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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

紅蓮の炎 ⑥ ※18禁1🔞

    第六章  朝帰りの二人

 白い外壁に開放的なエントランス、最近建てられたばかりの近代的なシティホテルにチェックインを済ませた右京は「部屋は五階だ」と言って大志の肩を押した。
 屋敷に帰ってこない時はここが彼の定宿らしい。慣れた手つきでカードキーを扱う姿を見つめながら、大志はドキドキと高鳴る鼓動を感じていた。
 これからどうなるのか──それは大志自身が望んでいた展開でもあり、恐れていた展開でもあった。
 十七歳でもちろん童貞。女性との経験もないのに男同士なんてもっとわからない。不安と戸惑いと、僅かな期待が交差する。
 部屋の中へ入ると同時に、大志の身体ごとベッドの上に倒れ込むようにした右京は唇を激しく吸ってきた。
「ん……ん、ん」
 キスなら何度か交わしたけれど、こんなに激しいのは初めてだ。絡まる舌のせいで息が詰まる。
 苦しくてイヤイヤをすると、今度はボタンをはずすのももどかしく、シャツがたちまちのうちにはだけた。
 暗がりに浮かび上がった自分の白い素肌に冷たい指先が触れて、大志はゾクリと身を震わせた。
「やっ……」
「感じるか?」
 右京は大志の耳朶を噛みながら、両手で胸の両方の突起を摘んだ。そこは思ったよりも敏感で、小さく尖ってきたのがわかる。
「んぁ……あ」
 しばらく刺激を続けたあと、右京はその滑らかな舌で首筋から胸へと肌を舐め回した。まるで獲物を弄る蛇だ、舌が突起の片方に辿り着くと、大志は自分でも驚くような声を上げてしまっていた。
「やっぱりここはイイか。もっと感じさせてやろう」
 男の扱いに相当手慣れているのが憎らしい。右京は再び突起を口に含み、舌を使って舐ったり激しく吸い上げたりした。
「はあっ……ぅうん」
 強い快感が大志の全身を駆け回り、ジッパーを下ろされた時には既にその部分が頭を持ち上げていた。
「ほら反応してるぜ」
「やっ、やだ、見ないで」
「それはできない相談だ」
 ジーンズとトランクスが剥ぎ取られ、シャツの袖に両腕が通っているだけの、下半身剥き出しというあられもない姿になる。
 起ち上がったものを右手で扱きながら顔を近づけた右京は「ほら、誰かの手でされるのもなかなかオツだろう」とふざけた口調で囁いた。
「ふっ、う、うぅん、あん」
 いつものような反論の言葉も、皮肉も厭味も出てこない。出るのは喘ぎ声ばかりで、それも淫らで破廉恥な声、耳を塞ぎたくなるほどだ。
 こんなにも乱れた姿、自分だとは認めたくない。大志の意思とは裏腹に彼の分身は白い液体を噴き出し、その瞬間、何ともいえない快感が身体を走り抜けた。
「ああっ……」
 一度達してしまうと、とたんに無気力になる。右京は「まだギブアップするなよ」と言いながら、ぐったりと横たわる大志を引き寄せて四つん這いにさせた。
「な、何?」
「次はここだ」
「えっ!」
 右京はジェル状の液体を大志の秘孔に塗りつけてきた。ひんやりした感触に身が縮まってしまい「力を抜け」と注意される。
「そ、そんなとこ触るの?」
「男はここを使うと知らなかったのか?」
「知ってたけど……恥ずかしいよ」
「今のうちだけだ。そのうち触って欲しくてたまらなくなる」
 本当にそうなのだろうか。くすぐったいような奇妙な感覚だと思っていた大志はやがてそれが本当なのだと悟った。
「あっ、何か……イイ」
「わかっただろ? これからもっと気持ち良くなるからな」
 ゆっくりと円を描くように撫でていた指がやがて中に入り込み「くっ……」と息を殺して呻く。
 そんなところに指を入れるなんて、だが、辺りの肉壁を掻き乱され、耐えられなくなった大志は声を絞り出して身体を揺すった。
「はあっ、あっ、ふぅん」
 これでもかと、長い指の悪戯は続く。さんざん弄られたそこが何かを待ち受けるかのように、ひくひくと蠕動するのが感じられる。
「欲しくなってきたようだな」
 右京の、黒いボクサーブリーフの下から逞しいものが姿を現し、しっかりと上を向いて近づいてきた。
「ひっ……んあっ」
 奥へとねじ込まれて大志は悲鳴を上げた。重い、重すぎる異物感だ。
「じたばたするな、じきに良くなる」
 大志の中に踏み入った右京はさらに奥へと進むかのように、腰を前後に動かした。
「やっ、くっ、うぅぅ」
 苦しげに息を漏らす大志だが、やがて身体の奥から高まってきた快感が全身に押し寄せてきた。
「これって……何」
 難しいことはわからないけど、男同士とはこんなふうになってしまうものなのか。
 理性も嫌悪も戸惑いも、すべてかなぐり捨てた大志は己の本能に従い善がり声を上げ、右京は彼の白い臀部をつかんで激しく攻め立て続けた。
「もっと、もっと」
 求められるままに、この繋がりを失わないように。
 蛇は精力が強く、何時間も交わっていられると聞くが、右京もまさにそうで、これだけ動いても果てることを知らない。
 刀身はその硬さを失うことなく、ひたすら肉襞を擦り、奥を穿ち続ける。
 目の前が真っ白になり、自分が何を喚いているのかもわからなくなった大志は二度目の白い液がほとばしるのをやっと自覚したぐらいで、それでもまだ、身体の中の炎は消えることなく燃え続けた。
 欲情という名の炎……
 この身を焼き尽くす、紅蓮の炎……
 中にある右京がようやく終わろうとしているのがわかる。終わって欲しくない、ずっとこのまま繋がっていたい。
 大志は右京の名を呼び、それに応えるかのように彼は言った。
「次はこっちだ。前を向け」
 右京は大志の両方の脚をそれぞれ自分の肩に乗せた。さらに足を高く上げた位置から攻め込まれ、さっきとは違う感覚に襲われる。
 流れる汗、激しい息づかい、右京に翻弄され、彼に縋りついた大志は思わずその背中に爪を立てた。
 お互いにそれもわからないほど抱き合い、狂ったように求め合う。そんな二人の交わりは互いが尽き果てるまで続けられた。
 右京とひとつになれた──身体と気持ちを重ね合わせたひと時の興奮が過ぎ去ったあと、大志はようやく右京の背中のミミズ腫れに気づいた。
「あ……ゴメン」
「気にするな」
 苦笑いをする右京を見た瞬間、ぶわっと両目に涙が溢れてきた。
「さすがに痛かったか? 初めてなのに手加減しなくて悪かったな」
「ううん、痛みはそんなにないよ。ただ……」
 こんなにも右京が好き……なんて、今さら照れ臭くて口にできない。
「変なヤツだな」
 右京は大志の頭を自分の方に引き寄せると瞼に唇で触れ、涙を拭った。
 この人の本性は優しかった。
 今はもう、オレにとってかけがえのない大切な存在──だけど──
「さて……と」
 とうとう決意したらしく、憂い顔になった右京は気怠げに身体を起こすと、タバコに火をつけた。
 やっと得た心の安らぎの場所……それが脆くも崩れてしまう時が迫っているのを大志は感じ取っていた。
 このまま何も聞かずに過ぎてしまえば、だが、現実から目を背けて生き続けるのはとうてい不可能なのだ。共に堕ちる覚悟を決めた以上、痛みを知らなくてはならない。
「おまえ、四代目の遺言のせいで強制的に内弟子にさせられたと言ったな?」
 右京の問いかけに、大志はいくらか身を固くして答えた。
「オレを迎えにきたときにジイちゃんがそう説明したんだけど」
「それは初めて聞いた。おまえもそのときが初耳だったんだな」
「うん。遺言状って今度の命日に公開するものと二種類あるんでしょう? 最初のやつに書いてあったのかな」
「恐らくそうだろうな。それにしても、どうして自分のことだけ遺言されていたのか、おかしいと思わなかったのか? 他の連中は何でもなく内弟子入りしたぜ」
「それは……母さんが反対していたからかなって」
 頷いた右京は今からの話を黙って聞けと命じた。いよいよ生き地獄の意味に触れるのだと思うと、緊張が高まってくる。
「おまえの母親と六代目和久は過去に於いて深い関係にあった、つまりデキていたと、ずいぶん前に聞いたことがある」
「えっ! そ、そんな」
 いきなり聞かされたショックングな事柄に混乱し、何かを喚こうとする大志をたしなめて右京は続けた。
「だからこそ、自分の代わりに息子を送り込んで優遇してもらおうという意図が門倉皐月にあった、俺はそんなふうに間違った解釈をしていた」
「母さんはそんな人じゃない」
「勘違いしてすまなかった」
 それから右京は和久と皐月の実らぬ悲恋の経緯を話した。
「和菓子屋の娘が由緒ある静蒼院家に嫁ぐなんてとんでもない、格が違いすぎると、二人の交際は反対を受けたらしい。何しろ頭の固い連中が取り仕切ってる家だからな」
 今から二十年程前とはいえ、時代錯誤の家では充分有り得る話だ。
「五代目が生きていていれば、次男が後を継ぐ事態にならなければ、二人は結婚できただろうと思うと気の毒だ。けっきょく六代目は洸の母親を妻に迎え、門倉皐月は別の男と結婚して東京に移り住んだ」
 皐月と結ばれなかったことが和久をタラシな男にしてしまい、そんな彼に年貢を納めさせたのが真紀とあって、格は違っても再婚への反対はなかったらしい。
 ここまでならよくある陳腐なドラマの筋書きのようだが、このストーリーはそれで収まらなかった。
 和久と別れた時、皐月は既に妊娠していた。つまり──
「おまえの本当の父親は六代目だ」
「……うっ、嘘だっ!」
 頭を殴られたようなショックが大志を襲った。まるで全身の血が逆流したかのようで、くらくらと目眩がする。
 右京は暗い目をして「だが、事実だ」と言い放った。
「なぜ菊蔵がおまえだけを『大志様』と呼んでいるのか、気づかなかったのか? 俺はずっと気になっていた」
「そ、それは……あっ、そうだ! 亮太さんって、さんづけで呼んでた」
「おまえが六代目のタネだと知っていたからだ。四代目も承知していたからこそ、わざわざ遺言に記して、おまえをあの家に迎え入れるよう切望した。洸よりも先に生まれたおまえは六代目の長男になるからな」
 家元が、静蒼院和久が本当の父──
「そんな……そんなのって……信じろって言う方が無理だよ」
「当然だろう。だが、事実だ」
 右京は「事実だ」と、同じセリフを何度も繰り返した。
 そのとおり、受け入れなければいけない事実なのだ。少し落ち着きを取り戻した大志は「それ、家元は知っているの?」と訊いた。
「さあな。どこまで承知しているのか、その辺りは俺にもわからん。とにかくあの晩、おまえの言葉から遺言の件を知った俺は菊蔵から無理やり話を聞き出した。なかなか口を割らないんで骨が折れたがな」
「じゃあ、知っているのは四代目と菊蔵さんと八重さん?」
「いや、八重は知らないと思う。おまえのジイさんにも探りを入れたが、気づいてはいないようだった」
 そこまで話し終えると、右京は大きく息をついた。
「すべてを知ってしまった俺はもう二度とおまえには会わないようにしようと誓った」
「だから帰ってこなかった……」
「触れ合うこともできないのに同じ屋根の下にいたら、なおさら辛くなるのは目に見えている。離れるのがお互いのためだと自分に言い聞かせた。なぜだかわかるか?」
 既に受けたショックが大きすぎて何も考えられない。頼りなげにゆるゆる首を振る大志に右京は告げた。
「俺とおまえは従兄弟同士だからだ」
「あっ……!」
 自分たちは血の繋がった従兄弟、衝撃のあまり倒れ込む大志を抱き起こした右京は青ざめた顔に頬ずりをした。
「俺の存在はいったい何なのか、ずっと悩んでいた。こんな思いを味わうくらいならと自暴自棄になった。親父たちに八つ当たりするつもりで墓前にも行った」
 そこで大志に再会したのだ。彼はかの地に眠る人々が二人を巡り合せたのではないかと思ったらしい。
「おまえから『出て行く』と聞かされて、それなら好都合、そうと納得するべきだったのに……無理だ。忘れるなんてこと、できるはずがない。だから誰に何と罵られようと、俺はおまえと一緒にいると決めた」
 大志の肩を両手でがっしりとつかんだ右京は身体を揺さぶりながら、激しい口調で問いかけた。
「おまえはどうなんだ?」
 従兄妹あるいは従姉弟同士の婚姻は民法で認められてはいる。だが遺伝学上、あまり歓迎されるものではないし、現在の社会通念に於いて結婚に至る例は少ない。
 血の繋がりとはそれほどまでに重大なのだ。愛という言葉で貫き通せるほど、生易しいものではない。ましてや自分たちは世間一般的に認められない男同士だ、大問題になる。
 これが祖父を始めとする人々に知れ渡った暁にはいったいどうなってしまうのか、怖くて想像できない。
「オレは……」
「迷うのは承知していた。だから話をする前に抱いた。聞けば尻込みするとわかってたからな。卑怯な手だったかもしれないが……」
「後悔はしていないよ。でも」
「迷いがあるならこのまま帰れ。責めたりはしない」
 右京の瞳を見つめる大志の胸に、熱い想いがたぎってきた。
 ずっと、ずっと会いたかった。右京のいない日々は大志の生きる気力すら奪っていた。それほどまでに彼を愛するようになっていたのだ。
 だから……
「地獄でもどこでも」
「ふん、きまりだな」
 ニヤリと笑った右京の面に死神の姿が甦っていた。

    ◆    ◆    ◆

 右京が菊蔵に大志の外泊の件を連絡したところ、とにかく一度帰ってきてくれと頼まれたせいで、二人は翌早朝、彩月荘に戻った。
 朝帰りなんて初めてだ。
 落ち着かない素振りの大志とは対照的に、午前様が日常茶飯事である右京は静まり返った廊下を堂々と歩いていた。
 二階に上がって自分の部屋の前まで来た時、またしてもそこに貼り紙を見つけた大志は思わず悲鳴を上げそうになった。
「どうした?」
 大志の肩越しに覗き込んだ右京は顔をしかめた。
『売男ニ告グ 今スグ出テ行ケ』
 ミミズののたくった赤い文字はこの前と同じだ。売男という造語から、犯人が自分と右京の関係を把握しているのも察せられて、大志は心底恐ろしくなった。
 いや、もしかしたらもう、周知の事実になっているかもしれない。
 門倉大志は同性愛者である右京と一緒に、何処かで一夜を明かした。菊蔵が言いふらすはずはなくとも、和久に報告すればたちまち全員に伝わってしまうだろう。
 跡見屋の主人を通じて広まっている可能性もある。彼は店を訪れた大志たちに対して、何かを探るかのような遠慮のない視線を投げかけていた。
 その美しさが評判だった母親に似ているという美少年が『男を好む右京様』の寵愛を受けるようになった。これは御注進とばかりに和久の耳に入れようとするだろうし、息子への報告は言わずもがなだ。
 すぐさまビリビリと紙を破り取った右京は「なかなか粋な趣味だな」などと事も無げに言った。
「こういうの、前にもあったんだ」
「そうか」
 右京はいたわるように大志を見つめたあと「あまり寝ていないからな、とりあえず少し休め」と促した。
「うん……でも」
「俺のベッドは二人で寝るには狭いし、それにおまえが傍にいるとなると、また勃っちまう。とても休憩にはならねえからな」
 大志の身体を抱き寄せた右京は額に軽くキスをした。
「ちゃんと鍵はかけておけよ。何かあったらすぐ呼びに来い」
 休めと言われてもショッキングな出来事が多すぎて、とても眠れそうにないと思った大志だが、一応ベッドに入るとたちまち睡魔に襲われた。
 ──目を覚ますと、枕元の時計は十二時を示していた。太陽は南にあって、空高く昇りつめている。
「ヤバイ! 学校……って、今日は土曜日だった。よかった」
 やれやれと息をついたあと、大志は再びベッドに転がってぼんやりと天井を見つめた。
 右京との仲は知れ渡っていると覚悟した方がいいが、だとすればこれからどんな顔をして、この家の人々に会えばいいのだろう。気まずい思いをする前に、とっとと屋敷を出てしまおうか。
 ここを出ることは右京との永遠の別れのように考えていたが、同じ市内にいるのだ、会おうと思えば会える。この建物の外で会った方がよっぽど気が楽だとも思えた。
 祖父は家元に話をすると言ったけれど、昨日の今日じゃ、まだ連絡していないだろう。ダメでもともと、直談判してみようか……
 階段を下りたところで菊蔵に会った。
「これは大志様、お目覚めですか?」
「あ、はい。どうも」
 あたふたする大志、何もかも承知している相手だ、弱みを握られているというわけでもないのに焦ってしまう。
「ちょうど良かった。恐れ入りますが、少々面倒な頼み事を聞いていただけますか?」
「何でしょう?」
「残月庵に扇子を飾ってきてもらえるでしょうか。右京様にお願いするつもりでしたが、まだお休みのようなので」
「扇子?」
「こちらです」
 菊蔵は手にした蒔絵の箱を大志の目の前で開けた。その中にあるのは豪華な刺繍が施された年代物の小袱紗と黒漆の扇子で、どちらもかなり高価なものに思えた。
「これらは歴代の家元に受け継がれる形見の品でございます」
 茶の湯で使用する扇子は広げて使うという場面はまずないので、広げたり畳んだり、道具を拭いたりする袱紗などと違って、あまり劣化することはない。
 それゆえ静蒼院家では初代から伝わる扇子を歴代家元の証としている。つまり家元を名乗る者だけが所持できるのだ。
「それを飾ればいいんですね?」
「はい。小袱紗に乗せましたら、床の間にこのよう……」
 説明しかけた菊蔵だが、廊下の向こうから足早に歩いてくる音に口をつぐんだ。
「冗談じゃないわ!」
 ふいに聞こえてきたのは女の声だった。真紀が何やら喚いている。
「明日の日曜日に、なんて、いくら何でも突然すぎるじゃないの」
「そんなことはないだろう。今日中に連絡をとれば間に合う」
 彼女と言い争う、というより説得しているのは和久である。
「まだ一週間以上あるのよ」
「学校も休みだし、平日よりは休日の方が何かと都合がいいだろう?」
「そんなの言い訳だわ。別に当日じゃなくたって、過ぎてから最初の日曜ってことにすれば……」
「とにかく明日だ」
 そこまでやって来て、二人に気づいた和久が「やあ」と声をかけた。真紀の方は大志の姿を認めると、汚らわしいものでも見るかのような、嫌な目つきをした。
「扇子の手配は今、大志様に」
「ああ。よろしく頼むよ」
 和久はいつもと変わらぬ穏やかな笑顔でそう言い、脇をすり抜けて行った。
(父さん……本当に父さんなのかな? 何だかピンとこないけど)
 大志は和久の後姿を見送りながら、右京にそうと聞かされても未だ信じられない話を思い起こしていた。
 この際だから目の前の菊蔵に再確認すればと考えが至るものの、おいそれと切り出せそうにない。そうこうするうちに、
「遺言状の公開日が明日と決まりましたので何かと気ぜわしいと思われるでしょうが、御協力ください」
 そう言い残した菊蔵は慌しく行ってしまった。機を逸してしまい、仕方なく表に出て残月庵を目指す。
 戻ってきたところで右京に会った。
「どこへ行っていた?」
 そこで扇子を飾ってきたと説明すると、彼は「いよいよか」と呟いた。
「いよいよって、いったい何のためにこんなことするの?」
「遺言状の公開イコール次の家元が決まる。ただし、決まったからといって今すぐ実権が移るわけじゃないが、それでも早いうちに新旧の家元の間で扇子を受け継ぐ儀式を行なうのが慣わしだ。場所は残月庵で、二人だけでってのも決め事のひとつだ」
 そう説明したあと、右京は「なるほど、だから菊蔵のやつ、さっさと帰ってこいって言ったのか。それにしても急だな」と言い、首を傾げた。
「家元が独断で決めちゃったみたい」
 四代目の命日はまだ先だが、時を待たずして遺言状の話が出たのはなぜか。
「早いとこ次を決めて、邪魔者は消えろって意味かもな」
 右京は毒々しく笑った。
「オレ、七代目は右京がいいって思うけど」
 稽古の時に見せた、気品のある立ち振る舞いが思い出される。七代目は彼しかいない、そう感じた瞬間だった。
「ま、すべては四代目のジジイの胸算段だ。洸に決まりゃ俺に用はねえ。そうなったら俺も『かどくら』に居候して、菓子職人の修業でもするかな」
「えっ、右京が? 地道で根気のいる仕事だよ、務まると思え……」
 笑っていいのか何なのかわからない冗談に、大志は突っ込みを入れてやろうと相手の顔を見てギクリとした。
 言葉とは裏腹に、右京は思いつめた表情をしていた。真剣且つ深刻な雰囲気に、声をかけることすらためらわれる。
 再び菊蔵からの要請で明日の準備をしているうちに時はどんどん経ってしまい、あっという間に遺言状公開当日を迎えた。
                                ……⑦に続く