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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

BV狂騒曲 ②

    第二章  夏休みの決意

 夏休み序盤に味わった失恋、その痛手はしばらく続いた。食欲をなくすなんて、生まれて初めてのことだった。

 毎日自宅で引きこもり状態になったボクはその日も朝から鬱々と考え事をしていた。多くを期待していたわけじゃない。ただ、ありがとうとだけ言って、菓子を受け取ってくれさえすればよかったのに。

 相手が誰であれ、とりあえずは受け止めるのがBVデーにおける暗黙の了解事項じゃなかったのか。ルール違反も甚だしい。

 ボクの絶望はやがて竜崎さん、もとい、竜崎への憎しみに変化した。

 断るなら断るで、もっと他に言いようがあるだろう。それをいきなりブタ呼ばわりするなんて、消えろ、二度と現れるな、なんて、あまりにもひどすぎる。

 次にボクの怒りの矛先は株が大暴落した一条へと向けられた。

 あいつめ、竜崎がああいうヤツだと正体を知っていながら、ボクがこんな目に遭うとわかっていながら、予約券を手配したのか。そのくせ、自分は三人にコクられてルンルン(死語)気分だなんて、バカにするのも程がある。

 あのあと、まぬけなダルマめ、ざまあみろとばかりに、舌でも出していたのではと勝手に想像したボクはムカつきのあまり、吐き気がしてきた。

 でも、そのわりには走るボクに驚いていた様子だった。あんな結果になるとわかってはおらず、ざまあみろなんて思わなかったんじゃ……って、真相はどうなんだろう? 

 あー、こんなに鬱々していちゃいけない、気分を変えよう。特に観たい番組があるわけじゃないけど、とりあえずテレビのリモコンのスイッチを押す。

 広さ十畳ほど、我が家のリビングに置かれたソファに深く腰掛け、観る気もなしにテレビを観ていると、ふいに、移り変わる画面の中から何か呼びかける声が聞こえてきた。

「えっ、誰か呼んだ?」

 驚いてそちらに神経を集中する。

『……アナタもこの夏、生まれ変わろう!』

 いったい何事かと、しばらく画面を眺めていると、それは放映中の番組のスポンサーの宣伝だったらしく、同じコマーシャルが繰り返して流れ始めた。

『ほら、冬の間サボッていたから大変』

 画面には困り顔の女の人のアップが映し出されている。そうか、これはエステサロンの宣伝だ。水着姿になる機会有りの夏、エステに通って痩せてみてはいかがですかという内容だった。

『アナタもこの夏、生まれ変わろう!』

 連呼される言葉の響きはボクにとっての啓示、感銘を受けて微動だにしないでいると、リビングの隅に置かれた電話がやかましく鳴り始めた。

「ちょっと拓磨、そこにいたなら出てよ」

 母さんがぶつぶつ文句を言いながら、台所からこちらにやってきて受話器を取った。

「はい、矢代でございます。あら、伯母さん。それでどうでした?」

 電話の相手は母さんの母の姉で、その人の息子、すなわち母さんの従兄弟にあたる勇作さんが二人の間でもっぱら話題の人なんだけど、どうして話題なのかといえば、五十歳を目前にして未だに独身の勇作さんにお見合いの話が持ち上がったからだ。

 見合いの相手は母さんの知り合いのつてで紹介された人だから、ウチに逐一経過報告されるわけで、ところがどうもうまくいかなかったらしい。

 相槌を打つ口ぶりから、そうと察したボクが耳をそばだてていると、適当な返事をして受話器を置いた母さんは怒り心頭、いきなり文句のオンパレードになった。

「まったく、もうすぐ五十がくるっていうのに厚かましい。選り好みしている場合じゃないって、どうしてわからないのかしら」

 関わりたくはないけれど、このまま知らん顔をしようものなら大いなるトバッチリがきそうなので、ボクは恐る恐る尋ねた。

「お見合い、どうだったの?」

 すると母さんはここぞとばかりにまくしたてた。

「相手の女の人は四十過ぎなんだけど、年をとっているし、バツイチだからダメ、ですって。あの男ったら何様のつもりかしらね。よく鏡を見たらどうですか、この身の程知らずって言ってやりたいわ」

 母さんの罵詈雑言はさらに続く。

「エリートでもお金持ちでもない、禿げ頭で中年のブ男が若くてキレイな女にモテるわけないじゃない。もっと己を知るべきなのに、そういう点をわかっていない男が多すぎてイヤになっちゃう」

 それからしばらくの間、ボクは勇作さんの悪口を聞かされる羽目になった。挙句の果てに「あんただってもっと痩せないと、彼女なんてできないわよ」と言われた。なんだ、けっきょくトバッチリを受けてるじゃないか。損した気分だ。

「まったく、あんたときたら。小さい頃はとっても可愛くて女の子みたいって、ご近所でも評判の美少年だったから、アイドル事務所にでも入れようと思ったのに。こんなに太っちゃって、もうガッカリだわ」

 それ、某J事務所のこと? 息子を売れっ子アイドルにして、ひと儲けしようと目論んでいたのだろうか。

 けれども、母さんの言っていることは正しい。

 自分がその人に相応しくなければ、相手にばかり若さや美しさといった理想を求める資格なんてない、当然だ。

 そこまで考えてボクはハッとした。ボク自身はどうなんだろう。

 こんなに太って醜い姿をしていながら、学園のプリンスと釣り合いがとれるとでも思っていたのか。ダルマだのブタだのと言われることに慣れてしまって、自分を変えようともせずに恨み言を並べていても始まらない。

 キレイになって、自分をフッた彼氏を見返してやりたいという女の子のセリフがよくわかった。まさにその心境だ。ボクはこの夏休みに生まれ変わる、生まれ変わって竜崎と一条を見返してやる! 

 それから一カ月余り。

 日々のダイエットに加えて、貯めておいたお年玉やら小遣い等、全財産を美容院などにつぎ込んでの、ボクの夏休み全身改造計画が完了した。

 仕上げは上々、あとは二学期開始を待つのみ。明日の始業式を前に、ボクはわくわくして眠れなかった。

    ◇    ◇    ◇

 始業式当日。廊下からこっそりと教室内を覗くと、先に登校した一条がロッカーの前に立っているのが見えた。よし、手始めにヤツを驚かせてやろう。

「おはよう」と声をかけたボクを見た一条は目を大きく見開き、口をあんぐりと開けたまま返事をしなかった。

「どうしたんだよ」

「ダル……マ、マジで?」

「学生証を見せようか?」

「いや、そんなことはしなくてもいいけど、すっかり別人になっちまったから……」

 ボクは一条の反応に大満足だった。

 別人、たしかにそのとおり。

 最後の仕上げに訪れた美容院にて、目前の鏡に映り込んだのは母さんが言ってたとおりの、ピッカピカの美少年。

 ここまで変貌を遂げた自分が信じられなかった。こんなにキレイになれるなんて、失恋パワーって大したエネルギーだと妙な感心をしたほど。

 肉襦袢を脱ぎ捨てた身体はすっきりしなやかになったし、ぽちゃぽちゃとした顔も引き締まった上に、メガネをはずしてコンタクトにしたので、目元もはっきり。もちろん髪型も流行のスタイルでオシャレにキメた。

 ともかくこれで、色白の肌にチャームポイントの大きな目と長い睫毛の持ち主は決してブサメンではないと自信を持って言えるようになったのだ。

 そこへどやどやと教室に入ってきたのはバスケ部の連中で、そのうちの一人、およそ高校生らしくない、オヤジ臭い容貌の岩田がこちらに近寄ってきた。

「よう、一条。ブダマン見なかったか?」

 岩田の言葉を受けたお調子者の加藤がふざけた口調で「久々にパシリに使ってやろうぜ。動いた方がダイエットになるぞ、ってなあ」と茶化して言うと、仲間たちがゲラゲラと笑った。

 パシリとは一年の頃、こいつらに『白ブタマークの宅配便』として、購買まで昼メシの買い出しを強要されたことが何度もあるから。今は部活の後輩たちにやらせてるみたいだけど。

 それにしてもヤツら、目の前のボクが全然わからないらしい。本人を前に、悪口を言いまくっている。

「あ、えっと、その」

 何か言いたげな一条に、黙ってろと目で合図を送ると、ボクは加藤の前に進み出た。

「で、何を買ってくればいいの? おにぎり? それとも焼きそばパンかな?」

 その瞬間の加藤の表情は見ものだったよ。壁がなかったら百メートルぐらい後ろに吹っ飛んでいたかもしれない。

「えっ、そのそのあのあの……」

 舌がもつれてまともにしゃべれない加藤、他の連中も幽霊に出会ったような顔をして、ボクを遠巻きにした。

 こんなに面白い反応が返ってくるとは思ってもみなかった。次は何と言ってやろうと考えながら、ボクは不敵な笑みを浮かべてみた。自分に自信が持てるって素晴らしい。

「できれば昼休みまでに買い物一覧を作っておいてくれると助かるけど。宅配稼業も忙しいからね」

 イヤミたっぷりに言い放つボクをまともに見られないらしく、加藤たちはおどおどしながらお互いに顔を見合わせている。

 そのうちにリーダー格である岩田が「そ、そんな、ブ、じゃなくてタク……矢代くんに買い物を頼むなんて失礼なこと、するわけないだろう」などと見え透いた言い訳をして、ボクの機嫌をとった。

 なんてしらじらしい。見かけが変わると、こんなにも態度が変わるものなのか。人間、中身が大切なのはわかるけど、ある程度は外見で判断されるのが現実だ。まあ、かくいうボクも見た目だけで竜崎に憧れていたのだから、人のことは批判できないが。

 それにしても、こんな取るに足らないヤツらの顔色を窺い、言われるがまま命令に従うなんて愚かな真似をよくも続けていたものだ。過去の自分に腹が立つ。

「ああ、そう。じゃあ、買い出ししなくていいんだね。よかった、昼休みはゆっくりさせてもらうよ」

 突き放したつもりのボクだったけど、彼らはその場を動こうとはせずに、こっちをチラチラ見ている。

 なんだかムカつくので「まだ何か用?」と鋭い言葉を投げつけてやると、もじもじしていた岩田は慌てて向こうへすっ飛んでいった。ざまあみろ。

 すると、黙って経緯を見守っていた一条がおずおずと話しかけてきた。

「あのさ、ダル、じゃなくて矢代、おまえに謝りたいことが……」

「えっ?」

 いいタイミングで始業のベルが鳴った。

「今日部活ないから、帰りにちょっとつき合ってくれよ。奢るからさ」

 一条は返事を待たずに歩き始め、ボクも仕方なく自分の席に着いた。

 謝りたいことって何だろう、やっぱりこの前のBVデーの件かな? 他に理由が思い当たらないけれど……

 でも、当初ボクが想像していたような、愚かなブタを笑い飛ばしてやろうといった悪意がないことだけはたしかだ。安心感が胸中に広がる。

 やはり一条はいいヤツなんだ。竜崎の正体をよく知らないまま、ボクに予約券を渡してしまったと後悔しているに違いない。

 さて、問題の放課後、昇降口にて。一条が先に待っていた。

「駅前の店でいいよな」

 決めつけるように言うと、彼は先に立って移動を開始した。どこまでも強引だ。

 学校の正門をくぐって少し行くと駅前の商店街にぶつかる。どこの町にも見られるありきたりの店並みには学生御用達の店である書店、スポーツ用品店、コンビニ、喫茶店にゲームセンターなどが並ぶ。

 ここのファスト・フード店は一階で買った商品をその場で食べる二階席が特に人気で、行けば必ず誰かに会う場所だ。それぞれ好みの品を注文したボクたちは商品が乗ったトレイを手に、その二階席へと向かった。

 窓際の席のひとつを陣取ってテーブルにトレイを置くと、コーラの入ったカップの蓋にストローを突き刺してから、一条はボクの方に向き直った。

「それだけか、やっぱ食わないな」

 ハンバーガーセットを頼んだ一条に対して、ボクはアイスコーヒーのみ。ミルクとシロップは入れない。

「ダイエットしたんだろ、それもかなりキツいやつ。そうでなけりゃ、そこまで一気に痩せないって思って」

「ま、まあね」

「悪かった。その、ダルマって呼んだこと」

「へっ?」

 呆気に取られたボクの目の前で、彼はしょげた様子でストローをいじくっていた。いつも自信満々、横柄ですらあった男とは思えない姿だった。

「そうだよな、こっちは親しみを込めてるつもりでも、デブって言ってるのと同じだし。おまえがそこまで気にしてたなんて、配慮が足りなかったっていうか……よく言われるんだ、オレ。デリカシーがないってさ」

 ぽかんとしたままのボクだったが、ようやく彼の言葉の意味するところを理解した。

 つまり一条はボクが彼に「ダルマ」と呼ばれたのを気に病んで、無理なダイエットを行なったと思い込んでいるのだ。だから「謝りたい」と言い出したのだろう。

「そんな、キミのせいじゃないよ。っていうか、ダルマって呼ばれたのを気にして、ダイエットしたわけじゃないし」

 健康のためにとか、体育の成績を上げたいからとか、思いつくままに理由を並べると、一条は何とか納得したようだ。

「そうか。それならいいけど」

 七月二十八日の出来事は一切話題に上らない。彼としては、あの時何があったのかはまったくわかっておらず、また、何も気づいていないのだろう。

 デリカシーがないと批判されるぐらいだもの、アンテナが低くて鈍感なヤツだとわかったが、それでも一条の人間的な面を見せられて、ボクはホッとしていた。容姿端麗で自信に満ちた男にも弱点はあるものだ。

 加えて、ボクに対して親しみを抱いた上での「ダルマ」だったという話と、激ヤセしたボクを心配し、気遣ってくれていたとわかると、嬉しくて胸の内がほんわりと暖かくなってきた。

 こういうのを恋に落ちる瞬間というのだろうか……って、恋ぃっ? 

 ウッ、ウソだ、マジで? いきなりそんな展開ってアリ? 

 自分の感情がコントロールできずに焦る。あー、どうしよう。落ち着け、落ち着くんだ。冷静になれ。

 平静を装いつつも、内心あたふたしているところに珍客がやってきた。店内に流れていた、明るく軽快な音楽をかき消すようにパタパタと足音がやかましく響き、しかも、こちらに近づいてきたのだ。

「あーっ、一条じゃん。久しぶり~」

 話しかけてきたのはイマドキ女子高生。ばっちりメイクで制服のプリーツスカートは当然ミニ丈、黒のハイソックスを履いた、いかにも頭の軽そうな女子だった。カバンの持ち手に有名キャラクターのぬいぐるみがじゃかじゃかと吊り下がっている。恐らくケータイには本体より大きいストラップがついているだろう。

「なんだ、誰かと思えばモモカか」

「なんだはないでしょ」

「わかった、わかったって」

 おバカ女子高生なんぞに愛想よく応える一条、そんな様子を見たボクの胸中に不快な感情が湧くが、それが嫉妬だとは認めたくなかった。

「なに、ここ、よく来るの?」

「まあ、たまたま」

「ふーん」と不服そうに鼻を鳴らしたモモカはそれからボクに視線を移した。

「新しいカノジョ?」

 カノジョって……一応、男なんですけど。

 一条は居心地が悪そうに答えた。

「女じゃねーよ、男。見りゃわかるだろ」

「えー、ホントに? じゃあ、カレシ?」

「はあ?」

 仰天するボクたちに、そっちの高校は男同士のカップルが当たり前だからと、彼女は言ってのけた。どうやら当校の実態はここらの地域一帯に広まっているらしい。入学するまで知らなかったボクはモグリだったわけだ。

「だから彼氏じゃねーって」

「カレシって呼ばないか。恋人?」

「いいかげんにしろよ。友達っ!」

 苛立つ一条に向かってペロリと舌を出したモモカは「じゃ、またねー」と手を振り、自分の彼氏らしきヤンキー男のところに走り寄って行った。

 やれやれと溜め息をついたあと、一条は申し訳なさそうに弁解した。

「わりィ。あいつ、小・中と同じ学校でさ。誰に対してもテキトーっつーか、人に対する口のきき方ってもんを知らねえンだよ」

「いいよ、気にしてないし」

 嘘だ。

 本当はすっごく気にしてる。

 理由その一。チャラ男に見える一条だが、そうでもないと安心したとたんに、チャラ系の女子と親しかったとわかり、やっぱりチャラ男だと再認識したこと。

 理由その二。一条の中学時代を知っているモモカに新しい彼女かと訊かれた。つまり、以前に彼女がいたか、今もいるかもしれないということ。

 取るに足らない理由がボクをチクチクといたぶる。

 チャラ男云々は一条のキャラに落胆したという意味で納得がいくけど、いや、それでもやっぱり彼の良さは変わらないと思うけど、彼女の件、どうして彼女がいちゃダメなんだ? 

 これだけカッコよければ、そういう相手がいて当然。女どころか、男たちにもモテまくっていたほどだし。そんな、わかりきったことを不快に感じるなんて……

 さらにボクは心の奥に潜む三つめの理由に、敢えて気づかないふりをしていたが、痺れを切らしたそいつはとうとう表舞台にシャシャリ出てきてしまった。

 で、理由その三。ボクの存在を恋人かと訊かれて、一条は友達だと答えた。すなわち、友達以上の感情は持っていないということ。

 そんなの当たり前だ。むしろ、仲良くできそうにないと敬遠していたクラスメイトとの関係が友情へ発展したと喜ぶべきだ。それなのに、いったいボクは彼に何を期待して、何に失望しているのだろう。

 まさかまさかの、さっきの展開。本気で恋したってんじゃ……

 あーもう、何やってんだ、ボクは。

 失恋したばかりで恋だなんて軽々しい。彼の友情を自分に都合良く解釈した結果じゃないか。

「どうかしたのか?」

 不思議そうな表情をまともに見られず、ボクはアイスコーヒーをすべて喉に流し込むと「何でもない。帰る」と突き放すように言い、立ち上がろうとした。

「おい、ちょっと待て……あ」

 一条は何か言いかけて口をつぐんだ。

 彼の視線の先をたどって振り返ったボクは次の瞬間、身体が凍りついたように動けなくなってしまった。

 階段を上がってきた二人組のうちの片方は竜崎だった。一学期の間中、追いかけていた人だもの、見間違うはずがない。

 飲み物のカップを手にした彼は連れの背中を押すようにしながら階段のすぐ脇、この場所では一番奥の席に腰掛けたため、窓側にいる二人連れには気づいていないようで、ボクはいくらか安堵した。

 キレイになって見返してやるのなら、会ったって別に構わない、むしろ変貌を遂げた自分を見せびらかしてやればいいじゃないかと言われるかもしれないけど、新学期は始まったばかり。いくらなんでも早すぎる、まだ心の準備ができていない。

 それにしても、あの位置に座られたのではここを引き揚げるわけにはいかなくなった。階段を下りる際にバッチリご対面してしまうからだ。彼らが帰るまでじっとしているしかない。

 すると一条が「柏木さんと一緒か」と呟いた。

「柏木さん?」

「ああ。三年生で、先輩の今の……」

 そこまで言いかけて彼は首をひねった。相手が男の場合、彼女と表現するのはおかしいが、彼氏というのもピンとこない。さっきのモモカもそれで迷ったみたいだし。

「恋人ってこと?」

 そう促すと、一条は気まずそうに頷いた。残念ながら恋人になれなかったボクを慮っての態度だろう。

「この前の合格者だってさ。バスケ部内じゃ知らないヤツはいないし、オレは風紀委員会で一緒だから、前から知ってる人だし」

 合格者つまり、バースデー兼BVデーにて竜崎にお菓子を渡したメンバーの中で、彼のおメガネに適った者という意味だ。

 柏木さんはスリムな体型で、女装すれば女で通りそうな美少年。ああいうのが竜崎の趣味なのか。当時のボクじゃ、とうてい無理。無謀すぎる挑戦だった。

 それにしてもあの時、ただの「ごめんなさい」じゃなくて、ブタ呼ばわりまでされたと知ったら、一条はいったいどんな反応を見せるだろうか。

 もっとも、彼にはこれ以上の負荷を与えたくないから、黙っておくことにしよう。

「残念だったな。その……」

「もう全然気にしていないから。そっちも気を遣わなくていいよ」

 本心だった。

 運命の人だなんて、ちゃんちゃらおかしい。今のボクには竜崎への未練など、一切残っていない。

 それに、新しい恋の予感も……あー、またそんなこと考えてる。不謹慎だ。

 違う話題を見つけようとしても、何も思いつかない。不愉快な存在のせいで、ボクたちはお互いに黙り込んでしまった。

 しばらくして、モモカがゴミを捨てるついでに近寄ってきた。

「さっき言い忘れたんだけどー、クルミのこと、ちゃんと訊いておいてよねー」

「あー、はいはい。わかった」

 面倒臭そうに答える相手に「絶対だよ」と念を押した彼女、そのまま店外へ出たと見た一条はチェッと舌打ちした。

「ったく、いちいちうるせーの」

「クルミ」って誰だ? 

 などと、詮索する気も失せかけていたボクはふと、背中に視線を感じて振り返ってしまった。

 げげっ! 

 竜崎がこっちを見ている。ボクは慌てて前を向いた。

 女子高生のカン高い声に反応したのだろう。そこに部の後輩である一条がいたからか、それとも、あの時のブタがいると、ボクの正体に気づいたのか。

 視線を受け止めているボクの背中の部分にススーッと冷や汗が流れた。冷房が効いた室内でこんなに汗をかくなんて、なかなか体験できないことだ。

 いくらなんでも話しかけてはこないだろうけれど、見られていると思うだけで居心地が悪い、悪すぎる。早く帰れ! 

 それからどれくらいの時間が経ったのか、ようやく竜崎たちが立ち去ったとわかると、ボクはぐったりとしてしまった。

 緊張していたのは一条も同じらしい。ホッとした様子で「とにかく、これからはちゃんと名前で呼ぶから。矢代がいい? それとも拓磨?」と訊いた。

「どっちでもいいよ」

「ヤシタクは?」

 キ〇タクっぽくしたのか。かなり無理がある。

「略す必要はないと思うけど。却って言いにくいし」

「じゃあ、拓磨で決まり。オレのことも海斗って呼べばいいから」

「う、うん」

 ボクが同意すると、一条もとい、海斗は「いかにもダチって感じでいいよな」と、満足そうに笑った。

 ファーストネームを呼び捨て。二人の距離が一段と縮まった感じだが、所詮はダチ。これも友情の延長上にあるだけということなのか。

 ボクは嬉しいような、切ないような、複雑な気持ちを抱えながら、気を紛らわそうとストローを吸った。空っぽだった。

                                ……③に続く