
言われたとおりに廊下を進み、更衣室の扉を開けたところでギクリとした。
「おはようございます」
目の前に立っていたのは成瀬一耶だった。この前の夜と同じ黒いスーツ姿だが、ワイシャツはアイボリーから淡いブルー、ネクタイは焦げ茶とオレンジのストライプから深い濃紺一色というチョイスで、ずっと若々しく見える。
呆気にとられて声も出ない建樹を見やり、美青年は爽やかに会釈をした。
「ど、どうして……」
だが、一耶の首から下げられた写真入りの社員証に気づくと「どうして」は愚問だとわかった。そこには『システム本部』の文字が躍っている。同じビルの四階にそのオフィスがあることは承知していた。
「ここでお会いするなんて奇遇ですね」
屈託なく言い放つ一耶に一瞥をくれた建樹は「奇遇じゃないだろう」と切り返した。
「なぜですか?」
建樹は黙って自分の襟元の社章を示した。姫野建樹の名で社内のパソコンを検索すれば異動の情報はすぐにわかる。
「バレましたか。ええ、確信犯です」
「社内の人間でなければ重大なコンプライアンス違反だ」
「そうかな? 二階は貴方の噂で持ち切りみたいですよ」
さらりと流した一耶はそれから「食堂で待ってます」と言い、建樹の唇に軽くキスをして出て行った。
いきなり唇を奪うという行為に戸惑ったが、ぼんやりしている暇はない。廊下でさっきの女性が待っているのだ、慌ててロッカーを探すと鞄を投げ込んだ。
案内に従って階段を上がり二階のフロアに入る。何はともあれ、ここを取り仕切るセンター長の元へ挨拶に向かった。
「おはようございます、今日からお世話になります」
「おお、駅前支店のホープ登場か」
齢は五十前後、てらてらと光る顔にでっぷりとした体格の持ち主は愛想のいい顔を向けて建樹を歓迎した。
だが、そんな態度とは裏腹で、なかなかの食わせ者だという悪評を聞いたことがあるし、確かに裏表のある人物という印象を受ける。この男には決して弱みを見せてはいけないと建樹は密かに誓った。
「営業店の仕事はやりがいもあるが、なかなかハードだし、身体を壊すのも無理はない。とりあえずはここでの仕事をじっくりやってくれたまえ。なに、まだ若いんし、ゆくゆくはまた向こうへ戻る可能性もある。心配することはないよ」
「はい、ありがとうございます。御指導よろしくお願いします」
センター長の言うように、向こうへ戻る機会が訪れる日はくるのだろうか。いや、多くを期待するのはやめようと建樹は思った。
期待と失望は表裏一体。裏切られた時のことを思えば何事も期待しない。それが一番気楽な生き方なのだ。
ビル群の中でも新しい北館の二階、ワンフロア全てが業務センターのオフィスである。クリーム色の壁に白い天井、床はコバルトブルーのカーペットが敷き詰めてあり、大きな窓に吊るされたブラインドを上げるとかなり明るく、広くて快適な空間だ。
内部はグループ毎に幾つかのスペースに区切られており、中でも一番広い場所を占めるのが為替送信グループで、各自の事務机とは別に、横五列に細長くずらりと並んだデスクの上には端末として使用されるパソコンが何十台も設置されている。
これは各営業店やシステム本部の大型コンピュータとオンラインで結ばれており、店頭で受け付けた顧客の振込伝票を光学読み取り装置で読み込ませると、そのデータが回線を通じて即座に送られてくる。
送られてきたデータは受け付け順に、パソコンの画面上に一件ずつ表示され、それらに誤りがないかを、段階を経て細かくチェックしたのち、修正後のデータを城銀本支店や他行の支店に送信する。
以上が為替送信の業務で、他のグループもそれぞれ営業店を補佐する仕事をしている。つまり業務センター設立の狙いは営業店の事務処理をバックアップし、各店における業務内容を簡素、スリム化することだった。
これから建樹に与えられる仕事はこの送信グループでのデータの最終チェックである。グループのメンバーが紹介されたあと、その中の一人の指導を受けながら業務をおぼえて欲しいと言われた。
建樹の指導担当はこのセンターに配属になって十年というベテランの女性で、もうすぐ五十に手が届くと自嘲気味に言った。
「みんなオバサンばっかり、なーんてガッカリしないでね」
営業店が最前線なら、ここは後方支援部隊である。定年を間近に控えた者や、彼女のような既婚女性が多くなるのも無理からぬことであり、また、結婚や出産を機に退職した女子行員がパートとして数多く復職しているので、ここにいるのはほとんどが女性、女の職場なのだ。
給与の高い行員すなわち正社員を減らし、パートに切り替えていこうとするのは銀行だけでなく、どこの業界、業種でも同じだ。
ゆえに建樹のように若い、しかも男の行員が配属される例はほとんどといってなく、フロアにいる全員への紹介後も、業務センター始まって以来の椿事──若くて超イケメンがやって来たと、別の部署からの見物人があとを絶たなかった。
中には韓流アイドルに入れ込む熱烈なファンのように手を振ってくるオバサマもいて、まるで空港に降り立った映画スターの気分だと建樹は苦笑した。二階は自分の噂で持ち切りだという一耶の言葉はあながちデタラメではなかったのだ。
「姫野さんが来てくれて助かったわ。若い男の人にはつまらない職場でしょうけどね」
申し訳なさそうに言われたが、若い女性の華やかさが苦手な建樹にとってはむしろありがたい環境だった。
「センターって、営業店に比べたら楽な仕事で、いつも暇なんじゃないかって思われてるかもしれないけど、これでもけっこう忙しいのよ。人員の補充をお願いしますって何度も申請したんだけど、なかなか人をまわしてくれないの。雛形さんがいなくなって、もう半年近く経つのに……」
「雛形さん?」
その名前を聞き咎めると、彼女はいくらか狼狽した様子を見せた。
「あ、あのね、前にここで働いていた人。営業店に何年かいて、そのあと異動になって」
どうやらマズイことを言ってしまったらしいが、おしゃべり好きな中年女性の例に漏れず黙っていられないようで、指を唇にあてながら声をひそめた。
「半年ぐらい前に自殺したのよ」
自分の前任者にそんな事件があったなんてまったく聞かされていなかった。それどころか、雛形という人物の存在すらも知らなかったのである。
雛形春菜(ひながた はるな)というその女性は大卒で採用され、将来を嘱望された存在だったようだが、自らのミスのせいで営業店からセンターへまわされ、ずっとそれを気に病んで鬱病になっていたところに恋人が別の女と婚約する事件が重なり、発作的に自殺したらしい。
「別の人と婚約なんて、ひどい話ですね」
「相手はお金持ちのお嬢さんで、逆玉ってやつかしら。ありがちな話よね」
確かに、安物のドラマのような内容であるが、そんなことが身近に起きているのかと思うと不思議な感じもする。
また、不本意にもセンター行きを命じられたという点で、建樹は面識のない雛形春菜に親近感をおぼえたが、だからといって鬱病になるまで自分を追い込むような真似だけはするまいと自らを戒めた。
「あらら、おしゃべりばかりしちゃってごめんなさい」
そう取り繕うと、彼女はパソコンの方へと向き直った。
「それじゃあ、機械の立ち上げからおぼえてもらおうかしらね。営業店ではこういうの使わなかった?」
「ええ、別の機種ならありましたが」
このパソコンの画面で操作できる機能の範囲はかなり広く、自分たちが使用する設定や照会の他にも、あらゆる業務に関する機能があり、パスワードひとつでそれがすべて使用可能なのだと建樹は知った。
「……とりあえずはここまででいいかしら。不明な点は何でも遠慮なく訊いてください」
「はい、わかりました」
仕事の内容はさほど難しくはないが、かなりの注意力と根気を必要とする。これはこれでけっこうな労力だが、顧客との直接の応対がない分、気が楽でいいと自分自身を納得させた。
さて、気負いしない程度にやろう。二つ上の階にいるであろう男の存在を心の隅にとどめつつ、建樹は画面を見つめ直した。
◆ ◆ ◆
建樹たちのオフィスがある北館から二十メートル、同じ敷地内に社員食堂専門の建物がある。大勢の社員を抱える場所としては当然の福利厚生施設だ。
一階はパンや飲み物を売る購買、二階の半分はバイキング形式のレストラン、残りの半分は麺類などの軽食コーナーであるが、初めてのことで注文その他の要領がわからない。
しばらく辺りを見回していると、背後から肩を叩かれた。
「お待たせしました」
一耶だった。別に待っていないと反論したものの、あっさり聞き流されてしまい「何食べます? 今日のバイキングは唐揚げがお薦めみたいですよ。こっちのトレイを持って」などと説明し始めた。
結局、二人向かい合わせで長テーブルに着く。心なしか唇が熱い。
わざと仏頂面を作る建樹だが、この年下男の度重なる積極的な行動に、内心ではかなり動揺していた。
「オレの言ったとおり、事務所は大騒ぎだったでしょう? 気分は韓流スターだったんじゃないですか」
「……いや、別に」
「そのうち『ヒメ様』なんて呼ばれて、オバサマたちの間でファンクラブができるかもしれませんね」
「嬉しいね。僕は若い人より、母の世代の女性の方がつき合いやすいから助かるよ」
「へえー。なかなかフェミニストな発言ですね」
それから一耶は「建樹さんって、見た目はクールで高嶺の花って感じだけど、とっても優しいし、いい人オーラが出てますよ」と言って、いたずらっぽく笑った。
「いい人オーラか。面白いことを言うね」
「あーあ、システム部じゃなくて、そっちで働きたかったな、なんて。銀行員でも何でもないオレには無理ですけどね」
システム部は文字通り、行内のコンピュータシステムの管理を一手に担う部署であり、銀行としての業務──預金や為替などを扱うのではなく、システムエンジニアの仕事に近いため、別部門の子会社という扱いになっている。採用される社員はもちろん、コンピュータを専門に学んできた者たちだ。
箸を進めながらも、このまま黙っているのもどうかと思った建樹は「学校ではコンピュータの勉強をしてきたんだろう。一般のソフト開発とかじゃなくて、どうしてここに入社したのかな?」と訊いた。
すると一耶はいくらか固い表情になった。
「ええ、まあ……最初はそうだったんですけど、思うところがあって転職しました。一月に中途採用の募集を知って、入社したのは二月です」
「思うところって?」
「姉の自殺の真相を探るためです」
「まさか……」
さっき聞かされたばかりの話が思い出され、建樹は唖然として一耶を見た。
自分の仕事の前任者だった女性、雛形春菜は鬱病と恋人の裏切りを苦に自殺を図ったというが、その人物が一耶の姉だというのか。
社内に自殺者がそう何人もいてはたまらないが、しかし……
「オレの両親は十年ほど前に離婚して、姉を父が、オレは母に引き取られました。おまけに進学や就職してからは余計に家族バラバラになって……」
行き来もなくなってしまい、父や姉がどうしているのかわからなかったが、半年前に姉が自殺したと聞かされ、その直後に母が病気に倒れた。しかも父親までが自殺したというのである。
「元々病気がちだった母は姉を亡くしたショックで病状を悪化させました。二人を失った父も死への道を選び、半年の間に三人の葬式を出して、オレは天涯孤独というやつになりました」
それほどまでの悲劇をさらりと語る一耶を見つめながら、建樹は思うところの名前を挙げてみた。
「もしかして、そのお姉さんの名前は雛形春菜さん?」
「そうです。事務所で聞きましたか?」
「あ、ああ。今、僕はお姉さんと同じ仕事をしているよ」
成瀬は母親の旧姓だった。前任者が一耶の姉だったとは、少なからぬ因縁を感じる。
「じゃあ、自殺の理由も?」
頷く建樹にうっすらと微笑みを返しながら一耶は「やっぱり直接センターに入った方が有利だったな。何しろ会社そのものが違いますからね、調べるのに半月ほどかかりました」と述べた。
「鬱病と失恋が原因だって聞いたけど」
「ええ。それに関してはいろいろと……姉は建樹さんと同い年、いや、もう少し上かな。オレとはあんまり似てないけど、けっこう美人でしたよ」
こんな場合、何と言っていいのか言葉が見つからなくなっていたが、自分が口にした衝撃的な内容にもかかわらず、一耶は淡々としたまま食事を続けた。
「オレ、一時期グレていて、ゾクのアタマとかやってイキがっていたこともあったんですけど……」
ゾクのアタマ──暴走族か。そんな一耶自身の荒れていた過去は家族運のなさに起因していたのではないか。
安い同情などするべきではないと思いつつも、父を亡くしたばかりの建樹にしてみれば、彼の辛さは如何ばかりかと胸が痛んだ。
「でも、思い直して良かったなって。ちゃんと勉強してここに入社したから、建樹さんとも再会できたわけですし」
一目惚れしたという先のセリフにまたしても胸を踊らせながらも、建樹は諌めるように諭した。
「ダサいって言われるだろうけど、茨の道だよ。とてもお薦めできないな」
「それは経験からですか?」
「まあね」
ところが一耶は自信たっぷりに「そういう道を進むのは慣れてますから。あんまり見くびらないでくださいよ」と言い切った。
「修羅場は一度や二度じゃなかったと」
「ええ。二十三で十年のキャリアですから、年期が入ってるでしょ」
この男も早くからそういう指向だったのかと納得する。
それから一耶は携帯電話の番号とアドレスを交換してくれと持ちかけてきた。
「いいんですか? やった! これでオレたち……」
「親友同士だね」
建樹のおちょくりに、一耶は「ちぇっ」と舌打ちしながらも、嬉しさを隠そうともせず始終笑顔だった。
やれやれと、わざとらしい溜め息をついてから時計に目をやった建樹は「そろそろ行かなきゃ」と立ち上がった。
「あ、待って」
一耶はポケットから小さな冊子を取り出すと、建樹に手渡してきた。
「何?」
「スポーツクラブの案内です。社員割引効くから安く利用できるんですよ。ストレス解消にはもってこいでしょう?」
カクテルにチナールを注いだ真意──建樹の抱えるストレスを心配して、だろうか。
「そう。とりあえず有り難く貰っておくよ」
「とりあえずなんて言わないで、今すぐ入会しましょうよ。オレも今日、残業がなかったら、帰りに寄るつもりですし。じゃあ、現地で待ってますから」
一方的に約束を取りつける一耶に対して、メゲないヤツだと思いながら手元のパンフレットに目を落とす。五階建てのビルになっているこの施設はジムだけでなくプールもあるらしい。
久しぶりに泳いでみようか。そうだ、新しい水着を買って……
ああ、こんなふうにウキウキした気分になるのは何ヶ月ぶりだろう。
──結局、建樹は一耶から紹介されたスポーツクラブへの入会を決めた。一耶がいるからではなく、健康作りのためだと自分に言い訳をしながら。
どんな仕事を続けていく上でも、一番大切なのは能力や要領よりも健康だと痛感している。もっと体力をつけて、病魔に打ち勝つ身体を作らなければならない。
城銀グループの者は社員割引が使えるのもさることながら、場所はD駅の南口前という便の良さが決め手になった。これなら退社後に途中下車して、いつでも立ち寄ることができる。
ビルの一階にはフロントと男女それぞれのロッカールームにプール、二階はトレーニングジムエリア、フィットネススタジオなど。三階に至ってはサウナやリラクゼーションルーム、軽食コーナーといった造りのこのスポーツクラブ、四階以上は事務所になっているらしい。
受付カウンターにて入会の手続きを済ませたあと、今日は手ぶらで来たからと、トレーニングウェアと水着をレンタルした。
ロッカールームへと赴き、まずはトレーニングウェアに着替えてジムで汗を流し、ロッカーに戻ると一耶に会った。
会えて感激だと言わんばかりの顔で、帰りに夕飯につき合ってくれという彼の言葉に曖昧な返事をし、今度はプールに向かう。
水泳部に所属したのは中学の時だけだったため、建樹は久しぶりにプールでの泳ぎを堪能した。全身運動にはなるし、水に身体を預けるのは何より気持ちがいい。
だが、若いつもりでいても十代はおろか二十代の前半に比べても体力は落ちているし、運動量も減っている。
すっかりくたびれてしまった彼はしばらく休もうと、リラクゼーションルームへと向かい、一番端にある紺色のリクライニングチェアに腰を掛けると、背もたれを倒して横になった。
音量を絞った音楽が流れるだけで、しんと静まり返った空間は薄暗く、まばらに座った会員たちは皆無言で、中には寝息をたてている者もいた。
天井に灯る小さな照明を見つめながら、建樹は溜め息をついた。
これから僕はどうなっていくのだろう──
「……建樹さん、建樹さん」
呼びかけに気づくと、こちらを心配そうに覗き込む顔が見えた。
「全然起きないから、もしかして具合が悪いんじゃないかと思った」
「あ、ああ……」
そのまま寝入ってしまったらしい。捜しに来てくれた一耶をまともに見ることができずに、建樹は目をそむけた。
「今何時?」
「八時十五分ですよ。立てます?」
一耶は建樹の身体を起こすと寄り添いながら、荷物を持とうと言ってくれ、二人はリラクゼーションルームの外に出た。
一耶の腕をそっと払い、フロアのベンチに腰掛けた建樹は不機嫌そのものだった。
「……大丈夫、平気だから。これじゃ介護されているみたいで格好がつかないな」
「体調が良くないなら、無理せずに帰って休んだ方がいいんじゃないですか? ほら、駅前支店にいたときに病気で休職したって話してくれたでしょう。もしもまた悪くなったら心配ですし」
自分でも彼の言うとおりだと思うし、気遣いは有難いが、彼はこのあとも一緒に過ごしたかったのではないか。それをあっさり帰れとは、などとひねくれてしまった建樹はつっけんどんに訊いた。
「いくら自分の方が年下だからって、そんなに僕を年寄り扱いしたいのかい?」
「そういうつもりじゃ……」
建樹の、八つ当たりとも思える言動は弱り顔の一耶をさらに困惑させたようだ。
「それじゃあ君の勧めに従って、今日はこのまま帰るよ」
厭味っぽく言い放った建樹は引き止めようとしない一耶に対して苛立ちながら、さっさとその場をあとにした。
出会った夜も、そのあともだ。強引なようでいて、今ひとつ押しの足らない男への不満をくすぶらせながら、建物の表に出た建樹の後ろを一耶がついてくる。
「何のつもりだ?」
「送ります……その、良ければ近くまで。それがダメなら駅まで」
「必要ないよ」
「でも……」
しばらく躊躇した一耶は「本当に大丈夫なんですね?」と念を押した。
「しつこいな」
「すいません」
恐縮し、長身を丸めるようにした一耶はくるりと背中を向けた。
『何事も期待しない方が気楽な生き方だと思うけど』
そう一耶に言ったのは僕自身じゃないか。彼の気持ちは嬉しいけれど、期待されるのは沢山だと考えていたはずだ。
それなのに押しが足らないなんて、期待していたのは僕の方だった。まさか「今夜は帰さない」みたいなセリフが彼から聞かされるのを待ち望んでいたとでもいうのか。バカげている。
ストレスを発散させるために来たつもりが不満を抱え込んでしまうとはと、建樹は憂鬱な気分のまま、ホームへと向かった。
……④に続く