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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

背徳のカプリッチオ ①

    第一章  あいつは容疑者


「おっ、帰ってきたぞ。ヤツだ」
 田ノ浦(たのうら)警部補の押し殺した声を耳にして、全身に緊張が走る。
 横浜市港北区にある高級マンション脇の駐車場にて、張り込みを始めて三時間あまり。太陽がすっかり西に沈んでしまった今、ようやく重要参考人のお出ましだ。
 本部事務所の説明によると、今日の授業は都内の二つの校舎で午前と午後一番の二コマのみ。
 夕刻には自宅へ戻る予定じゃなかったのかとも思うと、ちょっと納得いかないけれど、予定は未定ともいう。待つことを苦にしていたら、この仕事は務まらない。
 さて、ここからがスタートだ。
 オレは武者震いをしながら、黒塗りのセダンから降り立った男を食い入るように見つめた。
 すらりとした長身、均整のとれた体格に黒革のジャケットと、同じく黒革のパンツがよく似合っているけれど、どこをどう見ても堅気の人には思えない。
「本当にあれで予備校のカリスマ講師なんですか?」
 などと問うと、先輩に頭をピシャリと叩かれた。
「先入観はすべて捨てろと教えただろう。ウチにきてどれぐらい経つんだ? いつまでも新人の気分でいられちゃ困るんだがな」
「すいません」
 また怒られてしまった。
 進歩のないヤツだと呆れられているのがわかると、ささやかなプライドがしぼんでいくのを感じる。
 念願の捜査一課に配属されたからには先輩たちを唸らせる活躍をして、手柄のひとつやふたつでも挙げてみたい。
 ゆくゆくは警部、警視と、とんとん拍子に昇進……そんなオレの野望は時を経る毎に、尻すぼみになっていく気がする。
「よし、行くぞ」
「はいっ!」
 オレはスーツの裾を翻し、革靴の音をアスファルトに響かせながら、先輩刑事と肩を並べて男の元へと駆け寄った。
「樹神健吾(こだま けんご)さんですね?」
 上司の問いかけに、男はこちらを向くと「そうだが」と覇気のない返事をした。
「神奈川県警捜査一課の田ノ浦です」
「あ、安曇です」
 揃って警察バッジを示し、身分証明のポーズをキメる。
 すると彼は動揺するでも怯えるでもなく、オレたちの顔写真と本人をそれぞれ比べるように見たあと、なぜか首を傾げた。
「昨日、川崎市内で起きた殺人事件についてお話をお訊きしたいんですがね。さほどお時間は取らせませんから」
 警察に話を訊きたいと打診されれば、しかも、よりにもよって殺人事件について問われれば、自分が疑われているというのはピンとくるはずだが、樹神健吾は動揺する様子もなく頷いた。
「立ち話も何ですから、どうぞ」
 自室へ案内するつもりらしくオレたちを促すと、彼は平然とエントランスの方へ歩き始めた。
 田ノ浦さんと顔を見合わせ、辺りに気を配りながら、あとを追う。
 磨き上げられた大理石調の床を進んだ先に臙脂色のエレベーターの扉が見える。さすがに高級マンションと銘打つだけのことはあるなと、素直に納得してしまう豪華さだ。
 こんなにも賃貸料の高そうなところに住めるなんて、予備校勤務がそこまで高給取りだとはと、やっかみ混じりで感心したけれど、そこはカリスマならではの待遇らしい。
「数学の樹神」と聞けば、学生たちはまるで偉いお坊さんのように崇め、説法ならぬ授業を聞くために教室は満杯。
 彼らの間における人気に比例して給料も高くなるという、講師としての力量が評価に直結する世界、プロ野球のような実力社会というわけだ。
 エレベーターは五階に到着、廊下を経て玄関ドアの前に立った樹神は手早くオートロックを解除したあと、オレたちに中へ入るよう勧めた。
「お邪魔します」
 足を一歩踏み入れてまず、そのモダンな造りと内装に目を見張った。
 アイボリーの壁を照らす間接照明、床に敷き詰められたグレイのラグ、窓にはこれまたグレイの遮光カーテンが下がっている。
 モノトーンで統一されたシンプルな家具の中にあって、値段の張りそうなオーディオセットが部屋の中央を占拠していた。
 微かに漂うムスクの香り、隅に置かれた観葉植物の配置も効果的で、これはまさにモデルルームのよう。
 何て生活感のない部屋なんだろうと、オレは呆れて辺りを見回した。
「そちらへどうぞ」
「では遠慮なく」
 質の良さそうな革張りのソファに並んで腰を下ろすと、樹神は田ノ浦さんと対峙する格好で、テーブルを挟んで反対側のソファに座った。
 それから「ちょっと失礼」と言い、タバコに火をつけたが、明るいところでハッキリと目にする彼の素顔に、オレは心臓がドキリとするのをおぼえた。
 このときめきは何なんだ? 
 男が男に見惚れるなんて、いったい……
 いやいや、同性とはいえ、これだけの美形を前にしたら誰だって見惚れるだろう、などと自分に言い訳をする。
 栗色のウェーブがかった髪、ややつり気味の眉に切れ長の目、細く高く通った鼻筋と薄い唇。端正で日本人離れした顔立ち。
 そんな樹神の顔、間近で見る彼の顔は肌が青白い上に整いすぎていて血が通っていない、まるで人形のような冷たさを感じさせた。
 それでいて、その顔に見覚えがあるような気がしたのは不思議だった。
 初対面の相手だろうに、どうして馴染みがあるのか? 
 もしや、どこかで会ったのかも……いや、そんなはずは……覚えてないだけなのか。自信がなくなってきた。
 そこでオレは再度立ち上がった樹神がオーディオを操作する姿を見て閃いた。
 わかった、ゲームだ。
 最近流行りのゲームソフトに出てくるキャラクターは皆、こんな感じの顔立ちに描かれていたっけ。
 そうだ、そのせいだと納得したあと、それでもまだ、何かを忘れているようで気分がすっきりとしなかったのだが、その間にも田ノ浦さんは着々と仕事を進めていた。
「篠宮司(しのみや つかさ)さん、ご存知ですよね?」
 上司の内ポケットから取り出されたのは一枚の写真だった。
 流行りの髪形とファッションに身を固めてにっこりと笑う、やや痩せ型で色白の美少年の全身が写っている。
 テーブルの上に置かれた写真にチラリと視線をやったあと、美形のゲームキャラは「ええ」とだけ答えた。
「この篠宮さんですが、一昨日の夜、自宅で殺害されました」
 写真の人物の名前は篠宮司という二十一歳の大学生で──年齢的には美少年というより美青年か──川崎市内で起きた殺人事件の被害者だ。
 彼は昨日の昼頃に自宅マンションで遺体となって発見されたのだが、その後浮上した幾多の容疑者の中でも、特に疑わしい人物の一人として、樹神の名前が挙がったのだ。
 知り合いが殺されたと聞かされたのに、大した反応を見せない樹神を見やると、田ノ浦さんはカマをかけるかのように、
「そのご様子では、既に承知していらしたとお見受けしますが」
「昨夜、連絡を受けて知りました」
「どなたから?」
「原島という、彼のバイト先の同僚です」
「そうですか。さぞ驚かれたでしょうね」
「ええ、まあ……」
 田ノ浦さんのしらじらしい問いかけに、樹神はポーカーフェイスで淡々と応じる。
 その胸の内では動揺しているのか否か、とうていつかめそうになく、オレは二人のやり取りを見守るばかりだった。
 相手の反応を窺いながら、田ノ浦さんは事件の経緯を説明し始めた。
「第一発見者は連絡が取れないのを心配した同じ大学の友人で、死亡推定時刻は前日の午後十一時から午前二時の間、死因は刺殺によるもの。財布がなくなっていたので強盗の線も考えられましたが、現場の状況から物取りに見せかけた、顔見知りによる犯行と断定されました」
 樹神は無言のまま、タバコをくゆらせている。
 オレはそんな彼の一挙一動に目を配ったが、無表情な面からは焦りや動揺といったものはまったくといっていいほど、感じられなかった。
 ヒーリングミュージックとでも称されるのかどうか、詳しくは知らないけれど、癒し系の音楽がゆったりと流れている。
 だが、その柔らかなメロディはここで交わされている、殺伐とした内容の会話と噛み合っておらずに場違いな感じがした。
「そういうわけで、生前の被害者と交遊関係があった方々にそれぞれお話を伺っています。あなたとは特に親密だったと、お聞きしたんですがね」
「親密、か」
 ようやく口を開いた彼はそれから自嘲気味に「遠回しな表現をせずに、単刀直入に言ったらどうです? おまえが殺ったんじゃないのか、って」などと、こちらを挑発するかのようなセリフを言ってのけた。
 その瞬間、場が何ともいえず重苦しい沈黙に包まれた。
 開き直りともとれる発言に一瞬怯んだが、出だしから相手のペースに巻き込まれるわけにはいかない。
 オレは「それじゃあ、犯行を認めるんですか」と言いかけたが、田ノ浦さんに止められた。とんだ勇み足をやってしまった。
「篠宮さんとは恋人同士だったと認めるんですね」
「調べがついているんでしょう? この期に及んで隠し立てなんかしたって、無駄じゃないですか」
 田ノ浦さんの仕切り直しに対して、面倒臭そうに答えたあと、樹神は二本目のタバコをくわえた。
「たしかに隠し立てすると、心証が悪くなりますからね」
「賢明な判断だと褒めてください。とにかく、恋人ではなかったけれど、深い関係にあったことは認めますよ。ついでに彼が教え子だったことも、バイトをしていたバーに通っていたこともね」
「それで、バイトの関係者から連絡が入ったんですね」
「ま、そうです」
 深い関係──目の前にいるこの美形が、どんな女性でも振り向かせることのできそうな彼が男を恋愛の対象としているゲイだとはと、オレは改めて樹神を見た。
 男から見ても惚れ惚れするほど美しいのはもちろんだが、どこか陰鬱で投げやりな感じがする。
 これまでの人生における何らかの出来事が彼の生きる道に暗い影を落としているのでは。何の根拠もないのに、そんなふうに勝手な想像をしてみる。
 彼の過去を覗いてみたいという、野次馬な好奇心を諌めていると、樹神はこちらにチラリと視線を向けた。
 心の内を見透かされたようで、きまりが悪くなる。
 田ノ浦さんは表情を変えずに質問を続ける。さすがベテラン、それに比べてオレはまだまだ修業が足らない。
「今、恋人ではないとおっしゃいましたが、お二人の関係はどう表現すれば……」
「敢えて言えばセフレ、セックスフレンドですかね。それとも、偽りの恋ってやつだったのかな」
 偽りの恋とはまあ、何とも都合のいい表現じゃないか。
 相手は元教え子、それをセフレだなんて。けっきょくは後腐れのない関係でいたかったというのか。
 きわどい単語をさらりと口にする、ふてぶてしいとも思える態度に、今度は反発をおぼえた。
 たとえ恋人ではなかったとしても、死んでしまった相手に対して、そんな、涙ひとつ見せるでもない冷淡な反応はないだろう。身勝手すぎる。
 修業不足からか平静を装っているつもりが、憤りが顔に表れてしまったらしい。
 樹神は再びオレに視線を向けた。こちらの反応を窺っているような素振りだった。
 まさかこいつ、本当に犯人なのか。本心を見抜かれまいと、感情を露わにしないよう留意しているのかも。
 初めて見た時から一筋縄ではいかないと感じたけれど、これはますます気を引き締めてかからなきゃならないぞと、オレは自分に言い聞かせた。
「篠宮さんとは予備校で知り合われたことになりますね?」
「ええ。ウチの学校は予備校生、つまり浪人生だけではなく、高校生を対象とした講義も行っていて、長期の休みには一般向けに大学受験対策用特別講習ってのを開催しているんですけどね。高三の夏休みに彼が参加していた、それが出会いってやつですよ」
「なるほど」
「熱心に質問してくる、勉強好きな学生かと思ったんですが、そのときはまさか、そっちの趣味があったとは知りませんでした。蛇の道はヘビってとこかな」
「その夏から篠宮さんとのつき合いが始まったわけですね」
「正確には翌年の四月です。出身は長野で、夏休み中は東京の親類の家から通っていたと聞きましたけど。こっちの大学に進学した、夏期講習の頃が懐かしい、会って欲しいと連絡を貰いました」
 自分のことを同好の士であると見抜いていたらしいと言い、樹神は皮肉な笑みを浮かべた。
 あれ……? 
 彼が初めて笑うところを見たとたん、さっきの、何かを忘れているような、気持ちの引っかかりみたいなものが甦ってきた。
 こんな表情をどこかで──すごく懐かしくて、幸せな想い出の中で見たことがある。
 どこかで……いったいどこで? 
 ああ、思い出せない、もどかしい。
 勝手に悩むオレを置き去りにして、メモを取りながら「なるほど」と相槌を打った田ノ浦さんはさらなる追及を続けた。
「バイト先のバーにも通われていたとお話しされましたが、そこはもちろん……」
 新宿二丁目にある店だと、相手はまたしても気のない調子で答えた。
 新宿二丁目といえば言わずと知れたゲイのメッカ。
 そんな場所に出入りしていたとなれば、交遊関係イコール男同士の、肉体関係を伴う間柄に他ならない。
「彼が二丁目でバイトを始めたきっかけは何だったのでしょうか?」
「趣味と実益を兼ねてといったところじゃないですか。自分でさっさと出向いて決めてきましたよ。都会暮らしは金がかかるとぼやいていましたから」
「お金に困っていたのであればまず、社会人で収入も多いあなたに援助をお願いするような気がしますけれど、そのあたりは?」
 樹神は鼻白んだような顔をした。
「援助交際という意味でおっしゃっているのですか? それならハズレです。もちろん小遣いをやったり、食事を奢ったりしたことはありましたけれど、金で相手を束縛するのはポリシーに反するのでね。その代わり、店でボトルを入れたりして、売り上げに貢献してやりましたよ」
「それはまた、間接的な援助ですね」
「俺が少しばかりの金をやったところで、バイトを辞める気にはならなかったと思いますよ。さっき、趣味と実益を兼ねているって話したでしょう? あいつは一人の相手で満足できるようなヤツじゃなかったからね」
 樹神の話はおおよその部分でこれまでの調査報告と合致していた。
 多情なところがあったらしく、被害者は店を訪れる幾多の男たちと性的な関係を結んでいたのだ。
 男娼であったという報告も聞いているが、そうなると大学などよりも、二丁目という特異なバイト先の人間関係の方が怪しい。痴情のもつれに怨恨、金銭トラブルといった、殺害動機が幾つも考えられる。
 そこでバーの常連客などから被害者と関わりのあった人物をリストアップしてみると、出るわ出るわ、捜査線上に浮かんだ容疑者の数は片手では足りないほど。
 現場に残る証拠は数少なく、また、周囲の証言も犯人を特定できるほど明確なものがないため、早期の段階でホンボシの絞り込みを行なうべく、手分けをしてあたることにしたわけで、オレたちが樹神の担当になったという次第だ。
 田ノ浦さんは身を乗り出すようにして、次の質問をぶつけた。
「失礼ですが、あなたという相手がありながら、そういった状況にある篠宮さんに対して不満などは抱かず、店へ訪ねて行くのも抵抗はなかったのですか?」
「所詮はセフレですから、ジェラシーなんてものは生まれようがないでしょう」
 お互いに割り切った関係だったと話しているが内心では面白くなかった、金のために身体を売ったり、平然と浮気をしたりする相手への嫉妬心から殺したのではという動機を探る質問だったが、あっさりとした返答に拍子抜けする。
 もちろん、樹神がすべて本当のことを話していると頭から信じているわけではないし、一から十まで彼の意見に賛同するつもりはない。
 だが、気持ちの上での結びつきがなければ、つまり好きだとか愛しているといった想いがそれほど強くなければ、嫉妬心も生まれてはこないという感情はわかる気もする。
 どんなに乱れた生活を送ろうと、こちらに遠慮はいらないから、勝手にやってくれとなる。そういうことだ。
「篠宮さんを恨んだり、敵意を持ったりしている人に心当たりは? 例えば店の常連なんかにいませんでしたか?」
「さあ、店では楽しそうにやっていましたけど。ただ、八方美人というか、誰に対しても調子がいいから、周りにいろいろと誤解を与えていたかもしれませんね」
「その誤解によって、誰かに殺される羽目になることも有り得ると?」
「有り得る……でしょうね」
「そうですか。わかりました」
 田ノ浦さんはいったん矛先を収めたが、別の角度からの攻撃を再開した。
「それでは昨夜から今朝まで、どこにいらっしゃったのかを教えていただけますか」
 いわゆるアリバイ調べに対し、樹神は午後九時に五反田校舎でその日最後の授業を終えたあと横浜まで戻り、夕食を済ませてから午前十二時頃に帰宅したと語った。
 食事を摂ったという店の名前を手帳に控えたあと、本当に被害者のマンションへは立ち寄っていないのか、それを証明できるのかと念を押されたところ、ヤツはあっさり白旗を揚げた。
「夕飯のあとは街をしばらくぶらぶらしていました。ま、そんな内容じゃあアリバイ証明は無理でしょうね。じつは川崎に寄り道していた可能性は大きい」
 そう言って、またしてもオレの反応を窺う素振りを見せる。これで三度目、試されているようで何とも不愉快だ。
 それにしたって、言い訳も言い逃れもしないとは、いったいどういうつもりだ? 
 犯人であろうとなかろうと、いや、犯人でないのなら、なおさら自分の無実を主張していいはずなのに、あきらめが良すぎるどころか、こちらの疑いが濃くなるような発言ばかりを繰り返して、面白がっている気がしてならない。
 二、三の質問をしたあと、田ノ浦さんは「貴重なお時間をありがとうございました」と丁寧に挨拶し、また伺うことがあるかと思うがご協力をお願いしたいと付け足した。
 その言葉に対して「いつでもどうぞ」と答えた樹神はいかにも捜査に協力しているというかのような姿勢を見せつけた。
 自分は真犯人ではないという自信の表れなのか何なのか、さっぱりわからなかった。
 形だけの礼を述べ、田ノ浦さんに続いて立ち上がりかけたとき、樹神は「ちょっと、そちらの刑事さんに訊きたいことがあるんだが」とオレを引き止めた。
「何ですか?」
 すると彼は無言のまま、田ノ浦さんを見たが、これすなわち、二人だけで話したいという意思表示だったようだ。
 それを察した我が上司は「それでは、私は先に駐車場へ」と言い残し、オレに目配せをした。
 パタン、と玄関のドアの閉まる音が聞こえると、樹神はオレに、再度ソファへ座るように命じた。
「あ、は……はい」
 万が一、彼が殺人犯だとしてもだ、この場で理由もなくオレを殺すはずはないし……
 不安と胸騒ぎを感じながらも素直に従い、恐る恐る腰を下ろす。
 ところが樹神は三本目のタバコをくわえたまま、黙ってオレの顔を見ているだけだった。何かを思い出そうとしているようなその表情は意外にも穏やかで、冷たく見えた瞳は優しい光を帯びている。
 不思議だった。
 そんな彼の様子を目の当たりにしたとたん、今まで抱いた不満やら反発、不安は瞬時に消え失せていた。
 しかもその代わりに、親しみのような柔らかい感情が湧き上がってきたのだ。
 なぜだろう、この懐かしい、温かい気持ちの根拠はいったい……? 
 おっと、ぼんやりしている場合じゃない。さっきの田ノ浦さんの目配せは「もっと何かを訊き出せるかもしれないから、しっかりやれ」という合図。
 上の命令に背くわけにはいかず、
「それで、お話というのは何でしょう?」
 努めて平和的に切り出すと、
「あんた、下の名前は?」
「……は?」
 思いがけない質問に面食らっていると、彼は最初に見たバッジをもう一度見せろと言ってきた。
「アズミ……何と読むんだ?」
「ライト、ですけど」
 来人と書いてライト。
 まさかこの珍名の読み方を確認したくて、田ノ浦さんを排除してまで引き止めたというのか? 
 まったく何なんだ。おかしなヤツ。
「来人……ライト……」
 しばらくぶつぶつと呟いていた樹神はいきなり「そうか、そういうことか。わかった」と声を上げてゲラゲラと笑い出し、突然狂ったような反応を目の当たりにして、オレはますます面食らった。
 わかったって、いったい何を一人で納得しているのか。オレにはさっぱりわからないじゃないか。
 説明してくれよと喉まで出かかったのを堪えていると、
「いや、これは失敬した。安曇来人さんか、しばらくは俺をマークするんだろ? よろしくな」
 せっかく穏やかに対応できると思ったのに、こちらの気持ちを逆撫でする、その態度は何なんだ? 
 ニヤニヤ笑いを浮かべた様子にカチンときたオレは思わず噛みついた。
「よろしくなって、警察に犯罪者扱いを受けて喜ぶ神経が理解できません。あなたは御自分が犯人だと認めているんですか? それともいないんですか、いったいどっち……」
 すると彼はいきなりオレの右手首をつかみ、自分の方に引き寄せた。
 咄嗟のことで抵抗する術もなく、なすがままになる。
「まずはあいさつ代わりだ」
「ちょ、ちょっと何す……」
 オレの唇は彼の熱い舌に塞がれた。
──これがオレと樹神健吾との、劇的な再会の場面だった。
                                ……②に続く