第二章 同僚の美少年
異動は移動とは違う。
人の場合、こちらからそちらへ物を動かすように、ホイホイと移れるものではない。
本社のプリンタ部統括所属と紹介された堂本だが、これまで向こうで担当していた業務と調整をつけながら──なかなかやっかいな仕事で、簡単には終わらないらしい──引き継ぎを行なうらしく、今日の午前中は川崎市中原区にある本社へ出勤。
ゆえに、南武線乗り換えのため、痴漢オヤジと同じ武蔵小杉で下車したと思われる。それから、午後こちらに来るというスケジュールだったようだ。
今朝の痴漢騒動に関して今のところ、堂本の態度はその件に触れるどころか、まったくの知らん顔だった。
被害者が若い女だったならともかく、男とあっては顔など覚えていないのかも。それならそれでいいと思う一方で、無視されたことへの苛立ちを感じる。
とはいえ、礼節を重んじるオレとしては、このまま知らんふりするなんてできない。こうなったら厭味半分で礼を言ってやろう。さて、何と応えるか見ものだ。まあ、どうせ「あれ、前に会ったっけ?」とボケるのがオチだろうけど。
事務手続きだ何だで忙しくしていた堂本がようやくデスクに落ち着いたのを見計らい、オレは彼の傍に立った。
「ところで、今朝方はありがとうございました」
さあ、どんなリアクションをかましてくれるんだ?
すると堂本は意外な反応を見せた。
「ふーん。黙っていた方がいいかと思ったけど、そうでもなさそうだね」
「え、えっ?」
覚えていた?
おもしろいリアクションをしてしまったのはオレの方だった。
「いやー、ほら、あんまり触れられたくないのかもと思って。ああいった出来事は変に広まったらイヤでしょ?」
「い、いえ、でも、知らん顔をするのはポリシーに反するものですから、御礼はきちんと伝えることにしているんです」
「ああ、それならいいけど。もちろん礼には及ばないよ。一足お先に、同僚の美少年とお知り合いになれて得した気分だしね」
同僚の美少年?
それってオレのこと?
動揺するオレにウィンクしたあと、堂本は左手の親指を立てて自分の襟元を示した。社章だ。オレのスーツの襟にもこいつがついていたから、FBLもしくは関連会社の者だとわかったのだ。
そこへ藤沢さんがやって来て、提出書類云々の話を始めたため、オレたちの会話は途切れてしまった。
それにしても、彼が今朝の騒動を覚えていたとは。しかも、再会したとたん、いきなり噛みついたオレに対して嫌悪どころか、それなりの好意を抱いているらしい。
とにもかくにも、想定外の堂本の反応に、オレの意気込みはどこへやら。すっかり惑わされていたのだった。
さて、午後一番には小会議室でのグループミーティングが待っていた。
本社へ異動になる来宮さん、来宮さんのあとを受けて業務課へ移る椎名さん、椎名さんの仕事を引き継ぐ堂本……と、三人が並行しての引き継ぎはまさに、ゴチャゴチャの混線状態。
だったら新人と同時に教育してしまえば手っ取り早いじゃないかってんで、椎名さんが始めたオレたちへのOJT指導に堂本を加えることになったのだ。
「それにしてもさ、異動はどんなに早くても七月半ばになるって聞いてたんだけど、六月になったばかりで早くねえ?」
目はパッチリと色白で──どこをどう見ても十代、とうてい二十五歳には見えない童顔の椎名さんが堂本の肩をポンと叩く。
「俺だって寝耳に水だよ。あ、もしかして、おまえが俺を代打に指名して『堂本のヤツをさっさとよこせ』ってな感じで、上を急かしたんじゃないのか」
「まさか。OJTが始まったばかりだってのに、そんな無責任なこと、このオレがするわけねーって」
椎名さんが反撃すると、
「とにかく、あっちもこっちも引き継ぎで、慌ただしくてしょうがないよ。今やってるマシン、相当厄介なことになりそうだってのにねぇ」
苦笑いしたあと、堂本は「そうだよなぁ。俺よりもあの人に帰ってきて欲しいんだよなー、英クンは」と続けた。とたんに椎名さんの顔が赤くなる。
「あの人って……ンなワケねーだろ」
「あー、照れてる」
「照れてないっ!」
いったい何なんだ、この二人。ヤケになれなれしいけど、どうなってるんだ?
訝るオレたちに、椎名さんが二人の関係を説明してくれたが、なんと、彼と堂本は大学の同期で、卒業後も友達づき合いを続けているらしい。
「一緒に試験受けたのに、こいつだけ本社採用だけど」
椎名さんが冗談混じりに卑屈めいたセリフを吐いた。
たしかに新卒で本社採用となれば、かなり優秀な人物ってことになるけど、のほほ~んとしたこの男がそんなエリートにはとうてい見えない。
すると、話がはずむ二人を見下すような目で眺めていた成海が冷ややかな口調で問いかけた。
「これがミーティングですか?」
「え? ああ、ゴメ……」
「時間の無駄なんですけど」
「悪い、悪い。それじゃ始めるか」
ふてくされた成海の態度にムッとするでもなく、椎名さんは手元のプリントを示して解説を始めた。
「今回の業務は先に完成した電子ファイリングシステムの、プリンタ制御プログラムの改訂版という位置づけになるのは以前に話したと思いますが……」
椎名さんはわかりやすい言葉で丁寧に話してくれるのだが、頭がなかなかついていかないオレに引き換え、堂本と成海は鋭い質問を次々に浴びせている。
そりゃそうだ。入社三年目にて本社でバリバリ働いているヤツと、新人ナンバーワンという二人にかなうはずもない。劣等感がオレを襲った。
「というわけで、今説明した機能を追加するという形で進めていきます。モジュール分割などの具体的な話は少しあとになりますが、とりあえずは全体の構成を理解してもらおうと思いますので」
小一時間ほど経っての休憩時、成海が手洗いに行くと言って席を立った。
「はあ~」
手渡された分厚いプログラムリストを前にしたオレはどうやら、うんざりといった顔をしていたらしい。席に着いたまま、つい、ため息を漏らしてしまうと、
「何かと大変だとは思うけど、あんまり気負わずにやれよ」
そう言って椎名さんが励ましてくれた。
「あ、はい」
「仕事覚えるだけでも一苦労なのに、ああいうのが同僚じゃあ、気苦労倍増だな。おまけにオレが抜けて、新サブリーダーの彬クンも一から勉強なんだからさ。上も、もう少し考えてくれりゃいいのにな」
ああいう同僚とは成海のことか。彼の扱いにくさは承知しているのだろう。
「村越見てるとさ、三年前のオレを思い出すよ」
椎名さんの思わぬ発言に、
「えっ、そうなんですか?」
などと訊き返すと、
「ああ。オレらの年は新人の数が少なくて、ここに配属になったのオレ一人じゃん。あの頃いた、めっちゃ厳しいサブリーダーにしごかれてさ。エレベーター点検中なのに、下までリスト取りに行ってこい、とか、そりゃもう無理難題ばっかり」
苦労の連続だったと言いながらも、椎名さんはどこか楽しそうだった。
「苦労したって言ってるわりには楽しそうに見えるけど」
リストをチェックしていた堂本が口を挟んだが、そのセリフからして、ヤツもオレと同じ印象を受けたようだ。
「いやぁ、別に」
「そーか、そーか。あの人もいたしね~、英クン」
「おまえ、しつこい」
椎名さんが堂本を睨む。
それにしても、さっきから話題にしている「あの人」って誰だろう?
まさか、椎名さんも……
「そうそう、この前、久しぶりに伊織から連絡もらって飲みに行ってさ」
「四人でか?」
「いや、違うよ。年長のお二人は忙しくて無理だった」
「そうか。伊織とはメールやり取りするぐらいで最近すっかり御無沙汰だけど、元気にしてたか?」
「元気も元気。何とかいう資格の試験を受けたって言ってたぜ。もうすぐ合格発表で、受かったら打ち上げやろうって」
会話を聞いた感じでは、伊織というのは二人の共通の友達らしいが、年長の二人とはどういう関係の仲間なんだろうか。
椎名さんにはどうにも謎が多い。オレの頭の中は『?』でいっぱいだ。
「そうだ、飲みに行った、で思い出した」
「何を?」
「来宮の送別会、来週金曜日だって。おまえの歓迎会も兼ねてやるってさ。スケジュール空けておけよ」
「そりゃー、どーも」
来宮さんの送別会と堂本の歓迎会──それがどんな波乱を呼ぶのか、その時のオレに予想がつくはずもなかった。
……③に続く