第八章 扉の向こう
「大丈夫か? おーい、村越くん」
気がつくと、堂本が心配そうな顔で覗き込んでいるのが映った。
そうだ、オレたちはヤのつく自由業風の連中に絡まれて、それで……
「救急車を呼びましょうか?」
お巡りさんの一人がそう訊いてくれたが、たいした怪我はないからと断った。
大きな騒ぎにしたくないと思ったからで、その考えは堂本も同じとみえ、最寄りの交番で簡単な事情聴取を受けたあと、そのまま帰宅する運びとなった。
「……すいませんでした」
オレの言葉に、堂本は不思議そうに「何が?」と尋ねた。
「いや、ですから、その……オレがあいつらに絡まれなければ……」
堂本の顔には殴られたあとが痣になって残っているが、彼は何事もなかったかのように首をかしげた。
「キミのせいじゃないっしょ」
「いえ、でも」
その怪我はオレを庇ったせいじゃ……
堂本は何事もなかったかのように「それよりさ、もう終電じゃないかな」と、のんびりのたまった。
「えっ!」
オレたちは急いで走り出した。余裕で帰れる時間だったはずが、東横線のホームで待っていた電車の行き先は武蔵小杉止まり。このあと渋谷行きはもうない。
「あーあ」
こんな時間でも乗客は案外多く、座席はすべて埋まっている。オレたちはドア付近のスペースに立ち、手すりにつかまった。
とりあえず電車には乗ったものの、ガックリするオレを見兼ねたのか、堂本は「俺んとこに泊まる? 狭いけど」と言い出した。
「え……」
堂本の部屋にお泊まり、だと?
ど、どうしよう?
いきなりの展開は衝撃的だった。
帰れなくなった部下に対して、親切心から提案しているのだとわかっていても、オレの動揺はハンパじゃない。
走ったせいで汗が出たのだと、それを拭くふりをして、ハンカチで顔をこすって動揺を隠す。
長野出身の堂本が学生時代から住んでいるという、武蔵小杉のひとつ先の駅・新丸子にあるマンションは本人曰く「マンションというよりアパートという呼称がふさわしい部屋」だそうだ。
「小杉からちょっと歩くことになるけれど、遠足ってほど遠くはないし。キミさえよければ……」
そう言ってから、堂本は少し気恥ずかしそうな顔をした。どんな時もポーカーフェイスの彼らしくない、微妙な表情だった。
「……迷惑じゃないんですか?」
「はあ?」
「オレが泊まったりしたら……狭くなっちゃうし、その」
「大丈夫。六畳、いや、八畳だったかな。そのくらいの広さはあるし」
七年以上住んでいる部屋の広さを把握していないのか。
今度は堂本がハンカチを取り出した。二人とも、しばし無言になる。
気まずいような、微妙な空気のまま、列車は終点・武蔵小杉へと到着。改札を抜けたオレたちは駅から南東の方向へと歩き始めた。
二人の間に漂う奇妙な雰囲気を払拭しようとしてか、堂本は「あそこのコンビニでよく弁当を買う」とか「そこのレンタルDVDの店の会員だ」など、どうでもいい話を続けていた。
「あれ? そういえば……」
「何?」
「新丸子が最寄り駅なのに、どうして特急に乗っていたんですか?」
初めて堂本と出会った朝のことだ。
新丸子は各駅停車しか停まらない駅。それなのに、彼はオレと同じ特急の車両に乗り合わせていた。
「ああ、あのときは早出しなくちゃならなくてさ。早起きしたせいで、寝ぼけて上りの電車に乗っちゃったんだよ」
その上、居眠りをして渋谷まで行き着いてしまった彼は下りの特急で引き返し、オレの痴漢騒動の場に居合わせる羽目になった。あまりのおとぼけぶりに、失笑が漏れる。
「なるほど。だから髪もネクタイも……」
「どうかした?」
「い、いえ、何でも。早出だっていうのに、それで間に合ったんですか?」
「当然遅刻。ま、ホントの始業開始にはセーフだったから、勘弁してもらったけど」
二十分以上歩いただろうか。酔いはすっかり醒めていた。
ようやくたどり着いた五階建てのマンションはたしかに豪華とはいえないが、二十代の独身サラリーマンが住むにはまずまずのところだった。
階段を使って三階まで上がると「最新鋭のセキュリティ完備」と言いながら、堂本はキーホルダーを取り出し、ガチャガチャとドアの鍵を開けた。
LED照明によって、淡いオレンジ色に染まった1DKの室内は想像していたよりも片づいていた。カーテンやラグの色にはモスグリーンが多く使われ、落ち着いた雰囲気に仕上がっている。
そういえば、彼と初めて会った時のスーツの色もモスグリーンだった。好みの色なのかもしれない。今夜の御礼に何かプレゼントをするなら、この色を選ぼう、って、オレは何を考えているんだか。
「こっち、上がって。コーヒー淹れるよ。飲むでしょ?」
スーツのジャケットを脱いだ彼がキッチンに立っている間、オレは座るよう勧められた小振りのソファにちんまりと腰掛け、辺りを窺った。
一脚のみのソファとテーブルにシングルベッド、テレビ、オーディオ、パソコンデスク……見回した限り、女の気配はない。女が出入りしていると、それらしいグッズが飾ってあったりするが、華やかなものが存在しない、いかにもな男の部屋だ。
コーヒーカップを運んできた堂本はそれらをテーブルの上に置くと、かいがいしく「砂糖は」「ミルクは」と訊いた。
ここでようやく落ち着いたらしい。彼はオレと向かい合わせの位置で、ラグの上に直接胡坐をかいた。
「……俺さ、やっぱサブリーダー失格かな」
突然のセリフに、オレはハッとした。
「どうしたんですか?」
「キミは俺より英の方が信頼できる、頼り甲斐があると思ってる。今回の異動、さぞガッカリしてるんだろうなって、改めて思い知らされてさ、さすがに凹んでるんだ」
何を言い出すのかと、つい、反論しそうになったオレだが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
そうだ。オレは当初から堂本に対して失礼な発言を繰り返していた。まるで尊敬していない、彼を新サブリーダーとは認めていない口ぶりだった。
そこへ追い打ちをかけた今回の出来事──
村越浩希は送別会時の自分の誘いには乗らないどころか、新人女子に押しつけたくせに(真相は別のところにあるが)椎名ファミリーとは楽しそうに飲んでいた。こいつは旧サブリーダーの誘いなら、喜んでつき合うと捉えたのだ。
店に入ってきた際の、堂本の反応にはそういう理由があった。さすがのポーカーフェイス&お気楽男も自分と椎名さんの扱いの差にショックが隠しきれなかった。
そんな彼の心情がわかったから、榎並さんはオレに、堂本こそがサブリーダーだと認めさせるため、部下を送るのは上司云々と発言したのだろう。
「……ごめんなさい。っていうか、違うんです。オレ、椎名さんは認めるけど、堂本さんは認めないとか、そんなふうに考えているわけじゃなくて、ただ、いろいろとあって」
堂本はコーヒーを啜りながら「いいよ、いいよ、そんなに気を遣ってくれなくても」と軽く手を振った。
「出だしから失態続きだけど、何とか頑張るからさ」
「だから、そういうんじゃ」
「そろそろ休む? 俺のベッド使……」
「だから聞いてくださいっ!」
オレの剣幕に、さすがに驚いたらしい堂本は目を大きく見開いた。
「……ごめん」
「いえ、もう、いいです。大声出してすいませんでした」
何を聞いてもらおうとしていたのだ、オレは。ここでコクッて、いったいどうなるというのだ。
彼は上司として認めてもらいたいだけ。単なる部下、しかも男であるオレの気持ちなんてウザいだけだ。
そうなんだ。オレの想いは異性愛者の彼にとって、迷惑でしかない──
思い直すと、オレは唇をかみしめ、涙をこらえてうつむいた。
「本当にごめん。キミにそんな顔されると、マジでツライっつーか……」
オレが黙ってしまったため、身の置きどころがなくなったらしく、堂本は貧乏揺すりをして居心地が悪そうにしていたが、そろそろと口を開いた。
「英たちの集まりの意味、わかってて参加したんだよね?」
それはダブルデートと知っていたかという問いかけだろうか。
つまり、ゲイを容認している、オレ自身にも要素があるとの証明だろうか。
オレは小声で「はい」とだけ答えた。
「そう……」
やがてゆっくりと立ち上がった堂本はクローゼットからパジャマを取り出してきた。
「これでよければ使って。俺はそのソファで寝るから、ベッドへどうぞ」
「いえ、泊めてもらうのはこっちなのに、そういうわけには……オレがソファで」
「俺が使ったあとじゃイヤかな? シーツ、取り替えるならいいだろ」
「ですから、わざわざそんなこと……イヤだなんて思いません」
「じゃ、一緒に寝る?」
弾かれたように顔を上げると、彼は自分の発言(失言?)に自分でも驚いたらしく、視線を泳がせた。
「あ、やべ、つい」
つい、何だっていうんだ。
喉がカラカラに乾いていることに気づく。コーヒーには手をつけないままだった。
沈黙に耐え切れず「あの……」と切り出すと、
「今のは忘れてとは言わないから」
「えっ?」
「希望的展開とゆーか、単なる願望だから」
「ええっ?」
とたんに、心臓が破裂しそうにバクバクしてきた。
願望って、その言葉は額面通りに受け取っていいのだろうか?
つまり、それは……
凝視するオレに、堂本は照れた様子で、それでもオレを見つめてきた。
思わず、
「女性が好きなんじゃ?」
こんな場面で白けるようなセリフ、だが、
「好きになればどっちでもいいって、前に言ったと思うけどな」
彼は微笑みを絶やさずに、受け止めてくれた。
「たしかに聞いたけど……いつから?」
「たぶん、最初からだと思うよ」
「最初からって、そんなの嘘だ。だって藤沢さんや新人の女子たちと」
「自分でもよくわかっていなかったし、自信もなかった。キミはどう? 俺の読みが正しければ」
オレはとうとう本心をぶちまけた。
「ナポリの飲み会、椎名さんたちが羨ましかった。さっき、思い切って言っちゃおうかと思った」
「じゃあ、当たりだ」
「えっ……」
「嬉しいよ」
二人の距離が近くなる。
オレは目を閉じ、彼の息が頬にかかるのを感じた。
あと──少し──
「テケテンテンテンテン~♪」
せっかくのムードぶち壊しの、落語家が寄席に出る時の音楽、賑やかなお囃子が室内に響いて、オレたちは互いにギクリとして飛び退いた。
「だ、誰だ、今ごろ」
ぶつぶつ文句を言いながら、堂本はケータイを手にした。その着メロにするセンスもどうかと思うが。
「はい、堂本。ああ、乃木か。遅くまで御苦労さん……えっ? マジでか?」
しばらく会話を続けたあと、堂本は厳しい顔をしながら、再びジャケットの袖に腕を通した。彼のこんな表情を見るのは初めてだった。
「今から本社に行ってくるよ」
「何かあったの?」
「ランニングテストしていたマシンがトラブッて、どうしようもないって。あれがきちんと動かないことには、俺も正式に異動できないから」
機械が設計通りに動いてくれない限り、PG及びSEに休息の時はない。PGの卵にもおぼろげながら予想はつく。
タクシーを手配したあと、堂本は「腹が減ったら冷蔵庫の中のもの、テキトーに食って。たいした食材入ってなくて悪いけど」と言い、さっきのキーホルダーを手渡してきた。
「いつ帰れるか、わからないから」
「あ、でも、オレが出たら、部屋に入れなくなるんじゃ」
「ここのオーナーが一階に住んでるんだけど、七年もいりゃ、すっかりツーカーでさ。合鍵貸してくれるから大丈夫」
手早く荷物をまとめた堂本は「それじゃあ」と言い、いったんは背中を向けたが、再びオレの元へ戻ってきた。
「おやすみ」
唇が額に触れる。
扉の向こうに消えた人への想いに、オレはいつしか涙を流していた。
……⑨に続く