第六章 皮肉な再会
週末の横浜駅はかなりの賑わいで、列車の車両から吐き出された人々が階段に押し寄せる有様はさながら津波、人波とはよく言ったものである。慣れない松葉杖をついた私は転ばないように注意しながら歩くものの、到着までにすっかり疲れてしまい、これなら自宅で寿司の方がどんなに楽だったかと恨めしく思った。
普段よりは移動時間がかかると見越して早めに出発したため、予定の七時より三十分近くも早く到着したが、もっとせっかちな者がいた。比丘田と、話の成り行きから幹事にされた松下だ。私の姿に気づいた比丘田が頭を下げた。
「羽鳥先生、お久しぶりです。その節はお見舞い、ありがとうございました」
「やあ、思ったより元気そうで何よりだ」
「御心配をおかけしました。それにしても、お互い災難でしたね。まさか先生まで入院だなんて」
「一泊で済んで助かったがね。キミの方は二ヶ月近くもじゃあ、大変だっただろう」
比丘田は私の全身をちらちらと眺めると、「先生、四月の頃から比べて、ずいぶんイメージ変わりましたね。いつも白衣姿しか見ていなかったからかな、何だかすごくオシャレじゃないですか」と感心したように言った。
そんな友の言葉に松下も反応する。
「ホントだ、めっちゃカッコいいっスね。学校にいるときの格好とまったく違うなぁ、今度その服で講義やってくださいよ。大反響ですよ、きっと」
「ありがとう、来週さっそく実行してみるよ」
二人のお褒めにあずかった今の服装はたしかに、最近の私らしくない格好だった。煉瓦色のワイシャツに、果てしなく黒に近い焦げ茶のネクタイ、生成りのスーツは全て洒落者の尚彦の見立てで購入したものだ。
彼と別れて以来、袖を通す気にならなかったものの、処分するにはもったいないとクローゼットの肥やしにしていたが、それを今になって引っ張り出したのはやはり、結城や三田の影響だろう。くすんだ中年のままではいられない、もっと身なりに気を配らねばという意識が私にこの服を選ばせたのだ。
ついでにメガネもいつもとは違う、銅色の縁のものに変え、鏡の前で念入りに全身チェックを済ませると、これで完璧だと自負、自信満々で家を出たのである。もっとも、松葉杖姿ではイマイチなのだが……
しばらくして残りのメンバーも集まってきたが、ウチの研究室はどういうわけか他に比べてコンパの機会が少なく、三回生たちとの飲み会は彼らの入室歓迎会以降初めてである。そのためか、みんなの気合の入れ方はかなりのものだった。
結城は一番あとにやって来た。今朝の格好と同じ、ジーンズに黒のシャツ姿で、いくらか浮かない顔をしている。
「よく来れたな、おまえ。女と約束があったんじゃないのか?」
仲間のやっかみやからかいにも苦笑いで誤魔化すあたり、妙だ。私に怒鳴られたのをまだ気にしているとでも?
いや、そうは思えない。気にするどころか、次の瞬間に忘れるお気楽男だ。他に考えられる要因──もしや参加費用を気にしているのだろうか。
まさか学生たちに出させるわけにはいかないと、こちらで全額負担するつもりでいたが、とりあえず軍資金をと考えた私は何気なく彼に近づくと、さっと金を手渡した。浮かない顔が驚きの顔に変わる。
「三田くんに返す分と、今朝のバイト代だ」
「バイトって」
「入退院の付き添い代。いいから収めてくれ」
援交みたいだが、この際仕方がない。結城は黙って頷くと、金を財布にしまった。
「全員揃ったところで行きますか。ここから十分もかからないけど、先生、気をつけて歩いてくださいね」
松下と比丘田が先に立って案内を始める。皆、気遣ってゆっくり歩いてくれるのだが、それでも遅れがちになる私の傍をつかず離れず、ジーンズの長い脚が進む。
店に着くまでの間、結城は始終無言だった。いつもならお調子者の本領発揮で、ペラペラと話しかけてくるのに、私の珍しい服装についても、何のコメントもない。
今日はいつもよりもずっと素敵ですね、とか、似合ってますよ、また惚れ直しちゃったな、など、彼らしい歯の浮くセリフを想像していた私は気が抜ける一方で、そんな言葉を期待してどうすると、自分を戒めた。
何を考えているのか知らないが、向こうが黙っているのなら、それでいい。放っておけばいいのだ、敢えて気を遣って話しかける必要はない。キス+αまで許した仲とはいえ、年下の男に媚びるような真似はプライドが許さなかった。
従って結城とはこれといった会話もなく、私は時折、芝たちの話題に相槌を打つ状態のまま、問題のダイニングバーに到着した。そこは思っていた以上に広い店で、ちょっとしたパーティーなどにも利用される機会が多いらしい。
地中海リゾート風を謳った店内を柔らかい間接照明が明るく照らし、温かみのある空間を創り出している。私は地中海に行ったことがないので、あの辺りの地域が本当にこんな雰囲気かどうかはわからないが、気取りがなく、それでいて洒落た感じがするのはまずまずだと思った。
松下たちが店員に二言三言話しかけると、残りのメンバーを手招きした。席の確保だけでなく、コース予約を入れておいたのだろう、さすがに手回しがいい。
私と比丘田を中心に全員が席に着いたのを見計らって、ビールのピッチャーと料理が運ばれてきた。シーフードサラダにピザ、マリネにパスタといった、イタリア風が主なメニューだが、なかなか豪勢だ。料金のわりに店の雰囲気や料理の内容が良いと評判で、比丘田がお薦めしたのもよくわかった。
「それでは、羽鳥先生と比丘田くんの無事の退院を祝って、乾杯の音頭を取らせていただきます」
松下の合図で各自のグラスがカチンッと音をたてる。
「さあさあ、先生も遠慮なく飲んでくださいよ。おーい比丘田クン、退院を祝して久しぶりに潰してやろうか?」
「ええーっ、勘弁してくれよ。今度は急性アルコール中毒で入院になっちゃうよ」
わいわいとはしゃぐ仲間たちに引き換え、結城は黙ってビールをあおっている。四月の歓迎会の時は先頭に立って騒いでいたヤツの沈黙は不気味なほどに怖い。私は彼の周りの空気がどんよりと澱んでいるのを見ないよう努めた。近づいたら吸い込まれそうなブラックホール状態だ。
「しばし御歓談をお楽しみください」
なんて、披露宴ではないけれど、それでも研究室の御一行は一名を除いてそれなりに楽しく盛り上がっていたのだが、我々の平穏な時間はある人物の出現によって破られた。
「あっ、結城先輩だ!」
聞き覚えのあるカン高い声がするや否や、こちらのテーブルに駆け寄ってきたのはお察しのとおり、三田である。奇遇ですねと言いながら結城に擦り寄る様はゴロゴロと喉を鳴らす猫を彷彿させる。
尻尾を振る犬に続いて猫。軟弱で鼠すら捕れない、クソ役にも立たないくせに血統書つきのペルシャ猫だ、いまいましい。
臙脂のベルベットのスーツ、ピンクのワイシャツに赤い蝶タイなんぞを結んでいるあたり、何やらセミフォーマルな装いだが、ここで結婚式の二次会でも行なわれているのだろうか。だが、それらしい集団は見当たらない。
「……へえ、退院のお祝いなんですか」
結城のサークルの後輩だと皆に紹介されたあと、私に視線を走らせた三田は「若作り先生、退院おめでとうございます。一日で治るなんて、骨粗鬆症じゃなかったんですね」と言ってのけた。
そこで私は貸出金の礼を述べると「こう見えても骨は丈夫でね。思ったよりも早く退院できたし、こうやって学生の諸君に心配してもらえるなんて、教授冥利に尽きるよ」と反撃した。
「でもまあ、気をつけないと、老人は骨折が元で寝たきりになるっていいますからね」
ええい、口の減らないヤツだ。私は中年から昇格して老人扱いになっていた。
「それにしても今日は一段とオシャレですね。若者と一緒に飲みに行くなら、それぐらい気合入れないとついていけませんものね」
「キミもかなり頑張った格好だな。七五三のお参りかい? 千歳飴はちゃんと買ったね」
丁々発止のやり取りに結城はおろか、残りの五人も唖然とし、囁き合っている。
「こ、こんなに強気でしゃべる先生、初めて見た。何かスゲェ迫力」
「しゃべるっていうより、メチャメチャ喧嘩腰だと思うけど」
「あいつだよ、ほら、例のお騒がせな一年」
「あ、なるほど。それで先生はイライラしてるんだ」
結城がこちらを気遣うように見る。またしても平穏を乱す天敵の出現に、何らかの波乱を危惧しているのだろうか。
私の攻撃ならぬ口撃にもメゲず、三田はふふんと胸を反らせた。
「今夜はパパの会社の歓送迎会があったんですが、もっと気楽に飲もうってことで、その流れでここへ来たんですよ」
三田の父親が会社を経営していることは先に結城から聞いて知っていたが、そこの人事異動により、転出者と転入者双方を引き合わせるパーティーが近くのホテルの宴会場で行なわれたらしい。
ここではお偉い方々抜きの選抜メンバーで二次会らしく、サラリーマンやらOLたちが幾つかのテーブルに分かれて歓談しているが、私たちの席に一番近いテーブルには若い世代の者が集まっており、三田はそこに参加していたようだ。
「おい、パパの会社だってよ」
「とんだおぼっちゃまだな」
ひそひそと小声の揶揄が聞こえてくるが、三田は気にする素振りもなく続けた。
「ボクの叔父にあたる人の大阪支社栄転が決まりましてね。親戚だし、未来の社長としてはきちんとお見送りしなきゃ、って」
親類を部下に、息子を次期社長にとは、典型的な同族会社だ。そういう馴れ合いの企業はいずれ経営破綻するに決まっている、というのは私の独断的な見解に過ぎないが。
それでも経営者を目指すならば経済学部か商学部へ行けばいいのに、理工学部なんかに来るな!
「あそこにいるグレーのスーツが叔父です。隣は義叔母、奥さん同伴で参加ですからね。二人と向かい合わせに座っているご夫婦は叔父と交替で、大阪から横浜支社へ転勤してきたんですよ」
そんな話はどうでもいいのに、私はつい、三田の叔父がいるというテーブルの方を見てしまった。グレーのスーツ姿の紳士は五十代ぐらいか、大阪から来たという男に対してにこやかに話しかけているが、こちらに背中を向けた位置に座った相手の顔はわからない。それぞれの妻も対面する格好で会話しており、華やかな笑い声が毒々しく響いた。
「そうだ、ボクの尊敬する結城先輩を叔父さんたちに紹介しよっと」
彼女、いや、彼氏を紹介する気分なのだろう。私のイライラ指数はさらに上昇する。
言うが早いか、三田はそちらのテーブルに行くと、結城の方を指さして何やらしゃべり始めた。言葉ははっきりと聞き取れないが、一斉に振り向いた彼らを見た刹那、私の中に衝撃が走った。
──尚彦だ!
いくらか齢を重ねてはいるが、見覚えのあるギリシャ彫刻のような顔立ち、忘れようとしても忘れられない秀麗な面影、三田の叔父と歓談していた男は尚彦だったのだ。モスグリーンのジャケットにカーキ色のパンツ、アイボリーのシャツと朱色のネクタイを合わせるという抜群のセンスは昔と変わっていない。
髪は黒く白髪も混ざってはいないし、体型も崩れることなくスラリとした長身で、その男振りの良さは中年太りに悩む同世代からさぞ、羨ましがられるだろう。
そういえば、いつぞやの年賀状に転職して大阪にいると書いてあったが、まさか三田の父親の会社に入社していたとは。その上、横浜にて劇的な再会というシナリオに、私は運命を呪わずにはいられなかった。
次の瞬間、私と尚彦の視線がかっきりと合った。彼は目を皿のようにすると、愕然とした表情でこちらを見つめた。間の悪いことに、今日の私は彼が選んで買った服を着ている。いかにも未練がましいではないかと、冷や汗が背中を伝った。
「先輩、ちょっと来てくださいよぅ」
再び駆け寄ってきた三田に腕を取られた結城は楽しい宴席で拒むのもどうかと考えたのか、仕方なさそうに立ち上がると、あちらのテーブルへと向かった。
彼が三田の叔父に会釈をすると、尚彦も二言三言、声を掛けるのが見えた。もしや私のことを問い質しているのではと思うと、いたたまれなくなる。
結城が席へ戻るのに同行した三田の叔父が私たちに挨拶し、彼と交代のつもりか、尚彦が立ち上がったのを見て、私の心臓は張り裂けんばかりになった。
頼むから挨拶なんてやめてくれ、せめて結城のいないところで……
しかし、いい大人がそんな常識のない真似をするはずもなく、尚彦は妻を同伴してこっちにやって来た。
「久しぶりだな、準一」
柔らかいバリトンが耳に響く。この四年間、忘れたことはない声だ。
「こんな場所で会うなんて、思ってもみなかったよ」
「……ああ。おまえも元気そうで何よりだ」
私は喉から声を絞り出すようにして答えたが、頭の中は大混乱を起こしており、早く落ち着かなければと気ばかりが焦った。
羽鳥先生を準一などと気安く呼ぶこの男は何者だと、学生たちの視線が尚彦の面に突き刺さっている。ことに結城は敵愾心剥き出しで、隙あらば喉笛に噛みつきそうな気配を漂わせていた。
「家内だ。あ、座ったままでいい、その脚で無理はするな」
尚彦の紹介を受けて、彼の妻は軽く頭を下げた。年齢は三十代半ばぐらいか、いくらか冷たい感じの顔立ちだが、かなりの美人だ。派手な色合いのオレンジ色のワンピースをさらりと着こなしている。
「羽鳥準一さんですね。初めまして、日立の妻の琴美です」
「ど、どうも。その節は大変申し訳ありませんでした。せっかく結婚式の御招待をいただいたのに所用で失礼して」
「いいえ、大学の先生ってお忙しいんでしょう、こちらこそ無理を申し上げてしまって」
本当は用事も忙しくもなかったのだが、別れた相手の結婚を祝福するほど人間が出来ていなかっただけ、尚彦も承知のはずだ。
「それにしても、関東方面へ戻ってきたとたんに、おまえに会えるとはね」
「横浜支社とか言ってたな。いつ引っ越してきたんだ?」
「三日前だ、大倉山のマンションだよ。そっちはずっと川崎だよな」
「四年前と同じ、何の変化もないよ」
「オレたちも子供がないせいか、週末は退屈している。また遊びにきてくれ」
ポケットから名刺を取り出した尚彦はその裏に住所と電話番号をすらすらと書いた。二人を見つめる連中の手前、私も仕方なく新しいケータイの番号付きで名刺交換をする。
私たちの『旧交を温める図』をしばらく見守っていた尚彦の妻が「お怪我をなさったとか、歩いても大丈夫なんですか?」と訊いた。
「え、ええ。骨にヒビが入ったみたいですが、この杖があれば何とか歩けますから」
「お大事になさってくださいね」
「気をつけろよ。じゃあ、またな」
尚彦たちとの会見は実際のところ十分もかかっていなかっただろうが、私にとっては一時間近くも経ったような気がして、二人が立ち去るとドッと疲れてしまった。
そこへ待ってましたとばかりに、学生たちの矢継ぎ早の質問が飛んだ。
「……同級生だよ。同じ大学で、学部は違ったけどサークル仲間だった。えっ? ああ、自然観察研究部という地味なサークルだよ。私はともかく、どうして彼が入部したのか未だに謎だがね。卒業してからはしばらく疎遠になったり、友情が復活したりと、まあ、腐れ縁といったところだな」
結城に聞かせるために、二人の関係の解説が言い訳がましくなっているのを自覚する。
「若くてカッコいいですね、さすが先生の友達だ。奥さんもキレイな人でしたね」
「どことなく先生に似てたような……なあ、そう思わなかった?」
芝の何気ない言葉に、私はハッとした。尚彦が結婚相手に選んだ女性が私に似ていたなんて、それは深い意味があっての選択だったのだろうか。
思いがけない出来事と、そこで発覚した事実に動揺する私を二つの瞳がじっと見据えている。かなりのプレッシャーだ。
退院祝いの席がお開きになり、松下たちは比丘田を引っ張り回して次のカラオケに行こうと張り切っていたが、一次会の費用を全部負担したのと脚の具合を気遣ってか、私を無理に誘うようなことはせず、私自身もこれで帰宅すると告げた。
「それじゃあ、俺も帰るから」
結城のセリフにギクリとする。そういう展開になるのではと予想していたが、そいつがすぐ目の前に迫ってきて、心拍数がグンと上がった。さっきの尚彦の登場といい、今日は心臓に悪いことが多過ぎる。これで心筋梗塞にでもなったら『年寄りの冷や水』的なコメントつきで三田が嘲笑うだろう。ああ、ムカつく。考えるのはやめだ。
「えっ、帰るだって? つき合い悪いなぁ」
「ワリぃな。今、手持ちがないんだ」
さっき金を渡してやったのに。まあ、そうくると思ったけど、少し呆れる。
「ホントは女が部屋で待ってるんじゃねえのか、モテるヤツはこれだからイヤだねぇ」
「るせェ、何とでもほざけ」
軽くあしらうと、結城は「帰りましょう」と促してきた。
ここは頷くしかない、私が松葉杖を一歩進めると、彼はじゃあなと仲間たちに手を振った。
◇ ◇ ◇
横浜駅まで戻り、上りの東急東横線の車中でようやく空いた座席を私に勧めた結城は吊り革につかまると、車窓を眺めたまま、しばし無言だった。
訊きたいこと、確かめたいことは山ほどあるに違いない。それとも、今さら訊きたくもないのだろうか。
ガタンゴトンと列車の奏でる音だけが響き、大勢の乗客たちは誰も彼も黙りこくっている。こんなにも明るい車内なのに不気味な静けさだ。私は目を閉じ、居眠りするふりを続けた。
乗り換えの駅が近づいてきた。ここで私と結城は別々の方向に分かれるはずだが、案の定、彼はマンションまで送ると言い出した。敢えて何も言わずに、最寄りの駅前からタクシーに乗り込む。
ポケットの鍵を探り、玄関を開ける。今朝と同じ光景を繰り返したあと、私の勧めも何もないうちに上がり込んだ結城はテーブルの脇の椅子にどっかりと座った。
「……先生の怪我は俺のせいだって」
「えっ……?」
思いがけない第一声に、私は肩透かしを喰らった。てっきり先程の男の──尚彦の話を持ちかけてくると思い込んでいたからだ。
「先生が階段から落ちる現場を見ていた人が松下に御注進してくれちゃったみたいです。ここを出たあとに聞かされました」
「キミが私を突き飛ばしたわけでもないのに、何を御注進したというんだ」
「三田が余計なことを言ったせいで先生が苛立っていたって。それで注意力が散漫になったんじゃないかってことです。俺があいつを先生に引き合わせたようなものだから」
そういえば「少しは責任感じろよ」と言われていたが、そういう意味だったのか。
二人の親密そうな様子がきっかけだったという点で、三田のせいというのは当たらずも遠からじではあるが、それをいきなり結城の責任にするのは飛躍してはいないか。
いや、松下は軽い気持ちで言ったのだろうが、結城の方が大袈裟に捉えているといったところかもしれない。
「今朝、ここで先生が脚をひねったでしょう。あのときの俺は自分の欲求ばかりが先に立って、先生が怪我をしてることなんて頭になかった。いかに自分がいい加減で、好き勝手で鈍感な人間かを思い知らされて、すげぇショックでした」
病院へ戻った方が、などと口走った彼のうろたえぶりはそのショックが招いたものだったのだろう。私が怒鳴りつけたことも拍車をかけたらしい。
「俺ってば鈍感だから、階段の事故の原因が三田にあるって、すぐにはピンとこなかったんですね。松下から言われて、やっと気づいたんです。先生の怪我って間接的には俺のせいじゃないか。そうとわかると、退院祝いに参加するのもためらっちゃいました。それでも先生と一緒に行きたくて、なのにまた、店で三田に会ってしまった。とことんツイてないっス」
それで駅でも宴の最中も彼らしくない、暗い顔をしていたのかと合点がいく。
結城の性格を強引でちゃらんぽらんでマイペースと酷評したが、それらは本人も自覚したように、鈍感に起因しているからで、気にしていないのではなく、気がつかないことが多かったのではないか。そんな自分の短所を思い知る結果になり、持ち前のお調子者が影を潜めるほどのショック状態に陥ったのだ。
「これまでにも友達とか、つき合った女から勝手なヤツだと言われたことは何度もありましたけど、こんなふうに落ち込んだのは初めてです。メチャメチャ凹んでます」
「たしかに三田くんのお蔭でイライラしたのは認めるよ。さっきもそういう場面をお目にかけてしまったようだしね」
でも、と私は強調した。
「彼の発言に惑わされるのは私自身の責任であって、キミのせいではないよ。おかしなものだね、二十以上も年下の一年生相手にムキになって、我ながら大人げないと反省するけど、どうにもならない」
すると結城はこちらをキッと睨んだ。
「また、そうやって齢の……」
「また、ってどういう意味だい」
「いえ……別に」
プイと横を向く様子にまたしても唖然となる。今夜の彼はいつもと勝手が違いすぎて、どう接していいのかわからなくなった。
そんな気分を落ち着けようと、私が取り出したタバコのパッケージを横から奪うと、結城はその一本に火をつけたが、すぐにゴホコボと咳き込んだ。
「普段吸ってないヤツが無理をするなよ」
そう諌めると、結城は投げやりな口調で突っかかってきた。
「どうせ俺はタバコも吸えないお子様、そう思ってるんですね」
「何くだらないことを……」
「さっきの店で会ったあの人がナオヒコさんだって、すぐにわかりましたよ。見た目も中身もすごく大人で、俺が想像していた以上にイイ男で、思わず歯軋りしちゃいました。彼とは不倫の関係だった、それで思うようには連絡が取れなかったんだ」
いよいよ本題だと身構えつつ、私は冷静に答えた。
「彼は三日前に横浜へ引っ越してきたばかりだと、キミも聞いていただろう」
「さあ、おぼえてませんね。不倫も大変だけど、もれなく三田がオマケでついてくる俺なんかと一緒にいて、イライラさせられるのはつまらないし、難しい選択ですね」
現状がどうこうではなく、私と尚彦がつき合っていた、深い関係にあったという事実そのものが彼を不快にさせているのか。
実物の日立尚彦を、生身の彼を目の当たりにして、こいつが羽鳥準一の相手だったのかと湧き上がった実感に不快さが増した。そう解釈すると気持ちはわからないでもないが、苛立ちをぶつけられて、こっちが不愉快になってきた。
「過去の恋愛に対して、いちいち嫉妬されるのは適わないな。それなら女性が相手だったとはいえ、経験豊富なキミの方がよっぽど脛に傷だ。自分に不利だとは思わないのか、勝手な言い草はやめてくれ」
「過去……じゃないっスよ。先生はまだあの人を」
そこまで言いかけて結城はいったん口をつぐんだ。
「たしかに妬いてるのは認めます。だけど、負けてるとか、敵わないとか、絶対に思いませんから。ははっ、余裕ですよ、余裕」
わざと明るい口調で強がってみせたあと、立ち上がった彼は私に敬礼のポーズをとって見せた。
「帰ります。お邪魔しました」
立ち去る後姿に、私は何も言えなかった。
……⑦に続く