第七章 女王陛下の騎士
日曜日・丸一日を部屋に引きこもって過ごした私はどんよりと沈んだ気持ちのまま、月曜の朝を迎えた。
いつもより一時間以上早く目が覚めたため、植物たちに声をかけながら水をやる。オタクっぽい所業だと笑われるだろうか。
「おはよう、ピレア。調子はどうだい」
「フィットニア、いい葉が出てきたね」
「パンダナス……」
面白い名前だと笑顔を向けた彼を思い出すと、胸が痛んだ。
結城からの告白を受け、私も彼が好きだと自覚した。ならば二人はハッピーエンドとなるはずなのに、どうしてこんなにも関係がギクシャクするのだろうか。
二人の年齢差にそれぞれの立場と歩んできた過去、三田の存在、尚彦の出現、あらゆる要素が互いを不安に陥れたり、疑心暗鬼にさせたりして自信を失わせ、嫉妬に悩まされる羽目になる。
恋愛に紆余曲折はつきものだろうが、さすがにしんどくなった。彼のことを考えずに済むように、このまま忘れてしまいたい……
呼び鈴が鳴って我に返る。こんなに早くから誰がと思いつつ、スエット姿のまま赴いた私はドアの向こうに立つ人物に驚愕した。
「おはよう。この辺りの風景も随分変わったけど、とても懐かしい気分だよ」
チャコールグレーのスーツに濃紺のネクタイを締めた尚彦は三和土から室内を見回すと「相変わらずジャングルみたいだな」と感想を述べた。
「とりあえずはコーヒーが飲みたいな。おまえの淹れるモカは美味かった」
「モカは切らしてるんだ、キリマンなら」
「ああ、それでいい」
コーヒーの香りとタバコの匂い、カップをテーブルに置いて向かい合わせに座ると、タイムトリップしたかのような、そこに彼のいる風景が広がる。四年前と同じだ、自分がいつを生きているのがわからなくなった。
夕陽の別れも、私似の女性との結婚も、すべては夢か幻、なんて、尚彦との関係が今さらどうなるわけでもないのに、奇妙な幻想に囚われる。
結城との関わりに疲れたからといって、逃げ道を作るべきではない。ちっぽけな期待とか、つまらない未練はこの際封印すべきだと、私は自身を戒めつつ訊いた。
「で、何のつもりだ。ケータイの番号を教えたのにアポなしで突撃とは、まったく驚かせてくれるよ。まさか月曜の朝イチから会社をサボッて、思い出の川崎市内巡りをやるからつき合えと言い出すんじゃないだろうな」
カップを手にしたまま、尚彦は薄笑いを浮かべた。
「いや、おまえが不便な思いをしてるんじゃないかと心配になってな。当然チャリには乗れないし、毎度タクシーを使うのも金がかかって大変だろうし、車で来てるから乗って行くといい。早めに着くのは大目にみてくれ、こっちも出社の時間があるからな」
いつもは自転車で通勤している私の身を慮った尚彦は大学までの送迎を買って出たのだが、そうとわかると嬉しいような申し訳ないような、それでいて余計な真似をしないでくれという複雑な気分になった。
「気持ちはありがたいが……」
「いいから遠慮するな。まさかその格好で行くつもりじゃないだろう、待ってるから早く支度してこいよ」
二本目のタバコに火をつけ、あっさりと言ってのける尚彦、こういうキャラに最近出会った気がする──と思ったら、結城ではないか。改めて考えてみると、尚彦と彼は性格が似ていた。私に縁のある男は皆、同じタイプなのだろうか。
ともかく、これ以上拒むのも気が引けるし、せっかくだからと厚意に甘えることに決めた。私たちの新たな友情はここから始まるのだと、大袈裟な理屈を自分に言い聞かせる。
それに、一昨日大金を出費したばかりだ。この先のタクシー代がいかほどになるのか試算するのも怖いほどで、一回でも無料で済むのはありがたい。
リビングに尚彦を残して寝室に入り、着替えをしようとしてハッと気づいた。
あのスーツで講義をすると学生たちに約束したけれど、尚彦の前でそれを着るのはあまりにも抵抗がある。次の機会にしようと、けっきょくいつもの服装になった。
部屋を出ると、車がまばらにしか停まっていない住人用の駐車場を横目に、来客用のスペースへと向かう。
「相変わらず入居者の少ないマンションだな。おまえが前のアパートから引っ越したのが、たしか……」
「五年前だ。当時は新築だった」
別れる一年前。引っ越しを手伝ってくれたことも忘れてしまったのかと憮然となる。
「じゃあ、あれからほとんど人が増えていないってことだな」
「入れ替わりが激しいんだ、半年も経たないうちに出て行く人もいたよ」
黒いセダンはゆっくりと発車、最初の交差点を右に曲がる時、向こう側からくる自転車に目を留めた私はギクリとした。見覚えのある者が自転車に乗っていると思ったら結城ではないか。
これから大学へ向かおうとする私たちとは反対の方向へ進んでいるが、こんな早朝からいったいどこへ……もしや私を迎えに来たのではないのか? そう気づくと思わず声を上げそうになった。
「何かあったのか?」
運転席の尚彦が訝しげに問う。
「い、いや、別に」
尚彦の運転する車に乗っているとヤツが知ったら、どういう展開になるのか恐ろしくて想像できない。絶対に見られないようにしなければと、頭を低くしながらサイドミラーを注視した。幸い気づかれてはいないようで、自転車はカーブの向こうに消え、胸を撫で下ろしながら頭を起こす。
私の奇妙な仕草には言及せず、尚彦はそこの角にあった飲み屋はどうしたとか、新しい道路ができている、えらく立派なビルが建っている等の話題を持ちかけてきたが、的を射ていない返事を聞いて顔をしかめた。
「おい、さっきから上の空だが、どうしちまったんだ」
「……あ、すまない。えっと、立ち退きにあった居酒屋は」
「店はとっくに潰れた、その回答はもう何度も聞いたよ」
「そ、そうか」
早く頭を切り替えねばと、私は首を左右に振ると、もっともらしいセリフを口にした。
「あの頃はよく飲みに行ったよな」
尚彦は感慨深げに頷いた。
「あそこの揚げ出汁豆腐、けっこう旨かったのになぁ。これも時代の流れ……か。仕方ないな」
キャンパスの東側にある正門を抜け、駐車場で車を降りて振り返ると「またな」と左手を振る合図が見えた。
そのまましばらく見送ったあと「時代の流れ……ね」と呟き、ホッと息をつく。
肩の荷が下りたような気分になり、校舎の方へと向かう途中、研究棟の手前で比丘田に会った。
「おはようございます。土曜日はどうも御馳走様でした」
「やあ、いよいよ出動だね」
「いろいろと手続きがあって、早く来なきゃならなくて。久しぶりに早起きしたんで、眠くてたまんないですよ」
私の松葉杖に視線を走らせると、比丘田は「車でいらしたんですか」と訊いた。
「あ、ああ。当分の間タクシー通勤、とんだ散財だよ」
「しばらくは大変ですね」
嘘をついたことにいくらか罪悪感をおぼえながらも、そうだったと主張するしかないが、さて、帰りはどうしたものか。
いつもの月曜と変わらない一日が過ぎ、レポートを書き終えた四回生たちが帰るのを見届けた私は実験室側の戸締りを確認していたが、そこへドアを押して入ってきたのは今日ここで初めて会う結城だった。余程急いで来たのか、息遣いが激しい。
「……せ、先生、か、帰り、どうします?」
「どう、って……」
突然の登場と、その発言に困惑する私を見て、彼はいくらか決まり悪そうに続けた。
「バ、バイト先からダッシュで戻ってきたんで、こんな状態ですいません。今朝もタクシー使ったんでしょ、比丘田から聞きました。もっと早く迎えに行けばよかった」
今朝の行動の目的はやはりそうだったのか。じつは尚彦に送ってもらったという心苦しさに、私は思わず目を逸らした。
「私のことなら自分で何とかするから、心配はいらない。慌てて自転車を走らせて、事故でも起こされたら困るからね」
「もしかして、チャリの二人乗りなんて法律違反になるから御免だ、って思ってるとか。それならそうと言ってくれればいいのに……って、俺が自転車でマンションまで行ったこと、知ってたんですか?」
しまった、口を滑らせた。
それでもモノは言いよう、嘘も方便。「タクシーの中から見かけた」とでも切り返せばよかったのに、黙りこくる私に疑惑の視線が注がれる。
「どこでそれを……」
抜群のタイミングで私の携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示されている名前は日立尚彦、まさに万事休す。
「出ないんですか」
「……いや」
「早く出た方がいいですよ」
じりじりと時間が焼けつき、緊迫した空気のせいで息苦しい。
十数回のコールで鳴りやんだ電話機を手に、私と結城はしばし睨み合ったままになった。空気が重い。
次に鳴ったのは大学の構内を結ぶ内線電話で、事務室への来客の知らせ。電話に出なかった私を心配した尚彦だと、聞かされなくてもわかった。
「とにかく、今日はもういいから帰りたまえ」
「わかりました。ただし」
そこで言葉を切ると、結城は私の顔をねめつけた。
「タクシー乗り場までお見送りします」
「……勝手にするがいい」
こうなったら腹をくくるしかない。
施錠を済ませた私はできるだけ急いでエレベーターへと向かった。背後に寄り添うように結城が続く。
大学の事務室はこの研究棟の一階に設けられているが、スーツ姿の男はそこを出て、建物の外で待っていた。
「今日は残業がなかったんで、帰りも乗せてやろうかと思ってな。一応連絡を入れてみてよかったよ」
にこやかに笑いかけた尚彦は私の後方に立つ人物に気づくと、不思議そうな顔をした。
「彼はたしか洋くんの先輩だったよね」
結城は「ども」と短く答えた。
彼なりに大人の対応をしているつもりなのか、取り澄ました表情で尚彦と向き合ってはいるが、その全身から発せられる殺気は隠しようがない。
私は努めてさり気なく「私が途中で転んだりしないかと心配して、ついて来てくれてるんだ」と嘘臭い弁解をした。
「そうか、女王様をお守りする騎士といったところだな。もうすぐ四十がくるというのになかなかお盛んじゃないか」
この一瞬にして尚彦には全てが飲み込めたらしい。いたずらっぽい目を向けて、
「学生時代からそうだったよなぁ、準一。おまえの周りには騎士候補がいっぱいいた。おまえが並み居る男連中を骨抜きにしたなんて、先生と呼んで尊敬する学生諸君には想像もつかないだろうよ。紅顔の美少年が今じゃ、クソ真面目な堅物になっちまったからな」
「つまらない昔話はよせよ」
「あれは卒業して何年経ったときだっけ、ナンバーワン騎士の座を巡って決闘、いざ尋常に勝負! なんてシーンもあったな。勝利の美酒に酔ったぜ、じつに美味かった」
おいこら、そんなふざけた喩え話をして、これ以上結城の怒りを煽ってどうするのだ。
私はハラハラしながら「やめろよ」と尚彦を諌めたが、彼はそれこそ酒に酔っているかのように饒舌になり、過去に於いて私が男たちに、いかにチヤホヤされたかを力説し、また、自分が選ばれた存在であったことを自慢げに語った。
「おい、いい加減にしろって!」
私が声を荒げると、尚彦は舌を出して肩をすくめた。
「ああ、悪かった。君、結城くんだったね。準一に悪い虫がつかないように、よろしく頼むよ。何たってオレの大切な親友だからね。さて、それじゃあ、ぼちぼち参りますか」
朝と同じく、正門の方に車を停めたという。先に立って歩き始めた尚彦の背中をねめつけながら「ども」以降、何も発言しなかった結城は「今朝乗ってきたのも私設タクシーだったんですね」と訊いてきた。ジェラシーボルテージは最高値に達しているのだろうが、感情を押し殺そうと我慢しているのがよくわかる。
今さらどんな弁解も言い逃れもできないと、私は黙って頷いた。
駐車場まで移動すると、尚彦は「君も乗って行くかい? 下宿はどっちの方向かな、送ってあげよう」と結城に声を掛けた。
「いえ、御迷惑でしょうから」
「遠慮しなくてもいいよ」
「ここで失礼します。お気をつけて」
踵を返す結城にそれ以上何も言えず、私は再び尚彦の車の助手席に乗り込んだ。
「いやはや、おとなしくしていたけど、本当はハラワタ煮えくり返っていたんじゃないのか、あのカレシ」
ニヤニヤと笑ってこちらを見る男から視線を逸らし、私は「さっさと帰ろう」と促した。
「はい、女王陛下」
「大概にしろよ」
朝と同じく、マンションの来客用駐車場に車を停めると、明日の送迎は無理かもしれないと尚彦は言った。
「これ以上おまえに迷惑はかけられない。自分で何とかするから、気にしないでくれ」
「騎士クンがお迎えに来てくれるんだろ」
冗談めかした言葉には答えず、私は座席から滑り降りた。
……⑧に続く