第一章 ラブ・アット・ファースト・サイト ――貴方に一目惚れ
姫野建樹(ひめの たつき)に人事部からの通達があったのは繁忙する年度末を目前に控えた、二月も中旬のことだった。
「業務センターへ異動、ですか……わかりました」
それは予期せぬ出来事ではなかった。当の昔に覚悟を決めてはいたが、いざ現実となると足がすくみ、上司が読み上げる今後の引継ぎの計画も、先方との打ち合わせの予定も、どれも耳に入らないから残りもしない。何もかもが虚しく、頭上を素通りしていく気がした。
先だって大手都市銀行同士の合併が行われたばかりである。日本経済の変動、金融機関を取り巻く状況の急激な変化に対応するために、組織編制に柔軟性を持たせて云々……
容赦ない処断を屁理屈でコーティングする、いかにも上層部のやりそうな所業だが、たかが一行員に抵抗する術など、持ち合わせるはずもない。
反旗を翻して他行へ移るもよし、若さに任せて転職するもよし。しかし、今の彼にはそこまで決断するほどの気力はなく、体力も残されていなかった。
入行して三年、ようやく一人前と呼ばれる齢を迎えた矢先に、ルートをはずれる事態になると予想してはいなかった、するはずもなかった。
父の突然の死、母と自分自身の病気……あらゆる不幸が時を待たずして襲い、翻弄されるうちに取り残されていた。
だが、今さら泣き言を言っても始まらない。これが運命だったのだと自分自身に言い聞かせながら、建樹はいつもと同じ、美しいけれども冷たいと揶揄される、取り澄ました表情で同僚たちに挨拶をすると、更衣室へと向かった。
動揺している、ショックを受けている、と悟られるのは我慢がならなかった。すべての不運を平然と受け流す、そういう演技を続けてきたのだ、舞台の主役は最後まで務め上げなければならない。
「……やっぱりこうなっちゃったわね」
「だって病欠でしょ、仕方ないじゃない」
「だからタイミングが悪かったのよ。何だか可哀想」
「でも、リストラされるよりはマシじゃないの? センターだってお給料は同じだし」
「あら、センター行きが事実上のリストラなのよ、そんなことも知らないの」
「えっ、知らなかったわ」
「それにしたって、ウチの支店ナンバーワンのイケメンがいなくなるのが耐えられないわよ~。お客だって減るわよ、きっと」
「そうそう。残ったのはダッサいオヤジばかり。あいつらが異動すればいいのに」
口さがない女子行員たちの噂話など聞こえないふりをして、さっさと身支度を済ませた建樹は顔馴染みの警備員に見送られて裏口から通りへと出ると、この三階建てビルに掲げられた看板を見上げた。
夜空に放つその光、『城東銀行』の赤い文字に憧れ、希望に溢れた入社式を迎えたのが昨日のように思われる。
夢……幻……いや、すべてが終わったわけではない。裏方には裏方の道があるし、そこにはそれなりのやり甲斐も存在するだろう。表に出る者ばかりが会社を支えているのではないのだ。
気持ちを奮い立たせてみようとするものの、重苦しさから逃れられない。このまま自宅へ帰れるはずもなかった。
やり切れない思いを紛らわせるには酒にでも頼るしかない。
カーキ色のトレンチコートの襟を立てた建樹は黒いビジネスバッグを提げたまま、M駅とは反対の方向に広がる繁華街へふらふらと向かった。
街の中心を貫く大通り、それより一本西に入った道沿いは、この辺りでは一番賑やかな飲食街である。
プライベートで立ち寄る機会など滅多になかったが、華やかにきらめくネオンはこの街にはそぐわない存在をも、優しく出迎えてくれる。
どっしりとした構えのフレンチレストランから、赤い提灯が手招きする居酒屋、上司の御供で訪れた高級クラブ、スナックやパブの名前が林立する雑居ビル、時折響くタクシーのクラクションに、行き交う人々の足音とざわめき、強い香りをまとった夜の蝶たちの嬌声……
都会の喧騒に飲み込まれ、自分が何者なのかすら忘れてしまいそうになりながら、まるで誘蛾灯に惹かれる哀れな虫のようにネオンサインへと引き寄せられる。
そのショット・バーは初めて訪れる店だった。ブロンズの扉に、コンクリートが剥き出しになった壁を照らす紫のライト。洋風な造りと『紫苑』という、漢字を使った店の名前が不釣合いに思えて、妙に気になる。
なぜここを選んだのか、自分でもよくわからないが、知らない店に入って高い勘定を請求され、後悔する羽目になるのでは、という危惧は不思議となかった。
ドアを押して足を踏み入れてみると、ムスクの香りが漂う店内は薄暗く、聞き取れない程の音量でジャズが流れていた。
ダウンライトの下、十脚ほどのカウンター席にテーブルが三つのこぢんまりとした広さで、表の造りから受けるイメージとはまた違い、セピア色に映る場末の酒場といった雰囲気はどこか郷愁を感じさせる。
奥の壁にはコピーのシャガール、照度を落とした間接照明の下、緩いカーブを描くカウンターの中にバーテンダーが一人、ボトルの棚を背にして立っている。
まだ早い時間だと思っていたのに、カウンター席には先客がいた。黒いスーツ姿の若い男がストゥールに腰掛けてグラスを傾けているのが見える。
こういう場所で飲むにはいくらか若すぎる感じのする彼は二十歳そこそこか、暗めの照明でも、その美貌は際立っていた。
明るい色合いの髪にゆるくパーマをかけた流行の髪型がよく似合う、整った顔立ち。斜めに結ばれた眉とアーモンド形の目は鋭く、肉食獣を連想させる。美しさとしなやかさ、野生の残忍さを感じさせる男だった。
コートを脱ぎ、男の座る席から二つほど離れた場所に腰を下ろした建樹が何を頼もうかと考えていると「今晩は」と、当の男が少し高めの声で話しかけてきた。
「……どうも」
訝しく思いながらそちらに目をやると、彼はさらに「御注文はお決まりですか?」などと訊いてきた。
それはバーテンダーのセリフだろうに、ますます奇妙なヤツだ。
「いや、まだ……」
「あの、もしもよろしければ、貴方に似合うオリジナルカクテルをプレゼントしたいのですが、いかがでしょう」
建樹は長身の美青年を見やり、疑わしげに訊いた。
「オリジナルカクテル?」
「ええ。その人のイメージに合わせてオリジナルを注文する。東京のあるバーではちょっとしたブームになっていて、結構ウケているらしいですよ」
いくらか自慢気な口ぶりに、この男の若さと幼さを感じる。それでも建樹は「お願いするよ」と答えた。
彼の指示どおりにバーテンダーはシェイカーを振り、建樹の前に差し出されたのは柑橘系の甘酸っぱい香りが漂う、淡い黄色のロングドリンクだった。
コリンズ・グラスの底から小さな気泡が立ち、氷のかけらを包み込むようにして爽やかさを演出、チェリーまで添えてある。
「ホワイトラムをベースに、ソーダとグレープフルーツを使いました。レモンやライムを使うのがスタンダートなんですけど」
グラスを手に取った建樹はそれを一口飲むと、カウンターの上に置いた。
「お気に召しませんか?」
「いや、とても美味しいけれど、僕に似合う感じがしないな」
──『姫野君、三月から業務センターに異動だ。よろしく頼むよ』──
耳の奥で何度も繰り返される言葉に、心が暗く澱む。こんな今の自分に、爽やかな味わいのする飲み物が似合うとは思えない。
建樹の表情を探るように見ていた青年は「そうでしょうね」と相槌を打ったあと、あれを取ってとバーテンダーに命じた。
差し出されたボトルにはチナールと書かれている。青年は蓋を開け、中身をグラスに遠慮なく注いだ。
淡い黄色の液体はたちまち真っ赤に、それ以上に濃い深紅色に染まった。
「アーティーチョークに十三種類のハーブのエキスを加えたリキュールです」
平然と解説する彼を建樹は呆気に取られて見た。他の客の酒を無造作に扱うなんて、こんなにも無礼な態度をとられたのは初めてだった。
暗い赤褐色が今の自分を表しているとでも言いたいのだろうか。この身の抱えるものを感じ取って、赤いリキュールを加えたのだろうかと、黙ってグラスを口に運ぶ。
チナールを加えたカクテルはほろ苦く、これが現代人のストレスを発散させる味としてイタリアで人気がある、という話を建樹はのちに知った。
さっきから建樹の顔をチラチラと見ていた青年はふいに「失礼ですけど、お名前を教えていただけないでしょうか」と切り出した。
どこかで会った気がする、とでも切り出すつもりなのか。こちらは一向に覚えがないが、眉をひそめながらも建樹は答えた。
「ヒメノタツキ、だけれど」
お姫様のヒメ、野原のノ、建築のケンに樹木のジュと書いてキ、御丁寧にそこまで教えてやると、青年は嬉しそうな表情になった。
「ありがとうございます。貴方にぴったりの素敵な名前ですね」
「それはどうも」
無愛想な返事にもかかわらず、彼は自己紹介を始めた。
「オレ……じゃない、私は成瀬一耶(なるせ かずや)っていいます」
「君の名前を僕が聞いたところで、何になるというんだ?」
冷たい口調に怯む様子もなく、成瀬一耶と名乗った青年は「建樹さんにおぼえておいて欲しいからです」と、平然と答えた。
この男、いったいどういうつもりなんだと、訝しげな視線を送る建樹に、一耶は妖しげに微笑みかけた。
「そのカクテルに名前をつけてみましょうか。『Love at first sight』なんてどうでしょう?」
「……どういう意味?」
「貴方に一目惚れ」
突然の告白に驚きはしたが、それでも建樹は大人の余裕をみせようと「それはジョーク? それともゲームか何かのつもりかい?」と訊いた。
「ジョークに聞こえましたか? ゲームのつもりもありませんけど」
久しぶりに聞く告白に胸が熱くなるのを堪えて、建樹は気のないふりを続けた。
「生憎とそういう気分じゃないんでね」
ところが、その答えは相手を遠ざけるどころか、自分はゲイだと告白しているようなものである。
建樹の複雑な心情を察したであろう一耶は「どうすればそういう気分になっていただけますか?」などと、しぶとく食い下がった。
中学時代の初恋の人は同じ長身でも、がっちりとした体躯の持ち主だった。以来、つき合う相手は似たような男が多かった。
いかにも頼り甲斐のない、ひょろりと細長いタイプは好みではなかったはず。ましてや自分よりも年少なんて……
それなのに気になる。
ひょろりとした年下の美青年を見やった建樹は忘れかけていた感情が甦ってくるのに戸惑いながらも、平静を装って再びグラスに唇をつけた。
「しばらくは無理だね。わかっていたから、その赤いリキュールを入れたんじゃないのかな、どうなの?」
「それは……そうですけど」
一耶に意地の悪い言葉を投げかける自分にはサディストの気があるのではないかと思いつつ、カクテルを飲み干すとコートを手にして立ち上がる。
「さて、帰るとするよ。君につき合うほど暇じゃないんでね」
「時間が経ったら、気持ちが変わる可能性はありますか?」
「何事も期待しない方が気楽な生き方だと思うけど」
そう言い捨てたあと、注文したのは自分だから奢るという主張を退け、金を置いて店を出た。
一耶は追ってはこなかった。
一目惚れ──動揺しなかったわけではない。だが、それを相手に悟られたくなかったから早々に退散したのだ。
「『Love at first sight』か……」
心残りを感じながらも、来た道を戻る。
この身体の奥、僅かに残っている情熱の残り火が再び燃え上がりそうで、そんな自分を恐れている自分がいる──
「おや、姫野君じゃないか」
呼び掛ける声がして振り向くと、痩せた身体に貧相な顔立ちの中年男が立っていた。ついさっきまで上司だった鵜川だ。
大した切れ者でもないのに、全営業店の中でも重要な支店に配属された、とんとん拍子に出世したラッキーなヤツ。陰でそう噂されていた鵜川は部下から見れば上司失格の部類に入るであろう。
上の連中におべっかを使い、自分の窮状に対して庇ってもくれなかったこの男、建樹には苦い思い出ばかりが残っているが、都合の悪いことは忘れて親しげに声を掛けてきた、といったところだ。
鵜川の隣にいるのは鷲津土建工業の社長で、駅前支店にとっては重要な取引先であり、奥の応接間にて支店長が応対する姿を建樹は何度となく目撃したことがあった。
仕事を離れればゴルフ仲間。プライベートなつき合いも頻繁な二人は気が合うというよりは、鵜川が子分に成り下がっていると表現した方が正しい。自分より力がある者なら、誰にでも尻尾を振るのだ。
会いたくもないのに会ってしまった。望まない再会に仕方なく会釈をすると、
「送別会もやらないままですまなかったね。何しろ急な異動だったから……」
「送別会? どういうことかね」
鵜川の言葉を聞き咎めた鷲津社長は今から食事に行くが君もどうだと誘ってきた。送別会代わりのつもりらしい。
「いえ、私が居たのではお邪魔かと」
一度は断った建樹だが、再度勧められて仕方なく同席することにした。
鵜川と一緒なのは気が進まない。しかし、せっかくの申し出を断って社長の機嫌を損ねてはまずい、そう判断したのだが、二人の御供で訪れたのはセレブのみが入店を許されるような料亭で、それだけでも気後れするのにそのあと向かったのは、一度だけ行ったことのある、あの高級ナイトクラブだった。
鷲津社長はここの常連で、そのつてで鵜川も出入りしていたために建樹も連れて来られたのだが、こういうきらびやかな店の雰囲気には何度来ても馴染めない。
華やかに着飾った美しい女たちの歓迎を受けたあと、クッションが良すぎて、却って座りづらい革のソファに腰掛ける。
何も言わなくてもテーブルの上にボトルが用意されているあたり、鷲津たちが来ると承知していたようで、さっきの女たちのうち、緑と赤のドレスをそれぞれにまとった二人が席に着き、その片方がさっそく人数分の水割りを作り始めた。
一行員の給料では到底買えそうもないウィスキーの銘柄を揃え、グラスからファニチャーまで超一流品で固めたこの店で、金に糸目をつけずにボトルをキープし、女たちにチップをはずむ会社社長……
異世界に紛れ込んだようで居心地が悪く、落ち着かない素振りの建樹を見た鷲津は「まあ、一杯やりたまえ。遠慮しなくていいから」と、水割りを勧めた。
「ありがとうございます、それではいただきます」
左右に美女をはべらせた鷲津は上機嫌で、タバコをくゆらせながら「いやいや、君のような色男を連れて来ると彼女たちが喜ぶんでね。ここまでつき合ってもらったのもそいつが目的さ」と言い、右側の赤いドレスの女が建樹にウィンクしてきたが、喜んで受け取る気にはなれなかった。
女は苦手だ。
これまで彼が追い求めてきた相手はすべて男だった。
病弱な身体を丈夫にしようと子供の頃から始めた水泳、その延長で入部した中学の水泳部にいた上級生の男子に憧れを抱いた。
背が高く、広い肩幅に爽やかな笑顔の彼が卒業するまで、建樹はその想いを胸に秘め続けた。あれが始まりなら自分の性的指向はその時点から決まっていたのだろう。
さらりとした艶のある髪、涼しげな目元から形の良い唇まで、すべての部品が整った気品のある美貌に、優れた頭脳の持ち主が女たちの関心を集めないはずはなく、それでも応じる気配がないのは同性愛──もちろん、誰にも知られてはいけない秘密──という指向のため。
もっともそのお蔭で、建樹はルックスのわりに派手な女性関係の噂もなく、身持ちの固い男として社内における評判はいい。
早く彼女を連れてきて、安心させてくれと言う母には申し訳ないが、こればかりはどうしようもなかった。
それでも世間並みの愛想は持ち合わせている。鷲津と鵜川のゴルフ自慢やら、海外旅行の話に相槌を打ちながら、建樹はふと、隣のテーブルに目をやった。
黒っぽい服装の男が多くの女に取り囲まれて盛り上がっている。彼が放つ冗談に反応する姦しい声が耳障りだ。
たった一人で、こんなに大勢の女にちやほやされるなんて。よほどの金持ちかと呆れた建樹はその男を観察しようと試みたが、照明の暗い店内ではどんな人物か、ハッキリとはわからない。
齢は若そうだ。スーツではなく着崩した感じの身なりからして青年実業家には見えないし、順当なところで水商売関係、それとも横文字で表す、流行りのクリエイティブな職業というやつなのか。どちらにしても懐に相当余裕のある者でなければ、この店での豪遊は難しいだろう。
すると、こちらの視線を感じたらしい男が振り返ったため、建樹は慌てて前を向いた。何を見ているんだと因縁でもつけられてはかなわない。
それにしても鷲津の酒豪ぶりときたら、新しいボトルを入れては空け、鵜川はおろか、若い建樹も太刀打ちできない。
このまま朝までつき合わされてはたまらない、と考えた建樹は自宅には母一人だからと理由をつけて帰らせてもらうことにした。
「それじゃあ、気をつけてな」
「はい、御馳走様でした。お休みなさい」
残った二人にそう挨拶したあと、店の外に出た建樹は足を踏み出したとたんに目眩がして、身体がふらついてしまった。自分ではそれほど飲んだつもりはないのだが、かなり酔っていたようだ。
これでは転んでしまうと壁に手をつこうとしたが、掌がつく前に彼の身体は力強い腕にがっちりと支えられていた。
「おっと、大丈夫か?」
聞き覚えのあるような、ないような声。
最近の若者にしては決して大きい方ではないが、それでも百七十センチ以上ある男を軽々と抱き止めた相手はかなりの長身で、がっちりとした肩幅の持ち主である。
むせ返るようなムスクの香りにタバコの匂いが入り混じって鼻孔を突く。どちらもどこかで嗅いだことのある匂いだ。
助けてもらったとわかると「すいません、ありがとうございます」と反射的に礼を述べた建樹はそちらを振り返ってハッとした。
黒いジャケットに黒のシャツ、後ろに撫でつけた髪の色まで黒、全身黒ずくめという不思議な男の年齢は自分より少し年上、三十を越えたぐらいか。
この男だ、建樹は咄嗟に思った。さっき隣のテーブルで、たくさんの女をはべらせていた黒い服の男。
研ぎ澄まされた、という形容が似合う端正な容貌はアクション映画に主演した二枚目俳優と紹介されてもおかしくないほどである。
その鋭い目には彼と対峙する者を凍らせてしまうような冷たさと迫力があり、先程までジョークを飛ばしていた人物と同一には思えないほどだが、絶対に間違いない。
女たちとの戯れもお開きにして表に出てきてみると、目の前にいたスーツの男がぶざまな酔っ払いで、ふらふらして危なっかしいから仕方なく手を貸してやったといったところだろう。
みっともない姿を晒してしまったと恐縮した建樹はもう一度礼を言って、その場から立ち去ろうとした。
ところが、黒い服の男は建樹の身体を解放した腕とは反対の手で左手をつかむと、自分の方へ引っ張ろうとした。
「なっ、何か?」
助けた礼金でもよこせと言うのだろうか。この男の羽振りがいいのは胡散臭い職業ゆえ、人から金を巻き上げるなど造作もないのかも。つかまれた手に冷汗が滲む。
「いや、もうちょっと話をしたくてね」
男は遠慮のない視線を建樹に向け、全身を眺め回した。
「仕立てのいいグレイのスーツに紺のネクタイ、か。あんた、典型的な銀行マンだね」
「……どうしてそれを?」
「襟についているマーク、城銀のだろ」
社章の存在を思い出して、くだらないことを訊いてしまったと建樹はうろたえた。
「ここらの地銀じゃナンバーツー、いや、不良債権の処理が予想以上に早く進んで、西銀を抜いてナンバーワンになったって噂も聞いているぜ。だったら、さっさと振り込み手数料を値下げして欲しいもんだがね」
会社や仕事の話は社外では御法度だ。ましてや見知らぬ相手、男の問いかけには乗らずに黙ったままの建樹だが、彼はお構いなしに言葉を続けた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。今から俺の知っている店に行こうぜ、いいだろ?」
「いえ、僕はもうお酒は……」
「酒を飲めと言ってるんじゃない。コーヒーで酔いを醒ましたらどうだ」
なぜ、こんな男の誘いに乗ってしまったのか。どうして嘘をついてでも上手く言い逃れて断ろうとしなかったのか。
それは彼の持つ、魅惑という名の魔力のせいだったのか──
……②に続く