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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

紅蓮の炎 ②

    第二章  魑魅魍魎が蠢く屋敷で

 これから大志が会おうとしている人物こそが現在の家元、静蒼院和久(せいそういん わきゅう)である。
 裏千家に学び、静蒼院家初代家元となった静蒼院世久から数えて六代目にあたる彼は佐久が六十五歳で亡くなった五年前からは名実共に、家元として君臨している。
 和久の前妻は名家の出だったが、男の子を生んですぐに離婚。その直後に後妻として入り込んだホステス上がりの真紀(まき)という女が今ではこの屋敷の運営の実権をすべて握っていると言っても過言ではない。
 こうして現在の静蒼院家は和久・真紀夫妻に先妻の子の洸(あきら)と真紀が生んだ優華(ゆうか)の異母兄妹、雅久の遺児である右京という複雑な家族構成になっている。
 また、彼ら以外にも佐久の時代から仕えている菊蔵夫妻を筆頭に三人の若い内弟子が住み込んでおり、修業以外に様々な仕事も任されているようだ。体のいい使用人である。
 ということは、大志もいずれ何らかの仕事を任命されると思われるのだが……
「着きました。こちらが彩月荘です。さあ、中へどうぞ」
「うわぁ、これってお城?」
 静蒼院家という流派は月がお好みらしく、二つの茶席は昇月庵に残月庵、稽古場は花月堂とそれぞれ月という文字を含んだ名前がつけられている。
 この本宅の呼び名は彩月荘だが、口さがない連中は静蒼院城、抹茶御殿などと呼んでいるらしい。
 目前の建築物は天守閣こそないものの、それこそ城と呼びたくなる代物で、その華やかで豪勢な造りに大志は目を丸くした。
 質素を重んじる茶の湯の世界にはふさわしくないとも思えるが、この本宅、近年になって莫大な金をかけて建て替えられたのだ。やたらと成金趣味なのは真紀夫人の好みのせいだと、大志はのちに知った。
 これだけ広い敷地だと、何者かが侵入して隠れることのできる場所も多く、セキュリティーシステムを万全にする必要がある。それゆえ建物の周りの数箇所に防犯カメラが設置されているが、和の雰囲気に溶け込めずに浮いていた。
 引き戸の向こうに見えるのは三畳、いや、それ以上の広さがありそうな三和土で、右の壁の飾り棚には季節に合った花が活けられている。
 反対側には下足箱、その前に置かれた簀子の上で靴を脱ぎ、正面の屏風を横目に見ながら、左に折れて長い回廊を進む。
 いったい幾つ部屋があるのだろうか。襖のひとつひとつに違った日本画ふうの絵が描かれており、欄間の彫刻といい、檜の天井や廊下といい、和風建築の粋を集めた建物であることには間違いない。
「家元、門倉大志様をお連れしましたが」
 襖越しに菊蔵が声をかけると、中から顔を見せたのは真紀で「ご苦労さま」と言って老弟子をねぎらうと、大志に向かって毒を含んだ、それでいて妖艶な微笑を返した。
 齢は四十代半ばか、派手な化粧を施し、紫の地に赤や黄色の模様が入った小紋を着た彼女はかなりの美人だが、いかにも水商売上がりといった感じで品に欠け、家元夫人という座にはふさわしくない女である。
 室内に入ると、そこは客間として使われている十畳ほどの和室で、真新しい畳からは藺草の匂いが漂っている。
 水墨画の掛け軸がかかった床の間に背を向けた位置から、にこやかにこちらを見ているのが静蒼院和久その人だった。
 きっちりと分けた漆黒の髪には少し白いものが混ざってはいるが、五十代を目前にした中年男性にしては若々しく、にび色の袴が似合う偉丈夫だ。
 鷲鼻が気に入らないところを除けば、なかなかの男振りである和久は「よく来たね。さあ、こちらへお座りなさい」と愛想のいい笑顔をこちらに向け、その勧めに従って座布団の上に座り、和久と対面する格好になった大志はぺこりと頭を下げた。
「初めまして、お世話になります」
「この度はいろいろと大変だったね。さぞ疲れただろう、足をくずしてもかまわないよ」
 はい、と返事をしたものの、大志は落ち着かずに周りをチラチラと見た。
 和久の右隣に真紀が座り、菊蔵は後ろで控えている。その存在を聞かされている二人の子供たちの姿はなかった。
 魅惑的な低音の持ち主は穏やかな口調で、さらに話を続けた。
「まさか、あのお元気な栄吉さんが入院してしまうなんて、私共としても大層痛手でね。仕方がないから、当分の間は他の店に注文を出すことになるだろうけど、栄吉さんの茶菓子は天下一品。早く良くなって、また菓子作りに精を出してもらいたいものだよ」
 栄吉の店はここから一番近い商店街にあり、和菓子職人としての腕もたしかで、静蒼院家御用達として先祖代々、茶会や稽古用の菓子を納めていたのだ。
 うつむいて黙ったままの大志の顔をしげしげと眺めた和久は「それにしても君はお母さんにそっくりだね」などと感心した。
「よく言われます」
「ああ、面差しが本当によく似ている。役者だったら戦乱の世に散った美貌の若武者みたいな役どころが似合いそうじゃないか」
「若武者ですか……」
「『それは艶やかな髪に白い肌を持ち、目元は涼しげで、鼻筋のすっきりと通った凛々しい若者であった』なんて講釈が入りそうだな」
 自分の容姿を褒めてくれるのは嬉しいが、ちょっと調子に乗りすぎではないか。戦乱の世に散りたくもない。
 背中がこそばゆくなってしまった大志は真紀夫人の方を窺ったが、彼女は能面のような無表情で、澄まして座っている。
 仕方なく、話を合わせて「母をおぼえていらっしゃるのですか?」と訊いてみた。
「もちろんだよ。皐月さんが栄吉さんのお使いで菓子を届けに来ると、当時の若い内弟子たちが揃って大騒ぎしたものさ」
『かどくら』のところの皐月は器量よしの看板娘と商店街でも評判で、何やら小町と祭り上げられていたらしい。
 アイドルというよりも、当人の年齢に合わせて古臭い言い回しをすれば若き日の和久のマドンナといったところか。
「あんなに綺麗な人にはいまだかつてお目にかかったことがないな」
 思い出に浸りながら大志の母を誉めちぎる和久だが、夫の度重なるマドンナ賛美に対しての、妻の厳しい視線に気づくと、慌てて取り繕った。
「いや、こんなにも早くに亡くなるなんて、残念で仕方がない。栄吉さんもだが、亡き皐月さんのためにも君の身柄はこの家で大切に預からせてもらうから、安心して過ごしてくれたまえ」
 大志の世話はすべて菊蔵に任せてあるらしく、わからないことがあったら、何でも訊くようにと言われた少年は「ありがとうございます」と礼を述べた。
「これから献茶式の打ち合わせがあるので、私はここで失礼するよ。菊蔵さん、タクシーの手配を頼むよ。いや、今夜は遅くなるから迎えの車はいらないと伝えておいてくれ」
「承知しました」
「それから、子供は子供同士がいいそうだ。洸たちが待っているから、大志くんを次の間へ案内してやってくれ」

    ◆    ◆    ◆

 さっき通された部屋とは別の、この建物にしては珍しい洋間にはわざわざ取り寄せたというペルシャ絨毯が敷きつめてある。
 その上に黒い革張りのソファを配置、天井からシャンデリアが吊るされており、放たれた眩い光が壁際に飾られたアンティークやら、大きな額縁に入った絵画などを明るく照らし出していた。
 創業は明治か大正か、横浜あたりの由緒ある老舗高級ホテルのロビーに迷い込んだような錯覚をおぼえる。何とまあゴージャスな部屋だ、茶道の家元とはかくも儲かるものなのだろうか。
 これまで決して裕福とはいえない生活を送っていた大志にとってはまるで異世界、気後れするのも仕方ない。
 そこで彼を待ち受けていたのは洸と優華の兄妹だった。年子の二人は共に、隣接する市にある私立明凰学園(めいほうがくえん)に通っており、大志もその高校への転入が決まっている。
「キミ、僕と同じ高二なんだってね」
 眩しそうにこちらを見ながら微笑む洸は大志と同じ、やや痩せ型の体格だが、身長は少しばかり高く、百七十五はあるだろうか。真っ白なTシャツの上に淡いブルーのワイシャツを羽織っていた。
 その髪はいくらか茶色がかっており、睫毛の長い大きな瞳といい、高い鼻筋といい、どちらかといえば西洋風の顔立ちである。静蒼院家の若様というよりは王子様と呼んだ方がふさわしいが、いずれにしても上品で美しく、温和な人柄が滲み出ている少年だった。
 そんな兄とは対照的に、妹の方は大志を見て、ふん、と蔑むような態度をとった。母親同様、父のマドンナの息子がお気に召さないらしい。美人は美人だが、真紀にそっくりで底意地の悪そうな顔をしている。
「大志くん、誕生日はいつなの?」
「四月十日です」
「牡羊座か。血液型は?」
「B型ですけど」
 星座だの血液型だのと、少女趣味なことを訊く男だ。妹がいるせいだろうか。
 そのうちに占いやら相性がどうこう言い出すのではと思いながらも質問に答える一人っ子、洸は満足そうに「B型には見えないね」とコメントし、さらに続けた。
「僕は十二月生まれの山羊座だから、キミの方が八ヶ月ほどお兄さんになるのかな。そうそう、僕たち家族は全員A型なんだよ。静蒼院家代々そうみたい」
「へえー」
「日本人に一番多い血液型なんて、平凡でつまらないけどね。あ、でも右京兄さんだけはAB型。伯父様は一族に習ってAだけど、伯母様がB型だったからね」
 右京はAB型と聞いて、大志は内心突っ込みを入れた。
(人間の血が流れる恒温動物なんだ。蛇っぽいから変温動物かと思った)
「とにかくキミとはいい友達になれそうで嬉しいよ。はい、これは友達になった記念に僕からのプレゼント」
 洸は用意していた袱紗と小袱紗、袱紗ばさみに懐紙、扇子といった点前用の小道具が入った和紙製の紙袋を大志に手渡した。
「キミがこの家に来るって聞いたときに跡見屋さんで買っておいたんだ。僕の趣味で選んじゃったけど、いいかな」
 茶道の道具についてなど、わかるはずもない大志が「ありがとう」と素直に礼を述べると、洸ははしゃいだ様子で続けた。
「ここでのお茶の稽古にも参加するんでしょ? 初心者でも大丈夫。僕が教えてあげるから、心配しなくてもいいよ」
「ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」
「そんなに改まらないでよ。僕たちはもう、友達同士なんだからさ」
 すると、洸の言葉を聞いた優華は苦々しげな表情をした。
「あら、お兄様ったらおかしいわ。たかが和菓子屋の孫じゃないの、そこまで親しくする必要があるのかしら。友達じゃなくて、内弟子は内弟子として扱うべきよ」
 呆れ顔の洸は口を慎むよう妹を嗜めたが、優華の反応は大志にとって想定内だった。むしろ洸のように、好意的に迎えてくれる人などいないと考えていたぐらいで、嬉しい誤算といえる。
「それで、右京兄さんには会った? キミがここへ来るからって話しておいたんだけど、出掛けちゃったみたいだね」
 優華はますますイヤな顔をした。
「あんな人、どうだっていいじゃないの。汚らわしくって不潔……名前を聞くだけで不愉快だわ。早く出て行かないのかしら、みんなそう思ってるはずよ」
「優華、滅多なこと言うなよ! 年上の人に失礼だろう」
 洸にたしなめられてプライドを傷つけられたのか、優華はキッと兄を睨み、次に大志とその手にある紙袋を睨みつけた。
 彼らにとって右京は従兄にあたるが、事も無げに「兄さん」と呼ぶ洸の様子から敵意は感じられなかった。こちらもまた、優華の反応の方が想定内といったところか。
(この様子じゃ、洸くん以外の全員があいつのことを不愉快だとか、早く出て行けって思ってるんだろうな)
 直系・五代目の嫡男として生まれたにも関わらず居候の邪魔者扱いを受け、叔父一家の中で暮らす右京、彼が日々どんな気持ちでいるのかは大志にも少なからず想像がついた。
 決して幸せではない、そうでなければあんな男に成長するはずがない。
(あれ、オレってば何同情してんだよ? あんなの、メチャメチャ感じ悪くて、すっげームカつくヤツのはずなのに)
 自分と右京は立場こそ違え、似たり寄ったりの状況にある。大志の中で勝手な連帯感が芽生えていた。
(オレのことも裏で「早く出て行けばいいのに」って言われてるのかも。それならそれでじいちゃんの店に住むからいいけど……四代目の遺言ってのがネックだからなぁ)
「ごめんね、大志くん。こいつの言うことは気にしないでいいから」
 しきりに詫びた洸はそのあと、明日から一緒に通う明凰学園についてあれこれ話をしてくれた。
 しばらくして兄妹にいとまを告げた大志は廊下で待っていた菊蔵に再び案内されて二階へ上がった。
 そこの右半分が内弟子用の個室の並びと聞いて大志は驚いた。全部で八室も用意してあるのだ、改めて屋敷の広さを実感する。
 ただし、高齢の菊蔵の部屋は一階にあり、家政婦を務める妻の八重(やえ)と共にそこで寝起きしているらしい。八室ある部屋も大志を含めて内弟子四人となると残りは空き部屋だ、もったいない気がする。
 それにしても、内弟子用の部屋までレトロ調の凝った造りとは、いったいどれほどの費用をかけた建物なのかと、呆れるやら感心するやら。
 六畳の広さに置かれたベッド、半間のクローゼットという間取りの洋室は南側に窓、反対側のドアを開けるとすぐに廊下、トイレと洗面所は突き当たりにあった。
 この時間、各自の部屋には誰もおらず、内弟子たちへの紹介は夕食時に行うから、それまで荷物の整理などをするよう言われた大志は菊蔵が去ると床に座り込み、肩で大きく息をついた。
「あー、疲れた。とても現代日本とは思えない家だよな。昭和の初期にでもタイムスリップしたみたいだ」
 着物に袴姿が似合う紳士然とした主人。美しく華やかな妻に底意地の悪い娘、良家の子息そのものの息子。やさぐれた居候の甥。忠実なる老執事に使用人たち。
 そんな人々が豪奢な建物に住んで贅沢な生活を満喫しているのだ。今時こんな時代錯誤の家が存在するなんてと呆れてしまう。
 おまけに当家の者は右京様、洸様などと、皇族でもないのに様づけが原則ときている。普通の家庭ではとても考えられないが、何やら旧華族を描いた映画のワンシーンを観ているようで、自分もその中の登場人物の一人として取り込まれたのだと思うと、不思議な感じがする。
「あーあ、この調子じゃ今日は見舞いに行けそうにもないけどジイちゃん、少しは元気になったかな」
 今すぐ命に別状はないと医師は説明したが、本当に大丈夫なのかと心配は拭い切れなかった。
「ジイちゃんが死んだら、オレは今度こそ一人ぼっちになっちゃうよ。ねえ、父さん、母さん……」
 ここにきて、失った者への悲しみに襲われた大志の頬を大粒の涙が伝った。知らない人々の中に放り込まれた心細さも手伝って、寂しさが一層募る。
「どうして死んじゃったんだよ。オレだけ残して逝っちゃうなんてヒドイ……」
「不用心だな」
「……へっ?」
 カタストロフィーに浸りきっていた大志は突然聞こえてきた声に驚いて振り向いた。開け放たれた扉の傍に立っていたのは黒ずくめの男だった。
「な、なんでここに?」
「あいにく俺の部屋はこの向こうなんでな」
 右京は顎をあちらにクイッと向けた。
 どうやら左半分のスペースに彼の自室があるらしいが、叔父一家の部屋はすべて一階ということと考え併せても、邪魔者の彼だけが二階に追いやられた、差別を受けているのではないか。
 いや、それより独りで二階にいた方が気楽なのかも。叔父たちとは関わりたくないと考えているのかもしれない。
 ずかずかと中に入ってきた右京は睨みつける大志と目を合わせてニヤッと笑った。
「勝手に覗かないでください」
「ドアが開いてりゃ覗きたくなる」
 野暮用から早々に戻ってきたらしいが、まだ一時間も経っていない。辺鄙な丘陵地に建つこの屋敷から街へ出かけたのだとしたら、そんな短時間で戻れるはずはない。
 もしやこの男、外出を取り止めて、自分が家元たちとの対面を済ませて部屋に入るのを見計らっていたのではないか。大志の脳裏をそんな疑問が横切った。
 いったい何のために……? 
 部屋の中をぐるりと見回したあと、ベッドの上の紙袋に目を落とした右京は「ここは魑魅魍魎が跋扈する化物屋敷だからな。部屋に入ったら鍵をかけるのは必須、よく覚えておけ」などと、ガラにもなく忠告してきた。
「そんな、普通は家の中で鍵なんかかけないよ。これといって貴重品もないし」
「何が起こるかわからないぜ。何しろ常識が通用しねえヤツばっかりだからな」
「一番常識がないのは誰だよ」
 こちらの厭味をもろともせず、腰を屈めた右京は長い両腕を伸ばして、いきなり大志を抱き寄せた。
「なっ、何する!」
 突然の行為にひとたまりもなく、バランスを崩した大志の身体は右京の胸元へと転がり込んだ。
「だから言っただろ。鍵はかけておけって」
「やっ、やめろ、放せ!」
 何とか抵抗するものの、大志の力ではとうてい及ばず、羽交い絞めになる。
 右京は大志の耳元に息を吹きかけると、怪しいセリフを囁いた。
「せっかくの獲物をそう簡単に開放するはずねえだろ、ん?」
 低く、甘く、それでいて凄味のある声に背筋が痺れる。
 こいつはいったい何をしようというのだろう。男が男を抱きしめるなんて、単なる嫌がらせとは思えない。獲物って、まさか……
 頭に浮かんだのはある種の男たちのことだった。そうだ、最初に会った時に彼が言い放った言葉──

『母親譲りの美貌を武器に、か。たしかに美形だ、涎が出るぜ』
『俺がひと呑みにしてやろうか、どうだ?』
『俺に逆らったらどういう目に遭うか、これから先、存分に思い知らせてやる』

「もしかして……あんた、ゲイ?」
 大志の問いかけに、右京はクックッと忍び笑いを漏らした。
「だとしたらどうする?」
「冗談じゃない! オレにはそういう趣味」
「おまえの趣味はどうでもいい」
「どうでもって……」
「色事は男女だけのものと誰が決めた?」
「それ、何の屁理屈だよ! クソッ、放せ、放せーっ!」
 時代劇などで見る、女中を手篭めにする若旦那といった卑猥で古臭いシーンが思い浮かぶ。男女の違いがあるとはいえ、今の自分たちはまさにそんな構図ではないか。
 このままでは蛇にひと呑みにされてしまう。小さな蛙はありったけの力でもがいていたが、ふいに身体をしめつける腕が緩んだために拍子抜けし、きょとんとして相手を見た。
「何を泣いていた?」
「……えっ?」
 右京は大志の頬に残る涙の粒をそっと人差し指で拭った。
 襲われる、強姦されると思い込んでいたのに、ここにきてまさか、そんな真似をするとは思ってもみなかった大志の鼓動がとたんに激しく高鳴った。
(な、何、この気持ち……)
 傲慢な悪魔の笑いは影を潜め、整った顔は慈愛に満ちていた。こんなにも素敵な表情をするのかと、大志は右京に見惚れている自分に気づいた。
「母親が恋しくなったか?」
 図星の問いに答える気はなく無言でいると、どういうつもりか今度は髪を撫で始めた。
「遠慮はいらないから、泣きたいだけ泣けばいい」
 出会った時には冷酷だと感じたはずの右京の身体から温もりが、慈しみが伝わってくる。同じ悲劇を味わった者同士として慰めようとしている、そうだとしたらこの人の本性は優しいのか、それともやっぱり冷たいのか。
 大志にはわからなくなっていたが、こうして抱きしめられるのがイヤだと感じなくなっているのが不思議だった。むしろ、このままでいたいとさえ願っていた。
 父も母も、祖父もここにはいない。でも今は独りじゃない。右京からもたらされる安堵感が傷ついた大志を癒していた。
 ──どれほどの時間が経ったのか、階下から菊蔵が名前を呼ぶ声に、我に返った大志が突き放すようにして右京から離れると、相手はいくらか眉をしかめた。
「大志様、恐れ入りますが、夕食の支度を手伝ってもらえますか?」
「……あ、はい。すぐに行きます」
 横目でチラリと右京を見る。彼はふうん、と鼻で嘲笑うようなポーズをとって立ち上がった。
「邪魔したな」
「え、あ、その」
 何と言っていいのか言葉が見つからず、焦る大志を尻目に、右京はとっとと廊下へ出て行ってしまった。
 どうして? 
 今の抱擁はいったい何だったのだ? 
 慰めじゃなくて、からかっていたのだろうか……見捨てられ、取り残されたという惨めな気分に浸る。
「あ、右京様、お帰りでしたか。お食事は?」
「いらん。外で食ってくる」
 菊蔵と右京の会話が聞こえてきて、慌てて階段まで赴くと「さっきはすまなかったな」と謝る声がした。
(あいつ、何だかんだ言っても、菊蔵さんを突き飛ばしたこと気にしていたんだ)
「いいえ、お気になさらずに」
「じゃあな」

    ◆    ◆    ◆

 食事の支度の手伝いも内弟子の仕事というわけで、一階の厨房では菊蔵の妻・八重(やえ)が料理の腕をふるっていた。
 家政婦によくある、ふくよかな肝っ玉母さんタイプの彼女は紹介された大志を見て「あれまあ、皐月ちゃんにそっくり!」と感嘆したあと、自分を祖母だと思って何でも相談してくれとも付け加えた。
「右京様には『お母さんだと思って』なんて言ったこともありますけどね。この齢でお母さんは無理があるわよね」
「母親代わりだったんですね」
 すると八重は少し悲しげな顔をした。
「さあ、学校の参観日なんかは欠かさず行きましたけど。芯から心の支えにはなれなかったって思うと悔やむことばかりで……あら、湿っぽくてごめんなさい」
 夫の菊蔵も──こちらは父親あるいは祖父代わりか──同じようなことを漏らしていた。家元一家の中にあって、右京が孤立するのを防げなかったと言いたいのだろう。
 しょせんは内弟子、使用人の身分では身の回りの世話をするのが限度なのは仕方ないが、子供の時分はさぞ心細かっただろうと大志は右京の心中を推し量った。
 気を取り直したらしい八重は大志にニコニコと笑いかけながら、食器の場所などを詳しく教えてくれた。
「配膳当番だなんて、いらして早々にすいませんねぇ」
「いえ、お世話になる身ですから。お皿は何枚用意すればいいですか?」
「お家元は会合に出かけていらっしゃるから、あとは真紀様と洸様、優華様……あら、右京様は?」
「外で食べるって話していましたけど」
「そうでしたか。今夜もお出かけ……」
 八重はよく肥えた肩をがっくりと落とし、フライパンの中身を取り分け始めた。
 当家の者が食事を終えたあとは菊蔵夫妻と内弟子たちの番になる。
 その席で大志は初対面の三人の内弟子に挨拶を済ませたが、歓迎してくれたのはたったの一人で、他の二人には冷ややかな態度をとられた。
「ひゅー。噂には聞いていたけど、ここまで美少年とは思わなかったぜ。女の子にモテモテだったんじゃねえの?」
「いいえ、とんでもない」
「キレイすぎて逆に敬遠されちまったか。どう、当たりだろ?」
「まあ、そんなところです」
 事実、女子生徒たちにはまるで人気がなかった。母親譲りの美貌の功罪──近寄ってくるのは男ばかりだった経験を持つ大志は苦笑いをした。
 大志の隣で親しげに話しかける人物、唯一歓迎してくれた彼は萩原亮太(はぎわら りょうた)といい、がっしりした体格に短く刈った髪がいかにも体育会系の好青年である。
 今年二十歳になるという、それまで最年少だった亮太は自分より年下の大志が四人目に加わったのがよほど嬉しかったらしい。
「兄貴は大学に行ったけど、オレは勉強嫌いでさ。家業を継いでもいいと思っていたら、高校出たらここで修業しろ、って言われて、ポンと放り込まれたわけ」
 亮太は萩銘堂という茶舗を営む家の次男であり、実家が静蒼院家御用達として抹茶を納品する代わりに内弟子になったのだ。
「……ま、人質みたいなもんだな」
 大志の耳元に小声でそう囁いた亮太は他の連中に聞かれはしなかったかと辺りを窺いながら、なおも続けた。
「でもよ、一般人が宇宙旅行をしようかって時代に、こんな時代錯誤のとんでもない家に住み込みだなんて、たまったもんじゃないぜ、まったく。あんたも大変なところに来ちまったと思ってるだろ」
 祖父の和菓子を納めるためにという自分も同じ立場である。亮太に親近感を抱いた大志は食事の後片付け──亮太が当番だった──を手伝いながら、まだまだ話し足りない彼のおしゃべりにつき合うことにした。
 人々がその場を引き払ったと見た亮太は俄然調子に乗って、この静蒼院家に起きた跡目騒動について語り始めた。
「跡目騒動って、後継者問題ですか?」
「おうよ。ここには右京、洸、優華って三人の子供がいるだろ」
 家元の家系に生まれた者のさだめとして、三人共が幼い頃から茶の道を叩き込まれているのは言わずもがなであるが、そんな彼らのうち、七代目を誰が継ぐのかは四代目の生前から取り沙汰されていたらしい。
 男子の直系という取り決めからいえば、本来なら右京が後継者に該当するはずだが、それに対して真紀が異議を唱えたのだ。
 佐久亡きあと、六代目家元として静蒼院家を支え続けているのは夫の和久である。彼の実子である洸が七代目になるのが筋だ、というのが真紀の言い分だった。もっとも、自分が生んだ子供が男であればそちらを推したかったに違いないが。
 優華が、そして恐らく和久や真紀も右京を毛嫌いしている真の理由がわかった。彼は単なる居候ではなく、兄であり息子である洸の前に立ちはだかるライバルなのだ。
 しかし、直系の後継者候補を屋敷から追い出すような真似は家名に傷がつく。
 これで右京が家を出て早々に就職でもしたら──サラリーマンとして働いているところは想像がつかないが──洸を七代目に据えたい和久一家が遺言状の内容を無視して邪魔者を追い払ったと評判になるだろう。無碍にはできないのがジレンマというわけだ。
 亮太は講談師のような身振り手振りで「なあ、こりゃあえらいこっちゃだろ?」と得意気に語った。
「たしかに……」
「オレはまだ弟子入りしてなかったんだけど、その頃いた内弟子は当然のこと、理事やってるオッサン連中やら、地元の後援会やらも巻き込んで大騒ぎだったんだとさ」
 真紀に同調して洸を支持する者もあれば、直系を理由に右京を推す者も出てきて、静蒼院家に関わる者たちが真っ二つに分かれてしまったらしい。
 その時、右京は十四歳、洸は十一歳。年端のいかない子供たちに対して、どちらと決めつけるわけにもいかず、佐久がある提案をして、その場を収めた。
 ある提案──それは右京が成人したら改めてこの問題を協議するというものであり、もしもその前に自分が死んだら、彼が二十歳になった時点で、法的手続き等で必要となる当面の財産分与などとは別の、それ専用の遺言状を公開することであった。
 七代目を誰にするのかはそこに記すというのである。静蒼院家の顧問弁護士に遺言状を託し、一年後に彼は没した。
「その公開ってのが今年なんだよ」
 六年間封印されていた問題が復活、静蒼院家七代目家元という名誉と、莫大な財産を手にするのは右京か、それとも洸なのか。
 二人を推す人々の思惑と、それに伴って互いにライバルを陥れようとする陰謀がこの家の中で渦巻くようになるだろうと、預言者亮太は言い切った。
「どちらが殺され、どちらが生き残るか。こりゃあ、なかなかの見ものだぜ」
 一般の家庭なら「何て大袈裟な、バカバカしい」で済む話も、時代に取り残されてしまった、昭和初期のミステリの舞台のようなこの家においては起こり得る現実として突きつけられる。
 亮太の、あまりにもおどろおどろしげな口調に背筋が凍りつくと共に、自室で聞いた右京の言葉が思い出された。
(さっきあいつ、化物屋敷なんて言ってたけど、今の話を聞くと有り得るかも)
「あんたはどう思う?」
「えっ、ど、どうって?」
「右京と洸、どちらが家元にふさわしいかだよ。あんたならどっちを選ぶ?」
「いや、オレは来たばかりでよくわかんないけど……」
「でもまさか、右京を支持するってことはないよな?」
「あ、それはまあ、その……」
 右京に抱きしめられた温もりが思い出され、口ごもる大志の反応を『右京不支持派』と捉えたのか、亮太は我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「そうだろ、そうだろ。右京は七代目にふさわしくない。あいつに会ったヤツは誰でもそう思うだろうよ。年がら年中、あの妙な格好だ。真っ黒な服着て、髪もあんなに長くしてさ。かなりイカれてるって評判だぜ」
 やけに親しげな、それでいてバカにしたような口ぶりだが、それもそのはず、共に二十歳の亮太と右京は中学の同級生だったのだ。
「大学はまともに行ってないし、ここらじゃ『静蒼院家の七代目候補様を雇うなんてとんでもない』ってんでバイトもできないからってよ、酒飲んでパチンコやって、遊びまわってばっかりだ。何が右京様だ、ちっとは稽古に身を入れろって言ってやりたいね」
 吐き捨てるような亮太の言葉に、こんなに人の良さそうな人物でも優華たちと同じく右京が気に入らないんだなと大志は思った。
 あとの内弟子たちも同様だろうし、広い屋敷でたった二人、菊蔵と八重の老夫婦だけが右京の味方だったのだ。
 どこまでもみんなに嫌われる、それが死神のさだめなのかもしれない。
「今じゃあ関係者のほとんどが洸派だし、肝心の本人からしてやる気がないときてるから、洸に軍配が上がって一件落着といきたいところだが、中には偏屈なオッサンもいてさ。どうしても直系の血筋に継いでもらいたいなんて言ってやがるんだ」
「その四代目の命日ってのはいつ?」
「たしか六月……待てよ、五月の終わりだっけかな。ヤベえ、もうすぐじゃねえか」
 遺言状が公開されて、そこでもしも洸が七代目に指名されていたら右京はどうなるのか。晴れて追い出す理由ができたわけだし、でもまさか、そんなことには……
「いよいよ運命の日まで秒読み段階というわけか。さーてさて、これから先は何が起こるかわからないぜ」
 そう言ってニヤリと笑う亮太、この屋敷に蠢く者の姿を感じて大志は慄然としてしまった。魑魅魍魎が跋扈する化物屋敷──
 すべての用事を終えて部屋に戻った時、大志はまたしても施錠を忘れて一階に下りたことに気づいた。
 まあ、いい。盗まれるものもないしと高をくくっていた彼は目の前に広がった無残な光景に立ちすくんだ。
 ビリビリに破かれた紙袋と、紫色の布地がこれまたバラバラに切り裂かれてベッドの上に散らばっている。
 友達になった記念にと、洸がプレゼントしてくれた袱紗だった。
                                ……③に続く