第四章 緑屋敷の王子様
降り注ぐ太陽の光を受けて、キラキラと輝く緑の葉をつけた木々が林立する広い庭、白いカーテンのかかった黒枠の出窓に赤茶色のレンガ造りの大きな西洋館──
あれ、何だっけ?
何て呼ばれていたんだっけ?
うーん、ダメだ。
近所で「緑のお屋敷」あるいは「緑屋敷」と呼ばれていた建物の、もうひとつの呼び名がどうしても思い出せないが──まあ、いいや。
とにかく、その「緑のお屋敷」のすぐ隣にある広い公園がオレの小学生時代の放課後の遊び場だったのは確かだ。
公園にはたくさんの遊具の他に、芝生の広場が設けられているのだが、そこで野球をやるのが高学年男子の楽しみであり、ステータスでもあった。
「あー、また入っちゃった。ライトー、取ってこいよー」
誰かの打球が大きな弧を描いて隣の塀を越えると、必ず起こる「ライトコール」にオレはムカつくでもなく、面倒がるでもなく、むしろ喜んで応じた。
自分で言うのもおこがましいけれど、美少年のオレが行くと「また、おまえたちか」などといった文句を言われることなく、ボールを返してくれるという取引が出来上がっていたのが理由だ。
しかし、それより何より、二階の窓からこちらを見下ろしているあの人に会える、話ができるという楽しみの方が大きかった。
「すいませーん、ボール取らせてもらっていいですか?」
いつものように裏口の重い鉄製の扉を開けて、そろそろと中に入ると、赤、黄、緑といった天然色に彩られた、美しくも長閑な風景を目にすることができる。
「緑のお屋敷」のいわれとなった木立は塀に沿って植えられているもので、庭の中央部は英国式庭園になっており、涼しげな飛沫を上げる噴水を囲んで、色とりどりのバラが鮮やかな花をつけていた。
「すいません、ボール……」
「向こうにあるよ」
見上げると、二階の小さな出窓、いつものその場所に彼はいた。
彼の姿を目にしたとたん、ドキン、と心臓がいつもより大きく動くのを感じる。
顔も胸も熱くなって、風邪をひいた時のように熱っぽくなったのを感じる。
病気でもないのにおかしくなった自分の様子にオレはうろたえたが、どうしてそうなるのかはよくわかっていなかった。
「向こう、ほら、百日紅の木の下辺り。見えるかな?」
「は、はい」
彼の指さす方向に走ると、草叢の陰に白いものがひょっこりのぞいていた。
「あ、あった。ありがとうございます」
「よかったね」
にっこりと微笑むその顔に、オレはときめきを感じ、憧れを抱いていた。
栗色の柔らかそうな髪、白い頬、優しく気品のある美しい顔立ちの少年を「緑屋敷の王子様」と皆が呼んでいた。
年齢は十三、四歳。真っ白なシャツにブルーのカーディガンを羽織り、紺色のズボンを履いているのが、いかにも良家の子息らしい服装だった。
また、時折ピアノやバイオリンを奏でる音が流れてきて、あれは王子様が演奏しているのだともわかった。
いいな、いいな。彼のような、素敵なお兄さんがいたら毎日が楽しいだろうな。
学校から帰ったら宿題を教えてもらって、それから休みの日には一緒にキャッチボールをやるんだ。
朝夕に肩を並べて登下校する場面に、到着した先はこの家。
オレは彼の弟すなわち、お屋敷の子供という都合のいい設定になった妄想はどんどん膨らみ続けた。
高級家具の並ぶダイニングで豪華なディナーを楽しんだあとは香り高いダージリンを白いカップに注いで、イギリス製のビスケットを御供にティータイム。
彼の奏でるショパンにうっとりと聴き惚れる、そんな自分の姿を思い浮かべるオレは相当に生意気なマセガキだったと思う。
そうこうするうちに、ピピ、ピピと可愛いさえずりがどこからか聞こえてきた。
彼が手にした餌を目当てに、スズメやハトなどが屋根の上に集まっていたのだ。何とも微笑ましい光景に頬が緩む。
「ほら、見て。カワイイだろ? スズメにハトにヒヨドリ、たまにメジロもくるよ。僕の大切な友達なんだ」
大切な友達──
彼にそう呼んでもらえるなんて──
オレは小鳥たちにジェラシーをおぼえていた。オレを友達に加えてもらいたいと願ったが、その一方で、中学生が小学生を友達にするはずもないと、あきらめていた。
憧れの王子様は名門私立中学に通っていると聞いた。抜群の成績で、特に数学は全国でもトップクラス。
市内の開業医である父親は彼に自分の跡を継がせるべく、一流大学の医学部を目指すため、スパルタ教育を施しているらしい。
オレたちが公園で野球に興じている時刻、自宅にて勉強にいそしんでいるのは家庭教師が来ているからだとも聞き、そのせいか、彼が時折見せる暗い顔には心が痛んだ。
学校で部活動をやるでもなく、一緒に遊ぶ同級生もいない。友達は餌付けした小鳥たちだけなんて、何て寂しい毎日なんだろう。
だからいつも公園でのオレらの様子を眺めているのだと察しもついた。
あの人もオレたちみたいに野球がやりたいんだ。公園で遊びたいんだ。
お日様が沈むまで公園内を駆け回って、みんなと大笑いして「明日もここで遊ぼうぜ」と約束する。
そんなふつうの子供の生活を送ってみたいんだ。きっとそうだ。
「ライトー、ボールは?」
しびれを切らした仲間の声が聞こえる。
「あったよ。今行くから」
オレは窓際の彼に手を振った。それから後ろ髪を引かれる思いで背を向け、再び裏口をくぐった。
憧れの「緑屋敷の王子様」がその後どうしたのかはわからないが、いつしか姿を見せなくなってガッカリした記憶がある。
少なくとも、オレが中学へ進学した時にはもう、あの家には住んでいなかったはずだ。あれからどこへ行ってしまったのか──
あ、やっと思い出した。
そうだ、「緑のお屋敷」の別名は「コダマ御殿」──
「えっ? コダマ御殿?」
ピピピピピピ……
「うわっ!」
目覚まし時計が鳴り響く音に飛び起きたオレはキョロキョロと周りを見回した。窓からは薄日が差し込んでいる。
ここはそうだ、あのあと田ノ浦さんと交替して、深夜に帰宅した自分の部屋、すぐに潜り込んだ自分のベッドじゃないか。
夢を見ていたのだと、やっとわかった。
いや、あれは夢というより想い出の場面の回想だ。
小学生の頃、自宅近くの公園で毎日のように野球をやっていたシーンが夢の中に出てきたのだ。いつぞやの幻想の正体もこれ、潜在意識の表れだったわけだ。
そして、ボールを取りに入らせてもらった公園の隣の大きな屋敷、あそこが「コダマ御殿」と呼ばれていたのを思い出したとたん、オレは体中がカッと熱くなるのを感じた。
樹神なんて滅多にない姓だが、まさか、そんな偶然があるものなのか。
いやいや、コダマと発音する姓なら児玉が普通だし、あるいは木霊や木魂のことかもしれない。谺って文字もあったな。
そうだ、確かめる方法があるじゃないかと、急いで実家に電話をする。
朝っぱらから何だと文句を言いながらも、母は「コダマ」が「樹神」であると教えてくれた。
「樹の神って書くから、ご近所でもありがたがる人が多くてね。えっ、何? あそこの息子さんのこと? ああ、評判の美少年だった子ね。あんたより三つ四つ上だったから、たぶん三十歳ぐらいになっているはずよね。さあ、今はどこでどうしているかは知らないわ。東京の医大に進学したけれど、お父さんの病院は継いでいないって聞いたわよ。喧嘩したとか親子の縁を切ったとか、いろいろ噂されていたみたいだけど……何よ、あそこの家が何か事件に関係あるの?」
「ち、違うよ、別件の参考までにって。うん、ありがとう」
ケータイを切ったあとも、オレの左手は震え続けていた。
もしや「緑屋敷の王子様」の成れの果てが樹神健吾なのか?
彼との再会があの頃の記憶を呼び起こしたというのか?
そっと目を閉じ、樹神の顔を思い浮かべてみる。
二十年近く齢を経た上に、すっかりやさぐれてしまってはいるが、そこにかつての美少年の面影を見い出すことはさほど難しくはなかった。
初めて会った時に見覚えがあると思ったのは、笑った顔が懐かしいと感じたのはすべてそのせい、樹神こそが「緑屋敷の王子様」だったと──
さらに、この過去の関わりに気づく前から、オレは樹神に特別な感情を持ち始めていたのだと改めて自覚する。
あの時、初めて出会った──のではなく、十数年ぶりに再会した彼に抱いた、震えるようなときめき──過去も現在に於いても、オレは樹神に恋している──
えっ、今、何と?
樹神に恋しているだと?
そんな……バカな!
オレは胸の内に綴った言葉を否定すべく、狂ったように髪をかきむしり、首を激しく横に振り続けた。
違う、絶対に違うっ!
憧れと恋は別物だ。この気持ちは恋なんかじゃない。
良家の子息であり、評判の美少年であり、名門中学に通う秀才の彼に対する憧憬は今なお、美貌をとどめる名うての予備校講師への憧れに続いているわけで……
そう、昔も今も単なる憧れでしかないはずだ。当然じゃないか。
きっとそれだ、そうに決まっていると、想いを無理矢理に捻じ曲げてみるが、反論しきれずに胸が痛くなってくる。
樹神からのキスやそれ以上の行為を享受している自分がいたのだ。認めないわけにはいかなかった。
だが、しかし──
『……三人目の容疑者は樹神健吾、三十一歳。横浜市在住で職業は大手予備校講師。こいつの担当はそうだな、田ノ浦警部補と安曇巡査であたってくれ』
今のオレたちの関係はいわば、追う者と追われる者。残酷な現実が目の前に立ちはだかる。
かつての憧れの人とまさか、こんな形で再会するとは皮肉としか思えないが、さらに過酷なことに、その人は殺人事件の犯人かもしれないのだ。
樹神が篠宮を殺した犯人──疑惑がキリキリと心臓を貫き、肺も押し潰されたようで息が詰まる。苦しい。
ああ、ダメだ。私情に流されるなんてもってのほかだ。
憧れの人との想い出を、彼への切ない想いを壊さないために、現実から目を背けようとしているだけの、ただの意気地なしになってしまう。
恋や憧れの前に、彼は殺人事件の容疑者であり、オレは事件を担当する捜査員だ。
それなのに、冷静さを失い、容疑者として接することができなくなってしまったら、そこに成り立つ関係が崩れてしまうのは目に見えている。
真実を追求する姿勢を失ってしまったら刑事失格だ。冗談じゃない、失格になってたまるものか。
いくら憧れの人だったからといって、再会した今も好きだからといって、それだけで彼の容疑をすべて否定するほど、オレは愚か者じゃない。
「刑事たるもの、先入観は捨てろ」と田ノ浦さんに諭される前に、とっくに捨てているつもりだ。
皮肉な運命を呪っても仕方ない。彼を疑い、調べを続けなくてはならないのが刑事としての使命だ。
オレは掌で胸元を押さえ、この辛さに必死で耐えたが、それでも樹神が犯人でないことを祈らずにはいられなかった。
……⑤に続く