第五章 病みを抱いた者
定時後の業務課デスクにて、
「課長、折り入ってお話があるのですが……」
そう持ちかけると、大塚課長はどうしたのかと心配そうに訊いた。
「この前、僕に本社異動の打診があったと武田課長から聞きましたけど」
「藪から棒だな。詳しいことはわからないが、話があったのは知っているよ」
「じゃあ、御存知なんですね」
「教育担当を辞めたい」──と、本心を言えるはずもない。
それを言ってしまったら、何が問題なのかと追及されるだろうが、とても口にできる内容ではないし、嘘の原因を捏造するほど器用でもない。
本社の仕事がしたいという、自分の将来の展望を理由にした方があれこれ詮索されずに済むから賢明だ。
「その件はもう時効ですか?」
そちらに移りたいと持ちかけると、課長は困り顔になった。
既に二人もの先輩社員が異動となっているので、せっかく採用した優秀な人物を──当面は教育担当としてでも──自社の戦力として確保しておきたいのは、会社としては当然の考えだと前置きした。
「だから、ウチとしてはおまえを手放したくないというのは理解できるだろ? それでもまあ、本人の希望も聞かずに決定したのは悪かったと思うが」
とりあえず、次の管理職会議で議題にするから、もう少し待っていろと諭された。むろん、今すぐにどうこうというのは僕自身も無理だとわかっている。
研修期間を終えたあとの、新人の配属後になるのか、それとも来年度か。
見通しは立たないけれど、いずれはここから逃れられるし、今から転職のための活動をするよりはマシだ。その保証を得ただけでも、気持ちが軽くなってきた。
「おまえがいなくなると、新人たちは寂しがるだろうな。研修が始まったばかりのときはどうなることかと心配したが、今では人気者だそうじゃないか。我々も安心したよ」
寂しがるか、そうかもしれない。少なくとも不破たちは僕との別れを惜しんでくれるだろう。ちょっぴり胸が痛んだ。
「この調子なら、来年度以降の教育も任せられると期待していたんだがな」
「課長が手配してくださったセミナーの受講の成果だと思います。あれを受ければ誰でもいい講師になれますよ」
「いやいや、それだけじゃない。おまえの人柄とか、その良さが彼らにもやっとわかってきたんだろうよ。どんなに立派な講義をしても、薄情で相手を思いやる気持ちのない者に人望は集まらないからな」
おまえは人望がある……
大塚課長の言葉が心に沁みた。それは暗く荒みそうになっていた僕を明るいところへと引き揚げてくれた。
僕はその後、躊躇うことなく教壇に立ち、唇を強奪した不届き者の視線を撥ね退けようと睨み返した。
一方的な言いがかりをつける鬼女も同罪だ。こちらは冷徹に無視をした。
研修は折しもプログラミング基礎に入ったところで、成海による、キノコいじめとも取れる質問攻めは以前と変わりなく続いているが、それに対して新人たちの様子がこれまでとは明らかに変わってきた。
「ライブラリとシステム・コールの違いの解説が物足りません。もっと詳しく説明してください」
『何度訊いても同じじゃないの』
『さっきので充分わかったけどなぁ』
講師を弁護する嬉しい声が聞こえたが、僕は辛抱強く説明を繰り返した。
「システム・コールはアプリケーションがOSに依頼することで、OSが機能を実行するものです。これに対してライブラリはアプリケーションの中に組み込まれて、アプリケーション自身が実行するものと考えます」
具体的に喩えてみた方がいいだろうと、さらに言葉を重ねる。
「例えばレストランなどでウェイターによるサービスとセルフサービスの違いです。機能はカップやスプーンの場所を誰にでもわかるように記したもの、アプリケーションをお客だと思えば、イメージがつかめるのではないでしょうか」
ふんふんとうなずく大勢の顔が見える。僕は自分の説明に、大いに自信を持った。
「システム・コールはOSの内部にあって、ユーザーはそれを呼び出すだけ、ライブラリはユーザーのプログラム内部に組み込まれるってことですよね?」
興和がフォローを入れてくれた。
「そう、そのとおりです」
以前は成海の側に立って面白半分に傍観していた新人たちが僕の肩を持ち始めたのは確かだった。不満の色を浮かべた成海は講義の度に、しつこいぐらい質問を続けた──
「環境によって同じプログラムの作動に違いが出るという問題ですが、システム・コールでOSの違いを吸収できる、でしたよね」
『またシステム・コールネタかよ』
『ネバるよなぁ、マジで』
「はい、その点ですが、システム・コールを使用せずに、アプリケーション自身が直接ハードウェアをアクセスするようなプログラミングをした場合は吸収できません。そうならないためにも、互換性のあるプログラムを作る必要がありますし、そういう仕事をすることが我々技術者の課題です」
『なぁるほどぉ』
「……それは整数の範囲に限定しての、二進数の表現方法じゃないですか」
「ええ、そうですけど」
「小数点数の表現方法に関して、コンピュータが計算を間違えてしまう理由にも触れるべきだと思いますが、どうお考えですか」
『そんなの今、詳しく訊いたってしょうがないって』
『そうそう。わかんないヤツが聞いたら、よけいに混乱するだけだよな』
「込み入った内容になるので詳しく述べませんでしたが、結論から言うと十進数の小数点数の中には二進数に変換できない、循環小数になってしまうものがあるからです」
『なぁるほどぉ』
──やられっぱなしではなくそれなりに解答を示し、冷静に対応する姿を目にして、その気迫が伝わったのか、キノコファンの不破らは当然のこと、これまで無関心だった者も僕を応援するようになり、成海と僕の立場は逆転してしまったといえる。
そのせいか、当の成海に変化が生じていた。いつもの冷たい表情とはどこか違う、仲間たちに見放されたことへの動揺だろうか。
時折不安そうな顔をするのがよくわかったが、それでも彼は態度を改めるわけでもなく、日々同じような状況が繰り返されていたのである。
その日は富山さんと僕で、テレビ画面に映し出されたDVD映像を観ながらの言語学習を進めているところだった。
休憩を挟んだ後に続きを、ということになり、今の間に資料の不足分を五階までコピーしに行こうと喫煙室──全館すべて禁煙のため、偶数階のフロアの片隅に、四方をがっちりと区切られた二畳程の、言い訳程度の喫煙場所が設けられている──の前を通りかかった僕は中から聞こえてきた会話に、思わず足を止めた。
「……だからぁ、この頃のあいつって、めっちゃムカつかねえ?」
「同感~。あの厚かましい態度、アンタ何様のつもり、ってぇの」
「オレは最初から気に入らなかったけど、言っちゃあ悪いと思って、遠慮していたんだぜ」
「おまえが遠慮するガラかよ」
「何だよそれ、ひでえ言われようだなあ」
タバコを吸いながら文句を言い合っているのは新人のうちの数名で、いったい誰が槍玉に上がり、非難の対象になっているのだろうと僕は聞き耳を立ててしまった。
「何かと偉そうに説明しやがって、オレたちにもいちいち指図するしさ。富山さんやキノコちゃんにとってもあれは迷惑だぜ」
「ああ。今やってる講義なんて、バカバカしくて聞いていられない、ってとこじゃないか。自分は特別な存在だと思ってるのかもな」
「そりゃそうさ。専門バリバリ、わからないヤツのことなんか構ってられないんだよ」
「そんなにエリート面したいなら、こんな子会社なんかやめて、FBLの方で採用狙えばよかったじゃねえか、なあ」
「そうだよな。悔しいけど、あいつならFBLで内定貰えたと思うぜ。何でこっちに来ちゃったんだろ」
「さあ、そんなの知ったこっちゃねえよ」
それが成海を指しているとはっきりとわかると、既に予想はついていたものの、僕は少なからずショックを受けた。
彼が自分の実力をひけらかすことなく、控え目であったなら、ここまで非難を受けることもなかっただろう。
だが、カリキュラムが進むにつれて、これまでのように講師を質問攻めにするだけでなく、仲間の答えを先回りして解説するなど、出しゃばる場面が増えた。
いつも居合わせている僕たちにはその場の不穏な空気がひしひしと伝わってきて、これでは皆の反感を買うのは目に見えていると思っていたら案の定だ。
女子社員の人気を独占しているのも同期の仲間たちにとっては目障りだろうし、みんなのアイドルである露土美咲──鬼の正体は知られていない──彼女までが夢中になっているので、なおさらである。
一目置かれ、皆が従うという特別な存在から、敬遠され、反発を食らうという存在へ。いじめっ子がいじめられっ子に反転する、まるで現代の世相そのものではないか。
味方の寝返り、そんな仕打ちを受けた成海に対して、これまでの経緯からすれば「ざまあみろ」と思うのが正直な気持ちのはずで、それゆえ彼の肩を持つ、あるいは弁護、贔屓するつもりはないのだが、なぜだか僕の胸は痛んだ。
このままじゃ絶対によくない。教育担当として彼に意見してやるべきなのだろうか。
それも差し出がましい気もするし、憎んでいる相手の助言を聞き入れるとは思えない。「大きなお世話だ」と拒絶されるのがオチだ。どうしたものか……
さて、午後は産業カウンセラーを招いて、心理テストが行われる手筈になっていた。
これは入社前に一度実施されているが、入社後、ある程度の研修期間を経てからの心理状態の変化をみるという試みで、新入社員の五月病やら鬱病を予防するための対策の一環である。
精神を病む者が多い現代、会社側としてもいろいろと対策を講じなくてはならない。大変な時代になったものだ。
この時間、新人の相手はカウンセラーに任せるため、講師たちはオフとなる。
一階のデスクに戻り、富山さんと向かい合わせの位置に座った僕はしばらく言葉を探しあぐねた。
「あの、富山さん……」
「ん? どうかしたのか」
「成海くんのことなんですけど」
思い切ってその名を告げると、富山さんは温厚な顔を曇らせた。
「ああ、あの問題児ね」
そんな返事が即座に出てくるあたり、彼も自分と同じことを感じていたようだ。
「成海くんがどうかしたの?」
業務関連の研修にはノータッチのため、状況を知らない森下さんが僕を覗き込む。
「いや、一部の新人にちょっと評判悪いんだ。顰蹙買ってるみたいで……」
語尾を濁す僕に、彼女はたたみかけた。
「顰蹙って、どうして?」
今度は富山さんが答えた。
「彼は余計なことを言い過ぎるんだよ。何しろ二十人中、トップの成績で採用されたって聞いたから優秀なのはわかるし、今、オレたちがやってる講義の内容じゃ物足りないのも承知しているけど、全員が彼と同じ程度の知識があるわけじゃない」
今回の大量採用にあたり、新人各自の能力にはバラつきがある。昨年の会議でそういう説明を受けたのを思い出してか、森下さんは納得したようだ。
「研修期間中は内容がわからない人にレベルを合わせてもらいたいのに、わざと難しい質問をするんだ。他の人にもわかるように説明しなくちゃならないから、こっちも答え方に苦労するよ」
専門用語の扱い等、気を遣う項目も少なくはなく、富山さんと僕は講義中、常に気配りし続けていたのだ。
「そうだったの。それじゃあ、鼻つまみ者になっちゃうわね」
「要はまだ子供なんだよな。大人になりきれていないから、自分が引くということをせずに、おまえたちはこんなものもわからないのかって、自慢や自己主張ばかりしてしまう。結果としては反発を招いて損なだけさ」
富山さんの見解を聞いて、僕は大いにうなずいた。
五年前の裏切りへの恨みから嫌がらせをするような男だ、いくら頭が良くても精神年齢は低いのだろう。もしかしたら高校生の頃のまま、成長が止まっているのかもしれない。
「このままじゃ仲間外れになりますよ。これからグループ演習なんかもあるし、どうしたらいいのか……」
「まるで小学校だ。先が思いやられるな」
富山さんは大きな溜め息をつき、機会をみて自分が話をしてみると答えたが、彼に任せきりにしてよいものか。ためらうけれど、今のところそうする他にめぼしい手段はない。
しばらくして、FBLグループを専任で担当する産業カウンセラーの岸田さんが業務課に姿を現した。年齢は四十代前半、理知的な中に暖かみを感じさせるタイプで、この人になら何でも話せる、という雰囲気を持ったところがカウンセラーの仕事に向いている、そう思える女性だ。
彼女は教育担当者たちの姿を見つけると、そそくさとこちらにやって来て、テストが終わったことを告げた。
「あ、お疲れ様です」
僕たちは半ば腰を浮かせるようにして、ねぎらいの言葉をかけた。
「二、三日後にはまた御報告に参ります。それで、気になる結果が出た方については面接形式でカウンセリングを行いますので、承知しておいていただけますか? 大塚課長にもそのようにお伝えください」
……⑥に続く