第七章 椎名ファミリー
「『ナポリの酒房』って、この前の送別会の二次会で行った店ですよ」
「へー。誰と?」
「富山さんと森下さん、それからいつものメンバー」
「ああ、不破たちか。おまえら四人は研修のときからずっと仲がいいよな。オレの同期は人数少ないし、気の合うヤツなんて来宮ぐらいでさ。あいつも今回の異動で忙しいから、飲みに行こうって誘う暇もないし、おまえらが羨ましいよ」
椎名さんと同期で一番仲のいい相手は来宮さんのようだが、成海との関係は知らないようだ。
彼が社内でそっち系の話ができる仲間としては、堂本一人だったところにオレが加わったけれど、来宮さんのことを知ったら、どう思うだろう。
歓迎する半面、相手が成海じゃ抵抗があるかもしれない。どちらにしても、オレの口からバラすわけにはいかない。
小百合ママに借りたビニール傘に降り注ぐ雨粒も小降りになってきた。気の早い椎名さんは既に傘を畳んでいる。
道すがら、オレたちの二次会ネタから椎名さんが行った二次会の話になった。
「えっ? 二次会は堂本……さんたちと一緒に?」
「そう。宴会場から廊下に出たら、あいつ一人で新人の女の子たちに囲まれてるじゃん。めっちゃオイシイ状態なのに、オレにも一緒に来いって言うからさ」
しかも、一時間ばかりカラオケに行っただけだという。
そうと聞いて、オレは少しだけホッとした気分になった。椎名さんが加わっただけで、堂本と露土の接近が阻まれたような気がしたからだ。
「あの人のことだから、新人女子にチヤホヤされてウハウハかと思ってました」
「ウハウハかー。そいつはいいや」
そう言って椎名さんは笑い転げた。
「あいつってば、昔からそう。調子のいいこと言ってるけど、口ばっかりで実行力ないんだ。相手の反応がちょっとでも悪いと、すぐに引いちゃう。それに、みんなが思ってるほどモテてもいないし、軽薄でもないんだけど、誤解されやすいタイプなんだろうな」
「そうですか」
「マジでつき合った相手なんて、ほとんどいないんじゃねーの。だいたいは勘違いで捨てられるか、それ以前にフラれるパターンだったな。ま、オレも人のこと言えないけど」
またひとつ、オレの心の中に築かれた壁が崩れた、そんな気がした。
目的の『ナポリの酒房』が見えてきた。「あの店にしたのはイタリア人が来るから」と椎名さんがのたまう。
もしかして、連れにイタリア人がいるのか? 海外研修か何かで、本社に来ている人だろうか。
椎名さんの発言を真に受けていたオレは店の前にいた「明らかに日本人の集団」を見てギョッとし、思わず先輩に耳打ちした。
「あの、どこにイタリアの方が?」
すると椎名さんはいたずらっぽい笑いを浮かべた。
「へへー。黒いスーツでビシッと決めた、一番背の高い人」
「えっ? 日本の人じゃ……」
「吾妻穣二。富山さんの同期だよ。名前だけなら聞いたことあるだろ?」
「ええーっ!」と大声を出しそうになったオレは慌てて口を押さえた。
「れっきとした日本人だけどさ、見た目かなりイタリア入ってるから、こっそりイタリア人って呼んでるんだ」
社内ナンバーツーのアイドル・藤沢さんの憧れ、一流の男が彼だったのか。たしかに、一流と呼ぶに相応しい容姿だ。富山さんはパリコレのモデルみたいだと話していたけど、ぴったりの例えだと思う。
「何年か前に本社へ異動した方ですよね」
「よく知ってるじゃねーか。その前はオレの上司で、サブリーダーやってたんだ」
ということは、オレにとっても同じ業務に就いていた先輩になる。
まさか、彼が椎名さんのお相手? いや、メガネをかけていないから違うか。だとすると……
イタリア人の隣には、紫色の細身のパンツがよく似合う、もの凄い美人がいた。
「ああ、あれは男。さっき話した、オレと堂本の共通のダチ」
それじゃあ、あの美人が伊織という人なんだ。しかもなんと、イタリア人の恋人だと聞いて、オレはびっくりしてしまった。世間が狭すぎる。
と、その時、ちょうどこちらに背中を向けて立っていた人、これまた長身で栗色の髪をした、生成色のスーツを着た人がくるりと振り向いた。
「やあ、お疲れさま」
ニッコリ微笑むメガネくん、つまりこの人こそが椎名さんの彼氏。王子様と呼ばれて当然のイケメンだ。
「どもー、お待たせー」
堂本語で応える椎名さん、立て続けに現れた美形揃いの椎名ファミリー(?)にすっかり呑まれてしまったオレは陽気に手を振る先輩の横で言葉を失っていた。
「おう、遅いぞ」
イタリア人・吾妻さんが渋い低音で文句を言う。
「そちらは?」
王子様の視線を受けたオレは慌てて頭を下げた。
「こいつは村越浩希っていう後輩で、ウチのグループに配属された今年の新人」
小百合ママの店で会って連れてきたと、椎名さんはサラリと流した。
「キャラ的にもオレに似てるだろ?」
そう続ける椎名さんに対して「そうだね」と、これまたサラリと納得した王子様はオレににこやかな笑顔を向けた。
「榎並です。初めまして、よろしく」
「え……え、えっ?」
差し出された右手を前に、オレは続いての「ひょえぇ~!」という叫び声を急いで飲み込んだ。森下さんの憧れの人として、何度も話題になっていた噂の人物・榎並さんとは、椎名さんの恋人だった!
「何? 第一グループの新人か。それなら俺の後輩でもあるな」
吾妻さんが割って入る。間近で見るとますます迫力満点だ。
この人が椎名さんの話にあった、しごきの鬼サブリーダーだと納得がいくと同時に、今のサブリーダーが椎名さんで良かったと思わずにはいられなかった。
「第三開発課か。いろいろ苦労も多かったけど……懐かしいな」
榎並さんの方は第二グループのサブリーダーだったとか。吾妻さんとは大学時代から友達、入社後は同じ課に配属、その後はサブリーダー同士、おまけに同時に本社へ異動とは、つくづく縁のある人たちだ。
しかも、これまた友達同士の椎名さん、伊織さんとそれぞれつき合うことになるなんてスゴイ。
「立ち話も何だし、中へ入ろうよ」
そう促した椎名さんは「おまえが遅いせいだ」とツッコミを食らった。
「はいはい、悪うございました。村越、こっちに座れよ」
ダブルデートのお邪魔虫になってしまったオレは恐縮しながら、椎名さんの隣の席に腰かけた。
この四人で飲むことはしょっちゅうあるらしく、しかも酒豪揃い。ビールにワイン、カクテルと、次々に酒が運ばれてくる。
「それじゃあ、伊織くんの合格を祝ってカンパーイ!」
「おめでとうございまーす」
「どうもありがとう」
嬉しそうに頭を下げる伊織さんはますます美人で、藤沢&露土なんて、まるっきりメじゃない。この人の性別が男とは、神様も罪なことをするものだ。
宴もたけなわ、オレと椎名さんは本社勤務の二人に、現在のFSS社内事情をひとしきり訊かれた。
「英が教育担当に抜擢されたって聞いて、ピッタリの人選だなとは思ったんだけど、そのせいで引き継ぎが大変なんじゃ、みんなが苦労するよね」
気配りの人らしく、榎並さんが心配そうに言うと、かなりのピッチでグラスを空けながら、吾妻さんが持論をぶつ。
「OJTに支障が出るようじゃあ、やり方としてはよろしくないな。そう思うだろ、新入社員」
「は、はい」
いきなり話を振られて、オレはビビりながら返事をした。この人の元で仕事をしていた椎名さんを心から尊敬する。
「そうか、教育のリーダーは富山か。懐かしい名前だな。何年会ってないんだ?」
「彼は本社に来る用もないし、僕らの年は同期会なんてのもやらないからね」
「榎並、何ならおまえが企画しろよ」
「それはいいけど、同期会となると藤沢さんにも声をかけなきゃならないけど、吾妻としてはどう? おまえが参加するなら絶対に来ると思うよ」
「藤沢……あー、あいつは苦手だ、パス」
社内ナンバーツーアイドルは自分の憧れの人に苦手呼ばわりされていた。世の中、うまくいかないものだ。
「だったら極秘で、富山と三人で会うとかする?」
「あ、それだったら、オレから富山さんに言っておくよ。今度からはあの人の配下になるわけだし」
提案したのは椎名さん。森下さんが話していた、こまめな宴会男の本領発揮だ。
それはいいけど、この人、榎並さんたちと頻繁に交流がある理由を富山さんにどう説明する気なんだろう。
「そうだな。富山に会ったら結婚はまだかと急かしてやるとするか」
「新人のときから結婚願望が強かったよね。早く結婚して子供が欲しいとか、研修の打ち上げの席でいろいろと聞かされたよ」
「それがさ、彼女と別れちゃったみたいだよ。今は森下さんと噂になってる」
「へえー」
富山さん&森下さんの噂話などでひとしきり盛り上がっていると、スーツ姿の数人の男性グループが店内に入ってきた。
彼らを見た吾妻さんが「よう」と声をかける。ということは本社の人たち?
「あれ、そっちもこの店だったんだ」
椎名さんが話しかけた人物を見て、オレはギクリとした。堂本だった。
椎名さんが今夜の合格祝いの席に誘ったところ、本社仲間の方で先約があると言っていたらしいが、まさか同じ店でやるとは互いに知らなかったようだ。
「どもー」
いつもの軽い調子で応じた堂本だが、オレの姿を認めたとたんに真顔になり、適当に挨拶しようと口を開きかけたオレは彼の反応に、そこまで出ていた言葉を引っ込めた。
自分の部下が椎名ファミリーの祝賀の集いに参加していた。
堂本が驚くのは当然だが、それにしても彼らしくないマジなリアクションを見せられて、どう対応していいのかわからなくなってしまったのだ。
「ああ、村越とは偶然会ってさ。オレが無理言って連れてきたんだ」
椎名さんが説明すると、
「そっか」
そう言ったきり、そそくさとその場を離れた彼の態度を見て、不審に感じたのはオレだけじゃなかったようだ。
「何だ、あいつ。ちょっとおかしくないか。いつもの『やあやあ、どもども』ってな調子で酒をねだってくると思ったのにな」
吾妻さんのセリフに、伊織さんがうなずいて同意する。
「たしかに、お調子者の彬にしちゃ、珍しいね。具合でも悪いのかな」
椎名さんはといえば、これだけ顔見知りが揃っている場面でそっけない態度をとった堂本にムカついたらしい。
「あンのやろう、あとでとっちめてやる」
息巻く恋人を榎並さんが嗜めた。
「よせよ、英。彼にだって事情があるんだろうし。ね?」
最後の「ね?」はオレに向けられたもの。ということはつまり、堂本の様子がおかしいのはオレに要因があると、榎並さんは考えているのだろうか。
そんな、どうして?
本来なら椎名ファミリーの輪に入るのは自分なのに、参加できなかった事情は棚に上げて、部外者に先を越されたと嫉妬しているのか。
まさか、そこまで幼稚な理由だとは思えないけど、気にかかる。
しかし、気がかりな状態とはいえ、せっかくの宴席を白けさせるわけにはいかない。
オレは吾妻さんたちに勧められるがままに飲み続け、とうとうヘベレケになってしまった。アルコールに強いのが自慢だったにしては不甲斐ない状態だ。
「いいな、いいな、椎名さんにはあんなにカッコよくて優しい人がいて、英なんて呼ばれちゃってて。オレなんかもう、白いバラも枯れ果てて……」
ついつい愚痴っている自分が止められない。オレに絡まれた椎名さんの「わかった。わかったから」と、困惑した声が聞こえる。
「ねえ、そろそろお開きにする? オレ、こいつを送って行くよ。自宅がわりと遠いんだ。たしか、渋谷まで出て、山の手線に乗り換えるんだよな。遅くなるって電話はしてあるのか? なら、いいけど」
すると、榎並さんが意味シンなことを言い出した。
「酔った部下を責任持って送るのは上司の役目。だったよね、吾妻」
「ああ」
ネタを振られた吾妻さんは渋い表情だ。過去に何かあったのだろうか。
「それじゃあ」
「ちょっと待って、英」
立ち上がろうとした椎名さんを押しとどめて、榎並さんは腰を上げた。
それから彼は本社の人たちのグループがいる席に近づき、何やら話し始めた。と、まもなく、堂本を伴って戻ってきた。
「村越くんのことは彼に頼んだから」
「えっ? だって」
椎名さんが声を上げた。
ビックリしたのはオレも同じだが、酔っているせいか反応が鈍くなり、言葉がうまく出ない。
「今度から彼が上司になるんだろ? 任せてみたらどうかな」
榎並さんの言い分に納得のいかない顔をしながら、椎名さんは堂本に「ホントにいいのか?」と尋ねた。
「まあー、向こうもそろそろ終わるって言うし、俺はまったくかまわないよ。そんじゃ、ぼちぼち行く?」
平然と言ってのける堂本だが、それでもオレと視線を合わそうとはしない。
いったいどういうつもりなのか、こりゃ酔ってる場合じゃないぞと落ち着かない気分になる。
ともかく、ここまでお膳立てされてしまった以上「一人で帰りますからいいです」と言えるはずもなく、オレは椎名さんたちに失礼を詫びたあと、堂本に続いて店を出た。
一晩中灯りが消えることはない横浜の夜の繁華街、雨は上がったものの、夜空が曇っているせいか、湿り気を帯びた生温かい風が頬を撫でる。
車のクラクションや人々のざわめきを遠くに聞きながら、オレは無言のまま、これまた無言で歩く堂本の背中を追った。
オレのせいで宴席を中座する羽目になったのだ、内心は怒っているに違いない。そう考えると、とても話しかけられない。
しばらくして、堂本が振り向いた。
「もしかして気分が悪い?」
「えっ?」
思いがけないセリフを聞かされ、咄嗟に答えられないオレ、すると、
「ずっと黙ってるから、吐き気でも我慢してるのかなーと思って。少し休んだ方がいいのかなぁ」
「いえ、別に……」
「そう」
彼なりに気を遣っていたのだと、ますます申し訳なくなると同時に、どこか他人行儀な物言いだと感じて切なくなる。
否定したくてもしきれない、本当の気持ちがオレを揺さぶる。そうなんだ、本当は、本当は……
二人だけの一列行進再開。もうすぐ駅に着くという、その時、向こうからヤバそうな男の集団が歩いてきた。派手で品のないチャラチャラした服装に、揃って丸刈りにした頭髪、どう見てもその筋の人たちっぽい。
彼らは歩道いっぱいに広がり、声高にしゃべりながら、擦れ違う女性をからかっては下品な笑い声を上げている。タバコを吸っている者もいた。路上での喫煙は条例違反じゃなかったのか。
こういった不逞の輩を見ると、つい、正義の魂に火がついてしまう。意識しないままに非難の視線を向けていたらしいオレを輩の数人が見咎めた。
「おい、そこのニイちゃん。ガン見しやがって、何か文句あんのかよ?」
「オレらにガンくれるたぁ、いい度胸じゃねーか。上等だ」
ここで「ごめんなさい」とか「失礼しました」と言い逃れできないのがオレの性分だ。睨み返すと、たちまた取り囲まれ、襟首をつかまれた。
「何だ、その態度は」
「おらぁ、やンのか、コラ」
さすがに身の危険を感じていると「まあまあ」と、オレを庇うような格好で堂本が間に入ってきた。
「てめえは何なんだ?」
堂本は穏やかな口調で「いやぁ。彼はボクの部下でして。失礼があったようですが、どうか許してもらえませんかねぇ」などと取り成したが、彼ののらくらした様は却って相手の神経を逆撫でしたらしい。
「この腰抜けが」
「おら、死ねや!」
掛け声と同時に、堂本はいきなりパンチをおみまいされた。
「あっ!」
ぐらりと揺れる長身、続けざまに攻撃を受けた彼を支えようとしたオレは二人もろとも吹っ飛んだ。
ガツンッ!
アスファルトに叩きつけられ、骨がバラバラになってしまったのかと思うほどの痛みが全身に走る。
「へっ、上司だか部下だか何だか知らねえけどよ、オレはおめーらみたいな、チャラチャラした色男にゃ、めちゃくちゃムカつくんだよっ!」
なおも口汚く罵っていた男たちだが、警笛を鳴らしながらお巡りさんが数人やって来るのを見て、慌てて退散しようとした。
助かった。
安心したとたん、意識が遠のいた。
……⑧に続く