第一章 プロローグ
午後から降り始めた雪は次第に激しさを増し、空一面を白く染め上げて、大地との境界はモノトーンの中にかき消された。
荒れ狂う風と雪が徒党を組み、吹雪となって窓枠を揺らしながらなお吹きすさび、隙間風が鋭い悲鳴を上げる。
繰り返される凄まじいうねり、耳を塞ぎたくなる断末魔──この閉ざされた建物内とはまったくの別世界──それは銀色の地獄絵図と呼ぶにふさわしく──
◆ ◆ ◆
バニラ色の壁を間接照明がペールオレンジに染める。オークの床に敷かれたのは臙脂色のカーペット、プロミネンスのごとく炎を上げて燃え盛るストーブ。
その傍に立った青年がカードをテーブルの上にぶちまけると、それを合図に、その場に居た男女四人はめいめいに勝手な会話を始めた。
「ポーカーも飽きちゃった。次は何にする?」
「明日は滑れるのかな、どうなんだよ」
「このままカンヅメだったりして」
「それって最悪」
深緑色のセーターを着た青年は何も答えずに、その長い指でトランプをかき集めると、再びシャッフルを始めた。
良家の子息にしては手入れが行き届いておらず、ばらりと額にかかった黒い髪、その下にのぞく鳶色の瞳はどこか物憂げで、戸外とは正反対の、快適なラウンジでのひと時を少しも楽しんでいないとわかる。夏は避暑地として、冬はスキー客で賑わう、ここ八代台高原スキー場のペンションに客人を誘い合わせたのは他ならぬ彼なのに、だ。
百八十を超える長身に面長な輪郭、日本人離れした彫りの深い顔立ちがハーフで通りそうなこの男、三谷航(みたに わたる)が大学の友人五人と共に、彼の父が懇意にしているこのペンション『プラチナ・マウンテン』を訪れたのは今日の昼過ぎのことだった。
昼食を済ませたらひと滑りしようと計画していたのに、この天気である。けっきょくゲレンデには一歩も出られないまま、夜を迎えていた。
「まあまあ、そう腐らないで。明日は晴れるって予報で言っていたわ」
皆を取り成すように声を掛けたのは笈川玲華(おいかわ れいか)で、レースの裾を翻した淡いピンクのワンピースが雪の高原という場に不似合いだと、わかってはいないようだった。
「紅茶でも淹れてもらいましょうか。ねえ、航。誰に頼めばいい?」
鼻にかかった甘い声を出しながら、玲華は航の腕に手をかけると、誘うように引いた。
学部は違うが、テニスの同好会で知り合った彼女とは付き合って二年になる。
代議士の父を持つ裕福な家庭の子女であり、男たちが振り返って見る華やかな美人、と、恋人としては申し分のない女。
卒業まであと三ヶ月、社会人のレールを走り始めれば、いずれは途中の駅で彼女を車両に乗せるだろう。それはおぼろげながらも承知していることだった。
優れた容姿と頭脳の持ち主。加えて、大会社の重役を務める父と、自宅で華道教室を開いている母という、恵まれた家庭環境。
金融機関としては難関の部類に入る城東銀行の内定をあっさりともらったのも、美しい未来の妻の存在も、同級生たちにやっかまれるのには充分すぎる要素だった。
社会人のレール──それはもう、目前に迫っている。どこまでも平行に、真っ直ぐに伸びて、決して曲がることのないレールだ。
そう、曲がってはいけない。こんなにも輝かしい未来が約束されているのに、少しでもそれに背くような真似をして、我が身を破滅に追い込んだりしたら……
それなのに、心が満たされない。どうしてイライラしているのか、何が理由なのか、まったくわからないままだ。
航は玲華の手を軽く払うと、キッチンに残っていたオーナーに紅茶を注文、それから再びカードを乱暴に切り始めた。
そんな恋人の素っ気ない態度に一瞬頬が強張った様子の玲華だったが、何も言わずに悲しげな溜め息をついた。
近頃の航はずっとこんな調子だった。それでも今回のスキーツアーを計画している最中は上機嫌だったのに、出発が近づくにつれて様子がおかしくなり、ここへ到着した時にはすっかり無口になっていた。
もともと饒舌な男ではない。ギャグや冗談を口にするなんてとんでもないという堅物なのだが、ここまで不機嫌になると、招待した他の四人の手前、申し訳が立たない。
──ストーブの前のソファにひとり座り込む航を横目で窺っていた玲華は「もうそろそろ休んだら?」と遠慮がちに声をかけた。
四人の仲間、その内訳は二組のカップルであるが、彼らはとっくに部屋へ引き揚げ、この場に残っているのは航と玲華だけである。
「先に寝ていいよ」
相変わらず気のない返事をする航は手慰みにしていたカードを放り出すと、父のボトルキープであるウィスキーをやり始めていた。
「そんなに飲んだら身体に……」
「うるさいな。ほっといてくれよ」
「……わかったわ、お休みなさい」
パタンと淋しげな音を立てて扉が閉まる。玲華が立ち去った部屋の、ストーブの炎は辺りを赤く照らしてますます燃え盛り、それをじっと見つめながら、何杯目かのグラスを空けた航は大きく息をついた。
約束された人生……
束縛から逃れる術は……ない、か。
胸に圧しかかる重苦しさから息が詰まりそうになり、ソファの背もたれに仰け反るように身体を預けていると、扉の開く音がした。
しつこく玲華が戻ってきたのかと、そちらに目をやった航はそこにいるのが今日、到着した折にペンションの入り口でチラリと見かけた青年であることに気づいた。
青年の方もラウンジに航が残っているのを見て、驚きと戸惑いの表情を露わにした。
齢は二十歳前後、いや、もう少し上だろうか。自分と同世代なのは間違いない。
柔らかく波打った栗色の髪に覆われた額の下には長い睫毛とくっきりとした二重の目元、色白で鼻筋の通った美貌は一見白人の青年かと思ったほどだ。
航自身もハーフ、それもイタリア系と言われたことがあったが、そういう喩え方をするなら、この美青年はイギリス系といったところか。
白いハイネックのセーターにジーンズを履き、黒地に赤い模様の入ったエプロンをつけた彼は恐縮した様子で口を開いた。
「……あ、失礼しました。皆さんもうお休みになったかと思ったもので。片づけてもよろしいでしょうか」
夏よりも冬の方が断然忙しいので人手が欲しい。そういう理由から、彼はこの冬に初めて採用になった、冬季限定のペンションの住み込み従業員であった。
昼間は慌ただしく挨拶を交わしただけで、当人は買出しへと出掛けていったのだが、オーナーの里中氏が説明した彼の勤務体制は忙しい朝と夜にここで働き、日中はスキーのインストラクターとしてゲレンデへ出勤ということらしい。
もっとも、今日は吹雪のためにスキー場での任務はなし。こちらの仕事に専念していたのだ。
「里中さんも部屋に?」
「ええ、十五分ほど前に休まれたようで」
「全然気がつかなかった」
「あとは任せると、私におっしゃっただけですから」
青年が飲み残しのグラスやらカップを手際よく片づける様を何てキレイな指なんだろうと思いながら、航はぼんやりと眺めた。
テーブルの上を丁寧に拭き、散らかっていた新聞、雑誌などを元の位置に戻す間も彼の視線は青年に注がれたままで、ふいに「何か?」と訊かれ、すっかり見とれていた自分に気づいてうろたえた。
「い、いや、別に」
「氷をお持ちしましょうか?」
「もういいんだ、これで終わりにするから」
柔らかな光を受けてうっすらと微笑む姿に気持ちが昂ぶってくるのを感じる。相手は男なのだと言い聞かせようとも、この動揺は収まりそうにない。
航の心の内に寄せて返す漣に気づいたのか否か、青年はこちらへと近づいてきた。その美しい姿が目の前へと迫って、動悸がますます激しくなる。
「一杯もらえます?」
「あ、ど、どうぞ」
グラスを差し出すと互いの指が触れて、まるで電流が流れたような軽いショックを感じる。
慌てて手を引っ込めた航をニヤリと見やって、彼は水割りを一気に流し込んだ。
「もう一杯。今度はあなたの唇から欲しいな」
「……えっ?」
身体を屈めたかと思うと、柔らかい唇が触れ、舌が滑り込んできた。
「ん……」
突然の行為に驚き、また、強く絡められて息もつけずにいる航だが、こんな真似をされても青年を突き放すどころか、彼の背中に腕をまわしている自分に気づいた。
この男と触れ合ってみたい。出会った瞬間から芽生えていた感情は激しい衝動となって彼の身体を支配していた。
──長く、狂おしいほどのキス、抱擁。
ようやく唇を開放した青年に、航は声を震わせて訊いた。
「……名前は?」
「水島梓海(みずしま あずみ)。以後よろしく」
……②に続く