第三章 体育倉庫で……
それから数日経ったのちの出来事。
帰りのHRのあと、日直の仕事にいそしむボクに話しかけてきたのはフケ顔の岩田だった。この男、新学期になってから、やたらと親しげに寄ってくるのが薄気味悪い。話の内容はたわいのないことだけど、ボクの冷ややかな対応にもめげずに、あれやこれやとネタを考えてくる。
「職員室に当番日誌持って行かなくちゃならないんだ、どいてくれる?」
今回も冷たく追っ払われた岩田がすごすごと席に戻るのを眺めて、海斗が苦笑した。
「あいつも根性あるなあ」
「のん気なこと言わないでよ。毎回毎回迷惑なんだから」
「拓磨に気があるんだろ」
「ええっ、嘘だろ! 冗談じゃない、やめてくれよな」
この間までパシリ扱いしていた相手を好きになるなんて、見た目の変化が気持ちの変化を呼び起こしたってことか。バカにするにも程がある。
「でもそういうヤツ、けっこう多いんじゃねーの。この前もA組のヤツに訊かれたぜ」
「訊かれたって、何を?」
「拓磨につき合っている相手がいるのかどうかってこと。今じゃ、学年一の美少年で評判だからさ」
学年一とはまた、えらく持ち上げられたものだ。ブタ・ブタ・ブタのブタづくしから一気に、異例の出世。
いきなりモテるようになったからといって、有頂天になるほどボクは愚かではないし、美少年と呼ばれて天狗になるようなバカじゃない。
「ふうん、そりゃあ光栄だね。そのうちファンクラブでも結成されたら、誕生日に予約券を配ってやろうっと」
周囲の対応がここまで変わると、皮肉りたくなって当然だろう。それに、ボクを好きだと言って欲しい人は友達のままだ。
「それで、海斗は何て答えたの?」
「え、いや、別に、誰もって……」
一瞬、海斗はうろたえたような顔をした。
「決まった相手はいないみたいだって言っておいたけど」
「そう……」
安堵と失望が同時にやってくる。
海斗に恋してしまったのではという恐れは日を追う毎に強くなっていたが、人生に於いて、試練はどこまでもついてまわるもの。
ボクたちの関係は相変わらず友達同士で、そこの境界を越えるには相当の勇気と覚悟が必要だ。越えようとしたせいで、せっかく手に入れた友情までも失ってしまうのが怖いボクはそんな勇気も覚悟も持ち合わせていない。それなら口をきいたこともない憧れの人から始まる方がよっぽど気が楽、失うものがないからだ。
すると、ボクたちが仲良さそうに会話しているのに嫉妬したらしく、仲間を引き連れた岩田が邪魔をしに戻ってきた。
「おい、一条。森岡胡桃って、おまえのカノジョか?」
モリオカクルミ……モモカが口にした「クルミ」の正体だろうか。何だかイヤな予感がする。
海斗は面倒臭そうな顔をして「どこで聞きつけてきたんだよ」と訊いた。
そうと問い返すのは彼女だと認めてるから?
「やっぱそうか」
岩田は鬼の首でもとったように、してやったり顔になった。
「違うって。中学の同級生で、特に仲がよかったわけでもなんでもねーよ」
海斗は彼女などではないと強調したが、岩田は引き下がろうとはしない。
「嘘つくなよ」
「嘘ついて何の得になるんだよ」
個人情報になるから、これ以上は話せないと、海斗はクルミに関するコメントを拒んだが、その態度は却って疑惑を呼んだ。
本当に何でもない相手だろうか?
過去に彼女がいたならば、岩田の説を否定するのは難しい。モモカがクルミのこと云々と念を押していたのも気になるし。
それに何より、彼女あるいは元カノの存在は海斗がゲイではないという証となる。女も男もオッケーという人が世の中にはいるけど、その可能性は低い。
BVデーにプレゼントを渡していた三人の誰かと海斗の間に何らかの発展があった様子はなく、自分はゲイじゃないけど掟に従って、とりあえず受け止めただけと推察された。
もちろんボクとしては発展しない方がいいに決まっているけれど、そこには別の問題をも含んでいる。何が問題かというと、海斗が異性愛者という時点で、同性であるボクの失恋は決定しているのだ。
今さら何を、だが、男同士の恋愛が当たり前という環境に慣れすぎて、常識を見失っていた。ああ、またしても失恋……我ながら情けない。
ピンポンパンポン。
『連絡します。風紀委員は至急図書室に集合してください。繰り返します、風紀委員は至急……』
「おっと、お呼び出しだ。じゃあな」
我がクラスの風紀委員は岩田の追求をかわす理由ができたので、ホッとした様子で教室を出て行った。
すると、その背中を見送っていた岩田が「矢代くんは一条のカノジョについて、何か聞いたことある?」などと、わざとらしく問いかけてきた。
「さあ。そういう話はしないから」
嘘でもハッタリでもなく、事実だ。
「そうか……」
思わせぶりに首をひねった岩田は次に、声を潜めて続けた。
「ここだけの話だけど、その森岡胡桃って女、かなりヤバめだってさ」
「ヤマメ?」
清流の女王ですか?
くだらない聞き間違いなど、岩田はまったく聞いていなかったようで「だから、ヤバイ目に遭ったんだとよ」と続けた。
森岡胡桃はあのモモカと同じ高校に通っているが、以前に産婦人科の病院に入るのを目撃されたらしい。婦人科系の持病などない、健康な女子高生がそこに行く理由といえば──生々しくドロドロとした言葉が脳裏をよぎる。
「その相手が一条じゃないかって」
瞬間、目の前が真っ暗になった。
「……まさか!」
「オレだって信じたくはねーよ、クラスも同じだし、バスケ部の仲間でもあるしな。けど、確かな筋からの情報だぜ」
確かな筋って、刑事ドラマの観過ぎだというツッコミをする余裕もなく、ボクは事の重大さにうろたえた。
嘘だ、海斗に限ってそんな……
「そりゃ、あれだけイケメンならモテて当然だけどよ、酷ぇことするよな」
「海斗はそんな真似しないっ!」
ボクは激しく言い放つと、力任せに扉を開けて廊下に飛び出した。
早く日誌を届けなくてはと職員室に向かいながらも、頭の中は今聞かされた衝撃的な出来事でいっぱいだった。
海斗がクルミを妊娠させていた──しかも彼女は中絶までしたらしい──
だが、モモカとの会話はそこまで重大な事実を前提にしていたようには思えなかった。モモカがクルミの身に起きたことを何も知らないならわかるが、二人は友達同士だ、知らないはずはない。
いったいどこまでが嘘か、何が本当なのか、真実はいつもひとつなのか。
頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していたボクは心ここにあらずのまま職員室に入り、担任の机の上に当番日誌を置いた。それから廊下に出たところで声をかけられたのだが、意識がうまく働かず、咄嗟に反応できなかった。
「……ねえ、そこのキミったら」
聞き覚えのある声、ようやく気づいてそちらを見たボクは次の瞬間、口から心臓が飛び出るほど驚き、身体中の血液が血管の中を暴走するような感覚をおぼえた。
目の前に立ってニヤけた笑いを浮かべていたのは竜崎怜その人だった。
どうしてこいつに、こんなところで遭わなきゃならないんだ?
とは言っても、同じ学校にいるのだから顔を合わせる機会があって当然なんだけど、その美麗な姿を拝みたくて教室の近くをうろついていた頃には滅多に会わず、二度と見たくもない今になって……ボクは巡り合わせを呪った。
「キミ、バスケ部の一条の友達? 今まで見かけたことないけど二年生だよね、転校生なのかな?」
ボクの心境など知る由もなく、竜崎はそう問いかけてきた。
やはり、ハンバーガーの店で海斗とボクが一緒にいるところを認めていたようだ。おまけに、いつぞやブタ呼ばわりした相手だとはまったく気づいていないらしい。
「オレ、バスケ部の三年の竜崎っていうんだ。一条を知ってるなら、当然知ってるとは思うんだけど、一応自己紹介。以後お見知りおきを」
ああもう、今さら紹介せんでいい。十分存じ上げておりますって。
「どうしちゃったの? 黙ってないで、何か答えてよ」
しつこく話しかける竜崎、学園のプリンスが声をかけたなら、誰もがシッポを振ると自信満々なんだろうが、思い上がりも甚だしい。まあ、こいつはこういうヤツだと、わかっちゃいたけどさ。
彼と会話することが一ヶ月ほど前の、ボクの夢だった。そのために一生懸命マドレーヌを作り、夏休みの体育館にまで足を運んだ。夏の日の苦い想い出。
そんな竜崎が今となっては汚らわしいだけの存在だ。
ボクは彼に鋭い一瞥をくれると口を閉ざし、目を合わさないようにしながら、その場から立ち去ろうとしたが、ヤツはボクの前にまわってブロックしてきた。
さすがバスケ部、相手の動きを封じるのはお手のもの。仕方なく足を止めたボクの顔を覗き込むと、彼は「おーい、逃げるなんて冷たいな~」と、ニヤニヤしながら猫撫で声を出した。
この男、相手がこれだけ冷淡な態度をとっても、メゲるということを知らないらしい。試しに、こいつの神経を切断して直径を測ってみたいよ。五センチぐらいあるんじゃないのか。
「あのさ、一条とはどういう関係なの? ただの友達?」
アンタに答える必要なんてない、と言いたいのを堪えていると、舐めるようにボクの全身を眺めていた彼は「いいねえ、オレのタイプだよ」などと、とんでもないことを口走ったため、さっき口から飛び出た心臓は瞬間冷凍されてしまった。
タイプ?
ボクが好みだってこと?
かつてブタだと、二度と現れるなと罵ったこのボクを、かっ!
「目がぱっちりしているところなんか、バンビちゃんって感じで可愛いよなあ」
バンビちゃん?
誰が?
豚から鹿に昇格というわけですか、へえ。
それにしても、バンビという名称を聞いて小鹿を連想できる若者はそう多くはいないだろう。こいつの年齢が怪しくなってきた。本当に高三? そういうボクも知ってるんだけど。
ムカつきまくっているこちらの心情などわかるはずもなく、竜崎は「マジで一目惚れしちゃったよ」などと、とぼけた顔でノー天気なセリフを口にした。
ふーん、一目惚れだってさ。昔むかし、ボクもアンタにそうだったけどね。因果は巡るって、関係ないか。
だからしつこくつきまとってくるのだとボクは合点した。柏木さんという人がありながら、彼の立場はどうなるのって、尻軽男にそんな道徳は通用しやしないけど。
あ、そうか。ダイエットに成功したボクはスリムで女顔の柏木さんとタイプが似ている。竜崎のストライクゾーンに入ったわけだ。
思いがけずボクは「生まれ変わって見返してやる」という誓いを果たしていた。すごい成果だ、拍手。パチパチパチ。
ただし、彼はボクがあの時の白ブタとは気づいていないから、正式に見返したわけじゃないけれど、復讐劇の第一幕終了ってところかな。
「可愛いよ、ホントに可愛い。食べちゃいたいぐらいだ」
またしても竜崎が陳腐なセリフを吐く。ええい、食われてたまるかっての。
ボクの脳裏には大草原で鹿の一種を追いまわすライオンの姿、野生の王国みたいな映像が映し出されていた。もちろんオーケストラ演奏の壮大なバックミュージックつきで。頻繁にターゲットになってるあの鹿はアスパラ、じゃなくてインパラだっけ。正確にはシカではなくレイヨウの仲間だけど。
それはともかく、食べちゃいたいなんて言葉をよくぞ平然と言えるものだと呆れていると、ヤツは「ねえ、食べてもいい?」と耳元で囁き、肩に触れようとしてきた。
『触るなっ!』
喉まで出かかった言葉を飲み込み、ボクは肩の上に乗ったヤツの手を無言で払うと、サッと身体を引いた。
ムキになっちゃいけない、それは心の動揺を表明しているようなもの。あくまでも冷淡に、付け入る隙を与えずに、をモットーに、鉄壁の守りでヤツの誘惑をはねのける。こいつの恋愛遍歴を彩る一人に加えられてなるものか。
冷たく取り澄ますボクを見た竜崎は唇の端にいやらしい笑いを浮かべた。
「簡単にはなびいてくれないみたいだね。そんなふうにされると、ますます燃えてくるんだな、これが」
ますます燃えるだなんて、『冷静に対応しましょう作戦』は逆効果なのではと、疑問に思い始めたボクに、図に乗ったヤツの触手が伸びてきた。
「一度でいいからデートしようよ。そうすればオレの良さがわかると思うぜ。ね?」
そんなの、わかりたくもない。
どうやって逃れようかと考えを巡らせているところへ、こちらに向かって廊下を歩いてくる数名の足音が聞こえた。足音の主はなんと、風紀委員の連中だった。
「あれ、拓磨」
「怜、待っててくれたの?」
海斗と柏木さんが同時に声を上げた。
「ま、まあな」
予期していなかった恋人の登場に、まさかボクを口説いていたなんて言えるはずもない竜崎が言葉を濁す。
このタイミングを逃すまいと、竜崎の魔の手から逃げ出すと、海斗が慌てて問いかけてきた。
「いったいどうなってんだよ?」
竜崎から一方的に迫ってきたんだもの、ボク自身が心苦しく思う必要はないのに、海斗の視線が怖い。
ボクは無言のまま教室に戻り、カバンを手にして校舎を出た。
海斗は追ってこなかった──と思ったのは大間違いで、校門の前でしっかり待ち伏せされていた。
「よう」
腕組みをして斜に構えた彼の口調は冷ややかで、こちらを咎める雰囲気に満ちている。
「何で逃げるんだよ」
「逃げてなんかいないよ」
そこで一息つくと、ボクは苦しい言い訳を続けた。
「疲れたから早く帰りたいだけ」
「挨拶もナシにか?」
「ヤバい自由業の人みたいなこと言わないでよ」
そこでボクの腕をガッチリとつかんだ海斗は「それで、竜崎とは何話してたんだよ」と尋ねた。
いけ好かない先輩とはいえ、いきなり呼び捨てになっているが、ボクと話していたことがそんなに気に入らないのか。
「何って……一条の友達かって訊かれただけだって。ボクが七月二十八日の十三番とは気づいていないし、こっちから教えてやる必要もないから黙ってた」
じつは迫られたという事実を伏せて告げると、本当にそれだけかと言いたげな視線が向けられる。もしやバレてる?
「……言ってやりゃよかったじゃねーか。あなたがお断りした十三番はこんなにキレイになりましたってさ」
「だから、教える必要ないって。ボクが痩せたことがそんなに悪い?」
「ンなこと、誰も言ってねーよ。メタボとか、セイカンシュウカツ病とかにならなくて、健康的でいいじゃねーか」
それを言うなら生活習慣病だ。
「だったら何も……」
つかまれた腕に指が食い込んだ。
「未練があるんだろ?」
「しつこいな、そんなものないよ」
「うまくいきゃ柏木さんを押し退けて、めでたし、めでたしって」
竜崎の恋人になれるという、かつての願いが叶うのに、せっかくのチャンスを逃すなんて、とも聞こえる口ぶりだ。
こいつ、何を考えてるのかさっぱりわからない。だんだん腹が立ってきた。
「いったい何が言いたいんだよ? ボクがあいつとつき合った方がいいと思ってるわけ?」
そう抗議すると、海斗はボクから視線を逸らした。
シカトかよ?
森岡胡桃の件の疑惑も手伝って、怒りのボルテージが急上昇したボクは海斗の顔を睨みつけると啖呵を切った。
「わかったよ。お望みどおり、あいつを誘惑してやる。それで満足だろ?」
「満足って、オレはそんなこと、なーんも期待してねーし」
「デートしまくって、ラブラブぶりを見せつけてやるよ。ただし、浮気された挙句にフラれるなんて、柏木さんの二の舞じゃシャレにならないから、さんざん振り回して夢中にさせて、こっちからポイ捨て。いい作戦だろう?」
「だから、そんなこ……」
「キミは知らないだろうけど、ボクはあのとき、あの男にブタと呼ばれた屈辱を忘れちゃいない。二度とオレの前に現れるなって、そこまで言われたんだからな」
とうとう口にした事実に、海斗の顔色が変わった。
「復讐してやる。そのために頑張ってダイエットしたんだ。さあ、復讐劇の第二幕、始まり、始まり~」
歌舞伎か何かの演目幕開けを真似て、カンカンカンと拍子木を打ち鳴らす格好をしてみせたボクはなおも皮肉っぽく続けた。
「海斗はのんびりと幕の内弁当でも食べて、どんなに楽しい舞台になるか、せいぜい高みの見物でもしていなよって」
すると、彼はつかんでいた腕を乱暴に引っ張った。
「何するんだよ?」
「いいから来い!」
海斗は正門からグランドの方向に戻り始めた。強引度マックスだ。
腕力では全く敵わないボクが引きずられるような格好で連行された先はグランドの隅にある、授業で使うボールやロープなどが収められた小さな体育倉庫だった。
鍵が壊れているため、自由に出入りできると知っていたらしい海斗はその中にボクを引きずり込むと扉を閉め、その勢いで内部まで入り込んでいたグランドの土が埃のように舞い上がった。
「……な、何のつもり?」
薄暗がりの中でも海斗の険しい表情がわかって、かすかな恐怖を感じる。
「静かに」
彼は両手でボクの両方の二の腕を捉えて動けないようにすると、いきなり唇にキスをしてきた。
「んっ……!」
女の子とすらキスした経験はない、つまりボクにとってはファーストキス。
柔らかいものを押し当てられ、突然の展開に目を白黒させているボクに、海斗はこう言い放った。
「竜崎とデートなんかしたらキスぐらい、すぐに奪われるに決まってる。その前にオレがやっておこうって。予防接種だと思えばどうってことないだろ」
「予防って、何考えてるんだよ?」
「オレのこと、嫌いか?」
その質問の意図はどこに?
「嫌いなんて、そんな」
「だったらいいじゃないか」
戸惑い、混乱するボクには構わず、彼はキスを続け、舌まで絡めてきた。ファーストキスにしては濃厚すぎる。
そしてさらに、ワイシャツのボタンをはずして肌に触れようとしたけれども、耳元で聞こえる荒い息づかいに慄いたボクはつい、彼の身体を突き飛ばしてしまった。
「やめろよ!」
そこで我に返ったらしく、海斗はショックを露わにした様子で、
「……悪かった」
ポツリとそれだけ言うと、逃げるように倉庫の外へ出て行ってしまい、その場には茫然としたままのボクが取り残された。
……④に続く