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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

背徳のカプリッチオ ⑥

    第六章  急転直下

 樹神の危惧が現実となり、オレは今、この場所にいる。時刻はたぶん、夜の十一時ぐらいのはずだ。
 この場所で──恐らく新宿からほど近い、どこかの廃ビルの一室──目覚めたのはほんの数分前、クロロホルムを嗅がされたせいか、未だに頭がぼうっとしたままだ。
 当然ながら電気は通じていないが、床に転がされた懐中電灯が室内の一部を照らしているので、そこに脚が傾いた事務机やら書類棚、ひっくり返ったクズカゴなどがあるのはわかる。以前はオフィスとして使われていたのだろう。
 事務机の御供だったであろうスツールに全身を縛りつけられたオレは身体を揺すって脱出を試みたが、ガッチリと固められたロープが肌に食い込むだけで、無駄なあがきにしかならなかった。
 何のために──
 こんな羽目に──
 遡ること二時間、いや、もっと前だったと思う。
 事件について話したいことがあると呼び出され、まんまと罠にはまったオレはいよいよ刑事失格だ。
 しかしながら、どうして罠にかけられなくてはならないのか、納得のいく理由が思いつかない。
 樹神を犯人扱いして、さんざんつけ回していたから? 
 そこには彼にとって、何か都合の悪いことでも? 
 それとも、まさか……
「お目覚めですか?」
 オレを冷ややかに見下ろしているのはあの原島だった。右手に握った拳銃を左の掌にポンポンと当てては弄んでいる。
 ジャケットの下を探らなくてもわかる。あれはオレの銃だ。今度こそ始末書モノだ、生きて帰れればの話だけれど。
 右手の動きを止めた原島はオレに顔を近づけると、猫撫で声で囁いた。
「もう少しの辛抱ですよ。じきに感動の御対面となりますから」
 御対面の相手は樹神らしい。オレを縛りあげたあと、予備校に呼び出しの電話をかけているのを遠のく意識の中で聞いた。
「…………」
 オレは彼をおびき出す餌かと言ってやりたくとも、さるぐつわを咬まされているので声を出すのは無理、モゴモゴと言葉にならない音だけが発せられる。
 だが、ヤツの思惑どおりにいくのか。そもそもオレなんかのために、樹神が危険な場所へと、わざわざ向かうと思うのか。
 不安と焦りと絶望と、わずかな希望が交差する。
 それからわずかののちに、コツコツと階段を上ってくる革靴の音が近づいてきた。こんな時間に、ここに来る人なんて、そうそういない──
 薄い闇に長身のシルエットが浮かんだ。
 初めて会った時と同じ、黒ずくめの姿をした男は金具がはずれたドアのところで足を止め、中にいるオレたちを認めると、ゆっくりと歩を進めた。
 本当に来てくれた、絶体絶命の状況は変わらないのに、オレは希望の光を見出したような気になっていた。
「お早いお着きで。姫のためなら、たとえ火の中、水の中といったところですかね」
 皮肉を込めてそう言ったあと、原島は樹神からオレに視線を移した。
「これはいったい何の茶番だ?」
 この異常な事態にありながら、樹神は冷静に問いかけてきた。
「ですから、囚われの姫を助けにくる騎士ってのを、この目で見てみたいなと」
「ふん、くだらない。そんな理由でわざわざ呼びつけたのか」
 樹神は吐き捨てるように言ったが、それをふふんと鼻先で笑ったあと、原島は「また格好つけちゃって。誤魔化さなくてもいいんですよ」と答えた。
「すべてお見通しだと言わんばかりだな」
「ええ。あなたは見た目よりも単純でわかりやすい。早々に乗り換えられたと知ったアンディはさぞ、あの世で悔しがっていることでしょうよ」
「乗り換える? まさか」
 しらけた様子の樹神がそう応えると、
「まあ、あんな性悪よりも、この刑事さんの方がずっとマシですから、気持ちはわかりますけどね。何しろ彼は言いたい放題、やりたい放題でしたから」
 そうか、原島のヤツ、樹神が篠宮似のオレを気に入って、身代わりにでもしてると思い込んでいるんだ。
 でも、たかがそんなことで危険な『茶番』を遂行する理由にはならない。そこにいったい何があるというのか。
「御託はいい。さっさとそいつを解放したらどうだ」
「そうはいきませんよ。今度こそ、落胆して絶望するあなたを見てみたいんですから」
「悪趣味なヤツだ。おまえが何をどうしようと、俺は変わらない」
「これでもそう言い切れますか?」
 原島はオレの頭に銃口をピタリとつけた。その冷たい感触に、背筋に寒気が走り、次に冷や汗がドッと噴き出してきた。
 チッ、と樹神の舌打ちが聞こえた。
 まんまと銃を奪われたマヌケめとでも思ったのだろうか、恐怖以上に情けなさと惨めさがオレを落ち込ませた。
 無言の樹神を見やると、原島は「ほーら、彼の可愛い頭が吹っ飛ぶところ、楽しみじゃないですか」などと、恐ろしい言葉を言ってのけた。
 とたんに、冷や汗が蒸発してオレの体温を奪った。
 全身を寒気が襲う。このままじゃ殺される……怖い……
「……二人殺せば死刑だぞ」
「それは捕まった場合でしょ? こいつみたいな、マヌケな刑事しかいない日本の警察に捕まるはずないですよ」
「ま、たしかにそうだな」
 樹神は肩をすくめると、くるりと背中を向けた。
「とにかく、そいつがどうなろうと、俺には関係ない」
 えっ、ウソ? 
 そんな反応って、あり? 
「うるさく見張られなくなる分、せいせいするか。じゃあな」
 ちょ、ちょっと待ってくれよ! 
 このまま置いていくのかよーっ! 
 黒い後ろ姿は振り向きもせずに立ち去ろうとしている。
 信じたくないけれど、そこにあるのは冷たい現実だった。
 樹神に見捨てられた──
 絶望の淵に叩き込まれて、目の前が真っ暗になっていくのがわかる。目尻にじわりと涙が浮かんできた。
 そうだ、所詮オレは篠宮のダミーで、樹神にとってはどうでもいい存在。殺されようが何だろうが、関係ないんだ。
 でも、とても悲しい──
 こんなにも好きなのに──
「いいんですね?」
 原島の上ずった声が聞こえる。
「ああ。勝手にしろ」
 カチャリと耳元で音がする。
 殉職と言えば聞こえはいいが、それは女性や子供を庇ってとか、犯人に対して勇敢に立ち向かってとか、そういう場面でこそカッコイイもの。
 自分の所持していた拳銃をまんまと奪われて撃たれるというみっともない展開で、オレの警察人生は終わってしまうのか。
 しかも、好きだとも言えないまま、その好きな相手に見捨てられて、惨めな骸をさらして……
 こんなにも情けないオレの死体を見つけたら、今まで何のために勉強させてきたのかと、田ノ浦さんはさぞ落胆するだろう。
 あの世から謝るしかない。不出来な新人ですいませんでした、先輩。
 再びカチャリ。
 ああ、もう、おしまいだ──
 静けさの中に銃声が響いて、オレはまぶたを閉じ、死を覚悟した。
 が──
「……ちくしょう!」
 殺気に満ちた声に慌てて目を開ける。
 オレの頭は……何ともない? 
 足元には原島が転がっていた。腹を押さえて苦しそうにしているが、いったい何が起きたというのだ? 
 そうだ、樹神は──? 
「えっ!」
 目の前に立つ樹神の左肩から何かが溢れ、流れ出している。
「血……が……」
 血走った目で息を切らせながら、樹神はオレを縛っていたロープをナイフで切ろうとしていた。
「……手錠はあるか?」
 震えながら頷くと、
「早くあいつを……」
 そう言って彼は唇を歪めた。薄明かりの元でも、顔面蒼白、血の気が失せているのがわかる。
 さっきの銃声、撃たれたのはオレの頭ではなく、樹神の肩だった。
「きゅ、救急車呼ばなきゃ!」
「俺のことはいい、早く、早くヤツを捕まえろ!」
 おろおろするオレに、彼は檄を飛ばした。
「でも……」
「それでも刑事のはしくれか! さっさと逮捕するんだ!」
 手錠は内ポケットの奥にあって、没収されずに済んでいた。
 オレはそいつをつかむと原島に飛びかかり、右手の手首と事務机の脚を繋いだ。これで、もう逃げられない。
 原島も腹の傷から出血していたが、それは樹神がさっきロープを切るのに使った小型のナイフによるものだった。
 原島は樹神の背中に向けて発砲したが、その瞬間に樹神が振り向いてナイフを投げたために、狙いがはずれて弾は肩に当たった。つまり二人は相討ちの格好になったのだ。
 オレが原島を逮捕したのを見届けると、樹神は満足そうに微笑んだ。
「よくやった……」
 そしてそのまま、彼は静かに目を閉じた。

    ◆    ◆    ◆

「はい、始末書&謹慎の安曇巡査、お勤めご苦労さま~」
「あー、もう。それ言わないでくださいよ。その前に犯人逮捕の功績が……」
「民間人を巻き添えにしてな」
「だからそれは……キツイなぁ」
 三日ぶりの出勤、田ノ浦さんのシャレにならない呼びかけに応じながら、オレはひとしきり頭をかいた。
 その後の取り調べで、原島はあっさりと篠宮司殺害を白状。
『川崎市内マンション大学生殺人事件』は急転直下で解決した。
 で、かなりのヘマをやらかしたものの、犯人を逮捕したということで相殺、オレへの処分はわずかばかりの減俸と、三日間の謹慎程度で済んだ。
「しかし、まさかなぁ。殺害動機が嫉妬は嫉妬でも、その対象が篠宮じゃなくて樹神だったとは。僕たちを含めて、警察はとんだ見当違いをしていたわけだ」
「そうですね」
「おまえがガイシャに似ていなかったら、こう早くには解決しなかったかもな」
 オレは苦笑いをしながら、曖昧に頷いた。
 田ノ浦さんが語ったとおり、我々警察は篠宮の浮気性が原因だと思い込み、彼の男関係ばかりを追っていた。
 ところが真相は違っていた。樹神に横恋慕した原島が嫉妬に狂った挙句、篠宮殺害に至ったのだ。
 原島は篠宮と同じく、店に来る男たちに選ばれる立場、つまり二人はライバル関係ではあっても恋愛関係にはならないから、原島の名前は篠宮の男関係におけるチェックリストには挙がらない。
 しかも店では互いに同僚として仲良くやっているように見られていたから、捜査対象としてはあまり重視されなかったのだ。
 もちろんオレたちも原島に対して、まったくのノーマークだったわけではない。アリバイなどは一通り調べたが、そこらはうまく誤魔化したらしく、しかも動機が浮かんでこなかったのが盲点となって、彼に対する捜査は手薄になってしまった。
 それにしても、原島の樹神への気持ちは誰も気づいていなかったらしく、そうと聞かされたサイモンたちはずいぶんと驚いていた。もっとも、誰かが気づいていたら、原島はとっくに捜査線上に上がっただろうが。
 いや、少なくとも篠宮はすべて承知の上で──原島が樹神を好きだとわかっていて──彼を挑発するようなことがあったかもしれない。そうでなければ、いくら何でも殺されるほど、恨みを買うとも思えない。
 オレを縛り上げた場面において、原島は篠宮を「性悪」とか何とか言って罵っていたではないか。
 あの時は恐怖でよくわからなかったけれど、今にして思えば、原島の言葉にはかなり憎しみがこもっていた。樹神を巡るライバルではなくとも、篠宮はいずれ殺されたのではないか。そんな気がする。
 ともかく、一向に振り向いてくれない樹神を苦しめ、尚且つ窮地に陥れるために、原島は「憎い篠宮を殺害して、その罪を樹神になすりつけよう」と企んだ。
 どう言い包めて篠宮の部屋に入り込んだのかは取り調べ中で不明だが、黒ずくめの服装で出向き、マンションの防犯カメラにわざと映るようにしたのは樹神に罪をかぶせる作戦だったわけだ。
 しかし、殺人まで犯したにも関わらず、樹神は篠宮を失ったショックを受けている様子が見られないどころか、篠宮似の若造刑事に関心を示しているとわかり、次にオレをターゲットにした。
 オレに危害を加えれば今度こそ、樹神を苦しめることができる。可愛さ余って憎さ百倍とは、こういう心境を表すのだろう。
 とにかく、原島と事件についてはこれでだいたいわかった。
 だが──
「ところで、もう一度ヤツの見舞いに行くのか?」
「え、あ、はい。今日あたりは面会できると思うんですけど」
「そうか。調書が取れるようになるまでは、まだ時間がかかりそうだが、何か訊けるようなら、少しでも訊いておいてくれ」
「わかりました」

    ◆    ◆    ◆

 都内の総合病院を訪ねるのはこれで二度目だ。最初の日は面会謝絶だと断られ、すごすごと引き揚げたのだ。
 しかしだ、面会の許可が出たところで、どんな顔をして会えばいいのか、何と声をかけたらいいのか、とりあえずどうすればいいのか、何もかもがまったくわからない。
 途中立ち寄った生花店で、見舞いの花束の花をバラにしようか蘭にしようか迷い、けっきょくは真っ赤なバラにしたが、愛の告白みたいだと気づくと恥ずかしくなった。ま、買ってしまったものは仕方ない。
 そいつを抱えて病院へ到着。念のために、受付で病室の番号を再度訊く。
 エレベーターや廊下を行く間にも緊張が高まってきた。
 彼は何と言ってオレを迎えるだろう。マヌケな刑事のお出ましか、などと皮肉っぽく笑う程度ならいいが、おまえのせいでこんな怪我を負ったと責められたら、謝り倒すしかないと腹をくくる。
 入口の名札を確認したあと、失礼しますと小さく声をかけて足を踏み入れると、白いシーツに包まれるように、彼は眠りについていた。起こすのはためらわれて、脇の椅子に腰を下ろす。
 樹神の、ふだんの研ぎ澄まされたような冷たい美しさは影を潜め、今は穏やかで優しい顔をして眠っている。
 オレの憧れだった人──
 あの時以上に好きになった人──
 寝顔を見ているうちに、なぜだか涙が頬を伝った。
 このせつなさはどうすればいい、オレはいったいどうすれば──
 樹神は命懸けでオレを助けようとしてくれたのだ。
 銃口が頭にピタリとつけられている以上、ヘタな真似はできないと。
 オレを庇うようなセリフや命乞いは相手をますます刺激して危険に晒すだけだと。
 そうとわかっていたから、わざと気のないフリをした。
 そんな刑事とは無関係だと言わんばかりの態度に、イラついた原島は自分に発砲してくるだろう。樹神はそこまで読んでいた。
 しかも、オレの代わりに弾を受け止めただけでなく、犯人を逮捕させて処分を軽くしようとしてくれた。罠にかかった挙句に、銃を奪われたのだ、お咎めを受けるのは目に見えているからだ。
 そこまでオレのことを考えてくれた、彼の気持ちを信じていいのだろうか。
 あの時、耳元で囁かれた、傍にいて欲しいという言葉、あれは本心だと思っていいのだろうか。
 篠宮のダミーではなく、安曇来人として想っている、そう受け止めていいの──
「何を泣いている? 俺はまだ死んでないぞ」
 樹神がいつもの不敵な笑いを浮かべながら、ずるそうな目でオレを見上げていた。
「あ、ゴメ……ちょ、ちょっと」
 それから彼はオレの左の手元のプチゴージャスな花束に目をやった。
「見舞いに来てくれたのか。それとも『お話を伺いたい』か」
「いえ、今日はプライベートで」
「そいつは感激だ」
 オレはハンカチで目元を拭うと、パイプ椅子に座り直した。
 こんな場合、最初のセリフは……そうだ、
「御加減はいかがですか?」
 すると樹神は愉快そうに笑った。
「面白いヤツだ」
 ちょっとムカつく。
「こ、これでも心配してるんですよ! だって、その、オレのせいで……」
「怪我ならもう何ともない。順調に回復してると言われたから気にするな。それに、自分のせいだと気に病むのもやめろ」
 そこまで調子よく話したものの、樹神はふっと目を伏せた。
「すべては俺のせいだ」
 言葉が胸にズキリと突き刺さる。
「あの、仕事で来たんじゃないんだけど、確認したいことがあるんです。体調も悪くないようですし、話してもらえますか?」
「何だ?」
「あなたは原島からの電話で、篠宮が殺されたと聞かされたときから、彼が犯人だとわかっていたんじゃないですか?」
 図星らしい。樹神は無言で頷いた。
「なのに、自分が疑われる羽目になっても、我々にそのことを言わなかった。オレが防犯カメラの話をしたときも、黒い服の自分の贋者が原島で、罪をなすりつけようとしていると気づいたはずです」
「ご名答」
「事件のあった日、あなたはマンションを訪れてなどいなかった。それなのに、篠宮に呼び出されたなんて嘘をついて、黒い服の男は自分だと言った。なぜですか?」
 すると樹神はオレを見つめ、そのあと、遠い目をした。
「小鳥以外にも友達ができたじゃないかと言われて、ようやく自信が持てた。あんたもやっと思い出したんだろ、俺のこと」
 いきなり核心に迫られて、オレはどぎまぎしながらも首を縦に振った。
「最初にあなたのマンションへ行ったときから、何となくは……全部を思い出すまでには時間がかかりましたけど」
「それはずいぶんだな。俺は一度たりとも忘れたことはなかったのに。この二十年近く一度も……」
「一度も?」
「初恋の人だからな」
「えっ!」
 オレは息を呑んだ。わけがわからなくなって、頭が大混乱を起こしている。
 樹神はオレの右手を握りしめてきた。男にしては細い指から、ひんやりとした感触が伝わってくるのに、胸がドキドキして身体中が熱くなった。
「あの頃、いつも野球のボールを取りにくる小学生に会えるのを楽しみにしていた。雨で公園に誰も来ない日なんかはかなりへこんだ。それが初恋だとわかったのは、高等部に上がって学校の寮に入れられたときだ」
 彼の通っていた中学というのは厳密に言うと中高一貫教育校の中等部だった。
 その学校では一流医大を目指すためのスパルタ教育の一環として、高等部からは一部の成績優秀者を強制的に入寮させ、丸一日勉強漬けにするという。
 彼もそういった方針に従わされて「緑のお屋敷」から姿を消したのだった。
「寮生活は最悪だったが、何よりあの少年に会えなくなったのが一番辛かった。でも、不自由な生活の中で彼の情報を得るのは不可能だった。せめて名前を訊いておけばよかったと後悔した」
 そこでオレはようやく口を挟むことができた。
「友達はみんな、オレの名前を呼んでいたけど?」
「アズミライトか。まさかそういう名前だったなんて、あのときは考えもつかなかった。俺はあんたのポジションがライトで、そう呼ばれていると思っていたんだよ。レフト、センター、ライトの、な」
「あっ」
 合点がいった。
 再会した日に、彼にしつこく名前を訊かれ、何やら一人で納得していたのはそのせいだったのだ。
「まったくもって、笑い話だな」
 樹神はまたも愉快そうに笑い、オレの手を握る指にますます力を込めた。
「あれから俺の心にはずっと、あのときの小学生がいた。もちろん何ひとつ手がかりはないから、面影だけを追っていた」
 当初の希望どおり都内の医大に進学、国家試験にも合格したのはいいが、子供時代の自由を奪われた反動で父親に反目した彼はとうとう勘当され、いろいろあって医師の道を断念。予備校講師となったらしい。
 おまけに、初恋が小学生の『少年』だったお蔭で、女性を対象とみなせなくなった樹神は幾多の男を相手にする恋愛遍歴を積み重ねたようだ。
「生活が荒れ、すさんでいく気持ちの中で、もう一度会いたい、その願いだけが膨らんでいた。篠宮の面倒をみるようになったのも、あんたに似ていたからだ」
 オレは篠宮のダミーではなく、篠宮の方がオレのダミーだったのだ。
 彼が篠宮を語る時の、これまでの引っかかりはすべてそこに起因していた。
「じゃ、じゃあ、篠宮はそのことを?」
「自分に似た誰かの身代わりだとわかっていたよ。いや、そこらを承知で、俺を利用していたな。あいつが起こしたトラブルの尻拭いなど、何度やったかわからない」
 利害関係が一致した二人はそれなりにうまくいっていたのだ。
「だから偽りの恋って」
「ああ。俺はあいつを通して、あんたを見ていた。成長したあのときの小学生はこんなふうに怒ったり、笑ったり、泣いたりするんだろうなって。もっとも、実際のあんたはもっと品行方正だと思いたかったし、実際にそのとおりだったがな」
 品行方正ではない篠宮が殺されたのは当然ながらショックだったが、いつかはそんな結果になるのではという危惧も抱いていたらしい樹神はまた、自分が疑われる可能性も充分承知していた。
「目の前に現れた刑事を見たとき、俺は心底驚いた。その名前と、厚木に住んでいたと聞いて、これは本物だと確信した。世話になった御礼として、あの世の篠宮が引き合わせてくれたとさえ思った」
 そう語りながら、オレを熱い目で見つめる彼の想いが伝わってくる。
 二十年も前の憧れがこんな形で実を結ぶなんて。ダミーではない、このオレこそが本命だったんだ。
 それがハッキリとわかると、嬉しさと照れ臭さとで、オレの胸の内はグチャグチャになってしまった。
「さっきの質問に答えよう。前にも言ったが、俺が犯人ではないとわかったら、警察は他の容疑者の捜査に移れとあんたたちに命令するのが当然だ。つまり、二度と俺のところには来なくなる」
 それで「マークされなくなると寂しい」なんて言ったのか。
「かといって、あんたは俺のことなんぞ忘れているようだし、名乗ったところで、だから何なんだといなされるのがオチだと思うと、言い出せずにいた」
 その気持ちは同じだった。オレたちはお互いに臆病になっていたんだ。
「ともかく容疑が晴れたら、俺たちを結びつけるものは何もなくなってしまう。やっと巡り会えたのに、それはないだろう」
 だからといって、犯人のふりをされても困るんだけど。
 そのせいでオレは何日も見張りを続ける羽目になり、結果として捜査がかく乱されたからだ。
 オレが少し拗ねたような口調でそう責めると、
「そいつは済まなかった」
「あ、また本気で謝ってないし」
「もちろん冤罪になるのは勘弁だし、そこらはジレンマだったな。まあ、いつかは真相がわかるだろう、警察がまごまごしているようなら、真犯人のヒントでも出そうと安易に捉えていたが……よくよく考えると、そう簡単に済む問題じゃないとわかった」
 そこまで話すと、樹神は深いため息をついた。
「殺人は許されないが、その責任の一端は俺にもある。俺があんたの身代わりにと、篠宮をかまわなければ、原島は篠宮を殺すこともなく、篠宮も命を落とさずに済んだかもしれないからだ」
 樹神の本心を知らない原島は篠宮に憎悪を募らせていた。
 なんであんな性悪の浮気者が樹神の愛情を独り占めしているのか。彼を利用しているだけの身勝手なヤツのくせにと、納得がいかなかったのだろう。
 だが、いくら篠宮を葬ったところで、それはコピーを破壊しても原本が残っているようなもの。オレの存在がある限り、樹神が原島に振り向くことはない。
 報われない──哀しすぎる。
「俺のせいで、原島は手を汚した。そう考えると、ヤツを告発するような真似はできなくなっていた。俺が罪を償うのなら、それも仕方ないとさえ思うようになった」
 その考えは結果的に原島を庇うのと同じで、ゆえに田ノ浦さんは「樹神は誰かに弱みを握られているか、相手を庇っている」と看破したのだ。
「罪を償うって、そんな」
「あんたにフラれて、ヤケになったせいもあるかな」
「フ、フラれたなんて」
「俺を拒否したあと、犯人はおまえに決まってるって、決めつけたじゃないか」
 篠宮との過去に嫉妬していたなんて、口が裂けても言えない。オレは慌てて言い訳を探した。
「だ、だから、それは……あ、そうだ。篠宮に呼び出されたって嘘をついたのはオレが犯人呼ばわりする前ですよ? フラれてヤケになったなんて、いいかげんなこと……」
 ムキになるオレを「わかった、わかった」となだめた樹神はさらに、
「まあ、俺の態度も悪かったからな。何しろあんたに再会した喜びで浮かれまくってたんだ。酔って、あれこれ破廉恥な真似をしたから嫌われても仕方ない」
 破廉恥などと古臭い言葉を口にしたあと、彼は少し照れたように笑ったが、そんなふうにはにかんだ笑顔も魅力的で、まともに目を合わせられなくなった。
「原島のところにも聞き込みに行ったんだろ? ま、捜査の方法としては当然の手順だろうが、あいつはそこで気づいてしまった。篠宮そっくりの刑事が樹神健吾を張り込んでるってね」
 原島がわざわざ予備校まで訪ねてきたあの時、彼は篠宮がいなくて寂しいだろうとか、みんなで励ますから、店に来たらパーッとやろうといったような話をしたようだ。
 店に来てくれ云々というのはもちろん口実で、篠宮亡きあとの、樹神の様子を探るのが彼の目的だったのだが、そこで樹神は「平気だから大丈夫だ」と軽くいなしたらしい。
 あんなに愛していた(と原島は思い込んでいた)篠宮を失ったのに、どうして樹神は平然としていられるのか。
 樹神と別れた直後、その理由を原島は完全に把握した。
 篠宮似の刑事の存在だ。
 帰り際に廊下で会話するオレたちを見た原島の全身から、殺気が立ち上っていたのを目撃したため、樹神は顔を強張らせたのだ。
「篠宮に向けられていた憎しみがいずれ、あんたに向けられる。そうとわかっていたのに防げなかった俺を許して欲しい」
「いえ、それは……」
 命を助けられたのだ。
 許すどころか、感謝しきれないほどだ。
 オレは黙って頭を下げた。
「これで全部話した。質問にも答えた。今度はあんたの番だ」
「番……って」
「あんたの気持ちを聞かせてくれ」
「え……」
 ここでありったけの想いを告げるべきなのだろう。
 それなのに、こんなにも大切な場面なのに、オレは言葉に詰まってしまった。
「この手が払いのけられないってことは、脈ありと思っていいのかと自惚れていたんだが……やはりダメか」
「ち……違うっ!」
 自分でも驚くほど大声を出したあと、オレは花束をシーツの上に置くと、右手に重ねられた手を左手で包み込むようにした。
「『緑屋敷の王子様』って呼ばれていたの、知っていましたか?」
「俺のことか? いや」
「あんなお兄さんがいたらいいな。小鳥たちを友達って呼んでいたけど、オレも友達の仲間入りさせて欲しいな。そんなふうに思っていました。率先してボールを取りに行ったのも、その人に会いたかったから。王子様はずっとオレの憧れだったんです」
 目を見開き、いくらか驚いた様子の樹神を見やって、オレは続けた。
「王子様が突然いなくなって、もしかしたら引っ越しでもしたのかと思った。とても寂しかった。あの頃はそんな気持ちの正体が何なのか、よくわからなかったけど、今ならわかる。オレにとっても、あなたこそが初恋の人だったと……」
 オレは樹神に顔を近づけた。
 唇がそっと触れ合う。
 今までで一番長くて、一番幸せなキス──
                                ……⑦に続く