第三章 天敵現る
三田洋(みた ひろし)と名乗る学生の訪問を受けたのは翌日のことだった。
講義も何もない、比較的楽なスケジュールなので、今のうちに実験のデータをパソコンに入力しておこうと思い立ち、ディスプレイとにらめっこをしていたところ、廊下側のドアをノックする音が聞こえてきた。
付け加えておくが、この執務室は実験室と連絡しているドアの他にも、廊下から直接出入りするためのドアがある。訪問者は実験室経由ではなく、じかに私を訪ねてきたのだった。
「羽鳥先生、いらっしゃいますか」
「はい、どうぞ」
返事をすると、開かれた扉の向こうに立っていたのは見覚えのない、痩せぎすの小柄な学生だったが、それにつけてもかなりの美少年ぶりには驚愕してしまった。
「お邪魔します。ちょっとお時間をいただけますか?」
「ええ、かまいませんけど」
パソコンを終了させて向き直った私は彼にソファを勧めた。
機械工学科の一回生だという話だが、十八、九歳にしては幼く見える。栗色のさらりとした髪に、白くて肌理の細かい肌、小さくまとまった顔。目が大きくて睫毛がやたらと長い。幼児向けに売られている着せ替え人形の男の子バージョンはきっとこんな感じだろう。
高級ブランドのシャツを何気なく身につけ、腕にはプラチナのブレスレットが光っているが、もちろんブランド物。垢抜けた、良家の子息の見本品みたいな学生だった。
彼のような人種まで入学していたなんて、バンカラが進化したどころか大いなる変化である。神明大の明日はどっちだ?
「で、御用の向きは何ですか?」
三田洋は大きく深呼吸をし、私を正面から見据えてきた。
「結城先輩のことです」
「結城の?」
鸚鵡返しにその名を口にすると、三田の表情が険しくなった。
「先生は何の権利があって、先輩の学生生活に口出しするんですか? 研究室に入ったら、サークル活動は制限されなきゃいけないんですか、入学時のオリエンテーションでも、そんな説明は受けていませんけど」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。もう少し順序立てて話して欲しいんだが」
いきなりまくし立てる三田をなだめて、お茶でも淹れようかと訊くと、結構ですという、けんもほろろの答えが返ってきた。
「ボクはこの大学に入ってすぐに、サーフ&スノーというサークルに入部しました。ボクを勧誘したのが結城先輩です」
「それで彼と知り合いなんだね。話の腰を折ってすまないが、私は今現在のサークル事情に詳しくないので、どういう活動をしているのか説明してくれないか」
「夏はサーフィン、冬はスノボーをやるサークルです。春と秋はテニスもやります。今はまだ部として承認されていないので、同好会の状態ですが」
サーフ&スノーなどという横文字を使った軽いノリのサークル名。サーフィンとスノボーをメインとした同好会の実態はよくある女目当ての軟派なサークルだと、この私でもすぐにわかる。どうせ近くの女子大と合同合宿がお膳立てされているのだろう、いかにも結城が好みそうなお遊びグループだ。
「なるほど。それで私が口出ししたというのはどういう意味かな? 私は彼がそういうサークルに入っていたと、まったく知らなかったのだが」
「嘘でしょう」
そう決めつけると、憎悪を込めてこちらを睨む美少年に私は辟易した。少しは聞く耳を持って欲しい。
「一方的に責められても困るな。結城がキミに何を話したのか教えてくれ、それが私の口出しという結論になったのだろうし」
「わかりました」
三田の説明によると、昨日の午後、サークルの集会にやって来た結城はその場で突然の退部を宣告、驚き、訝る他の部員たちに「研究室での勉強が忙しくなったから」と言い訳したらしい。
しかも、サークル活動などしている場合ではないと私が厭味を言った、そんなふうに吹聴していると聞いて、言ったおぼえのない当人は唖然としてしまった。
「結城先輩はボクの憧れの存在なんです。イケメンで背が高くてカッコイイし、運動神経抜群だし。気が利いて、誰にでも優しくて、女の子にモテるのも当然です。女の子だけじゃない、男にもすっごく人気があるんです。人望があるってやつです」
ふーん、そう。
「先輩がいたから、その人に勧誘されたから入部したんだ。それなのにやめちゃうなんて悔しい、絶対に許せない!」
とんだ言いがかりだ、冗談じゃない。先輩が退部したのはあんたのせいだと、いわれのない恨みを買った私の方こそ、いい迷惑だ。
三田の興奮が少し収まったのを見計らって、私は「研究室とサークル活動の両立は充分可能だよ」と皮肉っぽく言ってやった。
「だって……」
「私はサークルをやめろなどと、これまで誰にも忠告したことはない。体育会の厳しい練習をこなしながら、立派な論文を書いた先輩は何人もいる。学生とはいえ、二十歳を過ぎた大人だ。両立できるかどうかは自分で判断するもの、先生に言われたからやめました、なんて、情けない言い訳でしかないね」
「結城先輩が情けないとおっしゃるんですか? あの人をバカにするんですか!」
またしても間違った方向に解釈する三田に、私はげんなりした。
体育会とは比較にならない、お遊びサークルの活動が研究の妨げになる、などと本気で思う方がどうかしている。
だが、三田の結城に対する傾倒、盲信ぶりはかなり重症で、もしかしたらこいつ、恋情を尊敬に置き換えての、そっちの趣味があるのではと勘繰ってしまった。
華奢で色白の美少年とワイルド系イケメンの組み合わせは似合いすぎるほどお似合いである。男同士という非情な現実を差し引いたとしても、少なくとも親子ほど年の差がある私よりは祝福されるカップルになるだろう。
彼らが並んでいる図を思い浮かべた刹那、キリキリとした胃の痛みをおぼえた。似合いの二人に対する嫉妬であると、認めざるを得なかった。
私の表情を探るように見ていた三田はふいに、とんでもないことを言い出した。
「羽鳥先生はもしかして、結城先輩がお気に入りなんじゃありませんか」
こちらの心理を見透かしたようなセリフに一瞬ドキリとするが、こんなガキに負けてはいられないと、すぐさま切り返す。
「お気に入りねぇ、何でまた? そう思った根拠を聞かせて欲しいな」
「先輩を研究室の中に閉じ込めておきたいから、サークルなんてやめろ、ってそそのかしたんだ。やめなきゃ成績が下がるって脅迫したんですね。同好会にも先輩のファンはたくさんいるから、その人たちに取られたくないから、でしょ」
「面白い発想だね」
バカらしいと否定すること自体がバカげている。
私が取り合わないので、三田はムキになって挑発してきた。
「若者と張り合うのは無理があるんだって自覚した方が身のためですよ。いくら若作りしたって」
若作り? 誰が、って私のことか? いきなり容貌への攻撃とは低レベルではないか。
「同じ齢の男の人たちより少しキレイで、お腹も出ていないからって」
思わず白衣越しに自分の下腹部を見る。大学職員の健康診断では幸い、メタボの判定を受けたためしはない。
「もうすぐ四十歳になるんでしょ、ボクたちから見れば立派なオジサン、オヤジなんですから」
オジサン、オヤジ、ジジイ──
屈辱的な四文字ないし三文字が頭の中でぐわんぐわんとエコーする。
世間の常識からいえばそのとおり、年齢的には中年の域に入っている私だが、これまで学生たちから憧れや尊敬の眼差しを受けることはあっても、オジサン呼ばわりされることはなく、従って面と向かって言われたのは初めてである。
おのれ、何たる侮辱。こいつに言い負かされたりしたら、生涯悔いが残るだろう。
「オジサンっていえば、そのメガネ、もしかして老眼鏡じゃないですか」
「子供の頃から近眼なんだ。新聞の文字はよく見えるよ」
「なあんだ、てっきりそうかと思った。でも髪の毛はカツラだったりして」
「地毛だよ、有難いことに白髪もない」
「へえー。それで若さをアピールしたつもりなんですね」
「アピールしたおぼえはないけど」
ますます険悪になるムードの中、三田は嘲るように言い放った。
「だいたい、オジサンが若い男に入れ込むのって、いやらしくありませんか? 金持ちのジイサンが女の子に入れ揚げるのと同じぐらい、いやらしい感じがしますよねぇ」
いつ、誰があのバカに入れ込んだ? 若い女を金で買うようなスケベジジイと一緒にするなっ!
「しっつれい、しまぁーす」
グッド、いや、バッドタイミング。
実験室側の扉をガンガン叩く豪快なノックの音と共に、調子のはずれた「失礼します」を口にしながら、問題の人物がこちらの部屋に入ってきたのだ。
「先生、文献調査はこのページの……あれ?」
その場に三田がいるのに気づくと、結城は目をぱちくりさせた。
「結城先輩、いつの間に」
憧れの人の登場に三田の顔がパッと輝き、甘ったれた声を出すやいなや、ふさふさと目には見えない尻尾を振りながら、結城の元に駆け寄った。
「一年のおまえが何で研究棟にいるんだよ?」
「だって、先輩があんなこと言うから……」
「あんなこと?」
堪忍袋の緒が切れかかっていた私はすかさず「三田くんからキミのサークル退部の経緯に関する感動的な話をいっぱい聞かせてもらったよ」と、皮肉たっぷりのセリフを投げつけた。
「感動的な話って……」
ちゃらんぽらんのマイペース男の顔がさすがに青ざめてきた。
「先輩思いのいい後輩じゃないか。勉強が大変だから、などと言わずに、彼のためにもサークル活動と両立出来るよう、頑張ったらどうだ」
「彼のためにも」をフォルテシモにして、さらに追い討ちをかける私と、すがるような目で自分を見上げる三田を交互に見やったあと、結城は突然、廊下側の扉を開け、三田の背中をそちらの方へと押しやった。
「せっ、先輩、何?」
憐れな美少年の顔が歪んだが、それにはかまわず、
「退部じゃなくて、しばらく休部にする。それなら文句はないだろう? 部長にもそう伝えてくれ、いいな」
強い調子で念を押した結城は三田を部屋の外へ強引に追い出すと、バタンッ! と扉を閉めてしまった。
「せんぱーい、結城先ぱいーっ」
閉ざされてしまったそこをドンドン叩く音と共に、三田の悲痛な呼び声が響く。クゥーン、クゥーンと捨てられた仔犬の鳴き声のように聞こえて憐れだ。さすがに可哀想に思える。
やがてその声も、扉を叩く音も聞こえなくなり、辺りは静寂に包まれた。
お騒がせなヤツがようやく去って安心したのか、結城は疲れた様子でドカッとソファに座り込んだ。
「手荒いことをするね」
「ほっとけばいいんですよ」
余計な真似を、と苛立った表情より視線を逸らし、椅子から立ち上がった私は部屋の隅にある湯茶コーナーの前へ進むと、いつものインスタントコーヒーを淹れにかかった。
「飲むかい?」
「いただきます」
こぽこぽと電気ポットから流れ出る湯の音が途切れたあとには沈黙が広がった。
お調子者の部類に入る結城が弁明もせずに黙ってしまったのは、私の怒りを買ったと危惧しているせいだろうが、敢えてこちらから蒸し返す必要もない。
私は備前焼のコーヒーカップを彼の前に置くと、自分のカップを机まで持って行き、再びパソコンの電源を入れた。
「……窓のところに吊るしてあるのはポトスですか?」
このままずっと黙っているのもどうか、まずは無難な話題から入ろうと思ったらしく、結城はマイ・コレクションの観葉植物について尋ねた。
「その隣のやつ、見たことあるけど、名前は知らないなぁ」
シッサス・エレンダニカ。寒さや乾燥にも強く、日陰でもよく育つ種類だが、その名前を知っているとなると、かなりマニアックではなかろうか。ということは、私は一種のマニア、観葉植物オタクとなる。
「床に置いてある背の高い方、カフェとか、そういう店でよく見かけますよね」
モンステラ。その隣はフェニックス。よく見かけるということはカフェの類によく行くからだろう、もちろん女と。
「何てこった。俺、ポトスしか名前がわかんなかった。もっと勉強した方がいいですね、文献にあるかな」
植物は植物でも園芸の分野だ、遺伝学の文献にあるわけなかろう。
趣味の観葉植物ネタへの反応がない、私が一向にノッてこないので、彼はようやく雑談から本題に入る決意を固めたようだ。
「怒ってますよね」
無言でデータ入力を続ける私の背中に投げかけられた言葉に対して、代わりに答えるのはキーボードの音だけ。
「退部の理由が他に思いつかなくて……勉強が大変になったと適当に答えたら、研究室の先生が厳しいからだ、って誰かが言い出して。あっという間に、その話に尾ひれがついちゃったんです」
パチパチ、カタカタ。
「で、あいつは、三田はその、尾ひれつきの説を頭から信じたみたいで。不愉快な話を聞かせてすいませんでした」
私が厭味を言ったと吹聴していたわけではないらしい。オヤジ呼ばわりは不愉快極まりなかったが、少しだけ気分が楽になり、ようやく返事をする気になった。
「それで、退部したい本当の理由は?」
「金……です」
またしてもだ。この男には金がらみの話が多すぎる。
「サーフ&スノーか、たしかに金のかかるサークルのようだね。活動を続けるのは大変かもしれないが、それならそうと、正直に話して辞めればいいだろう?」
「そういうわけには……今の後輩たちのほとんどは俺が勧誘して入れたんですよ。活動費用が続かないから辞めるだなんて、オレたちには金を出させたくせにって思われて、しめしがつかないじゃないですか。それに、本当のことを話したせいで俺自身が引け目を感じるのも辛いし」
常に我が道を行く、自信たっぷりというより自意識過剰の男。そんな結城の、いつもの彼らしからぬ憂いを帯びた表情を見るのは初めてだった。
「本当のこと、って」
「……親父が倒れたんです」
ふいの告白に、私は返す言葉を失った。
「三月の終わり頃に脳梗塞で。でも、それほど重症じゃないんですよ。リハビリを頑張ればすぐに社会復帰できるって言われて、今はそのリハビリ中です」
「お父さんが……」
私の様子がよほど深刻に見えたのだろう、結城は慌てて「そんな、先生まで暗い顔しないで」と弁解するかのようにつくろった。
「いや、しかし、脳梗塞というのは重症じゃないのか」
「この前実家に帰って、病院へも見舞いに行ったんだけど、わりと元気そうだったし、心配はいりませんから。ただ、入院だ何だで金がかかって。学費は貯金で用意してくれてたけど、毎月の仕送りの額は期待できなくなっちゃったから、親父が復活するまでバイト代で食いつなぐしかないって」
三回生に進級したとたんに退学なんて悲しすぎる。卒業まで何とか頑張ろうと、彼はバイトの数を増やして仕事に励み、生活費を切り詰めるようにした。
その表れが合コン不参加であり、費用のかかるサークルから退部することで、それらに費やしていた時間をすべてバイトの時間に回そうとしたらしい。
「何かにつけて金、金って言ってたでしょ? 金の亡者みたいになっちゃって、我ながら情けないなぁって思います」
そう言って苦笑いする彼を慰めるのも気が引けて、私は小さな声で呟いた。
「あの賭けの四万円があれば、少しは楽になったわけだ」
「そんな、俺はまだ先生を落としたわけじゃないから、賭けには勝ってませんよ」
まあ、そういうことになるか。
コーヒーで喉を湿したあと、結城はわざと明るい声で続けた。
「でもね、親父には悪いけど、こうなって良かったと思うんです。毎月、仕送りしてくれるのを当たり前だと受け止めていた、それじゃいけないって。金を工面する両親の苦労がわかって感謝するようになりました」
殊勝に語る姿に心が動く。
「それはまあ、そうだね。キミの人生において、とてもいい経験には違いない」
私が励ますように話しかけたのが彼を調子づかせ、心の内に溜めていたらしい思いが溢れ出てきた。
「俺、得意科目が生物っていうだけで、この大学に進んだ目的とか、将来どうしよう、なんて考えがまったくなかったんです。それで何となく受験して受かって、東京や横浜に近くていいや、って軽い気持ちで入学したんですよ。だから、二年までは遊んでばかりだった。サークルにしろ何にしろ、頭にあるのは女のことだけ。それも全然マジじゃない、楽しいお遊びとしか捉えてなかった」
ドン・ファン誕生秘話というわけか。二回生までの教養課程のつまらなさも拍車をかけていたようだ。
ところが進級して専門課程となると、講義の内容が面白くなってきたのと、研究室への入室が彼を勉強に目覚めさせたらしい。
「今の俺にとって何が大切で、何をやらなきゃならないのか。三年になって、ようやくわかった気がします。楽しいですよ、特に先生の遺伝学の講義が」
「そうかな、退屈だというクレームが多いんだが。毎年のように言われるよ」
「じゃあ、先生を見ているだけで嬉しいっていうか、幸せなのかもしれないな」
歯が浮くようなセリフなど、わざと聞かないフリをするひねくれ者はいい加減なコメントを述べる男の顔を睨んでみせた。
「それは講義の内容など、どうでもいいという意味かな?」
「えっ、ち、違いますよ」
そう否定したあと、結城は眩しそうに私を見つめた。
「どうでもいい、なんて、そんなふうに思うわけないですよ。その、とてもよくわかって有意義な内容です。先生が教えてくれるから、なおさら」
「そりゃあどうも。教壇に立つ張り合いが出てきたよ」
私の反応をどう捉えたのか、立ち上がった結城が背後まで進んできた。
椅子の背もたれに手を置いて腰を屈め、パソコンの画面と、こちらの手元を右斜め後ろから覗き込むという、親しげなポーズにドキリとする。
頬にその息がかかって、さらなる緊張感が増した私はまたしても、余計なことを口にしてしまった。
「ひとつ指摘しておくが」
「何ですか?」
「これは昨日の時点で明確にすべきことだったのだが、今の我々が置かれた状況で、キスから始めるというのは短絡的ではないのかな。そこまでに至る工程をいささか端折り過ぎだと思うのだがどうだろう。キミは自分でも言っていたように、まだ私を落としてはいないのだからね」
四十男に可愛げなどあるわけない。必要以上に堅苦しい表現の物言いがいかにも理屈っぽい、理系の学者らしいが、この身に染みついてしまった口調はなかなか変わるはずもなく、予想外の言葉に怯んだ相手が身体を引くのが感じられた。
「そう……でしたっけ。すいません、昨日のアレで、てっきりオッケーしてもらったもんだと思ってたから。先走っちゃいました」
まんざらでもないから、キスを許した。そう解釈したということらしい。気まずい雰囲気が漂う。
その時、廊下を歩く複数の足音が聞こえたかと思うと、足音の主たちは揃って実験室に入ってきた。
「……でさ、時間ないから、さっさと取り掛かろうぜ」
「そうだな。早いとこデータ取っちまうか」
聞き覚えのある声はどうやら四回生の連中らしく、隣室での出来事など知る由もない彼らは軽口を叩きながら、卒論のための実験準備を始めたようだ。
たちまち気配が賑やかになり、拍子抜けしたのか、やる気を削がれたのか、コーヒーを飲み切った結城は「ご馳走様でした」と言い残して実験室へと戻ってしまった。
ぽつん、と一人、机に取り残された私を虚しさが襲った。あんな言い方をしなくてもよかったのに、という後悔の念がひたひたと押し寄せてくる。
マジゲイになった、今は先生ひと筋だと主張する結城の言葉に動揺し、意識しているのは認める。女も男も魅了する彼に、そんなふうに想ってもらえるのは光栄であり、まだまだ私も捨てたものではないと自信が持てたのも嬉しい。
だが、彼を全面的に信用したわけでも、その口説きに屈したつもりもないし、キスも、それ以上も許したおぼえはない。女タラシから一転、父親の病気という不幸にもめげず、健気に生きる姿に心が動かされているとはいえ、私は彼を恋人として認めたわけではないのだ。
いや、「認めたわけではない」などと考えるのは身勝手な驕りかもしれない。三田のようなファンはいくらでも出てくるだろうし、そんな彼らを差し置いて、師であり、親子ほど年上の私が恋人になるなど、あまりにもおこがましいことではないだろうか。
私と結城の間に恋愛感情など、存在してはならないのだ、彼の未来のためにも──
憔悴した私はタバコに火をつけた。立ち昇った紫の煙がいつもより目にしみた。
……④に続く