Ⅸ
静岡駅前のバス停に降り立った二人は市内でも有数の繁華街である両替町の通りへと向かった。
そこで一眞はクラスのコンパや、水島たちと訪れたことのある居酒屋を何軒か示したが、健児は首を縦に振らず、けっきょく自身が気に入った店に決めた。
わかりきっていたとはいえ、やっぱりこいつは身勝手だ。ずっと前から味わっていた不満が一眞の中で再びくすぶり始めた。
毎度この調子なのだ。よくも今まで我慢して付き合っていたものだと呆れるが、それだけ健児に惚れていた自分が悲しくもあり、愛おしくもある。
どの階にも飲食店が居並ぶ雑居ビルの一階、黒と赤の色使いが淫靡なムードを醸し出すワンショットバーを選んだ健児のあとに続いた一眞はこんな怪しげな店に入って大丈夫なのか、暴力団関係者が出てきてボッたくられるのではと不安になったが、彼が想像していたのとは違い、店内は上品で落ち着いた雰囲気なのが意外であった。
入って右側にゆるやかなカーブを描いたカウンターがあり、照度を落とした間接照明のところどころに赤のライトが使われていて、壁際のボトルや床の一部を効果的に照らす。
渋い二枚目のバーテンダーがボトルを背に見事な手さばきを披露しており、カウンターの前に腰掛けているのはどれも洒落たスタイルの大人のカップル、バックに流れるジャズが彼らの会話を邪魔せぬよう、程よい音量でムードを盛り上げていた。
男二人で入店して、しかも、いかにも学生という服装の一眞はどうにも場違いな気がしてならないのだが、健児はさっさとストゥールに座って水割りを注文した。
「お連れ様は何になさいますか?」
バーテンダーにそう訊かれて、飲みに行くとまず、ビール、としか答えられない一眞は焦った。
ウィスキーは苦手なので「同じものを」という手段は使えない。こんな時は何と言ったら格好がつくか。そうだ……
「お薦めのカクテルは何ですか?」
「そうですね、若い男性でしたらスカイリッキーなんていかがでしょうか? ブラッド・ピットも愛飲している、アメリカで人気のあるスカイウォッカをベースに……」
何やらうんちくを語られても、一眞にはてんでわからない。とりあえずそれを頼むと、隣に座った黒ずくめの男はフッと笑いを漏らしながらまたもやタバコに火をつけたが、こんな場面が憎らしいほどよく似合った。
その大人びた姿はとても二十歳の若僧には見えず、自分とは正反対の、幼稚な洟垂れ学生が慣れない場所でおたおたしているさまを小バカにしているのかと、不愉快になった一眞はつっけんどんに言ってやった。
「そいつは百害あって一利なしだ。何度もそう言ったけど、禁煙する気がないなら、せめてオレの前で吸うのだけはやめてくれよ。本人よりも周りの方が肺ガンになりやすいんだ、たまったものじゃない」
「さすが、未来の先生はおっしゃることが違うな。健康管理にも気を使っていらして……」
「それで話は? バイトで立ちっぱなしだったから腰が痛いし、早く帰りたいんだよ」
腹も減ったし、と付け加えようとしてやめた。夕食はまだだが、そうと訴えるのは癪だし、かといって、自己中心的な性格の健児がそれを察してくれるとは思えなかった。
恐らく彼は喫茶店で時間を潰している間に済ませたか何かで、空腹ではないのだろう。
だが、この店はがつがつと何かを食べる雰囲気ではなく、ひたすら酒を飲むだけだ。だから、本当は居酒屋が良かったのに……
一眞の事情にはおかまいなしに、水割りをあおった健児は早くも二杯目を頼み、それからゆっくりと口を開いた。
「オレたち、来年は三年になるよな」
「そ、そうだけど」
「ゼミも始まるし、就職活動についても考えなきゃならない。おまえだって教員採用試験を意識するようになるだろう」
お薦めのスカイリッキーで喉を潤した一眞はしばし無言のまま、次の言葉を待った。
「つまり、いやでも自分の将来を見つめなければならないところまできたわけだ。就職して社会人になるという、誰もが通る道のその先には何がある? 社会の基盤を成す結婚、その契約を果たさなければ一人前の社会人とは認めてもらえない義務、もっとも、結婚しないヤツがわんさといる今じゃ、誰もが通る道や義務、というものでもないが……」
健児の言わんとすることがじわりじわりと伝わってきて、一眞は唇を噛んだ。
「おまえが女なら、ゴールを示すことも出来る。だが、男である以上、このまま関係を続けても先は見えないし、不毛なだけだ」
言われるまでもなく、そんなことは一眞にだってわかりすぎるぐらいわかっていたが、彼は口を挟まずにいた。
「それをよしとしたり、貫き通したりする自信はオレにもおまえにもない、と思ったし、決してお互いのためにならない。だとしたら、少しでも早いうちにケリをつけて、未来に備えた方が幸せだ。幸か不幸か、おまえと離れて一緒にいる時間が減った代わりに、いろんなことを冷静に見つめる時間が増えて、オレなりに考えた結果だ」
スポットライトの光をめがけるように、健児の吐き出す紫色の煙が渦を巻いてゆったり立ち昇る。それをぼんやりと見つめる一眞の前にも二杯目のカクテルが置かれた。
「こういう状況に引きずり込んだのはオレの責任だ。若気の至り、なんて爺臭い言い訳で済まないのは充分承知しているし、謝ったところで許してはもらえないだろうと思ったが、それでもこのツラを下げて、おまえに会いにきた」
結婚や女性を意識した発言をするなんて、健児には好きな女が出来たのかもしれないが、確かめる勇気などなかった。
胸にこみ上げてくる苦いものを打ち消そうと、一眞はカクテルを飲んだあと、静かに、それでも強い口調で言った。
「だったら、いきなりあんなこと言わずに、最初からそう話せば良かったんだ。オレはそんなにききわけのないヤツじゃない」
それは今まで見て見ぬふりをしていた、いつか突き当たる壁だ。ただ、直視するのを恐れていただけ……
グラスの縁に唇をつけたまま、睫毛を伏せた一眞の横顔を見つめた健児は「おまえには思いっきり嫌われて別れようと思ったから、敢えて何も説明しなかった」と言った。
「嫌われて? なんでまた」
「そうすれば気持ちは残らなくなる。何もかもバッサリ切って、未練なんてやつもキレイさっぱり消えてしまえばいい……」
その言葉の裏側に健児の、一眞への未練がある。彼はまだ自分を愛しているのでは、そうと気づいた一眞のグラスを持つ手が小刻みに震えた。
「……だが、おまえが走り去ったあのとき、オレの中で何かが崩れた。やっと決意したのだから絶対に追いかけてはいけないと思いながらも、おまえが戻ってくるのをずっと待っていた。それでも戻ってこないとわかると、今度は嫌われたまま別れるのはイヤだと思うようになった」
それで何度もメールを……消去を選択したことを悔やんでも遅い。
あの日、偶然愁に会わなければ、自分は健児の元に引き返しただろう、と一眞は思った。
そして健児はそれを待っていた。もしも一眞が戻っていたら、考え直してくれと懇願したら、この結末は違ったものになったかもしれない。
しかしもう遅すぎる。一度もつれた糸は、ねじれてしまった関係は取り戻せやしないし、たとえ戻ったところで、互いの心に現実を突きつけてしまった以上、それは別れを少しばかり先送りするだけ、傷を深めるだけにしかならないのだ。
嫌いになったのではない。しかし、それでも訪れる別れというものはこの世に幾つも存在するのだと自分に言い聞かせる、今はそれしか出来ない。
(今度こそ、本当にお別れ、だな)
一眞が何も言わないので、健児も押し黙りさらに酒をあおる。一眞の元に届けられたお薦めは数種類にも上った。
さよならの気配を予期していたかのように静かに、どこか切なく悲しげに歌い上げる女性ヴォーカルが耳に響く。
(この曲、聴いたことがある……ああそうだ、失恋した女が男への未練を歌ったやつ。女はともかく、男が歌ったら女々しいとしか思われないだろうな)
やがて目の前がぼやけてきてうつむくと、くらくらと目眩がした。アルコールに弱い方ではないけれど、空腹のところに何杯も飲めば酔うに決まっている。
ふらつく身体を支えながらストゥールを引いた一眞は「帰る」と言って立ち上がった。
「おまえの言い分はちゃんと聞いた。オレはその理由に異論はないし、反論もしない。もちろん、思いっきり嫌うつもりもないから安心してくれ。これで話はついたんだ、もういいだろ」
吸おうとしていたタバコを箱に戻して、健児は傍らの男を探るように見た。
「相当酔っているみたいだが、平気なのか?」
「人の心配をする前に自分の心配をしろよ。調子に乗って飲んでると、横浜まで帰れなくなるぜ。ここは奢り、ってことでよろしく。それじゃあ、元気で」
こんな場面での引き際はあくまでも大人の態度で、カッコよくなければ。
頭はまだしっかりしているが、足取りはおぼつかない。ふらふらとドアへ向かい、表に出た一眞のあとを慌てて勘定を済ませた健児が追ってきた。
「少し休んだ方がいい」
「いいよ、大きなお世話だって」
さよならする相手に心配などされてたまるか。その手を振り払おうとして、逆にがっちりと腕を捕らえられてしまった一眞は「何をするんだ」と喚いた。
はずみでポケットから滑り落ちた一眞の携帯電話をチラリと見た健児だが、何も言わずにそれを自分の懐へねじ込むと、こっちへ来い、とばかりに腕を引っ張った。
グラリと身体が揺れると頭も揺れる、酒のまわりは最高潮になり、一眞の意識は次第に遠のいていった。
……⑩に続く