第三章 恋の予感
さっきの要領で自転車を乗せたあと、助手席に乗り込んだ昴は運転席に座る男にそっと目をやった。
慧児の姿を見てホッと安心するなんて、戻ってきてくれて嬉しいと感じるなんて、彼に反発をおぼえていただけの今までの自分には考えられない、信じられない変化だ。
思えば、これまで彼とはどこぞの出版社で顔を合わせるくらいで、こんなふうに接触する機会はなかった。ましてや、車で一緒に移動するなんて、想像もつかなかったのだ。
昴の安堵を感じ取ったのか、慧児は前方を見つめたまま、静かに話しかけた。
「銀河くんなら心配はいらない。打撲だけで済んだようだし、フロントで救急箱を借りて天宮が手当てをしているところだ」
「そう……ありがと」
いつもの威勢のよさはどこへやら、昴は借りてきた猫状態になっていた。
(オレはこの人をかなり誤解していたんじゃないのか。イヤなヤツだと思ってたけど、けっこう親切で優しいじゃないか)
兄のライバルというだけでむやみに突っかかったり、喧嘩を売るような真似をしたりしていたけれど、そこまで敵視する必要などなかったのではと反省してみる。
ハンドルを握りながら、慧児が尋ねた。
「今日の取材でいい写真は撮れたか?」
「さあ、現像してみないとわかんねえ」
すると、相手は意外な言葉を口にした。
「先シーズンの冬の温泉地特集号で見たんだが、君の撮った写真は現地の人々の姿を温かく捉えていて素晴らしかったよ」
まさか、自分の作品をわざわざチェックした上に高い評価をしていたとは知らず「そ、そのセリフって、いったいどういう風の吹き回しだよ」と昴は訊き返した。
「今さらお世辞なんか言われてもなぁ。あんたのとこの『ヒカルっち』と違って、オレは何とか賞に御縁がないし」
某出版社が主宰するフォトグラフ大賞にて、光の作品が期待賞やら何やらを受賞した、その経緯を踏まえての発言である。
賞を取ったのは小学校の時だけだと自嘲気味に言うと、慧児は「その当時から写真に興味があったのか」と質問してきた。
「ああ。たしか五年生のときだっけかな、安物のカメラを親父が何かの景品で貰ってきて、そいつを譲ってもらったんだ。すっげー嬉しくて、あっちこっち撮りまくってさ、いい気になって小学生の写真コンテストみたいなのに応募したら、そいつが入選しちまった」
この男を相手に、こんなにもペラペラとしゃべっているなんて。何でも話せてしまえそうなほど、慧児に親しみを感じている自分の変化に戸惑いながらも、昴の舌は滑らかに動き続けていた。
「何の写真を撮ったんだ?」
「犬だよ、家で飼ってた犬。とっくに死んじゃったけど。それで、入選をきっかけに調子づいちまってさ、将来はカメラマンになると思い込んだんだ。小学校の卒業文集で、将来何になりたいかって質問の欄に堂々と書いたっけ」
昴はついつい笑ってしまった。まさか本当に職業にしてしまうとは思ってもみなかったからだ。
「オレはカメラマンで、兄貴は何て書いたんだっけかな? そうだ、大学教授か、ケーキ屋さんだっけ。何つーか、一貫性がないっつーか、ガキの頃からとぼけてたんだよな」
「君たちらしいエピソードだな」
そうコメントしたあと、慧児はこんなことを言った。
「たしかに天宮の作品は優れている。構図といい、露出の調整具合といい、評価に値するだろう。だが、そういった表面的なものを越えた何かが君の写真には存在している。被写体とシャッターを切る当人の人間味が呼応しているのかもしれない。犬の写真を撮ったときから君の才能は開花していたと思うよ」
その才能を早くから認めていたと言わんばかりの口ぶりに、照れ臭いような、くすぐったいような、だが、素直に礼が言えるはずもなく、昴はひねくれた答えを返した。
「そりゃあどうも。難しくて何だかよくわからないけど、お褒めに預かってるんだよな。じゃあ次は入賞狙っていくとすっかな」
「本当にいい写真だった。今回も期待しているよ」
厭味でも皮肉でもない彼の賛辞は昴の心にじんわりと染み透った。
カーステレオからは八十年代に流行ったシティミュージックが流れている。洒落た歌詞と口ずさみたくなるメロディー、最近、別の歌い手がリバイバルさせたとかで、耳にする機会が多くなった曲だ。
心地よい音楽が甘いムードを演出し、ライトに煌めく端正な横顔に胸が怪しくざわめいて、息苦しささえ感じて昴はうろたえた。
この気持ちは何なのだ? まるで恋に落ちる前に味わう、ふわふわとした危なっかしい気分だ。
(えっ、恋ってどういうことだよ? それってまさかまさか、男相手にかぁ?)
想像もつかなかった展開に、常識だの理性だのといった、まっとうな感覚が振り回されているのがわかる。
(くっそー、オレはゲイじゃねえぞっ!)
しかもだ。相手はよりにもよって陰険野郎と嫌っていたヤツではないのか。
本当はいい人だった、その人柄を誤解していたとわかったのはともかくとして、ちょっと優しくされて、褒め言葉をかけられたぐらいでソノ気になってどうするのだ。自分の単純馬鹿さ加減に呆れる。
だが、冷静になろうとすればするほど、動揺が収まらないでいる。落ち着け、落ち着くんだ、星川昴。
混乱した頭を抱える昴に「具合でも悪いのか」と慧児は尋ねた。
「なっ、何でもねえよ」
「無理して走るからだ。シートを倒して楽にしていろ」
「だから何でもないって」
意地を張る昴を見やって、慧児はフッと笑いかけたが、その笑顔にますます動揺する。彼がこんなふうに笑うのを見たのは初めてかもしれない。高飛車でも陰険でもなく、優しい表情だった。
「どこまでも意固地だな」
「ごめんなすって。こちとら江戸っ子、親父譲りの頑固者でねぇ」
「君たち二人は静岡の出身だと聞いたが」
「マジに取るなよ」
おちゃらけながら、昴はさっきのとんでもない考えを振り払おうとした。
(こんなヤツに惚れてたまるかっての)
生まれてこの方、男を恋愛の対象にしたためしはない。この世にはそういう指向の男がそれなりの数だけ存在するとわかってはいるが、自分には縁のない世界のお話だと思っていた。当然だ。
そうだ、こいつは相方のマジゲイと噂になっているではないか。これまでの二人の様子からすると、とうてい信じられないが、噂は本当だとしたら?
浮気者でいいかげんな光が銀河に色目を使うのを見ても、プライドの高い慧児の性格から想像すれば光を非難したり、浮気はやめてくれなどと懇願したりするはずはない。
その代わりに昴と親しくして、光と銀河に対抗しているのだ。光への当てつけ、それだけのことなのだ。
(それって、オレだけがいいツラの皮じゃねえかよ。めっちゃバカみてえ)
もしも噂が本当だとしたら……ふわふわ気分はどこへやら、怒りの炎が湧き上がってくる。コケにされたという不愉快さに、慧児と光の関係に対する嫉妬が加わっていると認めたくない昴だった。
(あーバカバカしい。だからオレはゲイじゃないし、この男を好きなわけないって。こいつらがデキていようと何だろうと、そんなの関係ねーじゃん)
当てつけも何も、初めての土地で、たまたま一緒になった顔見知りに親切にしてやったというだけだろう。
知らない場所では古い恩讐など忘れるというではないか、彼が自分たちに怨みを持っているわけではないけれど。
とにかく、深く考え過ぎどころか妙な解釈を加え過ぎ、こんな問答はとっととやめるに限る。
自問自答を繰り広げているうちに、車はホテルの駐車場へと到着した。
そのまま昼食を摂ったレストランに入ると、銀河と光が丸テーブルに着いて待っていたが、さっきからのふざけた妄想のせいで、ご苦労さんと声をかける光を直視できない昴は黙って銀河の右隣の椅子に腰掛けた。さらにその隣に座った慧児はメニューを持ってくるようウェイターに合図をした。
「恒野さん、いろいろとご迷惑をかけてすいませんでした」
「まあ、いいから。同じ時期に同じ仕事を請けた、これも何かの縁だ」
恐縮する銀河に、片手を上げながら分別臭い言葉を投げかけたあと、慧児は双子の兄弟を交互に見た。
「夕食は僕が奢ろう。何でも好きなものを頼んでくれ。アルコールもオッケーだから」
「へえー、今夜の慧ちゃんはずいぶんと太っ腹じゃん。どうしちゃったの? 何かいいことあった?」
例によってニヤニヤと笑った光はさっそくメニューを広げると、銀河の前にドーンと差し出した。
「一番高いやつ頼んでいいよ、慧ちゃんの奢りだからね」
「いやあ、そんな……申し訳ないです」
「気にしなくっていいって、じゃんじゃんいこうよ。ほら、スバルっちも。あ、おニイさん、俺、生中ね。みんなはどうする? 同じでいいのかな」
自分が奢るわけでもないのに、いや、奢りだとわかって大船に乗ったつもりからか、光はその場を仕切り始めた。
彼の厚かましい態度に呆れた昴はいったいこいつをどう思っているのかと、慧児の方を窺ったが、特に表情を変えるでもなく平然としている。
(好きなようにやらせておこうってことかな。よくわかんない連中だな)
本当に深い関係があるのか、それとも単にビジネスパートナーでしかないのか、まったく見当がつかず、計り知れない二人の様子に焦りをおぼえる。
「スバルっち、どうすんの? ビール飲まないの?」
「わっ、わかったよ。飲みゃーいいんだろ、飲みゃー」
ヤケになった昴は大ジョッキを注文し、銀河は遠慮がちに小ジョッキを頼んだ。
(くっそー、こうなったら浴びるほど飲んでやるっ。あいつの奢りなんだから、遠慮なんてするもんか)
アルコール類はけっこうイケる方だと自負している昴は次々にジョッキを空にしたが、慧児と光はそんな彼以上にハイペースで飲み続けた。
ビールに限らずチューハイにワイン、御当地の地酒にまで及ぶちゃんぽんぶりで、光は赤い顔をしてますます饒舌になったが、慧児はまるでしらふ、まったく顔色が変わらないままだ。
一滴も飲んでいないような顔をして、今日の取材の話から科学に政治、経済に至るまでありとあらゆるネタを持ち出しては矢継ぎ早に語る。そんな彼の酒豪ぶり、博学ぶりにはただただ驚くばかりだった。
「今日の慧ちゃんはまた、えらくおしゃべりだね。リゾート気分で浮かれてるのかな、それとも銀河ちゃんとスバルっちの前で、いい格好してるのかな」
光の揶揄も何のその、プロフェッサー恒野の講義はそのあとも続き、それは知識をひけらかす幼稚な所業に見えなくもないが、次から次へと手品を披露するサービス精神あふれたマジシャンのようでもあった。
何が冷静沈着なはずの彼をそうさせているのか。これでカラオケがあったら、十八番のあの曲をノリノリで歌ってるところだとも光は言ったが、慧児がノリノリで歌っている場面など想像がつかない。
カラオケに行くことすら信じられないほどで、自分の知らない慧児の姿をいくつも見ている光への嫉妬が再燃し、苛立つ昴はますます酒をあおるのだった。
……④に続く