第五章 小鳥以外の友達
心を鬼にして、鉄の意志で捜査にあたるオレはその日も樹神を張り込んでいた。
今日の服装は黒いスーツにロイヤルブルーのワイシャツ、シルバーのネクタイにお決まりのサングラス……と、かなりド派手。
どう見ても先生に相応しくない、職業を間違えている格好だけど、イイ男は何を着ても許されるというか、その男ぶりを引き立てているのだから、大したものだ。
さて、彼はふだんどおりに予備校の事務所へと出勤し、そこから講義を担当する校舎へと向かった。当然あとを尾ける。
オレに尾行されていると承知の樹神はこちらの存在を無視するかのように、無表情のままでさっさと車に乗り込んだ。
教室に入るのを確認すると、出入り口が見えるところで待つ。もちろん事務所には許可を得ているが、彼が疑われていると捉えられるのもマズイと思い、理由を説明するのに気を遣った。
「……したがって、ここのxに代入する数値はどうなるか、わかるか?」
黒板に数式を書いて何やら懸命に説明している姿が見える。
これは仕事だ、容疑者に対する張り込みだと自分に言い聞かせているものの、それで済むはずはない。
きっちりキメているはずの後頭部の髪が少し乱れているのも、サングラスをはずして学生たちを見つめる瞳が思いのほか、優しいのも、彼らに語りかける声が見た目以上に情熱的なのも、オレの想いを揺さぶるには充分だった。
そうだ、あの頃もあんなふうに優しい瞳で笑いかけてくれたっけ。
あの人が、樹神健吾こそがかつてオレの憧れだった「緑屋敷の王子様」……
だが、確信を得たものの、それを口に出して本人に確かめる勇気はなかった。
確かめたとして何になるというのだ。オレはあの時、ボールを取りに庭へ入らせてもらった小学生ですと名乗ったところで、覚えているとは思えない。
覚えていたとしても「そうだったのか、懐かしいなあ」などと言うはずもないし、だからどうしたとあしらわれるのがオチだ。
彼がオレにちょっかいを出してきたのは篠宮司に似ているから、ただそれだけ。恋だろうが憧れだろうが、こちらの想いは届かない。何だか虚しくなってきた。
昼休みになったが、樹神は校舎の外に出る様子がないので、仕方なくその場にとどまる。田ノ浦さんが昼メシを差し入れてくれた。
やがて樹神は代々木校舎に移動。そちらでも見張りを続けているうちに夕刻になったが、そこでオレはとある人物がやってきたのを目にした。
ひょろりと痩せた身体に長い髪、やけに顔色の悪い、中性的な美青年はたしか、篠宮のバイト先の同僚・ニック原島じゃないか。
彼のような人種が大学受験予備校まで来るからにはもちろん、樹神に用がある以外の何ものでもない。
篠宮の事件があってから、樹神が店に顔を出さなくなったせいだろうが、勤務先にまでわざわざ訪ねてくるなんて、いったい何の用件だろう。
この時間、樹神はここの校舎に──新宿に近い代々木──勤務と把握した上での行動かと考えると、いくから驚きを感じるが、それが商売というものか。
あっ、これはもしや、オレたちの張り込みの理由──事件関係者との接触じゃないか。ピリリと緊張が走る。
やがて教室を出て、事務室に入ろうとした樹神をつかまえた原島が何やら話しかけているのが見えた。
だが、オレのいる位置までは声が届かない。これでは張り込んでいる意味がないと、イラつく。
原島の問いかけに対して、うるさそうにするのかと思いきや、樹神は二度、三度と頷くポーズを見せた。
何に同意しているのか。まさか、懲りもせずに「また店に行くよ」などと約束しているんじゃないだろうな。
仲間を殺したかもしれないヤツを誘う方もどうかしているけれど、殺人の疑いをかけられているのに、被害者が働いていた店に平然と出向くなんて。
そんなことやってる場合じゃないだろうと、決めつけては勝手に憤る。エネルギーの無駄遣いでしかない。
そうこうするうちに二人の会話は終了したようで、樹神は軽く手を振ると、原島に背を向けた。
と、その瞬間、原島の表情が悲痛に歪んだのが見えた。
いったいなぜ?
次に彼はこちらに視線を向けたので、オレは慌てて観葉植物の鉢の陰に隠れた。
オレの存在に気づいたのか否か、原島は驚きとも戸惑いともいえない、何とも複雑な顔をしている。
そのまま通り過ぎる男を見送ると、いつの間にか樹神が後ろにいた。
「……びっくりした」
「見張っていた相手の動きに気づかないようじゃ、世話はないな」
皮肉っぽく笑う樹神に「あの人、例の店の従業員ですよね。何の用で来たんですか?」と問いかけると、彼は肩をすくめるポーズをとった。
「あれ以来、客足が遠のいて困ってるから、飲みに来てくれだとさ」
マジで?
それってオレの想像した「また店に行くよ」のノリ、そのまんまじゃないか。いくら何でも嘘臭い。
そもそもだ、相手の職場まで訪ねてくる理由とは思えない。ゲイバーへのお誘いを職場に持ち込むなんて迷惑千万、塩を撒いてお引き取り願いたいはずだ。
「本当にその、来店へのお誘いだけだったんですか? じつはもっと重要な話があったんじゃ……」
「そんなもん、あるわけないだろ」
「そういえば前に電話をくれたのも彼でしたよね。番号知ってるんですよね? こう言ってしまっては何ですが、それだけの内容ならふつうは電話で済ませるでしょう。わざわざ職場に出向いてまで話すことじゃないと思いますけど」
すると樹神はしれっとして答えた。
「俺の顔が見たかったんだろうよ」
はぁっ?
何だよ、それ!
思い上がってんじゃねーよっ!
樹神の言葉に隠された意味など、未熟な刑事にわかるはずもなく、またしてもオレの中のジェラシーに火が点いた。
ここは何か言い返してやらないと、どうにも気が治まらない。
「ふうん。電話くれたり、わざわざ誘いにきてくれたりして、ずいぶんと親切な人ですね。小鳥以外にも友達ができたじゃないですか、進歩しましたね」
そのとたん、樹神は目を大きく見開くと、オレの両肩を両手でつかみ、こちらの顔を穴の開くほど見つめてきた。
「な、何か?」
あまりの迫力にたじろぎ、二、三歩あとずさる。
間近に彼の顔があって、心臓が飛び出しそうなほどドキドキしているけれど、視線を逸らすことができない。
『子供の頃から憧れていました』
などと、思わず口走ってしまいそうな自分が怖くなる。
『再会してはっきりわかりました。オレ、ずっとあなたのことが好きだった』
うわぁぁ、何だよ、このセリフ。
照れと恥ずかしさとやり切れなさで、胸がいっぱいになってきた。
『好きです、好きなんです』
言えない。言えるはずもない。心が今にもポロポロと壊れてしまいそうだ。
樹神の方も何か言いたげに口を開きかけたが、オレの背後に目をやったとたん、顔を強張らせた。
「どうか……した?」
「いや、何でも……」
ぎこちなく空咳をしたあと、オレの肩にあった両手を離した彼は少し考える仕草を見せた。
「それより、拳銃はいつも持ってるのか?」
「えっ?」
真剣な表情からして、ふざけている様子はないが、いきなりの質問に戸惑う。
「防弾チョッキってのはいつも身につけているのか」
「いえ、そこまでは」
どうしてそんなことを質問してきたのだろうか。
いぶかしむオレから視線をはずすと、彼は独り言のように呟いた。
「ま、これでも刑事のはしくれだしな」
「な、何ですか? いったい何が言い……」
向けられた瞳の切なさに、オレは一瞬言葉を失った。
「もしものことがあったら……」
「もしもって?」
ブーン。ブーン。
なんというタイミング、マナーモードにしていたポケットの中のケータイが振動を始めた。
慌てて取り出している間に、「樹神先生」と呼びかける声が聞こえた。質問があるのか何なのか、予備校の学生数人が控えているのが見えた。
「はい、安曇です」
いったん戻ってこいという命令に、うわの空で受け答えをしながら、目の端で樹神の姿を追う。
彼は学生たちにさらわれるように教室の中へと消え、オレは後ろ髪を引かれる思いでその場をあとにした。
こうしてオレたちの小劇場は唐突に幕を下ろしたが、次の幕が上がる時、オレは──オレたちは驚きの結末を迎えることになると、その時には予想できるはずもなかった。
……⑥に続く