第九章 愛しのスピッツ
翌日。
けっきょく堂本は朝まで戻らず、FSSに顔を出すこともなかった。
その次の日、金曜日の朝イチ。
オレは椎名さんに呼びとめられ、奢るから一緒に昼メシを食いに行こうと誘われた。オレのランチ仲間の不破たちには既に話しておいたという用意周到さだ。
そして昼休み。
会社近くのトンカツ屋に入り、席に着いてヒレカツ定食を注文したあと、椎名さんは「ちょっとショッキングな話をするけど、食欲なくして、せっかくのトンカツ食えないなんて言うなよ」と念を押した。
「あ、はい」
いったい何の話なんだろう。湯呑を持つ手が微かに震える。
「彬がさ、関西工場に出張だって」
その瞬間、頭の中が真っ白になり、椎名さんの声が聞こえなくなった。
「……で、そのトラブりまくりのダメダメなマシン、向こうでなけりゃテスト環境整わないからって、あいつが行かされる羽目になっちまったんだ」
春人も──榎並さんのことだ──スキャナのテストで行った、あの時は正月返上でいろいろ大変だったと椎名さんは続けた。
ようやく気を取り戻したオレが「堂本さんはどのくらい行くんですか?」と訊くと、
「たぶん、今年いっぱいだって」
「そんな……」
従ってトリプル異動の一角は凍結状態。来宮さんの異動については変更不可なので、年内は椎名さんが教育担当とサブリーダーをかけ持って、何とか業務をこなしていくという話で決着がついているらしい。
「ま、来年度の新人教育の準備が本格的に動き始めるのは年明けからだし、オレ的には何とかやっていけるかなって思うけど、心配なのはあいつだよ」
あいつ……もちろん堂本のことだ。
さぐるようにオレの顔を見ていた椎名さんは「チャンスは今週末だから」とのたまった。
「えっ、何の?」
「月曜日に出発だってさ」
それから椎名さんはケータイを出せと言い、オレの手からそいつを奪うと、何やら入力を始めた。
「はい。メアドも番号も入れておいたから、連絡取ってやれよ」
「で、ですから」
「春人がさぁ」
椎名さんはわざとらしく、恋人の名を口にした。
「あの二人に手を貸してやれって言ったんだ。ほら、水曜日にナポリなんちゃらで飲んだとき、おまえらが帰ったあと」
「榎並さんがそんなことを?」
「彬の態度見て、一発で見抜いたらしいぜ。『堂本くんは村越くんが好きみたいだね。村越くんの方も彼が気になってるんじゃないかな』って言ってた。だから、おまえをあいつに送らせたんだ。な、図星だろ? へへー。さっすが、オレの春人」
なんてこった。
榎並さんはオレに、上司云々とは別の意味で、つまり堂本への想いを自覚させて、お互いの気持ちが確認できるように画策していた。それゆえに、椎名さんにもアドバイスをしたのだ。
それにしても榎並さん、当人同士はずっとわからずにいたのに、即座にそこまで把握するなんて脱帽だ。もっとも、第三者だからこそ見抜けたのかもしれないが。
「……ありがとうございます」
受け取った電話機を握りしめる。
「よかったな」
椎名さんはいたずらっぽく笑った。
「これで、白バラが枯れたなんて愚痴らなくてもよくなったじゃねーか」
「あ、それは、その……失礼しました」
「あンとき、小百合ママのところで会ったときさ、本当は彬のことで悩んでいたんだよな。オレも昔、同じような状況で店に行ったくせに、何も気づかなくて悪かったよ」
「い、いえ」
「彬をよろしくな」
ふいに、椎名さんは真顔になった。
「あいつ、ちゃらんぽらんで誠意がないように見えるから、これまで本気で好きになってくれる人に出会えなかったんだ。でも、根っこのところは真面目で一途だから。ま、オレがエラそうに語るまでもなく、とっくにわかってるだろうけど」
そうなんだ。とっくにわかっていた。
その優しさも、思いやりも。北海道の大地のように大らかなところも。
短気で、いつも喧嘩腰で、つっかかってばかりいるオレを丸ごと受け止めてくれる度量の大きさ。あんなふうに接してくれる人に出会ったのは初めてだった。
きっと、だから……好きになったんだ。
「……オレみたいなヤツでいいんでしょうか? いまいち自信が」
「お似合いだよ。あいつ、おまえのことが可愛くて仕方ないんだ。会ったら訊いてみろよ、絶対そう言うからさ」
◇ ◇ ◇
その夜、オレは思い切って堂本彬にメールを送った。
メアドを椎名さんに訊いたこと、水曜日の宿泊の御礼、鍵を返すにはどうしたらいいか、などなど。
ところが、翌朝になっても返信が届かない。本来土曜日は休みのはずなんだけど、よほど仕事のスケジュールが切羽詰まっているのだろうか。
そんな時に電話するのはもっとまずいだろうと考えた結果、直接部屋を訪れることに決めた。
月曜日に出発というのだから、いくら何でも今夜は帰って来るだろう。万が一、帰らなかった場合は横浜行きの最終に乗って、小百合ママの店で飲み明かす覚悟だった。
転勤する上司の送別会で、今宵は泊まり込みだと家族に告げて家を出たのだが、半分は事実だ、嘘はついていない。
「最新鋭のセキュリティ」だけあって、誰でも出入りできる建物の廊下を進み、彼の部屋の前に立つ。いくら鍵が手元にあっても、家人の留守に上がり込むのは嫌だった。
九時……十時……時間が無常に過ぎる。
そろそろタイムリミットだ。疲れて座り込んでいた腰を上げ、足をひきずるようにして一歩踏み出した時、
「中で待っていればよかったのに」
ずっと会いたかった人が目の前に立っている。少しやつれた様子だが、いつもと同じ笑みを浮かべていた。
安堵しながらも、オレは「勝手に入るのはイヤなんです」と突っぱねた。
「そう言うだろうと思った」
オレからキーホルダーを受け取ると、ドアを開けた彼は中へ入るよう促した。
「雨降ってないけど、その傘は?」
「今夜会えなかったら、返すつもりで持ち歩いてたんです」
何のことだかわからんといった顔をしながらも、彼は着替えを始めた。
「出張のこと、聞きました」
「あー、あれね。とんでもないことになっちゃって、もう大変。ウィークリーマンション用意するからって言われても、旅行じゃないんだから、そう簡単に行けるわけないってわかんないのかな」
何もかも放り出して行く身の大変さなど、上層部には理解できるはずもない。慰めようもない話だ。
「オレ、スピッツって呼ばれてたことあるんです」
「スピッツ? ああ、犬の、ね」
「キャンキャン吠えて、何かとうるさいからって。でも、うるさいぐらいの方が番犬には向いているでしょ? ちゃんと留守番していますから、だから……」
ようやく通じ合えたのに、とたんに遠距離なんて。
泣かないつもりでいたのに、ふっと涙が溢れてきた。
そんなオレを見守るようにしていた彼はスッと腕を伸ばし、肩を抱き寄せると頬を伝う涙を拭った。
「番犬かぁ。たしかによく吠えて、よく噛みつかれたよなぁ。でも、そんなとこが可愛いんだよな」
椎名さんが言っていた、あいつはおまえのことが可愛くて仕方がないんだって。
それなのに、アマノジャクなオレは「調子のいいことばかり言う」となじった。
「えー、信じてくれないの?」
「だって」
近頃めっきり緩くなってしまった涙腺のせいで、あとからあとから、勝手に涙が溢れ出てくる。
その涙に弱いのだと言いながら、
「頼むから、もう泣かないでくれよ」
彼はオレの髪を撫で、そっとキスをした。
「愛している」
愛している──
愛されている──
オレは愛されている──
ずっと──望んでいた──
やっと──手に入れたんだ──
オレの顔を覗き込み、彼は安心したかのように微笑みかけた。
「俺が戻ってくるまで半年ほどかかるけど、ここで待てるかな?」
「それって忠犬ハチ公みたいだけど」
「あ、そうか。犬だから、まさにハチ公だ。ハハハ」
笑い事じゃない。オレはぷいと横を向いた。
「やっぱハチ公やめた。ずっとほったらかしなら、自主的に保健所に行ってやる」
「また、そんな無茶を言う」
顎を引き寄せ、もう一度キス。今度は舌を絡められて、かなりディープだ。
「暇を見つけて、できる限り帰るようにするよ。何なら、そっちから来ればいい」
「そんな不用意なこと言うと、本当に毎週押しかけてやるから」
「いいよ。できれば一緒に連れて行きたいところだけど、ペットは禁止だろうし」
「何それ? オレってペット扱い?」
「浩希が自分で番犬とか、ハチ公って言ったじゃないか」
そこまで答えたあと、
「浩希……って呼んだの初めてだよね?」
オレが黙ってうなずくと「俺のことも彬でいいから」と言うので、
「でも、会社では村越でお願いします。こっちも堂本さんって呼びますから」
「はいはい、けじめはつけなきゃね。そういうのうるさそうだし……」
「あー、うるさいって言った」
「ああ、わかったから。もう噛みつくなって」
苦笑いしたあと、彬はオレを強く抱きすくめると、彼らしからぬ切羽詰まった声で「本当に……本当に連れて行きたい。離れたくない」と絞り出すように呟いた。
熱い想いを吐露され、胸がギュッと切なくなってくる。
「離さないで……」
貪るようにまたキスを交わす。互いの気持ちが高ぶり、オレたちはそのままベッドへと倒れ込んだ。
オレのシャツをたくし上げながら、
「男性は初めてなんだ。ヘタだったらゴメンね」
「もう、せっかくの盛り上がりに水を差すようなことは言わない」
「手厳しいなぁ」
トホホな表情で、それでも彬は嬉しそうに、オレの肌にキスの雨を降り注ぎ始めた。左右の突起が指と唇と舌にこれでもかと攻められ続ける。久しぶりの快感を与えられ、気が遠くなってきた。
「あっ、ああっ……もう、ダメ」
「ダメって、始めたばかりだよ」
しばらく突起をいじっていた手が下の部分へ伸びる。
「やっぱりここがイイんだよね?」
「やっ、そこ……」
初めてと言う割には、彬は大胆な行為に出た。オレのモノをフェラし始めたのだ。
ざらりとした舌が敏感な先端を刺激、割れ目の部分にまで入り込んで、チロチロと攻め立てる。押し寄せる快楽の波に、オレはためらうよりももっと大きな声を上げていた。
「あっ、あっ……ん」
悶えるオレの姿に我慢ができなくなったらしい、彼はいささか性急に、オレの後ろをまさぐり始めた。耳にかかる吐息が次第に荒く、激しくなる。
「ここに入れるんだろ?」
「そう……だけど」
「どうすればいいの?」
「どうすれば、って」
オレは彬の指を導くようにすると、潤滑剤代わりになるものはないかと訊き、そこでハンドクリームが代用された。優しく、緊張をほぐすように動く長い指はやがて、するりと秘孔の奥へ吸い込まれた。
「ああっ!」
悲鳴なのかそれとも歓びなのか、出した本人さえわからない声がこだまして、オレは身をよじった。
「ひっ、い、いい、そこは……」
「この辺がいいってことだね」
彬の人差し指がオレの中を自在に動く。こすられ、かき回されて、オレはイヤイヤと首を横に振った。ますます興奮が高まってきて、自分で自分が抑えられなくなる。
「ダメ、感じる、感じすぎちゃうから……」
「素直じゃないなあ。ダメ、じゃなくて、本当はもっと、でしょ」
「も……もっと、もっと」
「よく出来ました」
はしたない仕草も恥ずかしい声も、もうこの際かまいはしない。歯止めが利かなくなったオレは貪欲に彬の愛撫を求め、彼の指で散々いじられたその部分に、そそり立つものが押し当てられた。
「入れるけど、いい?」
ゆっくりとオレの中に沈んでいく、その熱い感触を何とか受け止めたものの、あまりの圧迫感に、声にならない声が喉を突いて出る。
「……んっ、ああ」
「浩希の中、とっても気持ちがいい。このままどうにかなってしまいそう」
彬もさすがに声が上擦っている。
「やっと……ひとつになれたんだね、嬉しいよ……」
彼は腰を動かしながら、うわ言のようにオレの名前を呼び、再び元気を取り戻したオレの分身を握りしめた。
もっと強い快楽を、激しい快感を求めて、オレは髪を振り乱しながら彬にしがみつき、彼の動きに合わせて身体を揺らした。そんなオレの要求に応えようとする彬、彼の力強いモノに貫かれる度に、オレは歓喜の声を上げ、ベッドの上をのた打ち回った。
「あっ、ああっ、イッ、イイ、もっとして! メチャメチャにしてっ!」
──彬はオレの髪を撫で、頬ずりしながら「ありがとう」と何度も言った。
◇ ◇ ◇
「とうとう行っちまったな」
新横浜駅、新幹線の下りホーム。あっという間に見えなくなったひかり号を見送りながら、椎名さんが呟いた。
「ええ」
「でもまあ、半年なんてすぐだから。それに、週末とかは帰って来るんだろ」
「だと、いいんですけどね」
「思い出すなぁ~。オレもよく耐えたよな、あの遠距離恋愛の日々」
「それ、じっくり聞かせてくださいよ」
「よーし。それじゃあ、小百合ママのところにでも行くか?」
「あ、オレ、まだ傘返してないっけ」
「では『ブラッディ・イヤリング』へ向けて出発だ!」
〈To be continued〉