第七章 残酷な秘め事
壁に掛けられた時計の針はもうすぐ午後七時を指そうとしている。人気のなくなった大会議室はがらんとして、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
彼らが肩を並べ、前を見つめ、耳を傾けていた場所、そこにはもちろん誰もいない。長机が蛍光灯を反射して鈍く光るだけだ。
教壇とされる位置には大画面、とまではいかない中型のテレビと、それに接続されたDVDプレイヤー、その横で僕はプレイヤーを操作していた。少しでもマシな講義にするためのプログラマー研修用DVDの予習だ。
ピンポンパンポーン。
『ここで、ストップボタンを、押して、ください』
やたらと調子のいい奇妙な音楽と、柔らかい、それでいて機械的な女性の声だけが静かな室内に響く。ぶつ切りされる語句が耳障りだ、もっと滑らかにしゃべって欲しい。
タラッタラッタラー。
『これまでの、ポイントを、もう一度、おさらい、しましょう』
音声案内に従って画面を停止させては生徒の立場になって確認する。そんな作業を繰り返しているうちに、とうとうこの時刻になっていた。
「さすがにお腹がすいたなあ。何か食べるものを買っておけばよかった」
胃の辺りをさすってみる。気分が悪くて食べられないからと昼食を控えたせいか、今頃になって空腹をおぼえていた。
階下の開発部では当たり前に行なわれている残業だが「今朝は二日酔いだって言ってたのに大丈夫なのか? あんまり無理するなよ」と言い残して富山さんが帰ってから、業務課で居残っているのは僕だけだ。
もう少ししたら引き揚げようと思ったその時、末席のドアの向こうに何者かの気配を感じてビクリとした。
早く帰れと、戸締り担当の管理職が催促に来たのかもしれないと、パイプ椅子から立ち上がったが、音もなく開いた扉から姿を現した人物を見て、僕は思わず息を呑んだ。数時間前に帰宅したはずの成海だった。
「……ど、どうして」
忘れ物を取りに来たにしては時間が経ちすぎている。
彼はいつものように薄ら笑いを浮かべて、にじり寄ってきた。
「入退社のセキュリティーチェックは? 研修中の新人は残業手当つかないけど」
「わかってますよ」
僕が一人で残業していると承知した上で戻ってきたというのは明白だった。帰りの挨拶のあとの、富山さんとの会話を聞かれていたのだろう。
ゆっくりと歩む相手の動きを目にして、僕は思わず後ずさりした。怖いという感情に支配され、身体が小刻みに震える。
「だったら何の用……」
「ここ、研修中はうるさいけど、今は静かでいいですね。誰も来ない、邪魔が入らないってわけだ」
とうとう後ろの壁に突き当たった僕は覚悟を決めた。
二人きりになりたかった、その目的が何なのかは漠然としているが、この男とは一度、じっくりと話し合わなければならないと思っていたし、富山さんの手を煩わせるまでもなく自分が責任を持って、彼にまつわるいざこざを解決しようという気負いもあった。
「キミは……風祭蓮、だね」
「その名前をおぼえていてくださって、大変光栄です」
美しい顔にゾクリとする笑みが広がる。その身体から発せられる冷たい気配に、僕は身震いを堪えながら言葉を続けた。
「連絡しなかったことは謝るよ。メモを失くしたから、なんて言い訳もしない。ただ、これだけはどうしても教えて欲しいんだ、なぜ僕に嘘の名前を……」
「セミナーを受けて少しはマシになったのかと思ったけど、相変わらずお人好しでおめでたいですね、あなたは。あんな話を真に受ける人なんて、後にも先にも、誰ひとりとしていなかった」
彼は嘲笑いながら、愚かな先輩に侮蔑の眼差しを向けた。
「この世の不幸ってやつを一身に背負った高校生がのん気に部活動なんか、やってるはずないでしょう? 普通に考えればわかることだと思いますけど」
「じゃ、じゃあ、あのときの話はすべて?」
「嘘に決まってるじゃないですか、名前も住所も、身の上話も全部嘘。暇そうな大学生をからかってみたら、予想以上に面白い反応をしてくれたんで、もうちょっと続けたいなって思っただけ」
「そう……だったんだ……」
謎は解けた。
「ひとつくらいイイコトあるかな」と語る高校生の、偽りの健気さを頭から信じ込んでいた自分が憐れに思えてならなかった。
「次のセリフは『よくも騙したな』ですか」
「いや、これっぽっちも疑わなかった。キミの言うとおり、僕はおめでたいヤツだよね」
「やっとおわかりのようで」
「それで、連絡をくれなかったからと、逆恨みしてるわけ?」
精一杯の皮肉を込めると、彼はかぶりを振って「囚われた心を取り戻したいだけです」と言ったが、その言葉を口にした一瞬だけ、なぜか悲しそうな表情をした。
「囚われた心?」
問い返す間に、身体が強い力で抱きすくめられた。
「なっ、何を?」
抵抗する隙も与えられず、唇を激しく吸われて目眩がする。絡んだ舌のせいで息が止まりそうだ。
僕たちの身体は机の上に、重なるように倒れ込んだ。ワイシャツのボタンが弾け飛んで、露になった肌に冷たい指先が円を描くように触れる。
「や、やめて……」
胸の粒を摘まれ、舌で転がされて、僕は悲鳴を搾り出した。
どうしてこんな目に遭わされているのか、頭の中は混乱したままだ。
「しらじらしいですね、男にされるのが嬉しいくせに」
その言葉の根拠は『男をそそるタイプ』だから?
一連のゲイ疑惑を指して、そうと決めつけているのだろうか。
「嬉しいって、なんで……」
「もしかして昨夜彼らともヤッたとか? あなたから誘ったんじゃないですか、さあ、どうなんです? 人気者も大変ですねぇ」
彼ら──それが「お酒大好き四人組」を指しているのだとわかるのに、時間はかからなかった。
今朝、リーダーの不破が「昨夜はおつき合いありがとうございました」と爽やかに挨拶して、そのせいで富山さんにさんざんからかわれたのだ。
興和も、あとの二人も「二日酔い大丈夫ですか」と心配してくれたから、彼らの言葉を耳に挟んだとして当然だし、露土美咲が余計な告げ口をした可能性もある。
酔った勢いでキノコファンに身体を提供した、とでも言いたいのだろうか。ふざけ過ぎている。
偶然出会った彼らと二次会に行ったのは事実だが、成海がほのめかしているような、恥ずかしい行為は一切していない。
僕を見つめ、いやらしく笑う成海の唇が唾液でぬらぬらと光る。二日酔いがぶり返して吐き気を催しそうになってきた。
「バカな、誰がそんなこと! 誰に何を聞かされたのか知らないけれど、僕は断じてやっていない。そんなふうに邪推されるのは心外だ」
「じゃあ、ボクが初めての男になるわけだ。嬉しいな、光栄ですよ」
「初めての男、って、まさか……」
管理職の見回りが来るのではと予測していたが、本当にやって来た上に、こんな場面を──神聖なる大会議室における、新人と教育担当者の痴態──見られでもしたら大変な騒ぎになる。何とかやめさせなくては。
さらにもがき続ける身体が解放されるはずもなく、その触手はスラックスのジッパーへと伸びた。
「さ、触るな、やめろ!」
「あなただって気持ちいいのは好きでしょう。すぐによくなりますよ」
揉まれ、扱かれて、僕は呻き声を上げた。
あまり立派とはいえない持ち物が反応し、元気になっていることに嫌悪をおぼえる。相手は男、それも自分への嫌がらせだというのに。
「はっ、放せ」
呻きは淫らな色合いを帯び、未だ止められていないDVDの音声がそれにかぶさって、奇妙な具合に響いた。
ピンポンパンポーン。
『ここで、ストップボタンを、押して、ください』
「う……うう」
机に取り縋る僕のスラックスは足元までずり落ち、下半身が剥き出しになっている。
左手で腰をしっかりと抱き締め、右手はなおも愛撫を続けながら、成海は耳朶に息を吹きかけ、さらに軽く噛んできた。
「あっ、ああっ」
タラッタラッタラー。
『以上で、この章は、終わりです。学習したことを、まとめて、みましょう』
「イッちゃいましたね」
指についた、とろりとした液体を舐め取った彼がニヤニヤと笑うが、悔しくて何の言葉も出てこない。
屈辱に打ち震える僕をさらなる被虐的な仕打ちが待ち受けていた。
成人男子として知識がないわけではない、むしろ知らない方がおかしい。物心ついてからは誰にも触れられたことのない場所だが、男と男が愛し合う時にはそうするともわかりきっている。
愛し合う時……しかし、今はそうではない。これはそんな、ご大層で美しい儀式ではなく、ひたすら相手を辱めるだけの、最悪にして残虐な行為でしかないのだ。
そこに指が深く沈められると、僕は「ぐぐぅ」と喘いだ。
成海の腕から逃れられずに成すがままになっている身が口惜しいけれど、どうにもならない。
指は二本に増え、さらに激しく内側を掻き回す。
身体を左右に振り、ささやかな抵抗を試みるが、それは無駄な行いでしかなく、やがて指の代わりに彼そのものが挿入されると、僕は悲鳴を上げた。
二人きりの会議室、淫らな行為を知る者はいない。予想に反して、帰宅を促す者がここを訪れる気配もない。
ストップボタンを押す者がいないとあって、DVDは勝手に、次の章の解説に取り掛かっている。
スタックがどうの、ポインタがどうのと、金属的な響きを持つ言葉の渦の中で、僕は生身の身体が発する声を、悶えを、叫びを口にしていた。
やがて僕の意識は朦朧とし始めた。
何をどうされているのか、許せないはずの仕業に抵抗する気力はなく、ひくひくと蠕動する自身の器官に嫌悪しながらも、ここまできたら、もうどうなってもいいと投げやりな気持ちに陥った。
成海の動きはますます激しくなり、息は乱れて荒くなっている。
触れ合う肌に彼の、汗の湿りを感じる。
奥を強く貫かれて、僕は絶命するかのように叫んだ。
「うぅっ、ああーっ!」
身体の内部に熱いものが広がって、彼が目的を果たしたのだとわかると、憐れなキノコはその場にがっくりと崩れた──
いつの間にかテレビの音声は途絶えていた。室内は何事もなかったかのように静まり、沈黙が肌を突き刺してくる。
心と身体の欲求を満たして満足したのか、僕を解放し、ベルトの留め金をかけながら「初めてにしては良かったみたいですね」と成海はうそぶいた。
「…………」
「なかなかイイ声で鳴いていましたよ。思い出すだけで、また勃っちゃいそうだ」
なぜだ……
辱めの泥沼の中から、のろのろと身体を起こす。
なぜ、こんな目に……
下半身に鈍い痛みが走り、堪えきれずに机に突っ伏してしまう。
どうしてここまで……
顔を上げ、激しい憎悪を込めた視線を向けると、自分を犯した憎むべき男はニヤリと笑いかけた。
「溜まってるみたいだし、お望みとあれば、何度でもお相手しますけど。もう一回、してみますか」
次の瞬間、僕は机の上の資料を投げつけたが、厚手の冊子は軽く身をかわした成海の肩をかすめ、バサリと音をたてて落ちた。
ペンケースにノート、コピー用紙の束、DVDの入っていたプラスチックケース、会議室の鍵──
当たるはずもないのに僕はそれらを次々に投げ、ひょいひょいと避ける成海に向かって怒鳴った。
「帰れ! 僕の前から消え失せろ!」
悔しくて、たまらなく惨めで……じわじわと滲み出した涙が頬を伝う。
「ふん、今時女でも初体験で泣いたりしませんよ。いつの時代……」
「うるさいっ!」
バシッ!
割れるかと思うほど強く机を叩いた僕は興奮のあまり目眩がして、そこに倒れ込んだ。
「大丈夫? 救急車を呼びましょうか」
「いいから帰れっ!」
「はいはい」
肩をすくめ、背中を向けた男に「キミには露土さんがいるんだろ。なのに、どうしてこんな真似……彼女に知られたら、どうするつもりなんだ」と僕は問いかけた。
嫌がらせの手段とはいえ、街中でのキスに引き続いて、今度は男を抱いたのだ。カレシがゲイの真似事をしたとわかれば、普通の女だったら卒倒するかもしれない。
「キミはあの人のカレシじゃないのか」
ムカつく鬼女に同情する気はこれっぽっちもないが、そこだけは確かめておきたい。
「ああ。彼女とは何でもありませんよ」
「えっ? だ、だって、カレに手を出すなって、僕に警告して……」
さも呆れた、というポーズをとると、成海は事も無げに言い放った。
「そんな言葉を真に受けたんですか。やれやれ、どこまでもおめでたい。向こうからベッドに誘ってきたんで一度だけ抱きましたけど。たった一回ぐらいで恋人ヅラされるのは迷惑だな。友達に紹介したいとか何とか、うるさくてかなわない。もうつきまとわないでくれって、強く言っておく必要がありますね」
「……だ」
「何か言いました?」
「女の敵……人類の敵だ!」
「お褒めの言葉をありがとうございます」
パタリとドアが閉まると、声を上げずに僕は泣いた。
……⑧へ続く