第八章 誠さんと二人きりで♥……?
聖爾と桃園恭子、誠さんと俺。三曲チーム対応援団チームの戦い、という形でくくるほど、コトは単純じゃない。それぞれの思惑は複雑怪奇なのだ。
まずは桃園恭子。この女にとっては同好会の未来などどうでもよくて「三連覇したアタシがやっぱり一番美人」という満足感を得るために、俺に勝利して王者の栄冠を手にする。
それから婚約を解消させ邪魔者を排除。フリーの身になった聖爾に近づくチャンスを得られれば、それでいいのだ。
誠さんの理由は明快だ。応援団団長として部室の確保は責務。さらに、俺の婚約が破棄されないよう、向こうのチームより上位に入賞出来るように頑張ればよい。
複雑なのは聖爾で、部室を切望するみんなの手前、桃園恭子への協力を拒んだせいで代表を断られ、コンテストに参加出来なくなっては困るけれど、俺たちに勝ってしまうと婚約解消が待っているジレンマ。
そして俺。承認していない婚約のせいで勝負なんて迷惑以外の何物でもないし、解消になっても構わないはずだが、それはバトルでの負けを意味する。十五位以内に入って応援団の分の部室を獲得するのが与えられた使命なのに、負けるように仕向けて入賞まで逃しては元も子もないというジレンマだ。
とかくプルプル女の思惑に振り回され、いいように扱われているのが腹立たしいが、聖爾はこの問題の始末をどうやってつけるつもりなのか。俺の誠さんに対する想いを知った以上、婚約解消もやむを得ない、なんて考えているとは思えないけど。
婚約解消──それって聖爾と俺が何の関係もない、ただの同好会仲間になるってことだよな。どこか寂しさを感じている自分に、俺は驚いてしまった。
今さら何を迷ってるんだ。俺の好みは誠さん、あんな軟派野郎はタイプじゃない。ならば、のしをつけてプルプル女にくれてやれ。
迷いや戸惑いを振り切るよう、自分に言い聞かせた俺は練習に本腰を入れた。
誠さんはこの前尺八を手にしたとは思えないほどスジが良くて、同時に始めた四人の中では最初に音を出すことに成功し、簡単な練習曲なら吹けるようになった。
だが、学園祭まで一ヶ月を切った今、いっぱしの古曲なり何なりをこなすには時間が足りない。果たして観客の前で演奏を披露出来るまでになれるかが気がかりだった。
同じ八畳間の端には桃園恭子がいて、こちらも初歩の曲をつまずきながら弾いている。昔習ったといっても初心者同然で、そのレベルは誠さんとどっこいどっこいだから、どちらが有利か不利かは一概に言えない。
少し休憩しようと手を休めると、パシリ青柳がみんなの分の飲み物を買いに行き、聖爾が俺たちに話しかけてきた。
「で、そっちは何の曲に決めたの?」
「六段にした。唄はないし、あれなら、あと一ヶ月でも何とかなると思って」
「そう。それで衣裳は?」
「あ、決めてない」
演奏の方ばかりに気を取られていたけど、女装するという決まりもあるんだった。
「邦楽器を演奏するんだし、君ならやっぱり着物がいいだろうね。借りる当てはあるの? あのときの振袖はキレイだったけど、インパクトがないから舞台には映えないね。どう、ボクに任せてくれないかな。イメージにぴったりの衣裳を手配しておくから」
思いもよらない申し出に、俺は何と答えていいのか戸惑ってしまった。俺たちはコンテストにおいてライバル同士じゃないのか。応援団チームに手を貸して、文句が出るのではと思っていたら案の定、プルプル女がこちらにやってきて「内緒話なんかして、カンジ悪ぅ~い」と言いやがった。
「もう、図々しいんだから。アタシのパートナーにちょっかい出さないでよね」
「別にちょっかいなんか出してねえよ」
聖爾の方から話しかけてきたのだ。俺が唇を尖らせると、それまで黙って尺八を磨いていた誠さんが「口を慎んだらどうだ」と同い年の女子学生をたしなめた。
「美佐緒さんは豊城先輩の婚約者だ。話をして何が悪い」
「フン、何よ。アタシは認めていないから」
何かと忙しい緑川教授は最近、練習に参加しておらず、お目付け役がいないのをいいことに、彼女は好き勝手に振舞っていたのだ。
「そう言う土方くんこそ、ホントはそこのオトコオンナに興味があるんじゃないの?」
オトコオンナって……俺しかいないか……
えっ? ええーっ! それって初耳、俺はつい、誠さんの顔を凝視してしまった。
彼は鋭い目つきで相手を睨むと「ふざけたことをぬかすな」と言ったが、その姿は迫力満点。今が江戸時代だったら、プルプル女は間違いなく切り捨て御免になっていただろう。
「おー、こわっ」
肩をすくめて、彼女は話題を変えた。
「で、演奏曲は六段にしたんですって? そのぐらいがあなたたちにはちょうどいいわよ。アタシは春の海に挑戦するけどね」
「本当にそうするの? 時間もないし、もっと簡単な曲がいいんじゃないかな」
聖爾は困惑した様子で訊いたが、
「あら、どうせならチャレンジしなきゃ」
まったく聞く耳持たないプルプル女の様子に、彼はそれ以上何も言わなかった。
「衣裳は思いっきりセクシーでキュートにするつもりよ。これでバッチリ差がついちゃうわね、ゴメンあそばせ」
高笑いする彼女を俺は唖然として眺めた。セクシーでキュートな衣裳はともかく、箏曲の中で最も有名な春の海を初心者同然のヤツが観客の前で演奏するなんて、とても信じられない。超有名なフレーズを間違えたら素人でもわかるし、プロであっても演奏となると大いにプレッシャーを感じる曲なのだ。
見栄っ張り女の考えそうなことだけど、無謀な挑戦をなぜ、聖爾は許してしまったのか。この際、演奏の失敗は衣裳で補えばいいと考えたとか。果たしてそれで入賞は狙えるのだろうか……俺のモノローグが聞こえたのか、「大丈夫、何とかやってみるよ。失敗したら、その時はその時さ」と聖爾は苦笑いした。
「美佐緒さんをお借りした上に、大変な役目を押しつけてしまって申し訳ありません」
恐縮した様子で誠さんが謝った。あの女と組んでコンテストに出るというのは、かなりの苦労を背負い込むと、誰もが察していた。
「こうするのが最善の方法だったんだから、気にしなくていいよ」
最年長のため、部長のような存在になった聖爾は室内を見渡すと声をかけた。
「さあ、休憩はおしまい。それじゃあ、タケはもう一度さっきのところから練習してみようか。絃方もよろしく」
誠さんはまだ何か言いたげだったが、それ以上は口を開かなかった。
◇ ◇ ◇
その後、ラグビー部の試合やら何やらで、応援団としての活動が忙しくなり、誠さんがこちらの練習に顔を出せる日は極端に少なくなってしまった。そこで彼は自分用の尺八を買い、プロの演奏が収録されている市販のCDまで購入。そいつを参考に、自宅で練習を重ねているらしいと、研究室で会ったという黒岩さんが教えてくれた。
「あっちと掛け持ちじゃ、あいつも大変だよな。それでもさ、六段はけっこう吹けるようになった、って言ってたよ」
その話を聞いて、俺は彼が現れる日を心待ちにしていた。早く会いたい、合奏してみたい。それから、あの時のことを訊きたい、訊けるはずはないけれど……
桃園恭子が漏らした「そこのオトコオンナに興味がある」という言葉、もしかして誠さんは俺を……なんてつい、淡い期待を抱いてしまったが、本当か冗談なのかもわからないし、仮に本当だとしても、俺が聖爾の婚約者だと信じている限り、彼はそんな想いを否定し続けるだろう。複雑な気分だ。
五月も終わり頃になって、誠さんは和室にようやく姿を見せた。紫外線の量が一年を通してもっとも多いという、五月の日差しの下で応援合戦をやったために、その肌は浅黒く日焼けしていたが、それも端正な顔立ちを損ねることはない。久しぶりに会えた喜びのあまり、俺は「御無沙汰しました」の挨拶に「どうも」と返事をするのが精一杯だった。
それからさっそく練習を開始。彼の腕前は思いのほか上達していたが、プロの演奏を聴き続けて耳が肥えた本人は満足していないらしく、もっと合奏をしたいと漏らした。
しかし、和室の使用日も時間も限られている。俺は思い切った考えを提案してみた。
「ウチで練習しませんか? 母と祖母が生田流の教室やってるんで、場所はありますから」
誠さんははじかれたように顔を上げ、その表情には戸惑いの色が浮かんでいた。
「……いや、でも、自分のような者がお邪魔したのでは失礼かと」
最初は遠慮していたが、もう一度俺が勧めると乗り気になったようで、彼とは今週末の日曜日に綾辻家で練習する約束をした。
やった! 誠さんとデート、って、練習するだけなんだけど。
わーい! 二人きりだ、って、場所は俺の家、バアさんとカアさんがいるけれど。
この約束を耳に挟んだ者がいたとは気づかず、待ちに待った日曜日がやってきた。ウキウキ、ワクワク、ソワソワ、朝から落ち着かない俺を見て、御袋は「何やってるの?」と不審の目を向けた。
「いいから気にしないで。お昼に稽古場使うけど、いいだろ」
「あら、熱心ね。やる気満々じゃない」
三曲同好会の活動を始めてから、家での稽古にも復帰し、参加するようになった俺に祖母も御袋も大喜びだったが、同好会に聖爾がいること、ヤツが院生として在学していることは伏せておいた。
ましてや学園祭で女装をして箏を演奏する、なんて話を耳に入れるわけにはいかない。御袋がノリノリで観に来るとわかっていたし、聖爾との御対面にプルプル女が絡んだりしたら、最悪の事態になるのは目に見えている。
同好会の先輩が来るから失礼のないようにと言い渡してしばらくしたのちに、呼び鈴が鳴った。大慌てで出迎えると、ピンクのポロシャツを着た美青年が尺八の入った袋を手に緊張した面持ちで玄関先に立っていたが、その全貌を目にした俺には奇妙な感じがしてならなかった。
誠さんでもピンク色を着るんだ、あまり似合わないな。この前の緑のチェックの方が良かった、いや一番似合うのは学ラン……おっと、そんなこと気にしてる場合じゃない。
「……と、遠いところをすいませんでした」
「いえ、お邪魔します」
互いに堅苦しい挨拶をしたあと、俺は廊下から庭の見える広縁を辿って、母屋の端にある稽古場へと誠さんを案内した。
「素晴らしい庭ですね、まるで老舗の旅館みたいだ」としきりに感心したあと「美佐緒さんはいつもそういう格好でいるんですか?」と、彼にしては意外な質問を口にした。
「そういう、って……ああ、Tシャツですか。そうですね、学校でも家でもこんな感じ」
「ボーイッシュなんですね」
ボーイッシュ、っていうより本物のボーイなんスけど。家では着物を着ているとでも思ったのかな。
障子張りの引き戸で広縁との間を仕切った稽古場は十二畳の広さがある和室で、床の間も何もないがらんとした室内には箏や三味の他にも、胡弓や琵琶などの楽器がまとまって置かれており、反対側の壁沿いには姿見やら衣紋掛けなどの和装用小道具。ここは着付け教室にも使われる場所なのだ。
興味深そうにそれらの楽器を眺めていた誠さんは「あの大きな箏は何?」と訊いた。
「これは十七絃といって、普通の箏の絃が十三本なのに対して十七本あるんです。絃が太くて、低い音がでるので、普通の箏がギターなら、こいつはベース、ってとこかな」
「なるほど、邦楽器は奥が深いね」
あらかじめ用意しておいた箏の調絃を誠さんの音に合わせてやり直すと、俺たちはさっそく合奏練習を開始した。それが何とか形になってきたのを見計らい、一息入れようと手を休めた時、スルスルと障子が開いた。
湯呑みを二つ乗せた盆を手に、ちゃっかりと顔をのぞかせたのは小紋を着た上品そうな中年女性、誠さんに愛想よく声を掛ける。
「いらっしゃい。美佐緒がいつもお世話になって、ゆっくりしてらしてね」
あれほど出てくるなと言っておいたのに。御袋に続いて、なんと品子ババアまでが障子の内側を覗き込み「美佐緒の御学友がいらしていると聞き及びましたが」などとかましながら登場した。
「さあさあ、粗茶ですけどいかが?」
「まあ、志乃さんったら。せっかく我が家へいらしたお客人にはお薄を点てて勧めるのが礼儀でしょうに」
「あら、気がつきませんでしたわ、失礼」
誠さんに取り入ろうと試みるババコンビにイライラを募らせた俺は「いいから引っ込んでいてくれよ」と文句を言ったが、御袋たちは引っ込むどころかニヤニヤしながら、
「なかなかハンサムじゃないの」
「ほんに立派な殿方。今風に申すとイケメンでございましょう?」
「捕り物帳の同心役あたりが似合いそうね」
「若かりし頃に映画館で観た進藤勘十郎様を思い出しますわ」
誰だよ、それ。ババアも同調し、二人して誠さんを品定めしている。
「でも、浮気しちゃダメよ。あなたには聖爾さんがいるんだから」
「うるせえな、余計なこと言うなよ」
「おなごは生涯一人の殿方に尽くすのがさだめですよ」
「だから俺はおな……女じゃねえっ!」
次の瞬間「えっ!」と奇妙な声を上げたのは誠さん本人だった。
「どうかしました?」
「み、美佐緒さんって、もしかして……男?」
その瞬間から物凄く長い沈黙が続いた。長い、長すぎる。そして重い。このままブラックホールに吸い込まれそうだ。
「ほ、ほら、志乃さん、お薄を」
「そ、そうね。ちょっとお待ちになってて」
吸い込まれる前に御袋とババアは部屋から脱出、二人きりになった。
「……知らなかったんですか?」
沈黙を破ったのは俺、この問いかけに誠さんは黙ったままうなずいた。なんてこった、桃園恭子入会の騒ぎの場にいなかった誠さんと黄山は俺の性別にまったく気づかないままだったようだ。いくらなんでもアンテナが低すぎるのではと思うけど?
「すいません。騙すとか、そういうつもりはなくて……」と恐縮する俺に、うつむき加減の誠さんは小さな声で「いえ、自分も認識が足りなくて申し訳ない」と答えた。
「怒ってますよね?」
「そんなことはありませんが」
薄く頬を染めた誠さんは上目遣いにこちらを見た。その態度って、やっぱり俺のことを? 心臓が今にも爆発しそう、頭に全身の血液がまわったみたいでクラクラしてきた。
「いや、ダメだ。先輩と婚約……」
苦悶の表情を浮かべる誠さん、彼を苦しめているのは当然、聖爾との婚約話だ。好きになった相手もホモだなんて、ちょっと都合良過ぎって気もするが、すっかり舞い上がってしまった俺はそこまで考えるはずもなく、
「違うんです! せい……豊城さんとはたしかにお見合いをしたけれど、婚約までは……それに、その、他に好きな人が……」
「他に好きな人がいるんですか?」
誠さんは夢心地の俺を見つめ、さらに何かを言おうとした。が、その時、広縁を小走りにやってくる音が聞こえたかと思うと、またしても御袋が入ってきて、にこにこしながら誠さんの前にちゃっかりと座った。
「お待たせ~。さあ、お薄を召し上がれ」
げんなりしている俺には目もくれず、御袋は薄茶の入った茶碗と菓子盆を差し出した。
「いつもの亀屋吉兆のお菓子を切らしちゃってね、お弟子さんがくれた酒まんじゅうだけど、いいかしら?」
「は、はい、いただきます」
「それから学さん、ってウチの長男なんですけど、今大阪にいて、この前奈良漬を送ってきてくれたのよ。いかが?」
「奈良漬は奈良県じゃないの」
「美佐緒さんは黙ってて。あと、お口直しに甘酒もあるのよ」
「何だか酒っぽいものばっかりじゃん」
俺の突っ込みなど取り合う気もない御袋がそれらの食べ物を目の前にずらずらと並べると、その勧めを断れない誠さんはどこか引きつったような顔をしながらも微笑みを絶やさず、酒まんじゅうを、奈良漬を口にした。
とたんに、彼は真っ赤になった。顔はもちろん、手の先まで赤くなったのを見て俺たちはびっくり仰天、「どうしたんですか?」と呼び掛けると、誠さんは気にしないよう、首を振って合図をした。
「じつはぁ、アルコールに弱くってぇ……お酒とつくものをちょっと飲んだり食べたりしただけで、赤くなってしまうんですぅ」
「あらまあ、どうしましょう?」
うろたえる御袋だが、それよりも俺は誠さんの口調が気になった。この女子高生みたいな甘ったるい語尾の伸ばし方って? 酒まんじゅうで酔っ払ったのか? マジかよ……
「美佐緒、お客様ですよ」
げっ、何でこいつまで現われるんだ?
嬉しそうな品子ババアに案内されてきたのは何と聖爾で、ヤツの登場に大喜びの御袋、混乱する俺、ところが聖爾の姿を目にした誠さんは恥ずかしそうに目を伏せると「きょ、今日はこれで失礼しますぅ」と挨拶して立ち去り、その場は何ともいえない奇妙なムードに包まれてしまった。
「あの方、大丈夫かしら? まあ、本人が帰るって言うんだからしょうがないわね。聖爾さん、せっかくだからお薄でもあがっていらして。準備してきますからお茶室へどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
ババコンビが出て行くのを見計らい、俺は「いったい何の用だよ」と詰め寄った。
「特に用はないけど、この前来たとき御挨拶出来なかったでしょう。今日は休みだし、皆さんお揃いかと思って。御祖母様は初対面だからね、会えて良かったよ」
へえー。何だか嘘臭いけど、俺は敢えてツッ込むのをやめた。
「ところで君たちは合奏の練習だったの?」
「そうだけど、土方さんの具合が悪くなっちゃったからおしまい。だいたい御袋が酒まんじゅうとか、変なもん食わせるから……」
それでも邪魔が入ったという気持ちにはならなかった。こいつに会えてホッとした。そんなふうに感じて戸惑う俺に、聖爾は「僕なら何を食べても大丈夫だよ」と微笑んだ。
──結局、聖爾は夕飯まで食っていった。
……⑨に続く