第八章 恋わずらい
月曜早々、今度の試合のチーム編成が練習開始前に発表された。
高等部のAチームは先鋒と副将が三年、次鋒と中堅が二年生で、たいていの場合、いちばん強い人を配置するという大将は予想どおり加賀美先輩だった。ヘボの真辺は補欠にも入っていない。ざまあみろ。
対するBチーム、小次郎が先鋒というのはあの強烈なキャラをもって初っ端から相手を威嚇するという意味合いがあるのだろう。大将すなわちトリを務めるのはもちろんこの僕で、Aチームとあたった時は加賀美先輩と戦うことになる。絶対に負けてなるものかとファイトが湧いてきた。
そう、僕を惨めな思いにさせた人に一矢を報いてやる……って、今はそれほど惨めだとは思っていないのに改めて気づく。
先輩が後悔を口にしたこと、それに小次郎との間に生まれた秘密の関係が僕の気持ちを軽くしていた。
「よう、佐久間。常聖の核弾頭の名に賭けていっちょ頼むぜ、先鋒」
「そうそう。栄光の連中にガツンッとかましてやってくれよ」
一年の仲間たちが小次郎の肩やら背中やらを楽しそうにポンポン叩いている。
入部当初はとんでもない発言の数々で顰蹙を買った彼だが、別に悪気があったわけではなく、深く考えていないだけ。本来は気のいい人物とわかってからはすっかり人気者になっていた。それにしても核弾頭呼ばわりされていたとは。思わず苦笑いしてしまう。
「おうっ、俺様に任せておけ。おまえらは大船に乗ったつもりでいろよ」──そんなセリフが返ってくるのを誰もが期待していた場面だったのに、当の小次郎ときたら黙ったまま何の反応もない。魂が抜かれたかのように虚ろで覇気のない顔をしていた。
「おい、ぼんやりしてどうしたんだよ? 心ここにあらずって感じだぞ」
「えっ? あ、ああ、悪りィ。ところで何の話だっけ?」
呆れ返った仲間たちがBチームメンバー決定の件だと話すと、
「へっ? あ、そうなんだ。俺が先鋒って決まったんだ」
加賀美先輩の説明をまったく聞いていなかったらしい。
何やってんだと小突かれた上、
「こいつさ、授業中いっつも居眠りばかりしていて先生に怒られてるんだけど、今日は『珍しく起きてるかと思えば聞いてないのか!』ってんで、もっと怒られてた」
小次郎と同じクラスのヤツがそんな話をすると、みんなしてゲラゲラと笑ったが「何だと、てめえらっ」などという反撃もなく、小次郎は相変わらずボケッとしたまま、あらぬ方向を眺めている。
「マジでおかしいぜ。こりゃあ熱でもあるんじゃないの?」
「バカはカゼひかないっていうけどさ」
「じゃあ、もしかして恋わずらい?」
「えー、まさか」
そのとたん、小次郎は身体をビクリとさせた。それから恐る恐るこちらに視線を走らせたあと、慌てた口調で「うるせえ、黙れ」と言い、仲間たちの元を離れてこちらに近づいてきた。
恋わずらい、か。見当はついていた。金曜日の夕刻の出来事を引きずっているのだ。初心で純情な彼らしい反応だ。
さっきから僕をまともに見ることができずにソワソワしていたと思えば、チラチラと盗み見をしたり、わざとらしくしらん顔をしたり。
わかりすぎるリアクションに笑いをこらえながら、防具の紐をほどく作業に集中するフリ、聞いていないフリをするのも大変だ。
「あ、あのさ……」
こわごわ話しかける小次郎の声に、そこで初めて彼の存在に気づいたようなポーズをとった僕は「なに?」と、無関心を装って訊いた。何ともしらじらしい。
「いや、その」
「何か用があるんじゃないの?」
意地の悪いツッ込みだと、我ながら思う。
「や、やっぱりいいや」
何らかのアプローチをしてくるのかと期待していたのに、こうもあっさりあきらめるなんて、腰抜けめ。
内心舌打ちしているところに、加賀美先輩がやってきた。
「あ、宮里。ちょっと話がある……んだけど」
聞かれたくない話らしい、先輩が警戒するような目で小次郎をチラッと見たので、彼はすごすごと引き揚げた。勇気を出して来ただろうに、ちょっと可哀想な気もする。
「話って何ですか?」
「うん……それが」
会話が耳に届かない位置まで小次郎の背中が離れたのを確認すると、先輩はおもむろに切り出してきた。
「じつはキミと佐久間の関係について、少し確認したいと思って」
「はあ?」
てっきり試合関連の話だと思っていた僕は間の抜けた声を出してしまった。
またしてもこのパターンか。毎度のことだけど、練習開始前の慌しい時間に、それも武道館内で話す内容じゃない。
「キミたちはどういう関係なのかな? つまりその、二人はつき合っていて、それで中華街へデートに出向いたんじゃないのかと」
「僕と小次郎が特別な関係にあると言うんですか?」
「ほら、親しげに名前を呼んでいるだろう? キミは下の名前で呼ばれるのはイヤだと、ボクにも言っていたはずなのに、彼には武蔵と呼ぶのを許している」
中華街で偶然会ってからというもの、僕と小次郎の関係を邪推した先輩は明らかに嫉妬している。まさか、その後深い仲になったとは知らないだろうけど、男の勘でピンとくるものがあった可能性もある──これは面白くなってきた。
『そんなわけないでしょ。横浜名所案内なんて、ただの友達が相手でもやることだし、呼び方ぐらいで勘繰りすぎですよ』
などと否定するのは簡単だけど、その対応は先輩を安堵させるだけで、あまりにもつまらない。
ならばもっとジェラシーを煽ってやろうじゃないかと、僕の中の悪魔が囁き、脳細胞は猛烈な勢いで考えを巡らせ始めた。
「もしもそうだとして、それが先輩にとって何か不都合でもあるんですか?」
「不都合って……」
目を泳がせ、しどろもどろになる様子に、常聖の生徒会長サマの威厳はどこにも見当たらない。
やがて先輩は何かを決意したように「不都合は……あるよ。さっきみたいに、その、佐久間がキミに接近しているのを見るだけで胸が痛いんだ。自分勝手だって、それはわかっている」などと言ってのけた。
自分勝手だと? その言い草は勝手すぎるだろうが。接近どころか、キスシーンを見せつけられた(実際には見ていないけど)僕の心の痛手はそんなものじゃなかった。
中華街以外にもあちこちでデートしていたことぐらい察しがつくし、あっちの関係だって頻繁だったはずだ。
「前にも言ったけど、ボクは後悔しているんだ。虫が良すぎるのはじゅうぶん承知しているつもりだけど、もしもできることなら、キミとは元通りの関係に戻りたいって」
元通りということは、真辺と別れて僕と復縁したい、そういう意味だよな。何を今さらという怒りが湧き上がる。
『ほかに好きな人ができたんだ』
──そう告げられた春休みのあの日、泣きながら帰り道を歩いた時の、身を切られるような辛さがあんたにわかってなるものか。それを今になってヨリを戻したいなんて、ふざけんなっ!
なんて、罵りたいのはやまやまだけど、感情的になってはいけない。反論は山ほどあるけど、僕は冷静さを失わないよう、黙って聞いていた。
僕の良さを再認識した、床上手よりも下手っぴの僕の元に戻りたいと思った、その決め手は何だったのか気になるし確認したいところだけど、ヘタに訊いたらこちらも復縁を望んでいると受け取られかねない。
冗談じゃない、僕はもう一度先輩とつき合うなんて気はさらさらない。
別れた直後はたしかに未練たっぷりだったし、あてつけのつもりの行動もとったけれど、今やそんな気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。吹っ切れたってやつだ。
ただし、本心をそのまま告げるつもりはなかった。だから──
「元通りになれると思っていますか?」
「やっぱり……無理かな?」
僕はこちらを窺っている二人に──小次郎ともう一人、ありったけの憎しみを込めて僕をねめつけている青白い顔に──ゆっくりと視線を回したあと「考えておきましょう」と答えた。
「本当かい?」
曇っていた顔立ちがパッと輝いた。まさにピッカピカのイケメンだ。
「ええ。ただし、考えるだけで終わるかもしれませんから、そのつもりで」
冷たく返した僕は背中を向けた。
元の鞘に納まるはずもないけど、せいぜい気を持たせてやろうというこの作戦、これで先輩と真辺の関係に大きな亀裂が生じることは間違いない。僕たちの仲を引き裂いた真辺に対して復讐を終えた気分に浸る。
この先、はたして二人がどんな修羅場になるのか、どんな顛末を迎えるのかお楽しみに、などと気楽に考えていた僕はそれがとんでもない事件の引き金になるとは思ってもみなかった。
……⑨に続く