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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

背徳のカプリッチオ ③

    第三章  セフレのアンディ

 未だ容疑者を一人に絞り込めない状況の中、確固としたアリバイがない樹神への容疑は強くなる一方だった。
 彼が食事を摂ったという横浜の店での証言は得られたが、帰宅時間から逆算して、店からいったん川崎の被害者宅へ向かい、横浜に引き返して自宅に戻るのは充分可能だったからだ。
 また、防犯カメラに残る映像の人物、黒い服の男に似ているのも彼を不利な状況に追い込んでいた。
 この人物は犯人と考えてほぼ間違いないし、捜査本部もその方針で動いているため、樹神は容疑の濃さでは重要参考人中でナンバーワンになってしまった。
「最重要参考人ってわけか。こりゃ面倒なことになったな」
 田ノ浦さんは柔和な顔に難しい表情を浮かべて続けた。
「僕としちゃあ、ヤツの態度は今ひとつ、犯人らしくなかったんだがなぁ」
 ベテラン刑事の目から見ても犯人らしくない、そう映っていたと聞かされて、おまえは間違っていないよと励ましを受けたような気がしたが、それが樹神自身に対する無実の証になるわけではない。
「どのあたりが犯人らしくないと思われるんですか?」
 たたみかけると、我が上司はとつとつと話し始めた。
「まあ、偉そうに『そいつは刑事の勘だ』なんて吹聴するつもりはないけどな。ヤツの投げやりな態度や挑発的なセリフに惑わされちまったら、真実を見失ってしまいそうな気がするんだよ」
「真実を、ですか」
「ああ。自己顕示欲の強い愉快犯ならともかく、通常の犯人なら、自分の犯罪を隠したいはずだろ?」
「たしかに、あの状況は愉快犯による犯行には思えませんよね」
「それなのに、まともな言い訳ひとつせずに『川崎に寄り道した可能性は大きい』だなんて、わざわざ警察に疑われるような発言をするってのはどうだ?」
「それはオレもおかしいと思いました」
「しかもだ。ガイシャの部屋を何度も訪問しているヤツなら、防犯カメラに映るとわかっているはずさ」
「そこへいつもの服装で、のこのこ出向くってのは自分が犯人だと宣伝しているようなものですよね」
「そういうこった。僕が犯人なら、もっと確実な手段を選ぶね。ついでに変装でもして、バレないように用心するさ」
 つまり、樹神が犯人だとしたら、かなり杜撰な計画となるが──
「あれだけ頭の切れる男が何のアリバイ工作もせずに、短絡的な犯行に及ぶなんてのは考えにくいしな」
「たしかに引っかかりますね」
「真犯人を庇っている、あるいはそいつに弱みを握られていて、本当のことが言い出せない。その可能性も視野に入れておくべきかもしれんな。ヘタをすると冤罪になってしまうから気をつけないと」
 真犯人──弱み──
 あの樹神とそういった関わりのある人物がいるというのだろうか。
 オレは彼について、樹神健吾という男について、まだ何も知らない……
 チロチロと残り火のような妬みが胸の奥でくすぶるのを感じるが、冷静になろうと自分を戒める。
 とりあえずオレたちは新宿の例のバーへと向かい、店での被害者と樹神の様子やら、他の客たちの評判などを直接聞いてみることにした。
 既に何人もの刑事たちの訪問を受けているからか、若い従業員の対応は手馴れていたが、オレの顔を見た時はさすがに驚きの反応を見せた。
「どうかしましたか?」
「あ、すいません。アンディにそっくりだったものですから」
 原島というその従業員は──こいつが樹神に電話したヤツだ──平謝りしつつも、オレを値踏みするような目で眺めた。
「アンディ?」
 すると田ノ浦さんが「源氏名だよ」と小声で教えてくれた。
 源氏名を使うなんて、さすが水商売だ。しかも横文字。
 半ば呆れながらも感心していると、原島はフフンと鼻で笑った。
 この刑事は源氏名も知らないのか、とでも思ったのだろうか。小バカにした態度にムッとなる。
「ちなみにオレはニックで、そっちにいるのがサイモンで……」
 サイモンと呼ばれた青年が角刈りにした頭を軽く下げた。優男のアンディやニックに比べると、かなり体育会系のキャラだ。
 さてアンディこと、篠宮司は明るく調子のいい人気者だが、お尻の軽さが命取り。
 みんなの嫉妬を煽ったあまり、誰に殺されてもおかしくないという、評判の裏づけを取っただけに終わった。
「なるほど、もっともですな。男のジェラシーは女よりも深くてねちっこい、なんて言われていますしね」
 調子よく相槌を打ったあと、田ノ浦さんは樹神のことを尋ねた。
「ああ、樹神さん。あの人は紳士ですね。店に来ても静かに飲んでるって感じで」
「紳士ですか。篠宮さんとの関係はどんなふうに見えましたか?」
「アンディに対して、ですか? そうだなぁー。客というより保護者かな。いつも見守っている、みたいな」
「保護者というのはやはり、元教え子だからでしょうかね」
「さあ、どうなのか……」
 すると、今まで無言だったサイモンが口を挟んできた。
「オレはそうは思わないけど」
 その言葉に、みんなの視線が集まったのを感じてか、サイモンは居心地悪そうに身体をモゾモゾさせた。
「では、どう思われたのですか?」
「いやあ、まったく執着していなかったって感じ? 保護者的な立場のヤツがそんな、無関心なんて、おかしいっしょ」
「無関心?」
「具体的に言うと、アンディがあの人の目の前で他の誰かとホテルへしけ込むのなんて、しょっちゅうだったけど、怒ったり心配したりすることもないし、当てつけに浮気をするなんてのも、一度もなかったよ。勝手にやってろ、だったね」
 それはオレたちが初めて樹神の部屋を訪れた時に聞いた話と一致する。
「本人はその、アンディさんとの関係はセフレ程度だと話していましたが」
「セフレ? まさか。それ以下だったと思いますよ」
 そうかなあ、けっこう親密だったはずだと不満げな顔をするニック・原島の反応を尻目に、サイモンは自信満々に答えた。
 その他にもあれこれ質問してみたが、樹神に関する評判で悪評といえるものはまったくなかった。
 しかも、従業員や他の客とのトラブルどころか、ほとんど誰とも話さなかったらしく、これでは接点どころではないのでは、と思われた。
 いや、何かを見落としているかもしれない。どこかで関係者と接触するかもしれないと考えたオレたちは樹神の行動を監視することにした。
「よし。それじゃあ、ヤツから目を離すなよ。何かあったら勝手に行動せず、すぐに連絡をよこせ」
「はい」
 横浜で別の事件が発生してしまい、田ノ浦さんはそちらの捜査の応援にも入ることになったのだ。
 よって、樹神の見張りはオレ一人で受け持つ時間が長くなった。海外逃亡などの恐れはないし、新人に任せても大丈夫だろうという判断からだ。
 さて、今日は日曜日で予備校も休みとのこと。午前中なら在宅しているだろう。
 マンションの駐車場に到着すると、予想どおり、樹神の車はそこにあった。目立たない位置を確認して駐車。ここからならエントランスがよく見える。
 ところが、連日の捜査の疲れからか、オレはいつの間にか居眠りをしていたらしい。
 コンコンとサイドガラスを叩く音に気づいて、慌てて目を覚ますと、
「お勤めご苦労さま」
 こちらを覗き込んでニンマリ笑っていたのは当の樹神だった。
「うっ、うわっ、やべ」
 居眠りしていただけでなく、見張っていた相手に起こされたなんて、とんでもない。バレたら始末書モノだ。
 あたふたするオレを楽しそうに見下ろす樹神、今日は生成りのセーターにジーンズと、休日らしくラフなスタイルで、左手にはなぜかビニール袋を提げている。
 久しぶりに間近で見るその姿に──ジーンズにTシャツでも充分カッコいい──オレの心臓は激しく鼓動したが、それを誤魔化すために、あさっての方向を向くと無言のまま頭を下げてみせた。
「日曜祝日も関係なしか。警察ってのも因果な商売だな」
 そんなセリフで流したあと、樹神は駐車場の向こうにある公園の方へと歩き始めた。
 見張りがバレたとあっては仕方ない。オレは車から降りると、彼のあとをついて行くことにした。
 面積が二十平方メートルもない小さな公園の土地はほとんどが芝生で覆われており、二、三の遊具が申し訳程度に置かれていた。
 マンションの住人の中には小さな子供を持つ人もいるために、このような公園が設けられているらしい。
 ところが、今日みたいな天気のいい休日には子供たちで賑わっているかと思いきや、園内には誰の姿もなかった。
 芝生のところまで進んだ樹神はビニール袋の中から手づかみで取り出した小さな粒を辺りに撒き、彼の行為に気づいたスズメたちが電線の上から一気に舞い降りてきた。
 餌だ。彼はスズメに餌をやっていた。
 用心深いはずの野鳥がすっかりなついている様子に驚き、呆気にとられて眺めるオレの脳裏に、ある場面がフラッシュバックした。
 二階の出窓で餌をやる少年、屋根の上に群がる小鳥たち──

『ほら、カワイイだろ? スズメにハトにヒヨドリ、たまにメジロもくるよ。僕の大切な友達なんだ』

──このシーンはいったい何? 
 頭の中が混乱している。これはそう、遠い記憶……
 あれは──
 あの少年は──
 餌の大盤振る舞いを終えたあと、樹神は「さてと。俺にまた何か訊きたいことがあって、ここまで来たんだろう?」と尋ねた。
「いえ、それは……その」
 何だよ、その言い草。見張られていたとわかりきっているくせに。
 だが「これこれこういう理由です」などと答えるわけにはいかない。
 オレが言いよどんでいると、
「とりあえず部屋に行こう。一杯やりながら話を聞こうじゃないか」
 極上のワインを手に入れたのだと彼は続けたが、容疑者が刑事に、それも明るいうちから酒を勧めるなんて聞いたことがない。
「勤務中ですから。あとで運転もしますし」
「堅いこと言うなよ」
「堅いから警察官なんです」
「ま、そうだな。それならコーヒーでもどうだ?」
 勝手な行動はとるなと釘を刺されているが、少し話をするぐらいならいいだろうと判断したオレは樹神のあとに続いた。
 ただ見張るだけではない、彼と会話した方がずっと嬉しいと感じている、そんな自分の深層心理など、見て見ないふりをする。
 再び訪れた樹神の部屋は日中だというのにカーテンを閉め切り、早くも夕刻になったような、陰鬱な雰囲気が漂っていた。
 ブランケットの僅かな光が照らす中、この前と同じソファの位置に座っていると、樹神は手際よくコーヒーを淹れてテーブルに置き、ワイングラスとチーズを盛った皿も置いて腰掛けた。
「本当に飲まないのか? なら、遠慮なくやらせてもらうぜ」
 深紅色の液体が注がれ、丸いグラスの底に揺れる。
 ボルドーの何年物だと説明してくれたが、ワインのことはさっぱりわからないので、適当に頷いてみせた。
 グラスを傾けながら、彼は「俺の容疑は晴れたのか」などと訊いた。
「晴れたのなら、警察がここに来ることはありません」
「もっともな回答だ」
 うっすらと笑い、またグラスを口元に運ぶ。ずいぶんと余裕の態度だ。
 緊張しているとか動揺しているとか、そんな自分を知られたくないと意地になっているせいで、オレは必要以上に強い口調で突っかかった。
「早く容疑を晴らしたいのなら、誤解を招くような発言などはしない方がいいと思いますけど」
「誤解を招く、ね。それはまあ、そのとおりだが……」
 ブルーチーズを口に放り込んだあと、樹神は「あんた、生まれはどこだ?」などと訊いてきた。
「県内です。厚木市のはずれで」
「そうか。じゃあ、ずっと地元に住んでいるんだな」
「いえ、今は横浜に……って、オレの生い立ちが何か関係あるんですか?」
「いや、まったく関係ないね」
 いったい何なんだ? 
 あっさりと否定され、化かされた気分でますます腹が立つ。
「ここには世間話をしに来たんじゃありませんから」
「そりゃそうだ」
「とにかく質問には正直に答えてください。先日の我々の訪問の際に『アリバイはない、川崎へ出向いたかもしれない』と冗談めかしておっしゃいましたが、冗談などではなく本当だったんじゃないですか?」
 こちらの問いかけには答えないまま、樹神はまたしてもタバコをくわえた。
 個人プレイに走ってはいけない、追求はここまででよせばいいものを、核心に触れることにはだんまりかよと苛立ってきたオレはついつい口を滑らせた。
「篠宮さんのマンションの防犯カメラに黒い服の男性が映っていましたが、その男性があなたではという疑いが持たれています」
 樹神の眉がピクリと動いた。彼が初めて見せた動揺だった。
「防犯カメラに黒い服の男……か。なるほどね」
 それは俺じゃないと否定するのかと思いきや、樹神は沈黙を守っているが、その反応はいったいどういうわけだ? 
 田ノ浦さんが言っていたように、誰かに脅されている、あるいは庇っているのではないのか。それとも──
 混乱したオレはまたしても余計なことを口にした。
「所見から死亡推定時刻は午後十一時から午前二時の間。あなたらしき人物が映っていたのは午前一時前後です」
「…………」
「黒い服の男はあなたなんですか?」
「…………」
「あなただとしたら、どうしてそんな時刻に、その場所にいたのかを説明してもらえませんか?」
 彼は犯人なのか、そうでないのか。強い緊張が背筋を走る。
「……やれやれ」
 とうとう観念したらしく、樹神は「あいつに呼ばれて行ったんだよ」と告白した。
「呼ばれた? 部屋まで来てくれと頼まれたんですか?」
 たたみかけるように尋ねると、彼はうんざりした様子で頷いた。
「相談があると言っていた。電話では話せないから直接会いたいと」
 防犯カメラの映像の男はやはり樹神だったのだ。
 本来ならば捜査に進展があったと喜ぶところなのに、オレの心の中には雷雲にも似た、暗く重い翳りが広がってしまった。
 そう、二人は互いの部屋を行き来するほど、深い関係にあった。オレの知らない過去の時間の中で……
 改めてそれを自覚すると、胸の内の雷雲は稲光を放ち始めた。
「呼び出されたなんて、そんな都合のいい話を信用すると思いますか?」
「信用する、しないはそっちの勝手だ」
「それにしても午前一時ですよ、ずいぶんと遅い時間ですね」
「さあな。向こうが指定したことだから」
 車を飛ばして予定時刻より少し早めに到着し、呼び鈴を鳴らしたところが篠宮は一向に出てこない。
 ドアには鍵がかかっており、その前でしばらく待ってみたものの、このままでは埒が明くはずもなかった。
 けっきょく、到着を待っている間に眠ってしまったと判断し、あきらめて帰ったのだと樹神は語ったが、それはあくまでも本人の言い分で、事実かどうかは証明できない。
「合鍵は持っていないのですか?」
「ああ」
「それにしても、自分から呼び出しておいて出てこないなんて、おかしいと思わなかったのですか?」
「気まぐれなヤツだし、よくあることだからな」
 夜中に呼び出されて、わざわざ出向いたのに、そんな対応はないだろう。
 釈然としないオレは「あなたが訪問したときには既に亡くなっていたとも考えられますね」と言ってやった。
「……かもしれんな」
 とにかく、被害者の部屋を訪問したのが確実ならば、彼が犯人である可能性は充分すぎるほどあるのだ。
「お話のとおりだとすれば、当日は電話だけで本人とは会っていないことになりますが、相談の内容に心あたりは?」
「はっきりとは聞いていないが、どうせ男の問題だろう。たいしたことじゃない、揉めるのはしょっちゅうだったからな」
「で、いちいち相談に乗っていたわけですか。恋人……いえ、セフレらしくないですね。まるでカウンセラーだ」
「頼れる先生だからね、俺は」
 いっそ恋愛関係にあると言われた方がマシだったかもしれない。
 恋人とかセフレといった関係を超えた、二人の間にある絆のようなものを感じ取ると、青白い稲妻は次第に激しさを増し、雷雨となった。
 嫉妬の塊になり、事件のことなどそっちのけで、
「そういう事情でしたら隠し立てなんかせずに、あのときにちゃんとお話しして欲しかったんですけど」
 厭味ったらしいセリフを投げつけるオレを上目遣いで見たあと、彼は舌なめずりをしてみせた。
「マークされなくなると寂しいんでね」
「それは警察に疑われている方がいいという意味ですか? おかしな人だ」
「と言うより」
 突然立ち上がると、樹神はこちらのソファに座ってオレの肩を抱いてきた。
 のんびり驚いている場合じゃないけれど、あまりの早業に避ける暇もなく、声も出てこない。
 左肩をつかんで胸元に抱き寄せる、その手に力が込められると、まるで金縛りに遭ったかのように何の抵抗もできなく……いや、抵抗しようと思えばできるはずなのに、オレは彼の腕の中にいた。
 この前キスをされた時もそうだった。意識が戻るほんの僅かな間、オレは彼の唇を受け止めていた。差し込まれた舌を拒絶するでもなく、むしろ甘美なひと時を楽しんでいたのだ。
 外で田ノ浦さんが待っているという意識が働かなければ、あのままどうなっていたのかわからない。
「ずっと傍にいて欲しかったんだよ、あんたにさ」
 甘い言葉が耳元で囁かれると、背筋がビクンと痺れ、全身が小刻みに震える。
 ああもう、何やってんだ、オレは。
 篠宮の身代わりとして弄ばれているとわかっているのに、これじゃあ喜んで応じていると解釈されるのがオチ。
 ふざけんな、そんな手に乗ってたまるか。
「俺の傍にいてくれ」
 彼はなおも懇願するように繰り返した。
 軽いノリで口説いているにしては、深刻且つ真剣な声色が気にかかるが、ダメだ、本気にしちゃいけない。
「このままずっと……」
 ああ、もう、やめてくれ。こっちはそんな口説きに応じるわけにはいかないんだ。
 篠宮を失い──我が手で葬った可能性もあるけど──褥の寂しさに、彼によく似たオレを手元に置いて手慰みにしようというのだろうが、そんなの勝手すぎるし、不謹慎じゃないか。
「悪い冗談はやめてください」
「こう見えて小心者なんだ。刑事相手に悪い冗談を言うほど図太くないぜ」
「自己申告では信用できません」
「この前はすんなりと受け入れてくれたのに今日はずいぶんと頑固だな」
 憤りで背中が熱くなった。
「すんなりと、なんて嘘です。あれは不意を突かれただけ」
「おやおや、認めるつもりはないか。マイッたな」
 苦笑いをしながらも、彼はオレの肩から左手を離そうとはしなかった。
「ともかくだ、もう一人の刑事さんじゃなくて、今日あんたが俺についたこと、それだけでも神に感謝しなくちゃな」
 そう言ったあと、樹神は空いた方の右手でグラスを掲げた。
 それから──既に酔っているのかどうかよくわからないけれど──二人の運命の出会いに乾杯などと芝居がかったセリフを連呼した。下北沢辺りで活動していそうな、アングラ劇団の公演みたいだった。
 そのあとグラスをテーブルに戻すと、右手でオレの頬をそっと撫で、唇を指で辿り始めたが、その妖しくも滑らかな動きに思わず陶然とし、我を忘れかけてしまった。
 警察という、日本でも有数のお固い組織に入ってしまったせいか、セックスにはとんと縁がなくなった。
 緊張する場面の多い、忙しい毎日で疲労が蓄積しているためか自慰行為も年々減少、このまま枯れ木となっていくのかと危惧したけれど、いくら禁欲生活を送っているとはいえ、唇に触れただけの行為でこんなにも感じてしまうなんて、沸点が低すぎる。
「ほら、あんたもおとなしく俺の傍にいれば最高を味わえるってこと、身をもってわかるようになるぜ」
「ふ、ふざけるな」
 言葉では何とか抵抗しているものの、身体は彼の言うとおり、快楽を求める方向へと勝手に反応しかけている。
 酒を飲んだわけでもいないのに、オレの意識はやがて朦朧とし始め、これから我が身に降りかかるかもしれない特異な展開を予想しつつ、樹神に身体を委ねていた。
 オレはあくまでもノンケの警察官だ、相手はゲイで犯罪者かもしれない男だ、それなのに──
 倫理とか道徳といった、もっともらしい観念が頭の隅に追いやられ、やがて消え失せていくのがわかる。
 常識をかなぐり捨てて快楽に身を投じたあとに残るのは焦燥と後悔だとわかりきっている。背徳者になっても、それでもいいというのか、オレは……
「キレイな唇だ。何度でもキスしたくなる」
 タバコとワインの匂いがする唇がオレの唇を覆い、その部分を弄るように軽く噛む。次に舌が入り込んでくると、我を忘れて自分の舌を強く絡めた。
「ん、んん……ん」
 狂おしいほどに刺激的で目眩がする。こんなにも激しいキスをしたのは初めてだった。自分が女をリードする状態では一生得られなかった快感だろう。
「あ、ん……んふっ」
 唾液が滴り落ちるのもかまわずに絡め合ったあと、ようやく唇を離した彼は「俺のキスの味はどうだ? この前は聞きそびれたからな」と冗談っぽく訊いたが、そんなの答えられるわけがない。
 目を伏せて黙っていると、樹神は「もっと味わえばわかるかな」などと言い、さらにキスを続けた。
 それからオレの頬、首筋と、順に唇を滑らせ、首筋へのキスはまるで吸血鬼に襲われたかのような、そんな想像を駆り立てるほど情熱的なもので、色白の肌には幾つものキスマークがついてしまった。
 次に彼はオレのジャケットを脱がせると、ゆっくりとソファの上に倒した。
 仰向けの格好のまま、ネクタイ、ワイシャツと次々に剥ぎ取られ、上半身が露わになると、樹神はそんなオレに覆いかぶさるような形で迫ってきた。
「肌も、ここもキレイだな」
 胸元を滑る指が二つの突起を摘み、その刺激にオレは思わず「あっ」と声を上げた。
 まさか男の身で、そんなふうに反応するだなんて、自分でも予想していなかった。
「感じるんだろ? ここはウィークポイントだって顔に書いてあるよ」
 恥ずかしさのあまり、顔を横に向けて視線を逸らす。
 樹神は突起への愛撫を続けた。強く、優しく摘んでは指先と掌で交互にこね回す。先端からもたらされる強い快感に、オレは身体をよじった。
「あっ、ああ、んっ」
 どうしてこんなにも感じてしまうのだろう。耳をふさぎたくなるほど恥ずかしい喘ぎが洩れるけれど、止められない、
「初めてとは思えないな。感じやすいタイプというわけだ」
 樹神は悶えるオレを嬉しそうに眺めてはまた、乳首への愛撫を続けたが、しばらくすると手でいじるのに飽きたのか、今度は顔を近づけて吸いついてきた。
「あっ……ひっ、ぃ」
 生温かい舌が先端をいじくるのを感じ、たまらなくなってソファの生地をつかむ。
 いい、良すぎる。ここがこんなにも気持ちいい部分だったなんて、男にとっての性感帯はペニスだけだと思っていたオレには目からウロコ。
 この男とこうなっていなければ知らずに済んでしまったかもと、得をしたような気分にすらなっていた。
 さんざんしゃぶられたピンクの部分が唾液でぬらぬらと光って、それがまた、たまらなくいやらしい光景に思える。
 樹神は再び突起を咥えながら、空いた右手でスラックスの上からオレの下半身を撫で始めた。とっくに反応している部分が布と擦れ合って少々痛い。
 顔をしかめたのが見えたのか、
「痛かったか? 悪いな」
 本心から謝ってはいないと明らかにわかる口調でそう言ったあと、彼は片手だけを器用に使ってオレのベルトをはずし、ジッパーを下ろした。
 窮屈そうにしていたペニスが解放されたといった様子で、トランクスの隙間から顔を覗かせている。
「お待ちかねだったようだな」
 今さらもう、何も反論できない。現にオレの性器はしっかりと反応し、次に与えられる快感を心待ちにしているではないか。
「ではリクエストにお答えして」
 トランクスを下までずらされ、巧みな指使いで棹を扱かれ、袋の部分までも刺激されて快楽と恍惚にどっぷりと浸かる。自分でするよりも何倍も気持ちいい。
「はぁ、あ……う……ん」
「ほら、やっぱりいいだろう?」
 全裸で股を広げている、そんなオレの淫らな姿にご満悦の様子だった樹神だが、あと一歩というところで手の動きを止めてしまい、ピークを迎えようとしていた身体は行き場を失くした。
「ご不満かな? ま、もっとよくしてあげるから待ってろよ」
 薄ら笑いを浮かべ、軽くウインクしてみせた樹神はそのあとソファから下り、ラグの上に立て膝をついた。
 いったい何をするつもりだと訝っていると、なんと彼はオレの股間に顔を埋め、ピンと張り詰めた棹を口に含んだ。
「えっ……?」
 まさか、そんなことまで……
 驚きが悦びに変わるのに、そう時間はかからなかった。
 生温かく、ざらざらとした感触の舌がねっとりまとわりつきながら、根元から先端までを舐め上げるが、その行為がもたらす快感といったら手淫どころではない。
「あっ、ああっ……イ、イイ」
 古今東西、男はフェラされるのに弱い。巧みな舌使いを受けて、またしても恥ずかしい喘ぎを繰り返しながらオレは激しく身悶え、我を忘れて樹神の髪をつかんでいた。
 先端の溝に舌が入ると悲鳴のような歓声を上げてのけぞったオレの身体は次の瞬間、白い液体を放出、とろりとしたそれはそのまま樹神の口腔に吸い込まれた。

『あんたもおとなしく俺の傍にいれば最高を味わえるってこと、身をもってわかるようになるぜ』

 その言葉に嘘はなかったとわかる。さすがに何人もの男を相手にしていただけのことはあると妙な感心をしたが、それと同時に複雑な気持ちにもなった。
 こういった行為は初めてのオレに対して、これほどまでに手慣れている、場数を踏んでいるとなると、それこそ数え切れないほどの男と関係を持っていたのではないか。
 被害者だけでなく、彼のあらゆる人間関係を──一応、女性も含めて──調査したところ、今のところ篠宮以外の者とは恋愛や性的関係になかったと判明しているが、こちらの目の届かないどこかに相手がいる可能性は否定できない。
「数え切れないほどの男と関係を持っていた」ではなく、今も「持っている」かもしれない。きっと「持っている」に違いない。そんなふうに思うと、醜い嫉妬心がまたしても渦を巻いた。
 そうだ、つい先日まで──
 篠宮が命を落とすまで──
 この部屋で、この場所で、向こうのベッドで、彼はこんなふうに篠宮を抱いていた。それも一度や二度じゃない、長らく深い関係にあったのだから当然だ。
 首に絡みつく白い腕、細いうなじ、乱れる髪、甘い吐息……偽りの愛を囁く魔性の美少年……イヤだ、絶対にイヤだ。
 そんな不愉快な場面なんてこれっぽっちも想像したくないのに、一度脳裏をよぎったら最後、どんなに打ち消そうとしても甦ってしまう。
 彼を抱いた腕で、今はオレを抱いているのか。
 その時の快楽を呼び起こし、彼が生き返ったかのような悦びを再び得ようとしているのか。
 オレは安曇来人、篠宮司の身代わりじゃない、あんたの愛人のダミーじゃない! 
 息が詰まる、胸が苦しい。
 触れる指が、さっきまで快感をもたらしていたその感触が嫌悪に変わる。
 オレは思わず樹神の身体を撥ね退け、睨みつけながら「触るな!」とわめいた。
 突然豹変したオレの態度に、さすがの樹神も驚いたらしい。
「急にどうしたっていうんだ」
「これ以上変なマネしたら、強制わいせつ罪で逮捕してやる!」
 呆気にとられた顔を見せたあと、樹神はカラカラと笑った。
「おもしろいことを言うな。ここまでしておいて、強制はないだろう」
「黙れ、この犯罪者!」
「犯罪者? まだ容疑者の段階だろう、刑事がそんな暴言を吐いていいのか?」
「犯人はおまえに決まっているっ!」
 オレがそう叫んだとたんに、樹神は「何だと?」と言葉を返して顔色を変えた。
 何を言われても、のらりくらりとしていた彼が初めて見せた怒りの反応で、そんな様子に一瞬怯んだが、だからといって今さら謝ったり取り繕ったりなどできない。
 いったん走り出した暴言はブレーキを失い、どうにも止められなくなっていたのだ。
「呼ばれて行ったけど会えなかったなんて、そんなヘタな言い訳があるもんか! もっとマシな嘘をついたらどうなんだよ」
「嘘などついていない」
「嘘はついていないだと? マンションに行ったことを隠していたくせに、それこそ大嘘つきじゃないか、ふざけるなっ!」
「それでも殺してはいない! 俺にあいつを殺す理由なんてない」
 自分の方がよっぽど嫉妬に身を焦がしているのに、オレは樹神を糾弾し続けた。
「殺す理由? 大ありだろ。他の男の相談を受けて、それで嫉妬して……」
「だから嫉妬するような関係じゃなかったと話したはずだ。そもそもあいつは」
 そう言いかけて、樹神は口をつぐんだ。
「そもそも、何なんだよ」
「いや、いい」
 なぜか言いよどむ彼を見て、自分が優勢だと感じたオレはさらに、勝ち誇ったように言い放った。
「これ以上話すとボロが出るから用心しているのか? 無駄な抵抗だ、じきに全部バレてしまう」
 すると樹神はオレをキッと睨みつけた。
「あんたは俺が犯人であって欲しいと望んでいるのか?」
「はっ?」
「そんなに俺を逮捕したいのか?」
「だ、だからそれは……」
 さっきの勢いから一転、しどろもどろのオレに、くるりと背中を向けた彼は「これ以上話すことはない、帰ってくれ」と呟いた。
「あ……」
「さっさと帰れっ!」
 取りつく島もない様子に、何をどうしたらいいのかわからなくなり、とりあえず脱ぎ散らかされた服を掻き集めた。
 これではもう何も話してはくれないだろう。仕方なく部屋を出てエレベーターに乗る。一階への到着と共に、深いため息が出た。
 どうしてあんなことを口走ってしまったのか。悔んでも悔やみきれないけれど──
 だが、どんなヘマをやらかしても、見張りを続けなくてはならないのがオレの使命だ。
 駐車場へ戻ったオレはカーテンの閉め切られた部屋の窓をぼんやりと眺めた。今はただこうしているしかない。
 その日、樹神の姿がエントランスに現れることは二度となかった。
                                ……④に続く