第四章 心の揺らぎ
次の瞬間、いきなり掌で口を塞がれて心臓が止まったかと思うほど驚いた。
まるで油が切れたゼンマイのおもちゃのような、いかにもぎこちない動きでこわごわ後ろを振り返ると、ニヤニヤ笑いを浮かべた堂本がもう片方の手を唇に当てて「静かに」のポーズをとっていた。
にゃろう、脅かしやがって!
怒りを目に含んだオレの反応など無視、堂本は退去せよと合図すると、そのままの格好で後退りを始めた。
音をたてないように、オレたちは細心の注意を払いながら階段までたどり着くと、脱いだ靴を手に提げて三階まで下りた。さすがにここまでくれば大丈夫だろう。
「……ぷはー」
息まで止めていたせいか、堂本は海面に浮上したクジラのような音をたてた。
「いやー、マイッたね」
彼も給湯室内の異変は承知していたようだ。同意を求めるようにこちらを見たが、オレが黙っていると、続けて「出歯亀はいただけないねぇ」などと振ってきた。
「別に、覗きとか、そんなんじゃありませんから」
「わかってるよ。何の物音だろうと思って見に行ったんだろ。俺も同じさ。まさかあんなことになってるなんて、普通じゃ想像つかないもんな」
それにしても意外だった。
あの二人の間にそういう感情があったなんて、今までオレたちは正反対の関係として捉えていたことになる。
「あ、そうか、なるほど。それで彼は荒れていたんだな」
いきなり悟ったようなセリフを口にする堂本に思わず、
「何の話ですか?」
「んー? だから成海くんだよ。彼は近づく来宮との別れが辛くて、OJTにも身が入らずイライラしていたってわけ」
「じゃあ……」
「可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだねぇ。彼は来宮を困らすことでしか、愛情表現ができなかったんだ。例の件もそうでしょう?」
「例の件……ああ、来宮さんの怪我か」
来宮さんと成海との間の出来事は椎名さんあたりから聞いていたのだろうが、根底に潜む成海の想いを堂本は看破していた。
成海は来宮さんを愛している、それはずっと以前からの想いだったと──
そういえば研修中の飲み会を企画した時、最初は欠席にしていた成海が「やっぱり参加する」と言い出したことがあった。
あれは来宮さんの出席を知ったからだ。好きな人が参加すると知って、自分も……と思ったのだろう。
「今日は来宮の送別会だろ。さようならって言われた気分じゃないのかな」
やっぱり離れたくない──成海の痛みが突き刺さる。
川崎市にある本社は決して遠くはないが、同じ建物にいるのと、そうでないのとでは気持ちの上で違う。アフターファイブや土日に会えるじゃないかといっても、残業や休日出勤ともなればそれも簡単にはかなわない。
ずっと一緒にいられるわけではない、顔も見られない日々が続くのは新人のオレにだって想像がつく。
業務に追われ、ハードな毎日を送る今の来宮さんの状態からして、オフィス内ですれ違うのが関の山、成海にとって過酷な時間は既に始まっているのかもしれない。
ふと気づくと、堂本が穏やかな笑顔でこちらを窺っていた。
「な、何ですか?」
「いやぁ。村越くんたら、まるで自分のことみたいに真剣な顔で考え込んでいたから、ちょっとね」
「考えちゃいけないんですか? 成海はオレのOJT仲間なんだし、その」
「ああ、わかってるよ。キミは仲間思いだもんな。人情に厚くて、正義感が強くて、曲がったことが大嫌い。愛すべき男だよ」
これまであんなにヒドい言葉を投げつけまくったのに、愛すべき男だって?
堂本の思いがけないセリフがオレの胸の内に漣を立てる。
コラ、動揺してどうするんだ。こんな、チャラチャラしたヤツの言うことなんか、真に受けるもんじゃないって。
心の揺らぎを知られたくない一心から、オレはわざと冷たい口調で答えた。
「……堂本さんに褒められても、あんまり嬉しくありませんけど」
「それは、それはどーも。俺ってまったく尊敬されてないってことね」
拗ねたような口ぶりだが、目は笑ったままだ。
イラッとしたオレはつい、つまらないことを口走った。いや、つまらなくはない、気になっていたことだ。
「そういや堂本さん、前に彼女募集中って、藤沢さんに言ってたでしょ。つまり異性愛者じゃないですか。それなのに驚きもせずに、あの二人の関係に理解示してるって、どういうつもりっていうか、いったい何考えてるんですか?」
すると堂本は目をぱちくりした。
「あれー。だってさ、そーゆーの、よくあることでしょ?」
「はっ? よくあること?」
来宮さんと成海は言うまでもなく男同士、つまり二人は同性愛者。
成海の心情をどうこう解説する以前に、同性愛という事実に驚くとか戸惑うとか、そういった反応を示すのが自然だと思うのに、よくあることって何事?
「そう言うキミも『えー、マジで? 信じられなーい!』みたいなリアクションとってないけど」
しまった、墓穴を掘った。
「えっと、それは」
決して口にできない、オレの秘密……
「まあー、異性とか同性とか、どっちでもいいじゃないの」
「どっちでもって、そんな、いい加減な」
「好きになっちゃえば、どうでもいいことなんだよ」
ひらひらと手を振る堂本を思わず見つめてしまうオレ、何ともいえない不可思議な感情が身体の中を駆け巡る。
それは確かにその通りなんだけど、あんた自身はどうなんだ?
なんて、訊けっこない。
「そうだ。このあと、ちょっと俺につき合わない?」
「えっ、なっ」
つき合えって、いったい何に?
まさか?
まさか?
まさかぁ?
先の二人の刺激的な場面を見たばかりで興奮冷めやらぬせいだろうか。
堂本の突然の申し出に、思いがけない展開に、想像力が働くのはよからぬ、且つ恥ずかしい方向ばかり。
何やってんだ、オレ。頭の中が混乱しまくっている。
「いろいろと話したいことあるんだよねー。二次会行って飲んでもいいし、カフェでもどこでもいいんだけど」
「あ……はあ」
なんてまぬけな反応。カフェでもどこでもって、健全な方向じゃないか。
よからぬ想像がようやく収束してきたのはともかく、話したいことって何だ。さっきの出来事からして、来宮さん絡みだろうか。それとも他に……
何を期待しているのかと、自分を諌める一方、あんたと話すことなんてないと、憎まれ口をたたくでもない。
複雑な思いを抱えたオレはどう答えればいいのかと考えあぐねていた。
「先約があるの?」
「い、いえ、べつに……」
「それならきまりだね」
嬉しそうな様子に、思わず口をついて出たのはまたしてもひねくれた問いかけだった。
「あの、オレなんかと一緒にいて、話なんかして楽しいですか?」
「えっ?」
「そりゃ、仕事の関係でどうしても話さなきゃならない用事があるっていうのなら仕方ないですけど……オレっていつもこんな調子で、何かっていうと喧嘩腰で……」
どんどん卑屈になっていくオレのセリフを堂本は黙ったまま聞いている。
「おまえと一緒にいると疲れるって言われたこと、何度もあります。なのに、わざわざ誘うなんて」
「疲れる……ねぇ」
しばらく首をかしげていた堂本はそれから「疲れたことなんてないけど」と答えた。
「……それはまだ、話す機会が少ないから」
このあと何と続けていいのかわからず、黙ってうつむいていると、
「おっ、堂本に村越か。おまえら、来宮を見なかったか?」
オレたちを見つけて近寄ってきたのは業務課の大塚課長、来宮さんの上司だ。
「来宮なら、さっき二階のトイレですれ違いましたけど、どうかしたんですか?」
機転を利かせた堂本が咄嗟に答えた。こいつ、なかなかの役者だ。
「いや、お偉方がお呼びでな。すまん、ありがとう」
大塚課長は丸い背中をゆさゆさ揺らしながら、四階とは真逆の方向に下っていった。
その後ろ姿にバイバーイと手を振ってから、堂本は肩をすくめた。
「さーて。あのお二人さん、お楽しみはいいけど、騒ぎになる前に早いとこ戻ってきて欲しいんだけどねぇ」
……⑤に続く