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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

ロング・ヴァージョン ⑦

    第七章  デプス・ボム ――口説き文句

 三月も終わりが近づいてきた。いよいよ年度末の月末という、金融機関にとっては一年のうちで最大の山場を迎えるのだ。

 企業も公的機関も、そして個人においても決算、一年間の締めくくりの月である。取引先への送金やら、大学の入学金等、いろんな種類の金が大きく動くというわけだ。

 このフロアも朝から殺気立っている。受け付けた伝票をひとつ残らず、それもミスのないように素早く送らなくてはならない。

 朝礼でセンター長の訓示を長々と聞かされたあと、建樹は所定の席に着いて仕事に取りかかった。

 営業店が登録した未処理伝票の、現在のトータルを示す電光掲示板の文字、その数値がみるみるうちに膨れ上がって、見る者を圧迫する。早くやれと急かされているようで、心臓にはよろしくない。

 人々は画面を見つめてキーボードを叩き、時折内線電話が鳴り響くだけで、大勢の人員がいるわりには不気味なほどに静かだった。

 だが、それは昼までのことで、午後三時をまわると俄然、騒がしくなる。城銀本支店以外の金融機関に送金できる時限の締め切りが迫ってくるからだ。

 駆け込みやゴリ押しで登録された伝票を大急ぎで処理、一分一秒の綱渡りが繰り広げられていたその時、一本の電話がかかってきた。ある営業店の担当者からで、登録ナンバーを告げる伝票を見てくれと言う。

 送金済みの伝票も照会可能だ。画面に映し出された文字を見て、建樹はハッとした。

 高井北支店と高井支店? 

「支店名が……」

「先程あちらから連絡がありましたが、仕向け口が違いますよね」

 顧客が伝票に書いた銀行名や支店名と、実際に送金した宛先の名前が違う仕向け相違は場合によってはその日のうちに指定口座への入金ができなくなる非常事態を招く。

 このセンターにおいて最悪の、もっとも犯してはならない重大ミス──それを処理したのは建樹自身だった。間違いに気づかないまま、処理完了のキーを押してしまったのだ。

「大変申し訳ありませんでした。只今からすぐ、訂正の手配をしますから」

 全身の血の気が引いているせいか、彼の意識は朦朧としていた。手が震え、受話器を取り落としそうになる。担当者との受け答えを続けるのが精一杯だった。

 いったい何をやっていたのか……処理時間の記録からして午後二時頃だ。

 先日からの度重なるショックで頭がおかしくなっていたのか。余計なことを考え、上の空で仕事をしていたとでも? いや、まさか、そんなバカな……

 この失態を報告すると、話はたちまちのうちに上層部へと伝わり、その日の業務が一段落したあと、建樹はセンター長の席の前に立たされ、延々と説教を食らう羽目になった。

「……うっかりミスとは、いったいどこに目をつけていたんだ、まったく。こんな低レベルのミスをやらかすなんて、駅前支店の元ホープが聞いて呆れるよ。君には期待していたのに残念だな、失望した」

「申し訳ありません」

 噂どおり、彼はねちねちと厭味を言う男だった。四月中旬から始まるペイオフ関連の新規業務の担当に推薦しようと思っていたが、他の者に任せることにしただの、グループに三人配属される予定の、新入社員教育からもはずれてくれ云々。

 その度に建樹は頭を下げ、自分の非を詫びた。始末書を受け取った時も、それを提出したあとも、嫌がらせとも思える皮肉が延々と続いた。

「あそこまでしつこく言うなんて、ちょっとひどいわよね。この仕事、誰だってミスはつきものよ」

 席に戻ってきた建樹に、彼に同情した同僚たちが慰めの言葉をかけた。

「仕向け相違って言っても、初めて起きたことじゃないし、前に山口さんがやったときにはそれほどお咎めなかったんだから」

「姫野さんの人気に嫉妬してるんですよ、きっと。あのルックスであの性格じゃ、嫌われて当然なのにね」

 若手女子行員が美形の男子行員を持ち上げる。ファンだと公言する彼女以外にも建樹に好感を持つ者は大勢いたが、あの人は高嶺の花、彼ほどの男に恋人がいないはずはないと決めてかかっているため、言い寄られる場面はなかった。

 どちらにしても、そんな女性たちの反応がセンター長の妬みを煽っていると言い切れなくはない。かなりの女好きだと聞いている、モテる部下が羨ましくて仕方ないのだろう。

「でも、ミスはミスですから」

「またぁ、そんなに恐縮することないですよぉ。姫野さんはここで堂々としていればいいんですってば。メゲずに頑張ってください」

 ここで頑張る、だと……? 

 その言葉に建樹は愕然とした。

 そうだ、ここが一生働くかもしれない職場なのだ。この先もこの場所で、不愉快極まりない上司の元で、単調なこの仕事を続けていくべきだというのか。

 いったい何のために城東銀行へ入行したのか、自分がやりたかったのはこんなことじゃなかったはずだ。

『城銀内でも、さぞかし期待される存在なんでしょうね』

 鳶島将和の皮肉めいた言葉が耳に甦る。

 違う、今の僕は期待される存在なんかじゃない。

 心の奥底に沈めていた不満に再び火がつき、くすぶり始めた。事実上のリストラという、忘れかけていた言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。吐き気がしてきた。

 心機一転なんて、とてもできそうにない。身も心も疲れ果てた建樹は退社後、いつぞやのように街をふらふらと彷徨い歩いた。このまま消えてなくなりたかった。

    ◆    ◆    ◆

 三寒四温といわれるこの季節である。朝から降り続いていた雨はやむ気配もなく、今もしとしとと音をたてていた。

 以前にも同じような場面があった。

 そうだ、あれは二月、センター行きを命じられた日だ。あの時、僕はふらりと紫苑に入って、そこで一耶に出会った。そのあと恒星にも出会ってしまったのだ──

 ふと気づくと、彼はブロンズ色の扉の前に立っていた。

 店の前のアスファルトが光り、扉も壁も寂しげに濡れそぼっている。

 紫のライトは消え、看板も消えたままで、ここまで来てから今夜は営業日ではないと思い返すと、建樹は失望の溜め息をついた。

 今すぐ会いたかった……誰に? 

 会いたかったのは安らげる人、それとも情熱をかき立てる人なのか。

 欲しいものは平穏な温もり、それとも激しい抱擁なのか。

 傍にいて欲しい相手は……ここにいない。

 傘はあまり役に立っておらず、がっくりと落としたスーツの肩にも容赦ない滴が降り注ぎ、暗い滲みが広がってゆく。虚しさのあまり胸が潰れそうだ。

 仕方なく引き返そうとした時「水も滴るイイ男がいると思ったら、姫じゃねえか」と声がして、黒い傘の下から恒星が現れた。

「どうした? 今夜は休みだが、一杯飲みたいなら開けてやるぜ」

 無言でうなずく建樹をチラリと見やると、恒星は紫苑のドアの鍵を開けた。オーナーの権限で合鍵を持っているようだ。

「そんなに濡れちまって寒いだろ。風邪でもひいたら大変だ」

 この店の、このストゥールに座るのは何度目だろう。見慣れた光景を眺める。

 建樹にタオルを手渡すと、カウンターの中に入った恒星はホットウィスキーを勧めた。喉から身体の芯へ暖かさが染み渡る。

「あんたほどの男の値打ちをわかっていない城銀の連中もたいしたことはないな」

 物憂げな建樹の様子を見やり、恒星は自分のグラスにもたっぷりと酒を注いだ。

 恒例のジャズを流し、足でリズムを取りながら、いつものタバコに火をつける。一連の動作に何ら隙のない男はウィスキーをあおると、さらに饒舌になった。

「この世は不合理なことばっかりだ。能力が正当に評価されるなんてのは滅多にない。たまたまツイていたヤツだとか、お世辞の上手いヤツが横行して当たり前なんだよ」

 より優秀な者が出世するとは限らない。むしろ、こんなヤツがと思う人物が大手を振ってふんぞり返る。

 今さら言われるまでもなく、そんな連中を何人も目の当たりにしている。不愉快なテカリ顔が浮かんだ。

「あんたへの扱いを変える気はなさそうなんだろ? 転職しないのかい?」

 空になったグラスを握りしめたまま、建樹は呻いた。

「何度も考えたけれど、なかなか踏ん切りがつかなくて……」

「せっかく手に入れた身分だ、惜しいと思うのも無理はないが、世の流れは変わっていくもんだぜ。城銀の時代がいつまでも続くとは限らない。合併だ何だと、想像もつかない事態も起こり得るってことだ」

 タバコを灰皿で揉み消しながら、恒星は吐き捨てるように言った。

「人生はルーレットゲームなんだよ」

 それから建樹の真正面に立つと上半身を屈め、射るような眼差しで見つめながら、彼は思わぬ言葉を口にした。

「この前呼び出したときに話したかった用件なんだが……俺の秘書にならないか?」

 大きく目を見開き、表情が固まってしまった建樹に、恒星は畳みかけた。

「いずれはそういう身分になる。秘書となれば二十四時間の大半、一緒にいられるがどうだ? たとえ結婚しても、女房よりもずっと一緒の時間を過ごす、わかるだろ?」

「で、でも、そんな……」

「あんたの頭脳なら、俺の強力なブレインとしても大いに期待できるしな。こっちは願ったり叶ったりだ」

 気持ちが大きく揺らいでいるのを感じる。ホークカンパニーの存在が危ないということも忘れ、社長秘書という言葉が建樹の耳に、魅力的に響いた。

 それから彼は先日出会った、鳶島将和の秘書・羽田弘司の姿を思い浮かべた。理知的で品のある容姿に控え目で柔らかい物腰、卒のない応対と、一行員が憧れを抱くには充分すぎる存在だった。

 僕が秘書に、あんなふうになれるだろうか? 

 だが、恒星と始終行動を共にするというのはどうか。そこには妖しくも危険な香りが充満している。仕事とは別の心労を背負い込む可能性は多分にあった。

「ただし、条件がある」

 我に返った建樹は「条件?」と訊き返した。

「俺が自分で輝く星になる、その手伝いをして欲しい。秘書の予行演習といったところだな」

 彼が何度も口にしていた言葉、輝くための手段とはいったい何なのか。

 固唾を呑んで見守る建樹に向かって、恒星はとんでもない爆弾を投げつけた。

「鷲津土建の運営資金と取引先関係について調べてくれないか。城銀のオンラインシステムを使えば可能だろう」

「……何だって?」

 ストゥールから滑り落ちそうになりながら、建樹は思わず叫んだ。

「ダメだっ! 顧客情報の漏洩はコンプライアンス違反だ、そんなことをしたら身の破滅になる!」

「どうせ辞めるんだ、城銀に義理立てする必要はないじゃないか。それに、金を横領しようとか、城銀そのものに損害を与えようとしているわけでもないしな」

 恒星はそう言いながら、うろたえる建樹を見て冷ややかな笑いを浮かべた。

「どうして鷲津土建を調べる必要が?」

 ソフト帽を被った洒落者の社長を思い起こしながら建樹がそう尋ねると、

「建築屋なんてのは多かれ少なかれ、ヤバい連中と繋がりがあるもんだが、御多分に漏れず、あそこもかなり危ない橋を渡っているらしくてな。そいつを看破すりゃ、信用は失墜どころか、ヘタをすれば後ろに手がまわる。つまり、何とかして鷲津土建を陥れたいって寸法だ」

「何のために?」

「駅南の大型ビル工事、鷲津に手を引かせたいと思っているのは誰だ?」

 あっ、と叫びを上げた建樹の手からグラスが床に落ちて割れ、欠片が飛び散った。

 悪評のお蔭で鷲津土建が資格を剥奪されれば仕切り直しだが、実際には鳶島建設へ確実に仕事がまわってくる。

 大口の依頼だ、その儲けとなれば計り知れないし、会社のブランド価値も上がって危機から脱出、立ち直って一息つける。

 ライバル会社を蹴落とし、値打ちのある仕事をまわしてやったと恩に着せて、鳶島建設の組織に入り込み、先にミスを犯した副社長の将和──それでいて次期社長候補とは長男の特権だろうが厚かましい──を排除して、娘婿の自分が社長の座に着く。

 これが恒星の描く『輝く星になるためのシナリオ』、鳶島建設を我が手中に収める、乗っ取りの策略だった。

「そんな危険な真似をしなくても、いずれはお父さんのあとを継いで社長に……」

「ふん、くだらない」

 恒星はいまいましげに言ってのけた。

「ジジイの会社なんて、たかが知れてる。現にヤバくなって鳶島に助けを求めているが、もうすぐ見捨てられておしまいだ」

 ホークカンパニーの行く末など眼中にはない、自分自身の手で鳶島建設を動かしたい。それが彼の抱いていた野望だった。

 隣のストゥールに座って肩を抱きながら、悪魔の囁きは続けられた。

「どうだ? あんただって自分で輝く星になりたいと思わないか? 誰かにこき使われ、その日の気分で文句を言われるような毎日はこりごりだろうが」

「それは……」

 城銀の、それも後方支援の一行員。このまま一生が終わってしまうかと思うと耐えられないが、だからといって恒星の要望に従うのはあまりにもリスクが高すぎた。

 すると恒星は建樹に向かって「さあ、どうする? 人生を賭けて勝負するなら今だぜ」と挑発してみせた。

 人生を賭けた勝負……

 事実上のリストラ──駅前支店の元ホープには失望──ここで頑張ればいい──

 このチャンスを逃したら、定年まであそこからは抜け出せないかもしれないし、転職したところで素晴らしい新天地が開けるという期待は薄い。

 容赦のない言葉が建樹を追い込み、そんな焦りを生み出していた。

「鷲津土建の何を調べればいいんですか?」

 すると、恒星はよく知られている、かなり問題のある組織の名前を挙げた。

「ヤツらがマネー・ロンダリングした金を鷲津に流しているという情報がある。もちろん偽名の口座開設か、架空の会社を設立するか、何らかの方法でやらかしているんだろう。城銀側も警戒してはいるだろうが、向こうの方が何枚もうわ手だ」

 政府からの要請もあって、暴力団などの反社会勢力に対しては断固とした対応をとるといった内容の規定が強化されたばかりだ。

 新規口座の開設や大口の送金についてのチェック体制は万全なはずと言いたいところだが、支店からはずされてしまった建樹には何とも言えない。

 ともかく、鷲津土建に入る金の流れを追っていけば怪しい部分が洗い出せる。センターで使っているパソコンでの照会は充分可能だった。

「できればUSBにでも落として欲しいが、それが無理ならプリントアウトしたものでいい。取引のある社名がわかれば、そいつが何者かはこちらで調べる」

 セキュリティーチェックは厳しいが、こっそり持ち出そうと思えばできないことはない。だが、バレたら終わり、場合によっては社会から糾弾、抹殺されるかもしれないのだ。

 不正を行った他行の行員の記事が新聞紙面を賑わした事件を思い出し、躊躇する建樹がうつむくと、彼の肩をさらに強く抱いた恒星は「頼むぜ、姫」と甘い声を出した。

「あんたさえ協力してくれれば、俺は鳶島建設の社長という輝く星になれる。あんたは晴れて社長秘書だ。成功した暁には二人で、本物のマンハッタンの夜景を拝みながら飲もうぜ。なあ?」

                                ……⑧に続く