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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

テンシの誘惑 ⑬

    第十三章  心乱れて

「……創、早く起きなさい。いつまで寝てるの、学校に遅れるわよ。創ったら」

 母の声が慌しげに響く。

「あー、わかってるって」

「わかってないでしょ、私はもう出かけるわよ。食べたら後片付けしておいてね」

「ふぇーい」

 温かい味噌汁に焼き魚、卵焼き、炊きたての御飯……懐かしい朝の匂い……

 えっ、今見た光景はデ・ジャヴ? それじゃあオレはどこに居るんだろうか……

 グレイのカーテンの隙間から差し込む朝陽に目を細めて、創はベッドの上でのろのろと頭を動かした。まどろみから醒めきっていない身体が重い。

 ここは? そうだ、昨夜はこの部屋に泊まって、それで……夜明け近くまで狂ったように抱き合ったことを思い出すと、頬がカアッと熱くなる。

 隣で眠っていた男の姿はない。徹夜に近い状況だったのに、とっくに起きて着替えを済ませた彼はキッチンに立って朝食の準備をしていた。故郷の母を脳裏に呼び起こした匂いはそれだった。

「おはよう、朝御飯できてるよ。昨日のシャツは洗濯したから、着替えはそこにあるボクのを使って。キミの身長じゃあ、ちょっとサイズが小さいかもしれないけど」

 洗濯機が電子音で終了を告げると、急いでそちらに向かう彼、こまめに働く総一朗は『世話女房』という表現がぴったりである。過去に女を部屋に泊めたことはあったけれど、たいていは昼までだらだらと寝ているだけで、こんな真似が、細やかな心配りができるヤツはいなかった。

(いいなあ……こういう朝)

 結婚願望が強いと話していたけれど、もしも結婚したら、毎日こんなふうに尽くしてくれるのかなと、創は奇妙な妄想を抱いた。男女共同参画が当たり前の時代に、女性が家事を担当して当然のような考え方はいただけないが、それでも美味しい食事を用意してくれる存在に、男は弱い。

 寝ぼけまなこをこすりながら用意してくれた服を身につけ――ゆったりしたデザインなので、つんつるてんになることはなかった――ベッドから降りると洗面台に向かい、それからダイニングでおはようのキスをする。

 味噌汁の御椀に鮭の切り身が乗った平皿、だし巻き卵、梅干やら佃煮が入った可愛い小鉢が行儀よく並んだ小さな食卓での、二人きりの朝食。

 ラフなスウェット姿の総一朗は茶碗に御飯をこんもりと盛ると、創の前に差し出してから、湯呑みに緑茶を注いだ。

「わー、美味そう。こんなに豪華な朝メシ、久しぶりだ」

「学生のときからずっと一人暮らしだからね。一通りのことはできるかな」

「オレ、コンビニのお世話になるばっかりで、全然できないけど……冷蔵庫開けたら、缶ビールとマヨネーズと霜しか入ってないこともあったし」

 苦笑した総一朗だが、何もコメントしなかった。

 テレビのニュース番組は天気予報のコーナーになり、今日一日の快晴を告げている。長閑で平和な朝だ。

「こうやって誰かと食べるのも久しぶり。正月に実家へ帰ったとき以来かも」

「ボクも二人で、朝……」

 そう言いかけて、総一朗は口をつぐみ、その態度は創のハートをちくりと刺した。

 異性愛者よりはパートナーの見つかりにくいゲイだとしても、こんなにも魅力的な男がずっとフリーだったなんて。

 総一朗の過去に於いて、一緒に朝食の食卓を囲んだであろう、何人かの相手──総一朗が焼いた鮭や玉子焼きを喜んで食べ、味噌汁を美味しそうに飲み、御飯をおかわりしたかもしれない男たち――もちろん、その前夜にはベッドの上で彼を抱いていた――あの元カレ・扶桑以外にも、そんな相手がいたとしても有り得ないことではない。むしろ、いない方がおかしいと考えるべきなのだ。

 そんなことは当に承知の上だ、とは思っても、相手の過去に嫉妬している自分の愚かさに、創はうろたえていた。

 過去なんてお互いさま、どうでもいいじゃないか。今の総一朗は、彼のすべては自分のものになったのだから……

「この味噌汁、美味しいね。出汁はじゃこを使ってるのかな? 母さんが作ったのと同じ味がするからさ」

 話題を変えようとしてそう言うと、総一朗は一瞬、ハッとした表情を見せた。

「どうかしたの?」

「い、いや、別になんでもないよ。出汁はじゃこで当たり。口に合ってよかったよ」

 その戸惑いは、狼狽は何を意味するのか。

 固さの残る笑顔と、取り繕うようなセリフの裏には何が隠されているのか。

 二人は結ばれたのに、気持ちが満たされない。

 快晴のはずの青空に薄墨を流したような雲が広がり、創の心にも暗雲がたちこめていた。

    ◇    ◇    ◇

 月曜の朝、出社した創を出迎えた鈴木課長が「金曜の会議は欠席して申し訳なかった」と謝ってきた。

「キミが私の代理として出席してくれたそうで。立派な受け答えだったと部長が褒めていました。いやいや、新人ながらたいしたものですね、加瀬ヨシオくん」

「いえ、そんな……ハジメですけど」

「毎回間違うなら、フルネームで呼ぶなっつーの!」と言いたいところをグッとこらえる。

 最近、齢のせいか、とみに忘れっぽくなった課長のことだ。言ったところで、どうせすぐに忘れてしまうのはわかりきっている。この調子で、彼が退職するまで間違われ続けることだろう。

 ともかく、先の会議の結果を受けて、今日中に経営陣との面接があるからそのつもりでと鈴木が告げ、二人はいつもどおりの仕事に取りかかった。

(戻ってくるのは明後日だって言ってたよなぁ。なんか、すっげー先の話って感じ)

 土、日と二日間、甘い時を過ごした二人だが、九州にある取引先の工場への出張を命じされた総一朗は今朝早くに荷物を持って出発し、いったん自分の部屋に戻った創はそれから会社へ向かったのであった。

 しばらく会えないとなると寂しくてたまらないが、これもサラリーマンの宿命。誰かの帰りを待ちわびる、なんて気持ちは、母の帰りを待った小学生以来かもしれない。

 それでも、彼と夜毎交わされるメールのお蔭で、いくらか気分が紛れた。

 報告その一。業務課の廃止はほぼ決定で、鈴木課長の退職と前後して行なう予定であり、それまでに組織編制を見直すこと。

 その二。廃止後は総務課と各部署の分担によって仕事を引き継ぎ、その内容と場合によっては外注の業者を入れること。

 その三。面接の結果、廃止後の配置転換として、山葉ミチルはそのまま総務課へ、創はシステム部に移るだろうということ。

 総一朗のいない間の社内ニュース、主に業務課を巡るその後の成り行きについて報告すると、彼は大喜びで返事を送ってきた。

『アタシのお蔭、感謝しなさいよ、なんてことは言わないよ。あの日、キミが課長の代理を立派に務めた結果だ』

 そんな総一朗の言葉がとても嬉しかった。

 さて、水曜の夜遅くに帰宅した彼とようやく顔を合わせたのは木曜の朝で、思わぬ事件が起きたのはその日の午前十時頃だった。

 例によって、デスクにて鈴木課長とお茶を飲んでいた創が何気なく総務課の方を見ていると、女子社員の一人が立ち上がり、来訪者の受付に立った。

(あっ、あいつは!)

 名刺を差し出した来訪者はあの扶桑繁明だった。すると女子社員は承知したという様子で、内線電話をかけ始めた。

(ここまでわざわざやって来るなんて……そうか、連絡先を教えてもらってないからだ)

 扶桑と別れたあとに、総一朗は今のマンションに転居したようで、住所も、電話番号もメールアドレスも知らない彼としては、当人に会うためには直接会社を訪れるしか、方法がなかったのだ。

 やがて現われた派手なピンクのジャケットの男は扶桑の登場にたいそう驚いた様子だったが、彼から何やら聞かされると深刻な表情になった。ガックリとうなだれているようにも見え、創の胸は怪しくざわめいた。

 いったい何の話をしているのだろう? 

 仕事に関する内容とは思えない。まさか、デートのお誘いでもあるまいし。

 ただならぬ雰囲気に不安が掻き立てられ、いてもたってもいられなくなった。

 彼らの面会は五分と経たないうちに終わり、エリート紳士は総務部の人々に会釈をすると、その場を立ち去った。

 開発部へと戻ろうとする総一朗を慌てて追いかけると、

「ああ、見てたんだ」

 あの男の用件は何だったのか、訊くに訊けず、もじもじしている創に「今週末、会うのはちょっと無理かもしれない。ゴメン」と総一朗は告げた。

「えっ、な、何で?」

「うん、まあ……また埋め合わせするから、許してくれ」

 釈然としないものを感じながらも、納得したふりをしてうなずく。

 焦燥の色を隠せないまま、総一朗は急ぎ足で行ってしまい、廊下に取り残された創は呆然と立ちすくんでいた。

 天使が白い羽根を広げて、空高く舞い上がる様が見える。もう二度と地上へ降りてくることはない、そんな気がした。

                                 ……⑭に続く