第十四章 激突! 元カレVS今カレ
創が抱いたイヤな予感は的中した。
翌日、開発部へ配達に行くと総一朗の姿はなく、豊田にそれとなく訊いたところ、思いがけない答えが返ってきた。
「ああ、ミスターエンジェルなら、今日は休暇取ってるよ」
「休暇?」
「うん。昨日、部長に有給申請していたのを見たんだ。ずいぶん急だなと思ったけど」
たしかに、前もって何らかの予定が入っていたのだとしたら、いきなり休むのは他の社員にも迷惑になるし、もっと早めに申請するはずだ。
「『急に休むけど、ごめんね。お土産買ってくるから許して』って言われてさ。それで『課長、旅行にでも行くんですか?』って訊いたら『そう。失恋を癒すひとり旅、傷心旅行ってやつよ』だって」
失恋? それ、いったいどういう意味だよ? 自分との関係は始まったばかりで、失恋と呼ぶのはおかしい。総一朗流の笑えない冗談だと思いたい。
創の心の内など知る由もない豊田はさらに、
「日曜日までの、三日間の予定だとか言ってたっけ。もっとも、どこまでが冗談なのか、マジなのか、まったくわかんない人だけどね。傷心旅行のわりには『お土産お楽しみにね』とか言ってるし」
それにしてもだ、豊田に話したように、本当に旅行だとしたら、自分に内緒で行ってしまうなんて、おかしいじゃないか。何が「会うのは無理かも」だ、ふざけるな!
憤りを感じた創は昼休みにメールを送って、今どこにいるのか尋ねたが、まるでなしのつぶてで、彼からの返信はなかった。
「……ちくしょう、どこ行っちまったんだよ!」
とうとう電話番号を押してみたが『現在、電波の届かないところに……』という返答が繰り返されるばかりで埒があかない。
それにしても、昨日の時点で休みを申請したということはやはり、あの時の扶桑氏の訪問と何か関係あるのではないかという不安がよぎった。
まさか、元カレと一緒なのでは?
もしも彼が「妻とは離婚するから、よりを戻そう」と言い寄ってきたのだとしたら?
「失恋を癒す『ひとり』旅」には矛盾しているが、自身が女性でなければ、男同士ならば、ゲイカップルだとバレなければ、妻子ある男と旅行に行っても咎められることはない。親友と旧交を温めるとか何とか、言い訳はいくらでもできる。
となると、どこかの秘湯の温泉地でしっぽり二人きりで……苛立ちが募る。
いや、そんな要求に応じる総一朗ではないと信じているが、相手を振り切るための、雲隠れだとしたら?
そんな真似をする必要性はないと気づいたあとも、次から次へと、よからぬ想像が頭の中を駆け巡り、お昼の弁当はまったく喉を通らなかった。
落ち込んだ気分で会社をあとにした創だが、このまま部屋へ帰る気にはならず、あの小料理屋・青柳を訪れてみた。店では女将と、いつものオヤジ三人組がこの「テンちゃんの新しい、若い彼氏」を快く出迎えてくれた。
「あらら、テンちゃんは一緒じゃなかったのかい?」
「え、ええ。オレ、フラれたみたいで」
卑屈な態度を取りながら、三人が並ぶカウンター席の右端に座ると、陽気なゲンさんが背中をポンと叩いた。
「なーに辛気臭いこと言ってんだよ。ほれ、一杯やんな」
生ビールの中ジョッキを勧められた創は景気づけにそれを一気に飲み干した。
「おおっ、さすがにいい飲みっぷりだね」
「ど、どうも」
それからしばらくの間、三人と同席するうちに、創は自分の知らない総一朗について詳しい話を聞く機会を得た。
総一朗は過去において、あの元カレ──ミスター扶桑と一緒に、この店を頻繁に訪れていた。
別れたあとは別々に来るようになってしまったが、それでも常連客であったがために、女将は自分が出演する邦楽演奏会に二人を招待したのだ。
さらに、扶桑が中学から前の職場に至るまで、ほぼ一緒だった同級生であり、総一朗が本格的に、ゲイの道に入るきっかけとなる相手だったこともわかった。互いに離れられずに、同じ道を歩んできたのだろう。
その後、二人の関係が両親に知れて勘当されてしまうのだが、三十歳を目前にしたある時、「好きな女ができた。彼女と結婚して、普通の男として生きたい」という相手の言葉に、別れを決意したのだった。
「……家族が家族でなくなったあとに、男も手放しちまったんだろ。本人はけっこう辛かったと思うけど、そんな顔は微塵も見せなかったなぁ、テンちゃんは」
「おっ母さんが亡くなったときも、親父さんの意向で会わせてもらえなかったんだよな。気の毒に」
「そうそう。そのおっ母さんが入院しても見舞いにも行けず、葬儀も四十九日や初盆見舞いも禁止されたって話だぜ」
「でも、テンちゃんは長男だろ。跡取りの問題はどうなるんだ?」
「たしか姉さんが一人だけいるって聞いたぜ。嫁さんにいって、A市の実家の近くに住んでるらしい」
二杯目のビールをいったんカウンターに置くと、創はオヤジたちにお酌をしながら、総一朗が旅行に行くような話をしていなかったか尋ねてみた。
「旅行? さあ、聞いてねえな」
「ニイちゃん、置いていかれたのかい?」
「ええ、まあ……」
はっきり指摘されてしまった。
憮然として飲んでいると、創たちの会話を聞いていたらしく、つまみの肉ジャガを運んできた女将が「もしかしたらお墓参りに行ったんじゃないかしら?」と言った。
「墓参り?」
「あらやだ、ゲンさんたちだって一緒に聞いていたでしょうが。ほら、ちょっと前に話していたじゃない。もうすぐお母さんの命日だから、里へお墓参りに行くつもりだって」
三日間の旅程だと豊田から聞いていたし、その日数では、そんなに遠方へ行けるとは思えない。
総一朗の旅の目的地はきっとそこだ。墓参りを兼ねたついでのひとり旅、何ら確証はないけれど、なんとなく自信が持てた。
実家があるのはA市だと、先ほど聞いた。A市といえば、I半島の入り口となる観光都市だ。電車で行けば、時間は──などと、頭の中で地図を広げていた創は隣席からの、ふいの呼びかけにハッとした。
「いやぁ、珍しい人がお目見えだなあ」
「噂をすれば何とやらじゃないの?」
店先で声をかけられ、会釈で応える人物は扶桑繁明だった。スーツ姿のままだから仕事帰りだろう。どうやら久々にここを訪れたらしく、それでオヤジ三人組の歓迎を受けたようだが、創の姿に気づくと、ギョッとした様子を見せた。
こちらも咄嗟のことで、どうリアクションしていいのかわからず、それでも彼から視線を逸らすことができない。
そんな態度を挑戦的だと受け取ったのか、扶桑はわざとらしく余裕の笑みを浮かべると、創の隣の空席に腰かけ、女将に冷酒と枝豆、刺身の盛り合わせを注文した。
それにしてもだ、彼がこの場にいるということは、総一朗とよりを戻しました記念の「お忍びしっぽり温泉旅行」というセンは完全に消えたが……
ぐい飲みを空けたあと、扶桑の方から話しかけてきた。
「キミ、名前は何だったかな?」
「加瀬創です」
「今年の新入社員?」
「ええ。総務部業務課に配属されました」
「業務課か。噂には聞いているよ。社内でも問題が多発していて、けっこう大変な部署だってね」
元カレ対今カレの対決をオヤジたちが興味本位の面白半分に見守っている。観客を迎えて試合開始、白いマットのジャングルに放たれた気分だ。カンカンカンとゴングが鳴る。
相手は百戦錬磨のチャンピオンだが、いきなりタオルを投げるわけにはいかない、男の根性見せてやれ。気合負けしてなるものかと、創は強い口調ながらも冷静に言い放った。
「昨日、弊社にいらしてましたよね? どういう御用件だったんですか?」
「ちょっと話があってね」
総一朗がいきなり休暇を取る羽目になっているのに、ちょっとどころなわけねえだろ。なんてわざとらしい言い回しだとムカついて、さらに突っ込んでみる。
「お話の内容を教えていただくわけにはいきませんか? あの人と連絡が取れなくて困っているんですけど、その話と関係があるのではと推察したのですが」
「ああ、いいだろう。ボクらが同郷なのは知っているよね? じつは彼の実家で法事をやるらしいということを人づてで聞いたんだが、本人の耳には入っていないようだから、教えてあげた。それだけだよ」
「法事……?」
墓参りと法事、結びつかないこともない。
それにしても、そういう理由での休暇なら何も隠し立てすることはないじゃないか。なのに、曖昧な言い回しをした上に連絡まで絶ってしまうなんて、いったいどうなっているのだろうか。
扶桑は考え込む創の様子を眺めたあと「余計な世話は焼くなと、あいつにも言ったはずなんだが」などと言い出した。
余計な世話すなわち、若い男にちょっかいを出すなと言いたかったのだろう。いずれ創が総一朗に対して本気になる、ゲイの道に引きずり込まれるとわかっていたからだ。
ムッとした創は挑むように「お言葉を返すようで大変恐縮ですが、『それこそ余計なお世話だ』って言われていましたよね」などと切り返した。
「まあ、そうだろうね。しかし、現実問題としてはどうだ。こんな事態になっているじゃないか。キミだって辛いだろう」
「辛いって、別に」
扶桑は茶化すでもなく、むしろ真剣な面持ちで「悪いことは言わない、手を引いた方がいい」と言った。
普通の男に戻れという意味か。
自分がそうしたように、女と恋愛して、結婚して、祝福される人生を歩めと言うのか。
世間の大半の人々が進むであろう、平穏無事な道を行けと勧めているのか。
「それは忠告ですか?」
「もちろんだ。キミはまだまだ若いし、知らないことが多すぎる。世の中がわかっていないんだ」
カチンときた創は「たしかにオレは若輩者ですけど、そんな上から目線で言われても、ムカつくだけで忠告を聞き入れる気にはなりませんね」と言い放った。
反抗的な創の様子に、扶桑はやれやれといった表情をして、小さく溜め息をついた。
「だったら、ボクたちの経験談を話せばいいのかな? 納得してもらうにはそれしかなさそうだ」
経験談って何だ、わざわざ「ボクたち」と複数形にしやがって。二人の馴れ初めとか、ノロケでも聞かせるつもりなのか。
「ボクたちは中高時代からの知り合いでね。高校は同じ学校に進学した。大学は別々になったけど、揃って東京に出た」
大学卒業後は一緒に、某自動車メーカーに就職したんだろ。そのあたりの情報は既に得ている。創は気のないフリをしてジョッキをあおった。
「入社して七、八年目だったかな。ボクたちの部署は別々で、社員食堂で顔を合わせるぐらいだったんだが、あの二人の関係はどうなんだと以前から噂になっていてね。そんな時に、ボクの部署に異動してきた部長にえらく気に入られて、結婚の予定がないのなら、自分の娘を紹介するがどうだともちかけられた。ボクが返事を渋っていると、噂を耳にしたらしい部長から『このままでは二人とも出世街道から外れてしまうぞ』と脅された」
進歩的な考えの、都会の会社ならいざ知らず、地方の企業ではまだまだ同性カップルへの理解度は低いし、それも十年以上前のことだ。それでも部長という人物は「娘と結婚するのなら、ゲイだ何だと言われていたことは気にしないし、昇進も約束する」とまで譲歩したらしい。
自身の将来を考え、扶桑が出した答えは「総一朗と別れ、部長の娘と結婚する」ことだった。それは自分のためでもあるし、総一朗のためでもあった。彼にも一般男性の人生を歩んでもらいたい、そう考えたのだが、総一朗は別れを承諾したものの、ゲイとしての生き方を捨てることはないと言い、これ以上扶桑の邪魔になってはいけないと思ったらしく、江崎工業への転職を選んだ。
「いくら時代が変わったとか何とか吹聴しても、世間は同性愛者という存在に、寛容になったふりをしているだけ、どこかで後ろ指をさしているんだよ。そして、その事実はあらゆる局面で自分の足を引っ張ることになる。あと十年でどれだけ変わるのかわからないけれど、そんなに期待しない方がいいし、戻れるなら戻った方が身のためだ」
年齢もキャリアも重ねた人生の先輩、そんな男の言うとおりなのだと思う。総一朗も今なら間に合うから戻れと勧めたし、創自身、何度も戸惑い、迷ってきた。
それでも、ハッキリとわかることはひとつ。たとえ何があっても、何と言われようとも、総一朗を失いたくない──
「オレはあんたとは違う」
強気な態度に出た創に、扶桑の表情が少し引きつったように見えた。
「茨の道だとわかっていてもかい?」
「オレってば、めっちゃひねくれ者だし、チャレンジャーだし、そーゆー道、突き進むのが快感なんスよ。アスファルトで舗装された直線道路なんて、面白くも何ともねえよ」
こいつを説得するのは無理か。あきらめた様子の扶桑だったが、
「たいそうな自信だな。だが、果たしてあいつ自身はどうなのか。今すぐにでも会って確認できればいいんだがね」
そう、肝心の総一朗は今、何処にいるのか――
……⑮に続く