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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

プロフェッサーHと学ぶBLの法則 ②

    第二章  賭けの対象?

 大学の学習制度を支配しているのは単位という考え方である。年間を通して受講する履修科目のうち、この科目は何単位と定められ、ジャンル毎に設定してある幾つかの科目の中から、決められた単位数を決められた期間で取得しなければならない。

 その者に単位を与えるか否かは期末のテストや提出物、日頃の授業態度に対する評価であり、卒業までに取得できなかった者が留年という形になるわけだ。

 履修科目には必須科目と選択科目があり、その内訳は各大学、学部や学科によって異なるが、理工学部の場合、研究室に所属した上で取得するのは全て必須科目──文献調査と、卒論の呼び名でお馴染みの卒業論文である。

 卒論は四回生のみの必須科目だが、文献調査は三、四と二年連続して取り組む科目で、いったいどのようなことをやるのか説明すると、過去から現在に於いて、世界各国の科学者によって発表された研究の成果をまとめた蔵書があり、学生自身が興味を持った研究をそこから抜粋し、みんなの前で順番に解説するというものである。

 これは通常の講義と違い、時間も場所も自由で、研究室各自のやり方で行なえばよく、遺伝研の場合は毎週水曜日の昼休みに全員が集合して行なう手筈になっていた。

 その水曜日、昼休みの少し前に所用のあった実験棟を出た私はその足で、すぐ隣にある五階建ての研究棟へと向かった。遺伝研の研究室はここの四階にあり、フロアのほぼ真ん中に位置している。

 エレベーターを降りて冷たく光る廊下を進み、グレー一色に塗られた味気ない壁に沿ってまっすぐに歩く。白地に黒い文字で『植物遺伝学研究室』と書かれた札が貼り付けてある扉を手前に引けば、そこが私の城だ。

 内部は実験室と、教授が個人的に使用する執務室に分かれていて、実験室はその名の通りインキュベーター等の設備に実験器具、薬品の入ったガラス戸棚、蔵書やレポートが並ぶ書架にパソコン、白衣の掛かったロッカーなどが雑然と置いてある。

 ひと足先に集まっていた学生たちは中央に置かれた大型のテーブルを囲む丸椅子に座り、賑やかな笑い声を上げていた。文献当番は四回生から順に始まるのが通例で、自分たちには当分まわってこないとあって五人の三回生はリラックスしまくっている。よろしい、油断大敵とはどういうことかを教えてやろう。

 私が部屋に入ってきたのを見ると、彼らは口々に「ちわーっス」などと挨拶してきた。

「みんな揃って早いね。二限は何も履修していないのかい?」

「植生が休講なんですよ、休講。オレたち全員、あの講義を取ってるから」

「ああ、植物生理学か。あれは三年で履修しないと困るやつだったね」

 私はテーブルの上座とでもいうべき場所の椅子に腰を下ろした。ここが教授の地位にいる者の指定席なのだ。

 その位置から斜め右のところに結城の姿が見えたが、ヤツが意味ありげに送ってきた目配せを無視した私は「このプリントをまわしてくれ、今日の資料だ」とホッチキスで綴じたコピー用紙の束を左隣の松下に手渡した。

 そのうちに四回生たちも集まってきて、本日の文献調査が始まった。

「……以上の実験の結果、それらの特性を決める遺伝子はそれぞれ独立した関係にあり、個々の優性と劣性が出る割合は次の式によります」

 さっきまで賑やかだった室内は静まり返り、インキュベーターのモーターが低く唸る音と、発表を担当する学生が英文を訳したものを読み上げる声だけが響く。

 結城が欠伸を噛み殺したのが見えて、私はそちらを軽く睨んだ。どうせ昨夜は例の合コンにいそしんでいたのだろう。フェイク女子大のお嬢様を見事にゲット、ホテルへのチェック・インに成功したのかもしれない。軽薄な男に引っかかる女がお嬢様であるはずもないが。

 華やかな女子大生に囲まれて盛り上がっている結城の姿を想像したとたん、私は腹の底からムカムカが湧き上がってくるような、イヤな気分に襲われた。

 なぜだ? なぜ、そんな不愉快な場面を想像しなくてはならないのだ。そこまで意識を飛ばす必要などないのに。

 いや、それ以前に、結城が女たちと盛り上がっている場面を不愉快だと感じるのがおかしい。学部一のドン・ファンには日常茶飯事のはずだ。

 そうか、学食で彼が放った一言が原因だ。私をあきらめていない、などと言いながら、合コンにも参加する節操のなさが不愉快なのだ、きっとそうだ。

 評判の女タラシ──そういう男だと割り切って相手をするのが普通なのに、彼に対して「節操がない」などと腹を立てる自分にも問題があるのに、そういった点には目をつむるという、いたって自己中心的な考えを巡らせた私は結城への嫌がらせを思いついた。

 発表終了後、来週からは三回生に順番を回すと告げると、彼らは口を揃えて「げーっ」と下品な反応を示した。

「先輩たちの中で発表した人、まだ半分もいませんけど」

「何だ、文句があるのかい」

「いえ、そういうわけじゃ」

「それではこうしよう。その週の文献が終了したら、未発表のメンバーの中から四年三年関係なく、アトランダムに次週の当番を指名するのはどうかな。いつかはやらなければならないんだ、遅いか早いかの違いだろう」

「そりゃまあ……」

 不服そうな彼らを見て、ざまあみろと私は溜飲を下げた。

 これは教授を手玉に取ろうなどとする、生意気で身の程知らずの学生に対する、ささやかな報復だ。

 まあ、『ささやか』かどうかはともかくとして、とばっちりを受けた他の四人には気の毒だがこの際、犠牲になってもらおう。そもそも、研究室をサロン代わりにして、くつろいで過ごそうとすること自体、間違っているのだから。

「さっそくだが来週の当番は結城、キミだ。しっかり調査しておくように、いいね」

 有罪の判決を下す裁判官のごとく、冷淡な声音を使ってみる。

 だが、それまで黙っていた結城は顔色を変えることなく「わかりました」と答え、その反応に私は拍子抜けした。当てが外れたという気持ちでいっぱいになり、そいつがまた苛立ちを増幅させた。

 来週もこの時間に集合、と解散を告げると、ぶつくさ言いながら学生たちは席を立った。

 食堂へ向かう者、次の講義のため校舎へ戻る者、アルバイトに出掛ける者と、それぞれ離散していく中でただ一人、結城は立ち上がろうとはせず、北側の壁際に置かれた書架をぼんやりと見ていた。

「文献かー。どっ、れにしようっ、かなぁー」

 奇妙なリズムをつけながら呟く姿をわざと視界に入れないよう努め、私は辺りを慌ただしく片づけると、テーブルの傍から立ち去ろうとした。

「先生、待ってくださいよ」

 すがるような声で呼び止められる。その言葉を待っていたのか否か、自分でもわからないまま、私は足を止めた。

「……何かな?」

「お薦めの文献、ありますか?」

「レストランのメニューじゃあるまいし。お薦めかどうかは自分で判断したまえ」

 はあ、と覇気のない返事をすると、のっそりと立ち上がった長身の男は棚からぶ厚い本を取り出した。深緑色の背表紙に金色の箔押し英文字が入った、幾多の文献の蔵書だ。

「うへー、全部英語で書いてある」

 当たり前だ。

「挿絵が何もないじゃん」

 子供向けの絵本ではない。

「辞書で単語の意味を調べるところからやらないと」

 先輩たちは皆、やってきたことだ。

「頭痛えなー、これ」

 ようやく期待していた反応を得た私はつい、口を滑らせた。

「合コンに賭けるエネルギーの半分も使えば簡単に済むはずだ」

 すると、こちらを向き直った結城は「もしかして妬いてる?」などと言い放ったため、まずい、突っ込む隙を与えてしまったと焦りをおぼえながらも、私はとぼけて訊いた。

「ヤく? 何を?」

「俺が合コンに行って、女の子たちとヨロシクやってたんじゃないかって、そういう意味ですけど」

「バカバカしい。どうして私が……」

「その心配なら無用ですよ。合コンには行かなかったから」

 どういうことだと問うと、男性側の頭数を揃えてのセッティングまでは行なったが、実際に参加したのは松下たちで、結城自身は顔を出さなかったらしい。

 嬉しいような、ホッとしたような、奇妙な感覚に襲われつつ、それでも私は「それは相手の女性たちに対して失礼だ。幹事として無責任じゃないか」と正義を振りかざした。

「そりゃまあ……」

「みんなキミが来るのを期待していたんだろう。その気持ちを裏切るなんて」

「やっぱり先生は律儀ですねー。さすが、俺の見込んだ人だ」

「話の争点をずらすな」

「参加したいのはやまやまなんスけど、今、全然金持ってないんですよ。大した金額じゃないけど、そいつをひねり出すのも大変なんで。もっとバイト増やそうかな」

 予想外の答えが返ってきて、私は呆気に取られた。

「フェイクのお嬢さんたちは値段の張る店しか行きませんからね。男連中には悪いことしちゃったかな」

「そうだ、それだって無責任だぞ」

 でも、と結城は私の顔を見つめた。

「金があったとしても、やっぱり参加しなかったと思います。だって今の俺、先生のことで頭いっぱいだから」

 ドキリッと心臓が高鳴る。動揺を面に出さないようにするのが精一杯の状態で、私は彼から視線をはずすと、わざと冷たい口調で告げた。

「賭けは取り止めになった、私を口説いてどうこうする必要もなくなったわけだ。それなのにいつまでもこだわるなんて、女性をこよなく愛するキミらしくないな」

「こよなく愛したのは過去の話ですよ」

 過去の話か、やれやれ。若干ハタチ程度で過去とは恐れ入る。

 結城はますます熱っぽい口調で訴えた。

「オレ、先生と運命的な出会いをして、人生観が変わりました」

 そんなセリフを真顔で言うな、恥ずかしい。

「最初は金目当てっていうか、賭けがきっかけだったのはたしかだし、女の子も同時進行でオッケーのはずだったんだけど」

「ふうん。バイセクシャルにでも趣向変えしたと言いたいのかな」

「それがバイからマジゲイへ進化しそうな勢いですよ」

「進化? 何なんだ、それは」

「先生を追っかけているうちに、すっかりマジになっちゃって。まあ、俺の場合、相手に対するこだわりってあんまりないから」

 その感覚が守備範囲の広さに影響しているのだろうが、まさか性差にもこだわらないとは、あまりにもアバウトではないか。

「とにかく今は先生ひと筋。他は考えていませんから、どうか安心してください」

「安心って……」

 あっけらかんと言ってのける、その様子は飄々として、私は何をどうしたらいいのかもわからずに混乱していたが、我が脳裏にはどういうわけか、いつぞやテレビで目にしたアニメのキャラクターが甦っていた。

 たまたまチャンネルを合わせたところ、放映していたそのアニメではオタマジャクシを模したキャラクターが「何なに進化!」と叫んだとたんに、カエルになった。

 オタマジャクシがカエルに進化することで、より強力なパワーを得るという話らしいのだが、ならばバイからゲイへと『進化』した彼は女性への興味を失い、その反対に、私に寄せる関心がより強力になった、ということなのだろうか。目の前の色男がカエルに見えてきた。

 ともかく、このままノーコメントでいるのも癪に障ると口にしたのは大学教授らしい、それでいて的外れなセリフだった。

「そういう状態は進化とは呼ばない。敢えて言えば変化だ。とても遺伝学を専攻しているとは思えないな、言葉の用い方に気をつけるように」

「変化か。たしかにそうですね」

 とんちんかんな発言にも関わらず素直に同意し、ひとしきり頷いた結城はそのあと、グイッと顔を近づけてきた。

「ところで先生に質問。ナオヒコさんって誰ですか?」

「ナッ……?」

 爆弾が破裂したような衝撃を受けて、私は腰を抜かしそうになった。

「あ、びっくりしましたね。やっぱり、ワケありの人なんだ」

 結城の表情から目が離せないまま、私は喘ぐように尋ねた。

「どっ、どうしてその名前を?」

「知りたいですか?」

 彼はふふんと笑うと、実験室と隣室を仕切る壁に設けられたドアを指さした。

「なるほど、そこから侵入して……」

「人聞きが悪いなぁ、ちゃんとノックして入りましたよ。寝ちゃってた先生が気づかなかっただけです」

 先にも説明したように、研究室は二つの部屋から成っており、執務室には大きな事務机やら講義の資料、専用のパソコン、専門書の並んだ棚、疲れた時に横になれる、ベッド代わりの長いソファなどが置いてある。

 その他には私の個人的な趣味で観葉植物の鉢が数個、床に置いたり、窓枠に掛けて吊るしてあったりするのだが、仕事の合間にこれらのグリーンを眺めるのが無趣味な私にとっての、唯一の癒しだった。

 劇薬を含めた薬品用の戸棚の鍵、個人の貴重品などは机の引き出しに入れ、そこに鍵をかけて所持するため、部屋そのものに施錠はしない。つまり、学生たちは私の部屋へいつでも自由に出入りできるのだ。

 そういえば、ここのところ疲れていたせいか、つい最近もソファでうたた寝してしまったことがあった。

 寝言で口走ったナオヒコという名前をたまたま彼が聞いていたのか。何とまあ、間の悪い……

 冷静沈着なはずの私の狼狽ぶりを楽しむように眺めながら、結城はたたみかけてきた。

「先生の寝顔が拝めて最高だったな。でも、ナオヒコさんには妬けましたよ、あんなに何度も呼んでもらえるなんて。よっぽど好きなんですね」

「違う! 彼はそういう相手ではない。学生時代からの無二の親友で……」

 言い訳をすればするほど、泥沼にハマッていくのがわかる。

 日立尚彦、私の人生においてもっとも長く関わり、紆余曲折を経て、けっきょく四年前に別れた最後の恋人……

『結婚が決まったんだ。三十代も後半に入ったオレたちにとって、いつまでもこんな状態が続くわけはない。それはおまえだって、よくわかってるだろう』

 何も答えず彼に背を向けると、真っ赤な夕陽が目に映って、たまらなく切なかったあの日──

 一番近い過去を引きずっているだけなのかもしれないが、まったく未練がないといえば嘘になる。夕陽を見ると今でも胸が痛くなる、私の人生に於いて最大のトラウマだ。

 そんな経緯など知る由もなく、結城は自信たっぷりに続けた。

「今さら隠さなくてもいいですよ。ナオヒコさんの存在を知ったから、俺には確信が持てた。何かわかりますか? そう、先生がマジゲイだってこと。エリート教授が四十手前まで独身の理由も判明しました」

 羽鳥準一には同性愛の下地がある──当人が異性愛者ならば、男である自分に口説ける見込みはないが、同性愛者とわかったからには、他に相手がいたとしても何とかなるかもしれない。結城はそう考えたのだ。

 彼にとって、松下たちとの賭けはまるっきり勝ち目のない勝負ではなかった。勝てる可能性を試算していたのだ。

 こちらが思っていた以上に、したたかな若僧に内心舌打ちしながら、それならばと私は開き直ることにした。

「この私の秘密を握ったというわけか」

「別に恐喝したりしませんから」

 そう言って結城は薄笑いを浮かべた。

「ナオヒコさんに勝ちたい。俺が先生にとってのナンバーワンになりたい。ま、そんなところです」

 尚彦に勝ってナンバーワンになる。それは彼を蹴落とし、私の恋人の座に就いて愛情と信頼を勝ち取ること。

 そんな結城の宣告をそのまま受け止めるなど、どうしてできようか。魅惑的な若者の言葉に浮かれ、動揺している場合ではない。私は師として彼を教え、導く立場にある者なのだ。

 それに、そのセリフを額面どおりに捉えていいものかどうか、まだ疑問が残る。タラシとして名を学内に知らしめた、ここまでの所業を考えれば信用ならないのは当然だ。

 ひと筋なんて口から出任せに過ぎない、マジゲイ宣言は隠れ蓑で、女との二股三股は当たり前だと勘繰ったとしても、私を責める者はいないだろう。

「随分と殊勝な心構えだね。まあ、せいぜい頑張りたまえ」

 白けたフリをして背中を向けた私の手をむんずと捕まえると、結城は身体を抱き寄せてきた。これぞ若さゆえの性急な行為か。

「何の真似だい?」

「俺から先生への愛情表現です。ナオヒコさんへの挑戦です」

 寝言を聞いて以来、彼は今でも私と尚彦がつき合っていると思い込んでいるようだが、そこらは黙っていよう。

「とりあえずはキスから始めましょう。すぐに虜にしてみせますよ」

 キスから始めるだと? 

 いつもこんな手を使っているのか。物事には順序というものがあるのに、いきなり飛躍している上に虜だなんて思い上がりも甚だしい。

 だが、有無を言わさず唇が押し当てられ、その熱さ、柔らかさに、私は抵抗する術を忘れていた。こちらの口中に入り込み、激しく絡んでくる舌をどうすることもできず、なすがままになる。

 押し寄せてくる久々の快感に頭の芯が痺れてしまい、気がつくと十分以上もキスされていた。しまった、予告どおり虜になっているではないか。

「……俺、けっこうねちっこいって言われますけど」

 唇に付着した唾液を掌で乱暴に拭き取りながらの、なかなかにいやらしい場面で爽やかに語るこいつが憎らしい。

「そうみたいだね」

 すっかり相手のペースに引きずり込まれているが、抵抗も反論も大人げないし、この際取り乱すことだけは避けたいと、私は気を静めて答えた。

「テクニックはなかなかのものでしょう?」

「さあ。よくわからないけど」

「ねちっこいのとあっさりしたの、どちらが好みですか?」

「ケースバイケースだな」

「じゃあ、これからもねちねち路線でいきますから覚悟してください」

 これからも、だと? 

 私はこの男とこんなふうに、じわじわと関係を深めていく羽目になってしまうのか。十八も年下の、研究室の教え子と──

 本気にしてはいけない、本気になるのはなお、まずい。惹かれていく想いと、それはいけないと抗う気持ちが交差して、頭も身体もおかしくなりそうだ。

 数多の不安にかられた私の耳に、昼休みの終了を告げるノー天気なチャイムの音が流れ込んできた。

                                 ……③に続く