第六章 『ブラッディ・イヤリング』再び
意外とユルい工程表のお蔭で、さっさと仕事を進めろと急かされるでもなく、オレたちのOJTはゆったりと続いていた。
今日は本社勤務とかで堂本の姿はなく、椎名さんも業務課の方へ行ったきり。自然とやる気がなくなる。
傍らの成海が欠伸をこらえたような顔をする。こいつもかなり気を抜いているな。
送別会での来宮さんとの一件を目撃して以来、オレはついつい成海の動向をチェックするようになっていた。だが、職場では相変わらず無表情のスカした野郎で、あの時見せた情熱的な態度が嘘のようだった。
そうだ、以前に露土美咲が口走ったセリフ──
『あら、おとなしそうとか、物静かなタイプって曲者なのよ。ネコかぶりの誰かさんみたいにね』
成海に片想いの彼女が恋敵の存在に気づいていたとしたら、あの発言の意味もわかる。つまり、誰かさんに該当するのは来宮さんじゃないだろうか。
ナンバーワン美女よりも男を選ぶだなんて、彼女のプライドはさぞ傷ついたに違いないが、来宮さんを好きになった成海の心情は理解できた。
優しくて穏やかで、春の陽だまりのような人。尖がった心をふわりと包み込んでくれる人。成海はそんな安らぎを来宮さんに求めていたのではないだろうか。
それにしてもだ、堂本は成海のことを「来宮さんを困らせることでしか愛情表現ができないヤツ」と言い表したが、そうだとしたら突っかかることでしか表現できないオレも同類なのかもしれない。
……って、待てよ?
オレは誰に愛情表現してるというんだ。
該当者一名って、そんなバカな。まさか、まさか……
ああもう、そんなくだらないことを考えてどうする。
さあ、やる気復活だ、仕事に集中するぞと活を入れ、リストを睨んだが、頭の中は横道にそれてばかりで理解が進まない。
で、大した進展もなくこの日の業務が終了。本日は「皆さん残業は控えましょうね」のノー残業デーとあって、ほとんどの社員が帰り支度を始めている。
まったく、毎日こんな調子でいいのかと自己嫌悪に陥りつつ屋外に出ると、パラパラと小雨が降っていた。
「げー。傘忘れた」
ロッカーに置き傘もない。不破たちにでも借りようかと辺りを見回したが、貸してくれるような知り合いはおらず、仕方なくそのまま歩き出す。
しばらく進むと、前方に大きな男物の黒い傘が見えた。
そこに覗く脚は……えっ、四本?
黒とグレイのスラックスが見える。ということは男二人で相合傘というわけだ。
普通の男の感覚なら、相手が女の子じゃなくて、わびしいとか情けないと思うところだろう。だが、オレはそうじゃない。
苛立ちを押さえ、相合傘の二人を早足で抜き去ってから、さり気なく振り返ってギクリとした。
黒い脚は来宮さん、グレイは成海だった。オレに見られているとは気づかずに会話を続けている。
身振り手振りで何かの説明をしているらしい来宮さんと、そんな彼に雨がかからないよう注意を払う成海、さりげない仕草に、相手を見つめる目に愛情が溢れていて──さっきまでオレ同様に、やる気なしモードだったくせに──妬ける。
さらに歩を早めたオレは駅に向かって突進した。苛立ちと焦り、激しい衝動が胸の内を支配する。大声で叫びたくなる。
オレだって、オレにだって──
横浜駅着のアナウンスを耳にしたとたん、足がホームに着地していた。
改札を抜け、街灯もまばらな街を歩く。そぼ降る雨に打たれながら、しばらく足が遠のいていた裏通りを行くと、見覚えのあるレンガ造りの店が見えてきた。
『ブラッディ・イヤリング』という名のこの店、一見ただの場末のバーだが、その実態は出会い系ゲイバー。
大学時代には卒業間際までけっこう足繁く通って、それなりに出会いと別れを繰り返した、ほろ苦い過去──
そう、このオレこそが本物、しょっちゅう痴漢に遭ってしまうような、男好きのする筋金入りのゲイ。決して口に出せない超機密事項だ。不破よ、許せ。
赤錆の浮いた重い扉を開け、そろそろと中に入る。
見た目より奥行きのある室内、その薄暗さに目が慣れてくると、懐かしい人のシルエットも見えてきた。
「いらっしゃい……あら、久しぶりね」
「こ、こんばんは。ご無沙汰してます」
パッと見は和服の似合う女性、その実態はもちろんゲイ。この店を取り仕切っている小百合ママだ。
あまりに厚化粧のためか年齢不詳で、初めて会った頃から見た目がほとんど変わらないどころか、年々若返っている。中世ヨーロッパだったら魔女扱いで火あぶりの刑にされそうなタイプだ。
ママはカウンターの中からオレに向かってニッコリと微笑みかけた。
「まあ、傘持ってなかったの? 何か拭くものを用意するわね」
今日は時間が早いせいか、他に客の姿はなく、ママはカウンター席に座るよう、オレを手招きしてからタオルを貸してくれた。
「スーツ姿も板についてきたわね。とってもステキよ」
「ありがとうございます」
「どう? 社会人生活には慣れた?」
「ええ、何とかやってます」
「そう。あんなことがあった後でしょ。ずっと気になってたんだけど、良かったわ」
「それは……ご心配をおかけしました」
卒業が縁の切れ目になるのはよくあること。オレはこの店内で、別れ話がこじれた元カレと派手にケンカをやらかしたのだが、その時にはママにずいぶんと迷惑をかけた。
「それで、新しい彼はできた?」
「いえ、まったく」
「気になる人もいないの?」
「ええ、まあ」
約一名、面影がよぎった気がするが……無視だ、無視。
「あらぁ、男性の多い会社だって聞いてたけど、うまくいかないものね」
「はあ……」
寿退社を狙う女性ならともかく、会社でゲイの恋人をゲットしようとするヤツはそうそういない。終身雇用が崩れた昨今とはいえ、一生働くかもしれない職場だ。恋人探しが目当てで入社するなんてまず、有り得ないし。
もっとも最近確認済の、あのカップル。彼らのアツアツぶり(死語だな)にあてられ、今、オレはここにいる。
「それで久しぶりに来たのね。だったら白バラでいいかしら」
「お願いします」
この店ではママが大きな花瓶に用意した色とりどりのバラを選んで、他の客にアピールするというやり方をとっている。
お金で割り切る場合は紫とピンク、恋人募集中の場合は赤と白というように、バラの色で目的と相手を見極めるのだ。
だが、バラを持ったからといって、自分にピッタリ合う相手と出会える確率は二十パーセントにも満たない。そんな低い確率に賭けて、わざわざ足を運んだのかといえばそうでもなく、自分を納得させるために、何か行動しなければという気持ちに突き動かされたまでだ。
いったい何をやってるんだろうと、苦笑いしながらママに生ビールを注文すると、サービスで枝豆がついてきた。
「あなたみたいなカワイイ子がどうしてうまくいかないのかしらね」
過大評価を受けて心苦しくなったオレは照れ隠しに頭を掻いた。
「いや、このケンカっ早い性格のせいだってわかってるんですけど。三つ子の魂ってやつなのかな、矯正不可なんで」
キャンキャンと吠えたあげく「おまえといるのに疲れた」と別れを切り出される。それを何度も繰り返す、学習能力もゼロ。『オレなんか誘っても』と堂本に言ったのは、そんな苦い過去の記憶のせいだ。
「……まあ、そんなにステキなカップルが身近にいたんじゃ、羨ましいと思うのは当然よ。欲求不満になるのも仕方ないわ」
ママの顔を見ると安心するのか、つい何でもしゃべってしまう。オレは切ない心境を吐露していた。
そう、来宮さんのような、ふわふわと優しい人だからこそ、成海にあそこまで愛されるんだ。
オレみたいに短気で、いつも喧嘩腰のヤツなんか、誰かに好きになってもらえるわけがない。愛されるはずもないんだ。
そうだ、きっとあいつだって、オレのトンガリまくった態度に辟易しているに違いない。前言撤回、やっぱり疲れるヤツだと思ったはずだ。「愛すべき」なんて嘘八百だ。
話したいことがあるだの、二次会だのカフェだの、気を持たすようなことは言わないで欲しかった。どうせ大した話じゃない。あれから何のアポもないのが、れっきとした証拠じゃないか。
めちゃくちゃ凹んだ気分になる。この一杯で帰ろうかとも思った時、
「ちわーっス」
聞き覚えのある声に、グラスを持つ手が止まった。
「あらまあ、ケンシロウちゃんじゃないの、珍しい。どういう風の吹き回しかしら」
「あー。それ、つれない言い方だなぁ。今夜はこの近くで飲むんだけど、まだ時間早いし、せっかくだからママのご機嫌でも伺おーかなーと思ってさ」
「ほら、やっぱり。ついでじゃないの」
「いやぁ。そう言われると、身もフタもないんだけど」
元気溢れるテノールは十代の若者がしゃべっているかのよう。
そう、オレのすぐ脇に立っていたのは見た目年齢未成年の我が上司・椎名英さんで、そうと気づいて見上げたオレと、彼の視線がカッキリかち合った。
ビックリ仰天の椎名さんが目を剥く。
「……あーっ、おまえ、村越ぃ?」
「ど、ども」
返事が堂本口調になる。
「ええーっ! どうしてここ……」
言いかけて椎名さんは口をつぐんだ。枝豆の入った皿の横に置かれた白いバラを見たからだ。
「そっかー。おまえも……」
ふうーっと大きく息を吐いたあと「隣、いいか?」と訊き、彼はオレの横のストゥールに腰掛けた。沈黙が漂う。
何ともいえない雰囲気を見兼ねてか、小百合ママが声をかけた。
「あらまあ、お知り合い?」
「こいつ、オレの部下っていうか、後輩なんですよ」
椎名さんはママに向かって、手短にオレたちの関係を語った。
「そうだったの。世の中狭いわね~」
「オレとタイプが似てるなって思ってたんだけど、まさかこっちの指向までとはね」
苦笑する椎名さんは「ママ、オレにもビールちょうだい」と言い、オレのグラスと合わせて乾杯した。
オレ自身はといえば、椎名さんの登場に驚きはしたが、彼がこの店を知っている理由についてはさほど驚いてはいなかった。先日以来の堂本とのやりとりから、椎名さんももしや、そっちの……という予感がしていたからだ。
それにしても椎名さん、何で『ケンシロウ』なんて仮名にしたんだろう。
「今、三人しかいないから、椎名さんって呼んでもいいですよね?」
「ああ。オレも思わず村越って言っちゃったし。ここでのハンドルネームは何にしてるの? 本名は名乗ってないだろ?」
HNってネット上の仮名だよな。かといって、ここで使う仮名の総称を訊かれてもわからないけど。
「オレは……スピッツです。学生時代のアダ名で」
「スピッツちゃんか。オレももっとカワイイ名前にすりゃよかった」
たしかに『ケンシロウ』じゃあ、恋人を探すよりも、スゴい拳法で戦ってしまいそうな名前だ。
「スグルちゃんはもう、そういう仮名は必要ないでしょ?」
仮名から実名に呼び換えたママがツッコミを入れる。何もかもお見通しのようだ。
「まあ、そうだけど……」
オレが同類と知って、椎名さんは胸の中に溜まっていたものを吐きだすかのように話し始めた。
「オレさー、二十三年近い間、ノンケだと思って生きてきたわけよ。実際、それまで好きになる相手は女の子だったし」
椎名さんはオレが自分と似ていると言ってくれたが、物心ついて以来、ゲイの道を行くオレとは、そこの部分は違うようだ。
「ところがどっこい、入社してすぐに、ある男の人を意識するようになって、そんな自分の変化に戸惑っちゃって。ここに来れば自分が本当はどちらの世界に所属しているのかがわかるかも、なーんて思ってさ。ま、そんなわけで何度か通って、ママとも仲良くなって、それ以来のおつき合い」
ビールで喉を湿したあと、椎名さんは遠い目をした。
「それで、どちら側なのかわかったんですか?」
「んー、まあね。でも、その人が好きだって気持ちは変わらなかったし、向こうも動いてくれたから、結果オーライってことで」
そうか、うまくいったんだ。改めて羨ましくなる。
「素敵な方なんでしょうね」
「オレにはもったいない人だよ」
「あら、とってもお似合いよ」
ママは椎名さんのお相手を知っているようだが、話の流れからして、ウチの会社の人のような気が……
オレの疑問に答えるかのように、ママは「ここに来ていたこともあるのよ。アタシはメガネの王子様って呼んでいたわ」と説明してくれた。
「メガネの王子様?」
「ずっとお相手を探していた人なの。あんなに素敵なのに、どうして恋人ができないのかしらって思っていたけど、まさかスグルちゃんと、だったなんて。二人揃って挨拶に来てくれたときにはびっくりしたわ」
なるほど、椎名さんの彼も元々ゲイだったんだ。めでたし、めでたし。
「でも、いくら何でも会社でカミングアウトするわけにはいかねーだろ。オレって単純で嘘がヘタだから、女の子の噂とか、彼女がいるいないの話が苦痛でさ」
たしかにそうだ。不破に対して、心苦しい思いをしているオレは椎名さんの言葉に、同意を示すようにうなずいた。
「ミーティングで彬がつまんねーことばっかり言うから気が気じゃなかったけど、村越もそうだってわかって、隠さなくてもいい相手が一人増えたんだよな。今、気持ちがすごく楽になったのを感じるよ」
その名前を改めて耳にして、ドキリとした自分がわかる。
そうか、堂本はメガネの王子様の正体を知っているんだ。いつぞやの打ち合わせの時にあの人がどーのこーのと、からかっていたのがそれだ。
「まあ、この店の存在を知ったのも間接的には彬のお蔭だけどさ」
「えっ?」
まさか、堂本がここに通っていたとでもいうのかと一瞬焦ったが、
「大学の同級生だけど、オレとはすっかり疎遠になってた彬のダチがこの店に通ってて、その紹介で来たんだ。彬がメアド教えてくれなかったら、そいつとスムーズに友情復活とはいかなかったと思う」
話が見えてきた。堂本とはずっとつき合いのあったダチというのがたぶん、伊織という人だ。
堂本がゲイに寛容な理由も判明した。『好きになっちゃえば』発言もだ。伊織さんに椎名さん、友達が二人もそうなら、彼らのいる世界を理解するしかない。
「そんなわけでオレたちのこと全部わかってるから、彬には何でも話せて楽なんだけど、あいつ、おまえや成海の前でも余計なこと言うし、ヒヤヒヤものだったんだぜ」
「あ、でも、堂本さん本人はゲ……こっちの世界の人じゃないですよね?」
「さあなぁー。あいつ自身のことはよくわかんねーんだ。いつも適当なことばっか言ってるしさ」
「会っていきなり藤沢さんを口説いていましたけど」
「そりゃあー、まずねーだろ。本気じゃないよ。あいつ流のしゃれっ気。見ている周りはイラッとするけどさ」
そう言って椎名さんは笑い飛ばした。
オレよりはるかに長く堂本を知っていて、深く関わっている椎名さんにもわからないのに、オレにわかるはずがないか。失望感がオレの胸を支配する。
堂本が何を考えているのか、彼自身の──ぶっちゃけて言えば、好きな人はいるのか、募集中なんて言ってたけど、本当は恋人がいるのか──などなど。
プライベートな部分を知りたいと思う自分の本心に、オレは焦りと苛立ちを感ぜずにはいられなかったが、その一方で、そんな反応をしている自分が許せなかった。
ああ、もう、何を焦って、何に苛立っているんだ、オレは。
あいつは、堂本は女相手にヘラヘラしまくるチャラ男じゃないか。友達はゲイだとしても、当の本人は異性愛者なわけだし、同性愛に走る可能性はゼロに近い。
おまけに約束も適当、すべてが嘘か本気かもはっきりしない、いい加減なヤツなんて、気にかけてどうする。やめろ、忘れるんだ。忘れてしまえ。
「おっと、そろそろ時間だ。ママ、お勘定よろしく」
腕時計に目をやったあと、椎名さんは改めてオレを見た。
「村越、何ならおまえも来る? みんなに紹介したいんだ。その、そっちの方、キャンセルでよけりゃ……」
白バラに視線を向けつつ、椎名さんは遠慮がちに誘ってきた。
「えっ? オレもって、今からデートなんでしょ? お邪魔するわけには」
「へへー。今日はグループ交際の日なんだ。他にも来るから大丈夫だって」
「グループ交際?」
そんな、死語になってる(かもしれない)言葉を使うとは、見た目十代らしくないぞ、椎名さん。
「さっき話した、友情復活したダチも来るんだよ。そいつが何とかっていう資格試験受かったから、そのお祝い」
そういえば、以前に堂本とそんな話をしていたっけ。
「それに、オレの……そのー、あの人はおまえにとっても先輩だし、顔合わせして損はないと思うけど」
もつれた糸がほどけてきた。そんな感じがした。
こうなったらとことん確かめてみたい。オレは椎名さんの申し出に乗った。
「こっちはキャンセルでいいわよ。スピッツちゃん、いいお知らせがあったら、いつでも報告に来てね」
ママは白バラを花瓶に戻すと、いってらっしゃいと言い、ニッコリ笑った。
「さっすがママ、男前だ。あ、スピッツの分もオレが払うから。いいって、いいって。オレが誘ったんだし、何たって先輩だし」
こうしてオレは椎名さんと一緒に、噂の彼氏とその仲間たちが待つ場所へと向かうことになった。
……⑦に続く