第八章 フォールン・エンジェル ――叶わぬ願い
翌日、仕事を終えて表に出ると、夕闇迫る街路に水銀灯が灯り始めていた。
グレイのスーツ、いつものバッグを提げた建樹はH駅までの道程をおぼつかない足取りで歩き、しばらく行って振り返っては、そびえ立つビル群を眺めた。
城銀の本丸──将和がそう呼んだあの場所で、何度もパソコンの前に座り、辺りを見回しては冷汗の滲んだ掌を見つめ、肩で息をついた。
USBメモリを持ち込もうとしてはためらい、コードを入力し、ワシヅの文字をタイプしようとして指を止めた──
そのメモリは今、バッグの底に眠ったままだ。これで良かったのだという安堵感と、明日はどうなるのかわからない不安定な気持ちが彼にバランスを失わせている。
僕はいったい、どうすればいい……
「姫野さんじゃないですか」
ふいの呼びかけに驚いてそちらを見ると、黒い車体の後部座席から見知った顔がのぞいている。鳶島将和の秘書、羽田だった。
「今お帰りですか」
「え、ええ」
どうして彼がこんな場所にいるのか?
黒い服を着た運転手と、助手席に座った、これまた黒いスーツの若い男を従えているが、将和の姿はない。
秘書は主君と別行動をとってはいけないという決まりはないが、どこか不自然な感じを受けた。
「せっかくですから送って行きましょう。乗ってください」
「い、いえ、それには及びません。ここから駅はすぐですし……」
羽田の申し出をやんわりと断ったつもりだが、相手は簡単には引き下がらなかった。
「そうおっしゃらずに、よろしかったらお宅までお送りしますよ」
羽田の言葉が終わらないうちに、助手席の男が車から降りてきて、建樹の前に立ちはだかった。
身長が二メートル近くあるのではないかと思われる大男で体格も良く、屈強の若者という表現がぴったり合う。仏頂面をしたその若者は有無を言わせない態度で建樹を後部席に押し込め、彼が助手席のドアを閉めると同時に、車は急発進した。
「……何の真似ですか?」
建樹は隣に座る羽田に、声を荒げて詰め寄った。
「ですから、お宅まで……」
「結構です、降ろしてください」
羽田はメガネの奥の瞳を冷たく光らせて、ふふんと笑った。品のいい知性派だった男の豹変を目のあたりにすると、建樹は背筋が寒くなった。
「いや、手荒なことをするつもりはありませんが、私共の話を聞いた上で、要求を飲んでいただきたいと思いましてね」
「要求?」
車はH駅とは反対方向の国道に出て、西に向かって走り始めた。
バッグの持ち手を強く握りしめ、建樹は座席に身を深く沈めた。いったいどこへ連れて行かれるのか、何が待ち受けているのかという不安と恐怖に支配されて、身体が小刻みに震える。
「なに、簡単な取引ですよ。貴方の鞄の中にあるものを渡してくれればいい、それだけのことです」
「鞄の中のもの?」
「しらばっくれるのはよしましょう。貴方は鷹岡さんに頼まれて、鷲津土建の情報をそこに入れた。そうじゃないんですか?」
それを聞いて、建樹は羽田の行動の意味を把握した。
鷲津土建への金の流れ、その情報を欲しがっているのは恒星だけではない。将和もまた、同じ目的のために欲しているのだ。
未来の義弟の存在に将和は脅かされていた。恒星に先を越されてはならない、それは将和自身の、社長への道が閉ざされてしまう羽目になりかねないからだ。
恒星が建樹を使って、城銀コンピュータ内のデータを手に入れようとしているらしいと知った将和が羽田たちに先回りさせて、建樹を車内に監禁するよう命じたのだろう。
だが、どうやって建樹のバッグにメモリが入っていることを知り得たのだ。恒星が将和あるいはルミに漏らしたとしか考えられないが、彼がそんなヘマをやらかすだろうか。
考えがそこまで辿り着くと、建樹の抱いていた恐怖は薄らぎ、代わりに疑念が湧いてきた。何か裏がある……
「しかし、貴方も愚かなことをしたものですね。城銀の行員といったら大層なエリートでしょう。どんな部署にいたとしても、真面目に働いていれば食いっぱぐれのない、安定した一生を送れるというのに」
無言のままでいる相手に苛立ってきたのか、羽田は饒舌になった。
「そこまでして彼に尽くすとは愛人の鏡ですよ。ヘタな女より、男の方がよっぽど情が深いらしい。女は計算高いですからね」
男の愛人──
カプリコーンでの会話で、気づかれているとは薄々感じていたが、やはりそうだった。
「おとなしく言うことを聞いた方が身のためですよ。貴方が男と愛人関係にあるだなんて、お母上や同僚の皆さんに知られたくはないでしょうから」
ゲイだとバラされたいのか。今度はそっち方面からの脅迫かと、建樹は唇を噛んだ。
帰宅ラッシュの時間帯とあって、車の流れは滞りがちになってきた。チッと舌打ちした運転手は裏道をまわろうと考えたのか、ウィンカーを出して左折した。
ほとんど通行車両のないその道に曲がった時、バックミラーに映るライトに気づいて、建樹はハッとした。
物凄いスピードだ。他に後続車はなく、ライトが──大型のオートバイだけがぐんぐん迫ってくる。オートバイは車と横並びになり、次の瞬間、乗っていた男は運転しながら、こちらのドアを蹴り上げた。
バコンッ、キキーッ! と派手なブレーキの音を上げて、黒い車体が回転するように止まると、オートバイも前にまわり込むようにして停止した。
ヘルメットを脱いで降りてきた男はさらに、自分がへこませたドアを叩いて叫んだ。
「建樹を返せっ!」
「かっ、一耶?」
オートバイの男はもちろん一耶だった。元暴走族とあって、こういう無茶苦茶はお手のものらしい。
羽田と助手席の男は車を降りると、突如現れた邪魔者を取り囲んだ。が、一耶につかみかかろうとする若い男を制止して、羽田はあくまでも紳士的な態度で「成瀬一耶さんでしたね。これはいったいどういうおつもりですか?」と訊いた。
「やっぱり、あんたらだったのか。随分と汚いマネしやがって、親分はどうした?」
いきり立つ一耶に対して、羽田は冷静な態度を崩さない。
「汚いマネとはとんだ言いがかりだ。もっと友好的に話し合いましょう、ドアの修理代を請求したりはしませんから」
「黙れ! さっさと建樹を返さないと……」
「返さないと、どうします? 貴方に何ができると言うのですか?」
「てめえっ」
野生の獰猛さを露わに、羽田に殴りかかろうとする一耶だが、
「もう、いいよ」
「建樹! 無事で……」
安堵した表情で何かを言いかけた一耶に黙っていろと合図を送ると、建樹はバッグの中からメモリを取り出して、羽田の前に突きつけた。
「一耶の仕出かしたことはこれで勘弁してください。それから僕の周囲についても、すべて穏便に取り計らっていただけると約束してくださいますか?」
「……いいでしょう」
差し出されたものを受け取った羽田は思いのほかあっさりと引き下がり、彼らが乗り込んだ黒い車はそのまま走り去った。
テールランプが見えなくなると、一耶は恐る恐る口を開いた。
「建樹、あのUSBは?」
「ああ。心配しなくてもいいよ」
建樹はそう答えると、不思議そうな顔をする一耶に向かって微笑んでみせた。
「あれは空っぽ。何のデータも入っていないから安心して」
「じゃ、じゃあ……」
「そんな大それたこと、僕にできるわけがないじゃないか。パソコンの前で、ずっと迷っていたのは事実だけどね」
強張っていた頬をようやく緩めた一耶だが、「でも、データが入ってないってわかったらあいつら、また何かやらかすんじゃないのかな? 心配だよ」と不安げに言った。
「どちらの手元にもデータは入らないとわかれば、お互い様で諦めるだろう」
恒星にもデータを渡す気はなかった。羽田の本性を見せつけられてなおさら、秘書なんぞになれなくたって構わない。鳶島建設に絡むいざこざには一切関わらないと決めた。
「助けに来てくれるなんて思っていなかった。ありがとう」
素直に礼を述べる建樹を見て、一耶は照れ笑いを浮かべた。
「久しぶりの有給なんで、気晴らしにツーリングでもと思ったけれど、やっぱり建樹が気になって、こっちまで来てみたんだ」
H駅付近で仕事帰りの建樹を待ち受けていた一耶は怪しい黒塗りの車を目撃し、そこに建樹が押し込まれるのを見て、慌てて追いかけてきたのである。
「ツーリングか。もしかして僕を乗せてくれるの? 楽しみだな」
「えっ、あ、それはもちろん」
一耶は思わぬ申し出に戸惑った様子で、それでも、愛情の込もった視線に自信をつけたらしい。
「けど、その前に決着をつけに行ってもいいかな?」
「オッケー。オレも早くそうしなきゃって思ってたんだ。お供しましょう」
◆ ◆ ◆
いつものように紫のライトが照らす店で、バーテンダーがシェーカーを振っていた。
「今夜で閉店?」
「はい。ご愛顧ありがとうございました」
「そう。残念だね」
あの日と同じように一耶と建樹はカウンターの前に座っている。
何もかも、初めて出会った時のようだ。もう、後戻りはできないのに……
「せっかくだから、オリジナルなんかどう?」
「チナールをたっぷり入れるのは勘弁して欲しいね」
軽口を叩きながらもしみじみとする建樹を見て、一耶は優しく微笑んだ。
やがて扉が開き、黒ずくめの格好をした男が現れた。
ストゥールに腰を掛けると、恒星は一耶に向かって「あんたの勝ちだな」と表情を変えずに言った。
「勝ったなんて思っていません」
「ほう」
挑むような目をし、語気を強めた一耶はそれから、
「それより、城銀の行員である建樹に近づいた理由がよくわかりましたよ。建樹の立場を利用する目論見があった。最初からそのつもりでいたんですね。危うく姉の二の舞になるところでした」
「なかなか言うな。だが、利用するなんて人聞きが悪いぜ」
「さっき彼がどういう目に遭ったのか、わかってるんですか?」
これまでの、鳶島将和とその一派たちとの関わりを話したあと、一耶はきっぱりと言い切った。
「貴方の危険な賭けに建樹を巻き込まないでください」
すると恒星は無言のまま奥のテーブルへと進み──いつぞや恒星がルミと一緒に座った席──その裏側に貼り付けてあった黒い小型の機械を剥ぎ取ると、革靴で踏み潰した。
「この機種の感度なら店中の音が拾える。なかなかやってくれるよ、あの女狐は」
「盗聴器……なるほど。そこに仕掛けてあったんですね」
将和たちにすべてが筒抜けだった理由も、何もかも納得がいったと建樹は思った。
「最後にひとつ、教えてください」
一耶の眼差しを跳ね返すかのように、恒星は彼を真っ直ぐに見た。
「それでも姉を愛していましたか?」
「……ああ」
「ずっとその言葉が聞きたかったんです。良かった、肩の荷が下りた」
「だが、一番じゃない。今はもう……」
「わかっています。ともかくこれでオレの理由探しの旅は終わりです」
ふっと静まり返り、いつもと同じ空間に戻った店内にはあの時と同じように『TWILIGHT MOON』が流れていた。
「今夜もバーボンにしますか?」
バーテンダーが声をかける。
「もらおうか。いや、ロックじゃない。ソーダ割にしよう」
ぼんやりとタバコをくわえながら、恒星は思い出話を語るかのようにひとりごちた。
「……やっぱり、ニューヨークへ行くべきだったのかもな。ジャズに埋もれて、飽きるほど聴いて。星にはならなくても、もっと別の生きる道があったかもしれない」
ゴールマンの奏でるサックスに合わせて、別れを歌うヴォーカルが物悲しく響く。
建樹は聞き取れない声で何かを呟いた。
恒星の耳には届かなかった。
「……さてと、俺は先に帰らせてもらうぜ」
後始末には社の連中が来るから、任せておけばいいとカウンターの中に告げたあと、去り際に振り向いた恒星は名残惜しそうに建樹を見た。
「本当は二の次なんかじゃなかったんだぜ、お姫様。じゃあな」
バタンと扉が閉じて、途切れていたジャズが、リズムを刻む音が再び聴こえてくる。
扉の向こうに消えた男の後姿を、もう二度と見つめることはない彼の残像をこの目に焼きつけながら、不思議と涙は出なかった。
……⑨に続く