第八章 ボクノキノコニチカヅクナ
どんよりとした空は心を映す鏡のようで、目にする度に気が重くなるが、歩みを止めるわけにはいかない。
これで出勤しなければ彼の仕打ちに負けたことになる。有休なんてもってのほかだ、意地でも負けたくない。
昨夜の忌まわしい出来事を自分の中に封じ込めて出社すると、僕の顔を見た富山さんは心配そうに訊いた。
「顔色が悪いぞ、風邪でもひいたか?」
「い、いえ、別に」
「まるっきり病人じゃないか。だから無理して残業しなくてもいいって言っただろ」
「大丈夫ですよ」
「いや、ダメだ。今日の講義はオレがやる。せっかく残業までして予習したのに、って気持ちはわかるけど、そんな様子じゃとても無理だ。課長にはオレから言っておくから、早退したらどうだ?」
「いえ、そういうわけには」
「だったら、今日はここで資料整理ということにした方がいい。な、そうしろよ」
──こうして業務課のデスクに取り残された僕は溜め息をつきながらも気を取り直し、机の上に山積みされた資料に目を通した。
各開発課所属の事務担当も全員出払って、残っているのは僕だけである。
とりあえず片づけをして、あとは演習用の資料作りに取りかかろうとペンを手にしたところ、大塚課長が席に戻ってきたが、それと前後して岸田さんが茶封筒を抱えて彼を訪れた。
「こんにちは。先日のテストの結果を御報告にあがりました」
「ああ、これはどうも御苦労様」
立ち上がった課長は彼女に隣の空席の椅子を勧めると、再び腰を下ろした。
「こちらがその資料なんですが、まだ研修期間中ということもあって、皆さん入社前と差はありませんし、それほど大きな問題もないと思われます」
「たしかに今は学校の延長みたいなことをやっていますから、配属してみないとわかりませんねえ。実際の業務に就いてからが重要なんでしょうなぁ」
課長は前髪がいくらか後退した額をポンと叩き、僕はペンを走らせながら、自分の席の近くで始まった二人の会話を聞くとはなしに聞いていた。
カウンセラー女史はしかし、と前置きして顔を曇らせた。
「一人だけ気になる結果が出ている人がいますので、お時間をいただいて面接してもよろしいでしょうか」
「はあ、誰ですか?」
「ナルミモトイさん、とおっしゃるのかしら。急に判定値が変化したものですから」
その名を聞いた瞬間、僕の手は凍りついたように動かなくなってしまった。すべての神経が耳に集中しているのがわかる。
「成海基……いや、彼はかなり優秀な新人だと聞いていますし、研修の内容がわからないといった理由でつまずくとは考えられませんが、いったい、どのような問題があるとおっしゃるのですか?」
「一言では申し上げられませんが……職場での問題ではないとすると、プライベートな、例えば家族関係に何らかの悩みを抱えているのかもしれません。とにかくお会いしてみてから、と。カウンセリングの上、場合によってはメンタルケアを行いたいと思います」
「わかりました。連絡してみましょう」
机上の受話器を取り上げた大塚課長は大会議室の内線番号を押した。
すぐに富山さんが出たらしく、すかさず指示を与えると「小会議室に向かわせましたので、よろしくお願いします」と告げた。
うなずいた岸田さんが部屋から出て行くのを見送りながら、僕は複雑な思いにかられていた。
成海は家族に関する悩みを抱えているらしいという話だが、本当だろうか。
いつぞやの身の上話にも家族の問題が取り沙汰されていたが、あれは全部嘘だと聞かされたばかりである。彼の中の何が虚構で何が真実なのか、まったく見当がつかない。
家族間のストレスからくる精神不安定、五年前の逆恨み。どんな理由があるにしろ、それが男相手にしろ、レイプは許される行為ではない。
僕は不満のはけ口にされたのだ。あんなヤツに同情したり、気にかけたりする必要はない、と心の中で自分に言い聞かせる。ましてや、愛情なんて……
いつの間にか昼休みになり、僕の身を案じた不破を始めとする新人たちが一階までやって来て、めいめいに話しかけた。
「来宮さん、休んでなくてもいいの?」
「いくらなんでも一昨日の二日酔いは治ってますよね?」
「でも、やっぱり調子悪そうに見えるし、心配だなあ。マジで大丈夫なんですか?」
そこへ面接を終えて戻ってきた岸田さんが僕たちの様子を見て「皆さん、楽しそうでいいですね」とコメントしたあと、大塚課長の傍まで進んだが、個人情報を扱っているためか、辺りを憚るように会話するのが見えた。
新人たちの賑やかな声に囲まれ、その声は聞こえない。二人の間で何が話し合われているのか気がかりで微かな苛立ちを感じる。
あ、あれは?
面接のために少し遅れて様子を窺いに来た人影に気づいたが、僕は見ないふりをして、作り笑顔を振り撒いた。
「うん。だいぶ良くなったから、午後からは上がれると思うよ」
『ボクノキノコニチカヅクナ』
「ホントに? まだ顔色悪いけど」
『ヤットミツケダシタンダ』
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
『キノコハボクダケノモノダ』
「やったー。やっぱりキノコちゃんの顔を見ないと講義に身が入らないもんな」
『ナゼスキニナッテシマッタノカ』
「おい不破、おまえ、オレの講義じゃ不満だって言うのか?」
『トラワレタココロヲトリモドシタイ』
「ひっ、ひえ~、富山さん。いえ、そんな滅相もない、大変タメになりますです、ハイ」
逃げ惑う不破をどつく富山さん、みんなの明るい笑い声が響く。
耳を塞いでいたわけではない。だが、僕に心の声は聞こえなかった。悲痛な叫びは届かなかった──
◆ ◆ ◆
それから数日ののち、研修は個人演習へと突入した。与えられた課題を元に、見合う処理の内容を検討、仕様書を書いてプログラムを組み、マシンを扱う。
ちなみにこの個人演習が終わったあとは実際の業務の流れに従って行なうグループ演習が予定されている。
富山さんを中心とした講師部隊は僕の他に、各開発課から応援者を募っての総勢六名で、新人たちを手助けしたり、質問に対応したりと大忙しだった。
一足飛びに階段を駆け降りながら、僕はその日の朝、大塚課長から聞かされた話を反芻していた。
管理職会議の結果、本社への異動が決定した。新人の配属後、すぐ引き継ぎに入り、七月からは正式に向こうの勤務となる。
教育担当の後任に任命されたのは椎名だった。ゆえに彼は今、第三開発課からの応援者として大会議室に参上している。現場の雰囲気に慣れておこうという意図だ。
しかし、その事実を知っているのは当の二人と富山さん、森下さんだけで、新人たちにはまだ何も知らされていない。
僕はここからいなくなる。
FBLの来宮になる。
せっかく慣れた教育の仕事からも、彼らとも離れてしまう、そんな後ろ髪を引かれる思いはあった。
だが、異動は自分から言い出したことであり、やっぱりこれでいいのだと、揺らぐ心を抑えて納得しようとした。
後悔はしていない。
これでいい、これで……
いつものように五階のコピー機で不足の資料を必要枚数分コピーしたあと、今度は階段を駆け上がって行く僕の前に立ちはだかる者がいた。
足を止めると唇を強く結び、相手を見据える。
美しくも傲慢なはずの男はこちらに視線を投げかけていたが、そこに以前のような、見下す態度は見られなかった。
「急いでいるんだ、どいてくれ」
「今は休憩時間でしょう」
「僕には休んでいる暇はない」
彼は嘲笑を浮かべた。
「ムキになってますね」
「大きなお世話だ」
じりじりと時が焼けつく。
「みんなが待ってるんだ、だから」
「あと五分。まだまだ行く必要なんかないですよ」
のらりくらりとかわす成海に、気持ちが不安定な状態の僕は苛立ちを募らせた。
「だから、どいてくれ!」
「イヤだと言ったら?」
「力ずくでもどかす!」
腕力で敵うとは思っていないが、それでも僕は彼の両腕に手をかけた。
「おっと、ここ階段ですよ。危ないなあ」
「キミはどこまで僕の邪魔をすれば気が済むんだっ!」
きっかけはほんの些細な出来事なのだが、四月の入社式からこの方、積もりに積もった不満が、憤りが、怒りがとうとう活火山となり、噴煙を上げて爆発した。噴火した山は火山弾を噴き上げ、火砕流を大地に押し流して荒れ続けた。
「そんなに僕を困らせたいのか? そこまで僕のことが憎いのか? だったら今すぐ、この場で殺せ!」
いきなり「殺せ」という過激な発言に驚いたのか、怯んだ成海は彼らしからぬ、おびえた顔を見せた。
その様子を目にしていつになく饒舌になった僕はここぞとばかりにまくし立てた。普段おとなしい男がキレてしまったために、手がつけられなくなった状態だ。
「そうだ、キミは五年前のあの日から僕を憎んでいた。どうしてここまで憎まれるのか、何がキミを駆り立てているのか、僕にはわからないけれど、これ以上こんな目に遭うのは御免だ。キミとはもう永遠に関わりたくない。だったらキミ自身の手で、憎い来宮高貴に引導を渡せばいい、そうだろう?」
「そんな……」
つかんだ腕を揺り動かすと身体全体も揺れて、整った顔立ちが悲痛に歪む。頭に血が上って興奮した僕はすっかり見境を失くして叫び続けた。
「さあ、早く殺せよ。できないって言うのか、さあ、さあ、どうなんだよっ!」
殺せ、殺せと物騒な言葉を連発する怒声を聞きつけ、ようやく異変に気づいた人々が何事かと階段の傍に駆け寄ってきた。
「どうした、来宮」
「キノコちゃん、何やって……」
そんな彼らの目の前で──
「……きゃあ!」
「危ないっ!」
踊り場の床を赤く染めて──
……⑨に続く