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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

プロフェッサーHと学ぶBLの法則 ⑤

    第五章  パンダと茄子とクリスマス

 翌朝、再検査を終えてしばらくすると、退院のお許しが出た。何ともない、至って元気だから退院させてくれとゴリ押しした成果である。

 さっさと職場復帰しなければ、学生たちに迷惑がかかる──なんて、休講になった方が彼らは喜ぶだろうが。

 ベッドの周りを片づけていると、結城がひょっこりとやって来た。絆創膏を剥がした痕が紫色になっていて痛々しい。

「先生が退院するって連絡を貰ったんで、急いで飛んで来ました」

 緊急連絡先と称して、自分の携帯電話の番号をナースステーションに告げていたらしいが、そのちゃっかりぶりに呆れるやら嬉しいやら。

「もっとかかると思ってたけど、こんなに早く退院できて良かったですね」

 しかし、昨夜この場所で、自分の気持ちを再認識したにも関わらず、相変わらず素直になれない私は渋面を作ったまま「今日の授業はいいのかい、まさかサボッてないだろうね」などと訊いた。

「土曜日の講義なんて、よっぽどの理由がなきゃ履修しませんよ」

「バイトは?」

「休むって連絡しておきました」

「金がないと言ってたくせに、困ったコトをするヤツだ」

 やれやれと肩をすくめるポーズを取ってみせる。嬉しいくせに困ったフリをするヤツは誰だ。

「ナオヒコさん、来なかったんですか」

「あ、ああ。昨夜は早々に寝てしまって、電話するのを忘れた」

 そんなしらじらしい言い訳をすると、訝しげな目つきでこちらをチラリと見た結城だが、それ以上は触れずに「荷物を持ちましょう」と手を差し出した。この時ばかりは素直に従い、紙袋を手渡す。

 貸し出された松葉杖をつき、病室をあとにした私は結城と共に、病院前からタクシーに乗り、十五分もかからないうちに我が自宅・三階建てマンションの前へと到着した。

 ここはキャンパスから徒歩で三十分以上かかる場所で入居希望者が少なく、そのため家賃が比較的安いのが魅力だ。エレベーターを降り、最上階にある自室の前まで来ると、ズボンのポケットに入れた鍵を探る手が震えてきた。

 退院の御供をしてもらった行きがかり上、「私の部屋でお茶でもいかが?」と声をかけなくては失礼だというプレッシャーを感じているからであり、また、バイトを休んでまで付き添ってくれたのに、今日はもういいから帰れと言い放てるほど非情にはなれない。そんなこんなの脅迫観念から焦っているのである。

 邪魔者抜きで結城と一緒に過ごせるのは嬉しいはずなのに、密室で二人きりになるのが怖い。理性の箍がはずれて何を口走ってしまうか、わからないから怖いのだ。

 ここでは講義の話でもして、お茶を濁すべきか。だが、そんな面白くもない話題で時間が持つはずはない。では問題のサークル事情はどうだろう。行き着くところは三田の……いかん、ますます焦る。

「鍵が見つからないんですか?」

「いや、たしか入れたはず……あった」

 わざとらしく取り出してロックを解除すると、私は努めてさり気なく「寄って行くかい?」と訊いた。鍵を握る掌がビッショリと汗をかいている。

 あがってもいいんですかと、結城は嬉しそうに頷いた。

「お邪魔しまーす。わあ、さっすが几帳面な先生の部屋ですね。きちんと片づいていて、モデルルームみたいだ」

 2DKのマンションの内部はモノトーンのカーテンにカーペットと、それに見合うシンプルな家具を配置。結城の言うとおり、モデルルームとして通用しそうなレイアウトにしてある。もちろん、いつでもどこでも緑が眺められるようにと、グリーンインテリアとしての観葉植物をいたるところに置いたため、プチ・ジャングルと化している場所もあった。

「植木鉢の数がスゴイですね、園芸店並みですよ。これ、手入れするだけでも大変じゃないですか」

 そう見えるだろうが、これらの世話は他人が思うほど面倒ではない。観葉植物は丈夫なものが多く、水やりや施肥、冬季の保温の仕方など、基本的な手入れさえ怠らなければ長持ちするのだ。

 しかし、残業の多いサラリーマンで妻子がある者だったら、これほどの数をこなすのはちと難しいかもしれない。

 クソ真面目な偏屈者の唯一の趣味──

 キャンパス付近にマンションを借りて、そこから毎日自転車で出勤。その日の講義を終えると、自分の研究室にて、ひたすら研究に打ち込む。

 昼食は学食で済ませ、夜は近辺に点在する学生御用達の定食屋に出没。たまにスーパーに立ち寄って自炊、得意料理は回鍋肉。

 飲みに行くなどもってのほか、歓迎会や送別会等、年に数回、学生たちと居酒屋に立ち寄る程度で、あとは自宅と大学を一直線に往復するだけ。

 わびしい独身男の、この何とも面白みのないライフスタイルだからこそ、大量の観葉植物の世話ができるというわけだ。

「ソファの横にあるのは?」

「アレカヤシとベンガルボダイジュ」

「窓のとこにもいっぱいだ」

「右からコルムネア、セダム、ゼブリナ、トラデスカンチャだ」

「全部の名前を暗記しているんですか、さすがだなあ」

「それほど大層なことじゃないよ」

 大層というよりマニアック、怪しいオタクの一種だと、自分で自分にツッコミを入れるのがちょっと情けない。

 私がキッチンに立つのを押しとどめて、結城は自分がやりますと言った。

 サイドボードやテーブルの上にも数多くの鉢が乗っている。ピレアにフィットニア、パンダナス。まだまだあるが説明しきれない。

「へえ、これパンダナスっていうんですか、面白い名前。パンダと茄子が思い浮かんだ俺の想像力って貧困ですかね」

「オヤジギャグのレベルだね」

「きっついお言葉ですねぇ」

 テーブルに付属の椅子に腰掛け、向かい合わせに座った結城のコメントを聞きながら、私はある言葉を思い返していた。

『ほら、こいつの説明が載ってるよ。パンダナスの葉は細くて堅く、ふちがトゲ状になっているので注意、だって。細身で堅物で、言葉にトゲのあるおまえみたいだな』

 観葉植物の育て方マニュアルを片手に、シャレにもならない冗談を言いつつも優しく微笑む、そんなところも好きだった……

「どうかしました?」

「い、いや、別に」

 探るような目でこちらを見た結城は「ナオヒコさんのことを考えていましたね」と看破した。

「だから違う……」

「もしかしてこのパンダナス、彼のプレゼントだとか。ますます妬けるなぁ、何で連絡しなかったんですか」

 明るく軽い口調ながらも、尚彦の存在を相当気にしているのだろうと思い、そろそろ本当のことを教えてやった方がいいのかと、私は事実を切り出すタイミングを窺っていた。

 だが、それを気にしすぎるあまり、気もそぞろになってカップをひっくり返し、せっかく淹れてくれた紅茶を辺りにぶち撒けてしまった。

「大丈夫? 火傷しませんでしたか?」

「あ、す、すまない」

 テーブルを布巾で拭きながら、先生って見た目よりおっちょこちょいですねと言って、結城は笑った。

「階段から落ちたり、飲み物こぼしたり。子供の頃、落ち着きがないって注意されませんでしたか? 俺も小学校のときの担任に『席に座っていなさい』って、しょっちゅう怒られてましたけど」

「……失礼な。キミと一緒にされたくはないね」

「怒っちゃいましたか」

 その表現を気にするふうでもないところはさすがマイペース男、結城はニヤニヤしながら「この前の講義ですけど」と話題を変え、私は尚彦の一件を言いそびれてしまった。

「葉の色素と形状の遺伝の話から、ポインセチアを例に取り上げましたよね。あれ、すごく面白かったな」

 クリスマスを彩るお馴染みのポインセチアは観葉植物の仲間である。実際の花は小さくて地味なもので、真っ赤に色づく派手なあの部分は苞葉と呼ばれる。

「それは火曜日の二限に行なった講義のネタだね」

「ええ。最近は品種改良が進んで、色は赤だけでなく白やピンク、斑入りのものなんかも出てきたってのと、苞葉の形状も縮れたものとか、バラエティに富んできた……」

「たしかにそんな内容だった。さほど面白い話をしたおぼえはないのだが、何がウケたのかな」

「そのあと、話が脱線したじゃないですか」

「脱線?」

「有名な文献の一文に『クリスマスを過ぎたポインセチアは一セントの価値もない』って紹介しましたよね、あれが印象に残ったんですよ」

「ああ、そういえば」

「一セントの価値もないって、身も蓋もないっつーか、それじゃあ、あまりにもポインセチアが可哀想だなって思って」

 そこらはさらりと流しただけで、すぐに次の題目に移ったのだが、妙なことを気にする男だ。

「だが実際、街の園芸店やホームセンターではクリスマスを過ぎるどころか、当日前に叩き売りを行なっているのを何度も目撃している。現実はそんなもんだ」

 そう冷淡に答えると、彼は「今、思いついたんですが」と提案してきた。

「何を?」

「いや、ポインセチアに青い色があったらどうかなって。造花バージョンでは売られていましたけど、本物でも青の苞葉のやつを創り出すんですよ。青い色のバラの研究開発が進んでいるでしょう? せっかく植物遺伝学を専攻してるんだし、そういう研究ならやってみたいな、なんて」

「青いポインセチアを創ってどうするの?」

「青っていうか水色に近い感じにすれば涼しげだし、クリスマス限定にしなくても、夏でも売れそうだからですよ。あの赤と緑の対比がいかにもクリスマスなわけだし」

「なるほどね。だが、消費者は果たして青イコール夏と捉えてくれるだろうか。クリスマスに青い造花が出回っているということは冬でも青が通用しているからで、何色であってもポインセチアはクリスマスのものと考えられてしまうんじゃないかな」

「そっかー。我ながらいい考えだと思ったんだけど」

 結城とこんなふうに植物談義ができるとは思ってもみなかった。なかなか楽しいじゃないかと、ノッてきた私はポインセチアネタを続けた。

「現に私は生花の青いポインセチアを見ている。去年の十一月頃、スーパーの園芸コーナーで売っていた。最初に見たときはさすがに驚いたよ」

「えっ、もう青の苞葉が開発されてたんですか?」

「いや、白というか、あれはアイボリーに近い色だが、その苞葉に青いインクを吹き付けて着色したものだ。青インクを吸わせるカーネーションと同じ考え方だね。だから本物の青ではないし、青い苞葉に対する需要が見込まれるのはたしかだけど、夏と結びつくかは即断できないね」

 興味深そうに頷く彼の瞳が輝いている。植物遺伝学を面白い、楽しいと思っているのが強く感じられて嬉しくなった。

「それにポインセチアは短日植物だから、夏場は緑一色であり、苞葉が色づくのは十一月から十二月。だからクリスマスの花でもあるわけだが、そいつをどうやって夏の前に持っていくか。栽培する側が上手く処理したとしても、店頭や消費者の手元に渡ったときに色が変わってしまっては困るよね。これはやりがいもあるけど、かなり大変な研究になると予想されるな」

「大変な研究、かぁ。でも、却ってわくわくしますよ。トライしてみたいな」

「さすが、何事にもメゲない性分だね」

 クリスマスの話題を続けたせいか、私の頭の中はクリスマスモードになっていた。

 クリスマスといえばポインセチアよりも悲惨な扱いを受けているのがケーキだ。もっとも、食べ物の場合は賞味期限が重要なので、仕方のないことだけれど。

 初婚年齢が上昇した昨今、イブの二十四日以降に売れ残ったクリスマスケーキを適齢期過ぎの女性に喩えるなどの不届きな言い草はさすがに聞かなくなったが、結婚適齢期とはナニゴト、人間に賞味期限を設けるとは失礼な話である云々──

──まただ。

 またしても年齢ネタに対してムキになるのはやはり、自分と結城の齢の差を気にしているから、若い三田の存在を意識しているから。焦燥感に襲われる。

「期限を設けて値打ちを決めるのって、あんまり好きじゃないし」

 そう呟いた結城の言葉に反応して、

「まったくだ。売れ残りのクリスマスケーキなんて」

 つい口走った私を彼は不思議そうに見た。

「俺、ケーキの話してましたっけ?」

「い、いや、これはその……ちょっと」

「先生って面白いなぁ」

 その視線に優しさと温かみを感じて、私は思わず目を逸らせた。胸がドキドキして痛いほどだ。

「研究室に入ったときの第一印象は素敵だけど、クールでちょっと近寄りがたい、だったんですよ。高嶺の花っていうのかな、だからなおさら、振り向かせたい、何とかして落としたい。賭けの対象にしたのもそういう気持ちがあったからなんだけど」

 高嶺の花か。こんなオジサンを修飾するのに用いる言葉とは思えないが。

 くすぐったいような、照れ臭いような、それでいて申し訳ないことをしている気分になり、気持ちを落ち着かせようと二度目のアールグレイのカップを口に運ぶ。今度こぼしたら笑い事では済まない。

「あの頃と今と、どっちが好きだって訊かれたら、迷わずに今だ、って答えます。これだけ優秀な人なのにドジ踏んで失敗するところ、人間味があって断然、魅力的だって思いました。先生を知れば知るほど、その人柄の素晴らしさを実感したって感じです」

 マヌケな部分までも魅力として評価してもらえるとは光栄の至りであるが、彼の心の内をじっくりと聞かされて、嬉しいはずなのに切なくなってきた。

 私たちの間に恋愛感情など存在してはならない、はず──

「マジでベタ惚れなんです。こんなにハマッたの、たぶん初めてだと思う。ほら、今までの俺って、声をかけるのもかけられるのも簡単だったから、ムキにならなくても相手をゲットできたし、誰に対しても軽い気持ちでつき合えた。その状態に慣れちゃったせいか、これだけマジすぎると胸が苦しいです」

 真剣な眼差し、矢継ぎ早の告白に対して、何もリアクションできないままの私に、結城はさらにたたみかけた。

「キスから始めるのは短絡的だ、工程を端折るなって言われたから、こうやって俺の想いを詳細に述べています。これでも言葉が足りませんか? 必要な段取りを省略してますか? あとはどうすれば」

「いや、それは……」

 どう答えたらいいのだろう。

 もう何も迷わずに自分の気持ちを伝えようと後押しする心と、教え子に対して不埒かつ恥知らずな真似をしていいのかと引き止める心が綱引きをする。

 テーブルの上に置いた私の手を握ると、彼は「俺のこと、嫌いですか?」と訊いた。

「嫌いなんて、そんな……」

「ナオヒコさんという人がいるのは承知の上で、それでも少しは脈があるかと思って、メゲずに頑張ってきました。今の正直な気持ちを聞かせてください」

 慎重に言葉を選ばなくてはと緊張しながら、私はゆっくりと答えた。

「……キミの気持ちは嬉しいよ、とても有難いと思っている。だが、私たちは男同士だ。それだけでも問題なのに、私とキミの間には開きがありすぎる。よく考えてみたまえ、私はキミ自身より、キミのお父さんの方に齢が近いんだ。その事実をわかってるのか、ちゃんと自覚しているのか?」

「そんなことを気にしているんですか」

「そんなことって……」

 またしてもあっけらかんと言ってのける結城に、私は呆気にとられた。

「俺、去年の暮れに三十代後半の女の人とちょっとだけつき合ったけど、齢の差がどうとかって気になったことも、相手が気にしていたこともありませんけど」

 さすがは何でもありの男、そういえば先の文献のあと、年齢にしろ性別にしろ、相手へのこだわりがないといった内容の話をしていたのを思い出す。

 気にしていないからと、いとも簡単に片づけられてしまい、昨夜は涙まで流した、これまでの私の悩みはいったい何だったのか、愕然となった。

「齢の差って、やっぱり気になりますか?」

「とっ、当然だろう」

「そうかなぁ」

 首を傾げるな、首をっ! 

「じゃあ、どうしてその三十代の女性とは長続きしなかったんだ。年齢の壁があったせいじゃないのか」

「いいえ、婚約が決まってお払い箱になったんですよ。婚約者はけっこうイケメンのエリートサラリーマンとかで、ライバルが多いからゲットできるかどうかわからなかったらしくって、二股かけられてたってわけで。カッコ悪いですかねぇ」

 エヘヘと決まり悪そうに笑う様子に、呆れた私は「女を渡り歩くはずの稀代のドン・ファンが手玉に取られ、逆に渡り歩かれてしまったのか。お粗末だな、じつにカッコ悪い」と冷淡に言ってやった。

「ドン・ファン、って何ですか?」

「知らなくていい」

 不機嫌な私の反応を見ると、それ以上は訊かずに、

「二股っていうか滑り止め? それとも単なる遊びだったんでしょうか、きっとそうだ。他の人と結婚を考えてるときに、学生の俺なんかとじゃあ、本気でつき合えるはずないないですし」

「それでキミは悔しいとも思わなかったんだな。お互いに遊びだからかまわない、そこまでの関係だったと割り切ったわけだ」

 何やら会話が脱線してきたが、具体的な女性関係を聞かされ、ついムキになって絡んでしまう私に、彼はニンマリと笑いかけた。

「そう、未練も何もないですよ。きれいさっぱり、大人の関係ってやつですね」

 二十一のガキが大人の関係だと? 年長者を前に言ってくれるではないか。私よりもはるかに経験豊富で、修羅場をくぐってきたような物言いにアドレナリンの分泌量が急上昇する。

 それにしても、ベタ惚れなどと口にしたあと、今までの遊びの関係を自慢げに話すとは。真剣なのか、ナメているのかわからない結城の態度に、真摯に見えたさっきの告白すらも嘘臭く思えてきた。

 彼の中ではまだ、あの賭けは続いているのではないか。

 なかなか手に入らない相手に対し、自分では本気だと錯覚して追いかけているだけで、その心を捉えたとたんに熱が冷めるのがタラシの公式、そこでくるりと背中を向けるのがヤツらの習性だ。

 そんなふうに考えると、気持ちが萎えてくる。私は失いかけていた冷静さを取り戻すと、態勢を立て直した。

「さすが、場数を踏んでいるだけのことはあるね」

「先生ならどうしますか? 俺とナオヒコさんと、二股かけられます?」

「いきなりネタをフッてくれるね。私は誠実という言葉を愛する男だ」

「二股なんてとんでもないと?」

「当然だね。誠意のない恋愛はしたくない」

 とは言いつつも、尚彦との紆余曲折を辿る十数年の間、二股以上に大変な状況に陥ったことは何度もある。

 お互いに数多くの男女の関心を集め、複雑な事情からそれぞれの感情がこんがらがってしまった。私も彼も若かったし、想いを貫くほど一途にはなれなかった。

 そんな過去の出来事なのだが、私自身に誠意がなかったとは思いたくないし、誰かを弄ぶような恥ずべきことは決してやっていないと誓ってもいい。

「じゃあ、あともう一押しで、俺だけのもの決定ですね」

「は……?」

 きょとんとする私に、彼は自信たっぷりに言い放った。

「ナオヒコさんって、ホントは別れ話が出てるとか、切れかかってる人なんでしょう。先生、演技がヘタですね」

 私のこれまでの不審な態度から、ナオヒコというのは過去の男、あるいは関係がうまくいっていない相手だと推察したらしいが、そういう方面にかけてはさすがに鋭い。

 その推察を決定づけたのはやはり、私が入院の電話をしなかったからのようだ。彼が執拗に尚彦への連絡にこだわったのは私の対応を見ようという企みだったとわかると、無性に腹が立ってきた。

「私にカマをかけていたのか」

「またぁ、大袈裟な。入院したなんて一大事だもの、好きな人へは真っ先に知らせるのが普通でしょう?」

 しらばっくれる結城、怒っている私の方が形勢不利なのが歯がゆい。

「電話はかけたけど通じなかったとか、忙しくて来られないらしいとか、何とでも言い訳できるのに、寝てて忘れたなんて、簡単に見破られるところが先生らしいなぁ」

「だから……」

「彼とはラブラブなふりをして、俺にヤキモチ焼かせる作戦だったんですか。なかなかやりますね」

「そういうつもりは……」

 言いたい放題の結城に対して、次第にしどろもどろになる私だが、そもそも寝言を勝手に勘違いしたのはそっちじゃないかと抗議するにも言葉が出てこない。

「そんな作戦を立ててまで気を引くってことは、つまりですね」

 さっきから握ったままの手をグイと引き寄せると、結城は身を乗り出して顔を二十センチの距離にまで近づけてきた。この大胆かつ強引さがモテる秘訣なのだろうか、アップに耐えられずに、私は思わず目を伏せる。

「俺のことは嫌いじゃない、むしろ好きって捉えてもいいですね?」

 勝手に結論を出すな! と言いたいのはやまやまだが、悔しいことにその通りなのだ。様々な迷いを抱えつつも、私が彼に惹かれているのは否定できない。

「じゃあ、今度こそキスしても……」

 言い終わらないうちに、結城は私の唇に触れてきた。軽いフレンチキス。

「……短絡的、じゃないですよね」

 いったん離したあと、再びキス、それもかなりディープだ。

「ん……」

 甘く、とろける感覚に目眩がする。私はいつしか自分から激しく舌を絡めていた。

 ようやく唇を離した結城は次に、私の耳朶を軽く噛み、首筋に舌を這わせるようにした。熱い感触に背中までもが反応する。

「あっ……あ……」

「マイッたな、その声。色っぽくて鼻血吹きそうですよ。中も触っていいですか?」

 茶目っ気たっぷりに言いながら、ワイシャツの隙間から入り込んだ指が素肌に触れると、私は小さく身震いし、溜め息を漏らした。

「ここ……すっげードキドキしてる。ほら、俺のも触ってみて」

 結城は私の手を取ると自分の左胸に押し当て、私たちはお互いの想いを確かめ合うように、相手の心臓の位置に触れた。

「先生が好きだって、俺の全身が訴えているんですよ」

 ならば私の全身も訴えているのか。この年下の学生が、結城大が好きだと──

「全身が……わかりますね?」

 もちろんだ。彼が次に求めているものが何かくらい、とっくにわかっている。好きだと訴えているのは全身というより、下半身の一部ではないのかとは思うけれど。

 二十一といえば男の欲望真っ盛りだ、どちらかといえば淡白な私自身にもおぼえはある。そちらの欲求が身体中を支配し、はけ口を求めて神経を昂ぶらせ、興奮を呼び起こしているに違いない。もっとも私の場合、本来の男の本能とは違う欲求ではあるので、同列に語っていいものかわからないが。

 ここは私の部屋、そういう展開になるにはおあつらえ向きの場所。このような状況になった以上、どんな不安があるにせよ、今さら拒絶するつもりはない。それが大人の対応であるし、そもそも彼を部屋に誘ったのは私だ。だが……

「ちょっと待……痛っ」

 椅子に腰掛けていた私は立ち上がる際に脚をひねってしまった。左の脚の打撲と骨にヒビが入っているという現実を忘れていたため、走る痛みに悲鳴を上げると、結城の表情が強張った。

「だっ、大丈夫ですか!」

「あ、ああ、たいしたことは……」

 口では強がっていても、苦痛で顔が歪んでいるのが自分でもわかる。せっかくここまで盛り上がってきたのに、何たる不覚か。

「ど、どうしよう、病院に戻った方がいいのかな」

「平気だ、そんな心配はいらないよ」

「だけど、今度こそ骨折してたら」

「しつこいな、本人が大丈夫だと言ってるだろうっ!」

 いつになくこだわりを見せる結城に対して、苛立った私が激しい口調で怒鳴りつけると、彼は脅えたような顔をして黙りこくった。気まずい沈黙が漂う。

 ピーンポーン。

 いきなり呼び鈴が鳴ったかと思うと、

「先生、羽鳥先生、戻られてますか?」

 そう呼びかける声と共に、玄関の前で大勢の若者がわいわいと騒ぐ声がして、私たちは現実に引き戻された。

 慌ててワイシャツの乱れを直している間に、結城がそちらへ向かう。

「……あっれー? 何でおまえがここにいるんだよ。情報、バカ早くねえ?」

 結城の姿を見て素っ頓狂な声を上げたのは芝、訪問者は三回生の四人だった。

 私が階段から落ちて、救急車で運ばれたのは昨日の夕方、すべての講義が終了したあとである。

 羽鳥教授が入院したと、今朝になって聞いた彼らは慌てて見舞いに駆けつけてくれたのだが、その前に退院していたため、病院からこちらに向かったという次第のようだ。

「いや、こいつ、現場にいたんだよ。変な一年と一緒だったって目撃情報もあるぜ」

「それで抜け駆けしたんだ。賭けは取り止めたっていうのに、マジでしつこいなぁ。今度は何が目的なんだ、遺伝学の単位か?」

 なじるようにそう言ったあと、彼らはめいめいに私への見舞いの言葉を述べた。

「先生が階段から落ちて、頭を打ったって聞いたときはびっくりしましたよ」

「ホント、ビビッたよな。大変なことになってたらどうしようって」

「脚の骨にヒビが入ったそうですね。まあ、その程度で済んで助かったって感じかな」

「心配をかけてすまなかった。キミたちがそこまで私の身を案じてくれるなんて、本当に嬉しいよ」

 いやあ、そんな、当然ですよと、四人は顔を見合わせて照れたように笑ったが、結城だけはブスッと面白くない表情をして黙ったままだった。

 さっきの言い争いが尾を引いているのか、それともあと一歩というところで、二人きりの時間を邪魔されたと思っているのだろうか。だが、私の脚がこの状態な限り、無理はできないのだから仕方ないではないか。

 私としては気まずい雰囲気が解消になって痛し痒し。何より松下たちの気持ちが嬉しかった。こんなふうに私を慕ってくれる学生のいる学年は今までなかったと思う。

「とにかく、先生の怪我がひどくなくて良かったよなぁ、大」

 松下に背中をバシバシ叩かれると、結城は「ああ」と気のない返事をした。

「あのさ、おまえ、少しは責任感じろよ」

「俺が?」

 何のことだと問う結城の視線を遮るように、芝がその場を取り繕った。

「まあまあ。それよりせっかくだから、退院のお祝いをやりましょうよ」

「賛成。オレ、何か買ってこようか」

「それなら私が主催しよう。快気祝いだと思ってくれ」

「えっ、先生の奢り?」

「やった、ラッキー」

 私は近所の寿司屋に出前を頼もうと電話をかけたが、臨時定休らしく通じない。他をあたろうかと思案していると、松下の携帯電話から着信音が流れ始めた。

「はい、もしもーし。おおっ、比丘田か! どうした、えっ、退院した? そっか、そいつは良かった、おめでとう。でさ、じつは羽鳥先生も……」

 比丘田というのは交通事故で入院していた六人目の三回生であるが、数日前に退院して月曜から登校するという話で、それを聞いた仲間たちは彼と私、二人合わせての退院祝いにしようと言い出した。

 友人との久しぶりの飲み会とあって、比丘田自身も異存はないどころか大いに乗り気で、話はとんとん拍子に進んだ。

「……お薦めの店って、それ何処だよ? 横浜にあるの?」

 主賓の一人である比丘田の推薦、というか希望により、会場は横浜のダイニングバーに決定したようだ。

 松下との会話に聞き耳を立てながらも、あとの連中はめいめいに勝手な話を始めた。

「あいつの家、横浜だっけな。ダイニングバーなんて、こじゃれてるよな」

「へえ、いつもそんな店で飲んでるのかよ。自宅生は優雅でいいよなぁ」

「なあ、それ、どういうところ? オレら、居酒屋しか行ったことねえじゃん。それも超安い店」

「うわ、ダッサい」

「人のこと言えるかよ、こら」

「ねえ、四年生はどうするの? 声掛けなきゃいけないのかな」

「えー、面倒臭いなぁ。先生、四年生も誘った方がいいですか?」

「急な話だし、今回はここだけでいいんじゃないかな」

「そうっスよね、良かった。あ、でも先生は出掛けて大丈夫ですか? あんまり脚に負担をかけちゃマズイとか」

「いや、心配はいらないよ。電車に乗るぐらいは何ともない」

「よーし、決定。それじゃあさ、横浜駅の改札前に七時集合にしようぜ」

 お昼に寿司程度で終わらせようと考えていたのが、ここまで大袈裟な企画に膨れ上がってしまったが、彼らのせっかくの厚意を無にするわけにはいかない。

 いったんは解散ということになり、企画決定の間、一言も言葉を発さなかった結城は特に抵抗するでもなく、仲間たちに引きずられるようにして、私の部屋をあとにした。

                                ……⑥に続く